希望の光

 その日、邸に帰るとずらりと並ぶ使用人達から遠く離れた場所に、瀬人が立っていた。いつものスーツや学生服姿ではなくやや寛いだ私服を纏い、その所為だろうか少しだけ表情が穏やかに見える。けれどそんな彼の姿を視界の端に止めた瞬間、モクバは密かに息を飲んで足早に自室へと去ろうとした。

 この数年、瀬人とはまともな会話はおろか顔を合わせる事さえ稀だった。瀬人のこちら探る様な冷たい視線と実際に声に出して己を非難したあの時の事を今でも鮮明に覚えているからだ。オレの邪魔をするなと突き放されたあの瞬間から、モクバは兄を以前の様に慕う事は出来なくなった。

 尤もそれは表面上の事で、心の奥底ではその愛情は変わる事はなかった。義父が死んだ今、以前の様に側に寄り添い、助け合いながら生きる日々を取り戻したいと強く願い、その為の努力も水面下では行って来た。だが、瀬人は未だ心を閉ざしたまま自分の存在を無視するかの様な態度をとり続けている。それが酷く悲しかった。

 以前の自分に甘く優しい誰よりも強い兄はもういなくなってしまったのだろうか?このまま一生顔を背けあって生きて行かなければならないのだろうか?それは幼いモクバには何よりも辛い事だった。絶望に塗れ、枕を濡らした夜は数えきれない。多くなど望んでいない。彼はただ、瀬人に自分を見て欲しかったのだ。

 そんな最中、瀬人の16回目の誕生日が訪れた。どんな状況にあっても毎年欠かさず送っていたプレゼントはここ数年全て他人任せにした結果、行方がわからなくなっていた。故に、今年は自分の手で兄に渡そうと考えた。無視されるかもしれない。その場で捨てられるかもしれない。けれど、モクバは意を決して瀬人にプレゼントの傘を差しだした。

 震える手で、少し引いてしまう身体を叱咤しながら、受け取ろうとしない白い手に強引に押しこんだのだ。

 その後、あの傘がどうなろうとも、決して泣きはしないと心に決めて。

 ……その日の、夕刻だった。兄が廊下の隅で帰宅した自分を見つめていたのは。

「おかえり、モクバ」

 無感情な声だったが確かにそう口にした瀬人は静かにモクバに歩み寄り、ほんの僅かに身を屈めた。鼻をくすぐる少し甘い匂いは彼の匂いなのだろうか。思わず縋りつきたくなるのをぐっと堪える。そんなモクバの心情を知ってか知らずか、瀬人は僅かにも表情を変えないままもう一歩だけその小さな体に近づいた。それだけの事がモクバには酷く嬉しかった。

「に、兄サマ!……あ、あの……どうして?」
「今日は少し早めに帰宅したからな。お前を待っていたのだ」
「……お、オレを?」
「ああ」
「なんで?」
「今朝、言えなかった事を言おうと思ってな」
「……?今朝?」
「誕生日プレゼントをありがとう、モクバ。大事に使わせて貰う」
「………………!」
「オレが言いたかったのはそれだけだ。引きとめて悪かったな」

 相変わらず淡々と、けれど今の彼には精一杯の優しさを込めた一言だったのだろう。最後に口の端に笑みに成りきれない歪みを残して、瀬人は直ぐにその場を立ち去ろうと背を向ける。細い背には今までの様な拒絶の雰囲気は殆ど無い。

 歩み寄ろうとしてくれたのだろうか。あの誕生日プレゼントをきっかけに。
 例えそうだとしたら、こんなに嬉しい事は無い。

 静かに歩み去るその背に飛びつきたい衝動を必死に堪えて、モクバは漸く望んでいた彼なりの幸せの第一歩を踏みしめるべく、片足を前に踏みこんで遠ざかる兄へと無駄と知りつつ手を振った。そして、大きな声でこう叫んだのだ。

「兄サマ!オレは兄サマの事、大好きだよ!!」

 廊下中に響き渡るその声に、瀬人の歩みが止まる事はなかったけれど。

 一瞬振り返ったその横顔に、モクバは希望の光を見つけた気がした。


-- End --