白のミラクル

 寒さを堪えながら冷たいステンレス製のドアノブに触れ鍵を取り出して右に回すと、ジャケットの内側が激しく震えた。それについ、と視線を巡らせて使い古した手袋を口で外した城之内は徐に懐に手を入れて、内ポケットの中に収められていた所為で暖かくなっていた携帯を取り出すと未だ強く震え続けるそれをカチリと開けた。

 仄暗い明かりの下で目立つ青白く光るライトの元に現れたのは『遊戯』の文字、それを見た彼は微かに口元に笑みを浮かべると、通話ボタンを押した後、徐に耳に当てた。瞬間、放たれたのは予想通りの明るい言葉。
 

『誕生日おめでとう、城之内くん!』
 

 18歳の男にしては少し可愛らしいその声は、暖かな温度を連れて城之内の胸に届いた。
 

 ── 1月25日午前零時五分。
 

 今日は、城之内克也の18回目の誕生日。

 高校最後の、記念すべき一日だった。
「なんだよ遊戯、お前こんな時間まで起きてんのか?」
『うん。っていうか、最近は受験勉強してるからね。まだまだ起きてる時間だよ』
「そっかー。大変だなぁ、受験生は。試験何時だっけ?」
『2月14日のバレンタインの日だよ。今年はチョコに浮かれてる場合じゃなくて悲しいよ』
「はは、そうだな」
『城之内くんの方はどう?就職組の皆はもう学校に来ないから、教室ががらんとしちゃってなんか寂しいんだ』
「あーうん。オレは昨日やっと内定決まった。バイト増やしてスーツ買わねぇと、って思ってるとこ。あと免許な。バイクはあっから通勤には問題ねぇけど」
『忙しいね』
「やーでも、受験組よりは全然楽だぜ。働いてりゃいーんだし」
『それはそうだけど、でもやっぱり大変だよ。あ、そうだ。今年は皆忙しいし、去年みたいにパーティ開いてあげられないんだ、ごめんね。プレゼントは明日……っていうか今日本田くんが届けに行くって』
「あーそんなん気ぃ使わなくていいって。18にもなって誕生日とか恥ずかしいしよ」
『でも、皆で騒げるいい機会だから、やっぱり無いと寂しいよ。去年なんかすっごく盛り上がったじゃない』
「それはそうだな。ま、お前等に取ってはオレの誕生日を口実に好き放題やりたいだけだろうけど?」
『そ、そんな事無いよ!』
「どうだか」

 携帯を片手に部屋に入り、ファンヒーターの灯油を確かめた後、スイッチに手を伸ばしながら、城之内は未だ外と余り変わらない室温を確認しつつも着ていたジャケットを脱ぎ捨てた。吐く息が白くくゆる。

 それは然程意味の無い場所に備え付けられた換気扇の隙間から入り込む外気の所為だとは分かっていても、開閉を調節するツマミが壊れている所為でどうにもならない。あー寒い。そう心の中で呟いて、未だ携帯を握りしめたまま床を這った彼は、テレビの近くにある炬燵の電源を探り当て、『入』に赤いランプが点灯した事を確認して先日変えたばかりの掛布の中に潜り込んだ。こちらは直ぐに電気がつくので温かい。

 携帯の向こうで楽しそうに話をする遊戯の声を聞きながら、城之内は軽く膝を抱えて相手には聞こえない様に小さく溜息を吐いた。やたらと遊戯が口にする『去年』の話。そう、確かに去年は遊戯達から大げさ過ぎる誕生日パーティを開いて貰ったのだ。

 学校でプレゼントの一部を渡され、今日はパーティをするから家に行っていい?と言われ、ピザやファーストフード店のチキンだったが沢山の御馳走を持参して、賑やかにお祝いをしてくれたのだ。その時に貰った数々の贈り物は、食べ物以外は全て手元に残されている。丁寧に保管とはいかないが、疲れた時などたまに取り出してはしみじみと眺め、疲労回復に一役買ってくれていた。

 思えばあの頃が一番楽しかった気がする。勿論今に不満がある訳ではないが、受験だの就職活動だのに追われて、遊ぶ時間が極端に減っている事は否めない。この時期に至っては遊戯の言う通り、既に進路が決まっている面々は学校に顔を出す必要も無く、後は約一ヶ月後に迫った卒業式を迎えるのみ。

 そうしたら今度こそ皆バラバラになってしまう。それが、何とも言えない寂しさとなって、城之内を襲うのだ。

 外国留学、県外の専門学校、地元ではあるが自宅からは通うのに困難な私立大学。皆の進路は見事なまでにバラバラだった。そして、童実野に居残るのは城之内のみ。その事が余計に城之内の気持ちを沈ませた。18にもなって情けねぇ。ゆっくりと時を刻む壁時計を睨みながらそう己を知ったしても、どうにかなるものではない。

 そんな城之内の気持ちを知ってか知らずか、遊戯は最近頻繁に電話をかけて来るようになった。本人は受験勉強の息抜きだと言っているが、本当は違うのだという事に城之内は気付いていた。気付いていて、敢えてその好意を受け入れた。小さな感謝の気持ちを抱きながら。

『そう言えばさ、海馬くんとはその後どう?』
「えっ」
『僕は全然会ってないからさ、元気にしてるのかなぁと思って。勿論、テレビとかで顔は見るから表面的には元気だって分かるんだけど』
「あー、うん。元気じゃねぇの」
『じゃないのって……連絡は?』
「一応してっけど、あいつ忙しいからよ。こっちからメールを10回送って、1回返ってくればいい方だな。しかも超素気ない奴。社員用の使い回してんじゃね?って位」
『そ、そんな事はないと思うけど……って、あ!ごめん!もしかしたら電話来るかも知れないよね?!もう切るよ』
「来ねぇよ、多分。気にすんな。大体あっちではまだ日付違うだろ」
『そんな事ないって!じゃあ、夜遅くにごめんね。また電話する』
「おう。あんま無理すんなよ」
『うん、城之内くんもね』

 そう言ってぷつりと切れてしまった携帯をテーブルに放り投げ、城之内は自らの頭もテーブルに伏せてしまう。今まで余り考えない様にしていたのに遊戯の言葉で一気に思い出してしまったからだ。

「……海馬」

 小さく呟いたその名前は、温まりかけた部屋の中で微かに響いては消えていく。
 

『来月から渡米する。帰りは何時になるか分からん。卒業はしなければならないから試験には一度帰るが』
『え。何だよそれ。クリスマスとか正月は?!』
『どうにもならん。一番忙しい時期だ』
『……そういやお前の進路聞いてなかったけど、どうすんの』
『進路だと?社長であるオレに敢えてそれを聞くのか貴様は』
『そ、そうだけど!一応知っておきたいじゃん!』
『大学へは今のところ行くつもりはない』
『それは知ってるよ』
『後は……多分貴様の想像通りだ』
 

 最後に面と向かって顔を合わせたのは何時だっただろう。期末試験直前の、吹く風が大分冷たくなって来た夕方の事。その日は珍しく海馬が朝から登校していて、全試験を前倒しで受けた所為で放課後まで彼は同じ校内に存在していた。前々から年末は忙しく、学校に来るとすれば一日仕事だと聞かされていた事もあり、城之内は暗くなるまで海馬を待ち、一緒に帰ろうと持ちかけた。そんな、なんて事は無い、いつもの帰り道での話だった。

 それから直ぐに、海馬はアメリカへ飛んでしまい、既に二ヶ月近く顔は愚か声さえも聞いていない状況だ。遊戯に話した通り、時折メールは返ってくるが、どれも恋人は愚か友達にさえも送らないようなやけに事務的なものばかりだった。

 最初はその事に腹を立てたりしたものだが、今ではそんな気力すら湧いて来ない。城之内が願うのは一つだけ。一日でもいいから直接会って共に過ごしたいというただそれだけった。

 否、本当は、そんな些細な望みではない。けれど……。

 はぁ、ともう何度目か分からない溜息を吐きながら、ぼうっとしたまま視界に入る時計の針を見つめる。時刻は既に午前一時を過ぎていた。明日も午後からではあるがバイトがある。遅い夜食を食べて、風呂に入って布団に入って寝なければいけないのに、どうしてもその気にはなれなかった。

 1月25日。18歳の誕生日。

 遊戯からおめでとうと言われてその時は酷く嬉しかったけれど、今はまた酷く悲しい気持ちに戻っていた。

 誕生日なのに。否、誕生日位電話をかけて来てくれたっていいんじゃねぇの?やっぱりお前は愛が足りないよ。信じらんねぇ。

 そんな言葉を声には出さずに呟いて、投げ捨てた筈の携帯を握りしめた。そんなに焦がれるなら自分からかければいいようなものだが、それもまた気が引けて、フリップを開けて通話ボタンを押す勇気が持てなかった。

 些細な事だとは思う。けれど、今の城之内にとってそれは酷く冷たい仕打ちの様に感じた。

「高校を卒業して、社長業に専念……。それからどうなるかなんて、嫌と言うほど分かってるよ。どうせ、本格的にアメリカに行っちまうんだろ」

 重い口が勝手に開き、そんな声が零れ落ちる。二ヶ月前に交わした言葉、決まっている答え。それを敢えて明言しなかったのは彼の優しさなのだろうか。ここ数ヶ月の、余りにも素気ないその態度は、もしかしたらその計画を遂行する為の下準備なのかもしれない。

 日本とアメリカの遠距離恋愛。そんなとてつもなくスケールの大きい非常識な関係を『城之内が』継続出来るとは思えないからだ。海馬もその事は良く分かっているのだろう。

 だから。

 徐々に間隔を開けて、つれない態度を取って、そのままフェードアウトしてしまうつもりなのだろうか。そうだとしたら悲し過ぎる。考えるだけで胸が痛い。
 

『お前最近冷たいし。愛が欲しいんです、オレ』
 

 そう言えば、昨日の今頃もそんな事を口にして海馬を大いに驚かせた記憶がある。あの時は、ほんの戯れで言った言葉だったが今は結構切実だ。二ヶ月先の未来が見えない分、余計に不安と孤独を感じる。自分がそんな思いに駆られている事などあの朴念仁には分からないのだろう。それが更に城之内を焦らせた。けれど、そんな事をここで思っていてもどうにもならない。

 電話をしてみようか。自分から「今日、オレの誕生日なんだけど、忘れてた?」なんていうのはみっともない気がするけれど、この孤独感には耐えられない。こちらが努めて明るく言えば海馬とて素気なく携帯を閉じる真似はしないだろう。

 そう、信じたい。

 そう思いのそりと身を起こした城之内は、意を決して握り込んでいた携帯を持ち直す。そしてカチリとフリップを開き、海馬の名前を探そうとした、その時だった。

「──── っ!」

 手の中の携帯が、明滅しながら強く震えた。慌てて画面を覗き込むと、そこには今まさに電話をかけようとした相手が目立つ派手なアイコンと共に大きく表示されていた。
 

『海馬』
 

 その二文字をこんなに嬉しく思った事は初めてだった。城之内は慌てて通話ボタンを押した後、耳に当てる。

 最初にどんな言葉を口にしようと、その事ばかりを考えながら。

 

2


 
「かっ、海馬っ?!」
『っ!煩い!携帯の前で大騒ぎするな!耳が痛い!』
「わ、悪い!だってまさかお前から電話が来るとは思わなくって!」
『ああ、まぁ、たまにはな。もう少し早くかけようと思ったのだが……話し中だった』
「あ、あーうん。えっと、遊戯と話してたから。あいつ夜勉強してんだろ?疲れたりするとよくかけてくるんだ」
『そうか』
「そう」
『………………』

 海馬からの電話を受けた直後、滞りなく続くと思われた会話が不意に途切れて沈黙する。城之内は携帯を握り締める指先に力を込めて、唇を軽く噛みしめた。

 勿論いきなり海馬から「誕生日おめでとう」と言われる筈などないと思ってはいたが、一切触れられないとも思わなかったのだ。自分から教えてやろうと連絡をしかけた身としては何ともいさぎが悪い話だが、この後に及んで城之内は先程胸に抱いた気持ちを口にする事が出来なかった。遊戯のとの話を咄嗟に平凡なものとして言い流したのもそんな意気地の無さからだ。

「あー、えっと。げ、元気だった?」
『声を聞いて分からんか』
「や、分かるけど」
『なら聞くな。特に変わりはない』
「……ほんとだ。すっげー冷たい」
『何?』
「……なんでもない」

 言いたい事や聞きたい事は山程ある筈だった。二か月もメールすら碌に寄こさねぇで放置しやがって、ふざけんな!と怒鳴ってやりたい気持ちもあった。しかし、いざ本人の声を聞いてしまうと、その何もかもが喉奥に引っ込んでしまって上手く言葉が出て来ない。

 代わりにせり上がるのは熱い感情の奔流と、それが具現化して目の淵に溢れそうになる涙のみ。情けない事に既に限界だったらしい。一年で最も幸せであるべき誕生日に、こんな事を思うなんてどうかしている。けれど堰き止めていた分、壊れる時は一気だった。

 一気に、寂しさが溢れ出る。

「…………う」

 口元を押さえてきつく眉を寄せながら衝動に耐える。漏れ出る嗚咽が携帯の向こうにいる海馬に聞こえない様にするだけで精一杯だった。泣いている事を悟られて「何故泣いている」と言われたら、理由を口にしなければならない。その話の方向如何によっては聞きたくないものまで聞かなければならないからだ。

 再び、その場は沈黙する。酷く気まずい思いが胸に過った。こんな筈では無かったのに、そう思った所で、一度溢れた涙は止まらない。
 

「城之内」
 

 不意に、握り締めた携帯の向こうで、酷く静かな声が聞こえた。長い間無言でいた事に何か文句を言われるかもしれない。話す事もないのなら切る、と言われてしまうかもしれない。折角繋がったのに。繋がりたいと思ったのに。海馬はそんな城之内の気持ちをいつも簡単に踏み躙るのだ。

 そう多分、今だって。

 そんな事を思いながら、やっぱり漏れてしまいそうな声を抑える為に自らの口を塞いでいると、海馬は小さな溜息を一つ吐いて今までとは違った至極優し気な声で意外な言葉を口にした。

『貴様、携帯を持ったまま眠っているんじゃないだろうな。聞こえているのなら今からオレの言う事を実行しろ。いいか?』
「え?」
『下に降りて郵便受けを覗いて来い。直ぐだぞ。通話は切っていい。じゃあな』
「?!海馬?……海馬っ!」

 自分の言いたい事だけ強引に言ってのけると、携帯は直ぐに切れてしまった。ツーツーと聞くだけで悲しくなる音を茫然と聞きながら、城之内はとりあえず言う事を聞こうと泣き濡れた頬を拭い重い腰を上げて部屋を出た。城之内の部屋から郵便受けのある入口までは然程距離がない為上着は着ず、薄いシャツ一枚の姿で足早に階段を駆け降りる。当然ながら周囲には人の姿は皆無で、辺りは痛い位の静寂に包まれていた。

「………………」

 息を弾ませながら古びてプラスチック製の扉が割れている郵便受けへと歩んでいく。殆ど掠れて見えない文字で『城之内』と書かれたそれに手を伸ばすと、中には一枚の白い封筒が入っていた。余計な装飾が一切無い、純白の洋風封筒。

 宛名も差出人も何も書かれてはいなかったけれど、先程の会話から察するに海馬が寄越したものに違いなかった。お前、これじゃ不幸の手紙みたいじゃねぇか。そんな事を呟きながらそれを抱えて部屋へと猛ダッシュで戻って行く。そして深夜に響かせるには少し煩い音を立てて玄関扉を締め切って、城之内は驚くべき速さで戻って来た炬燵の前に立ちつくすと、指先で封筒の封を慎重に開いた。そして、封入されていたカードを捲って息を飲む。
 

── The ticket which tells that I say anything now within 24 hours.
 

 何故ならそこに書かれていた文章は、忘れもしない去年の誕生日翌日に、海馬が手ずから手持ちのカードに書き記してくれたものと全く同じものだったからだ。まるで印刷物の様な流暢な筆記体。それは紛れもなく海馬の直筆だった。
 

『……ナニコレ。オレ英語読めないんだけど』
『「今から24時間以内に一つだけ貴様の言う事を聞いてやる」と書いてある』
『えっ?俗に言う「なんでもいう事を聞く券」的なもの?』
『まぁそういう事になるだろうな』
 

『このプレゼント気にいったから、来年も同じのでいーや』
 

 城之内の脳裏に一年も前の会話がつい昨日の事の様に鮮明に蘇る。そうだ、そうだったのだ。あの時自分は確かに「来年も同じものが欲しいと」強請ったのだ。その時は「変わり映えのしないものは嫌いだ」等と一蹴していたけれど、その実ちゃんと覚えていてくれたのだ。

 遠いアメリカにいる今も。あちらではまだ25日になっていなくても……忘れずに。

 ハッピーバースデーの言葉は無いけれど、覚えていてくれた。忘れられていなかった。捨てられる可能性が大きく減った。
 

 どうしよう、嬉しい。幸せだ。
 

「……………っ!」
 

 城之内は片手にカードを掲げたまま、急いでテーブルの上に置き去りにした携帯を掴んだ。興奮の為に震える指でリダイヤルボタンを押し、単調な発信音を息を詰めて聞いていた。こんな小さなカード一枚が、何処までも落ち込んで年甲斐もなく涙まで流してしまった気持ちを簡単に天まで引き上げてくれる。

 一回、二回。まだ海馬は出ない。言うだけ言ってさっさと仕事に戻ってしまったのだろうか。今向こうでは昼間の筈だ。時間も余りないだろう。あ、そういえばまだ海馬にして欲しい事を決めてない。年に一度の大チャンスをどうやって生かそう。この願いは本当にどんな事でも叶えてくれるのだろうか。それが例え無理なものだったとしても考えてはくれるんだろうか。
 

 もしそうなら、城之内が願うのはたった一つだ。
 

『何だ。ちゃんと郵便受けの中身は確認したのか』

 たっぷり一分は待たせた後、いつものぶっきらぼうな海馬の声が聞こえてくる。それに先程とは違った意味で詰まる声を堪えながら、城之内は大きな声で「ああ」と答えた。

『それで、貴様の願いは?考えが纏まらないのならかけ直せ。そうでなければ今言え』
「……この券ってさ、本当に何でも言う事を聞いてくれんの?どんな事でも?」
『まぁ、限度はあるが。可能な限りは』
「オレ、さ。オレ……お前にどうしても聞いて欲しい事があるんだ」
『何だ、言ってみろ』
「多分、無理だとは思うんだけど、言うだけ言ってみてもいい?」
『ああ』
「本当に、言うだけだから」
『なんだしつこいな。早く言え』
「……オレ、は。お前に……」

 そこまで口にした瞬間、遠くの方で小さな物音が聞こえた。気にするまでもない些細なものだったが、時間が時間故に一瞬そちらに目線をやる。勿論部屋の中から外の様子を伺い知る事は出来ないので、何の意味も無かった。

 止まった唇が、再び言葉を紡ぐ為に動き出す。

 城之内がなけなしの勇気と声を振り絞って、海馬に願ったのは、余りにも無謀なものだった。
 

「童実野に、いて欲しい。高校を卒業したら、アメリカなんかに行かないで、ここにいて欲しいんだ。遊戯も杏子も本田も御伽も、獏良まで皆遠くに行っちまう。ガキだって言われるかもしんねぇけど、それが凄く寂しいんだ。その上、お前までアメリカに行って帰って来なかったら、オレ、どうしたらいいんだよ?!」
『………………』
「……お前にはお前の夢があるし、その為にどれだけ頑張って来たか知ってる。だから、こんな事は無理だって分かってる。すげぇ我が儘だ。でも、オレは、オレが欲しいのはそれなんだ。これからずっと、お前の近くにいたい。いて欲しい」
『………………』
「……やっぱ、無理だよな。このカードにオレがそんな事をお前に言える力なんてないよな。……ごめん、違う奴考える』
 

 まるで必死の懇願の様な城之内の言葉に携帯の向こう側にいる海馬はただひたすら沈黙していた。城之内の……『自分』の余りに身勝手な願いに心底呆れてしまったのだろう。音声として聞こえては来ないが、肩を竦めて溜息を吐くその様がありありと目に浮かぶ。

 無理だと言う事は嫌と言うほど分かっていた。海馬が頷く筈は無い。けれど、自分がそう思っている事を聞いて欲しかった。知って置いて欲しかった。そして、優しいとは言わないまでも希望を持てる言葉を贈ってくれればそれでいい、城之内はそう思って口の端に苦い笑みを刷いた。自分の気持ちに正直にとは、とても言えないけれど。

 じっと空を見つめていた瞳を静かに閉じる。後は海馬の困惑したようなそれでいて素っ気ない返答を待つだけだ。「そんな事は出来る筈がないだろう。良く考えろこの駄犬が」次に聞こえてくる台詞はそれで決まりだ。
 

 ── だが、数秒後。城之内のその予想はいい意味で裏切られる事となる。
 

『……貴様の願いというのは、そんな下らない事なのか?』
「え?」
『何を勝手に思い込んでいるのかは知らないが、誰が何時高校を卒業したらアメリカに飛ぶ等と言ったのだ。そんな予定は一切無いわ』
「えぇ?!」
『城之内……貴様はオレが何の為に年末年始を返上してロスに行ったと思っているのだ。KCアメリカ支社の立ち上げと、そこを任せる人物の人選と育成を図る為だぞ?KCの本社はあくまで童実野だ。社長が本社に在籍しないでどうするというのだ。貴様は本物の馬鹿だな』
「……だ、だってお前!高校卒業したら欧米進出を本格化するって!」
『本格化する為にはオレがそこに永住せねばならんのか。意味が分からん』
「だって!」
『だってではない。行かないと言ったら行かないのだ!しつこいな!!』
「…っ怒鳴る事ないだろ!!」
『貴様が意味不明な事を言って喚くからだ!馬鹿犬が!』
「馬鹿犬言うな!この言葉足らずの冷血人間!鬼社長!」
『ふん!馬鹿に何を言われても痛くも痒くもないわ!』
 

 ……ああ、何と言う事だろう。全ては自分の独り善がりで勝手な妄想だったのだ。海馬はただの一言もアメリカ行きを明言はしなかったが、それは本当に行かないからであって、自分を気遣っての事ではなかったのだ。馬鹿馬鹿しい。余りにも馬鹿馬鹿し過ぎる。オレの貴重な涙と不安と悲しみを返せこの馬鹿野郎!

 いつの間にか神妙な会話からいつもの口喧嘩に発展した海馬のやりとりをこなしながら、城之内は何に対するものか分からない気恥しい怒りと、そして再び沸き上がった余りにも大きすぎる幸福感を持て余し、忙しなく部屋の中を歩き回った。犬は嬉しいと駆けまわると言うが、今の自分がまさにそれだ。今が夜中でなければ外に飛び出して盛大にガッツポーズをしながら近所中を走り回りたい。

 それだけ嬉しかったのだ。嬉しくて、幸せで。

 そんな城之内の喜びで弾けそうな胸の内に、何時の間にか黙って彼の悪口雑言を聞き流していた海馬は、タイミングを見計らい、至って普通の声で……さらなる追い打ちをかけて来た。

『それで?貴様の願いは既に叶うものだから無効になるのだが……特別大サービスで変更を受付けてやる。他にはないのか?』
「は?他に?」
『ああ、他に。何かないか?』

 言葉の端々にじわりとした笑いを滲ませながらそんな事を口にする相手に、城之内は一瞬むっとしながら口を閉ざし、突然齎されたこの思いがけない二度目のチャンスに、どう応えようか暫し迷った。一番難しいと思っていた願いは既に叶う事が決まっている。それだけが城之内の心を占めていたから他に、と言われると少し迷ってしまう。
 

 海馬との未来の他に、オレが欲しいもの。

 ……駄目だ、やっぱり思い浮かばない。
 

「えーっとごめん、今直ぐって言われても思い浮かばねぇや。もうちょっと待ってくれる?後でかけ直すから」
『去年と同じもので良ければ用意してやるが?』
「はい?」
『貴様がオレを部屋に入れてくれたらの話だが。窓の外を見てみろ』
 

 半ば笑いながら紡がれたその声に、城之内は瞬時に携帯をその場に投げ出し、未だ薄いレースのカーテンしか引かれていなかった窓辺へと駆け寄った。室温の暖かさと外気の冷たさに水滴で曇った硝子窓をもどかしげに押し開け、手すりに身を乗り出す様にして、外を見る。
 

 眼下に見える古ぼけた外灯が弱弱しい光を放つ中、携帯を片手にこちらを見上げていたのは紛れもない海馬瀬人、その人だった。
 

「……か、いば!!」
 

 呼び声が、深夜の住宅街に木霊する。近所迷惑だなどと、頭の片隅にも存在しなかった。遠いアメリカの地にいると思っていた可愛げのない恋人が目の前にいる。ただそれだけで、城之内は世界一幸せだと思った。

 それから数分の後、まるで飛びつく様に海馬を捕らえた城之内は、強く抱き締め頬を擦りつけた彼の耳元で、改めてプレゼントである『願い』を口にする。去年と全く同じ台詞で海馬へと命じたその願いは、全てを言葉にする前に、互いの唇で封じられた。
 

『思いっきり抱き締めた後で、キスして欲しい』
 

 変わり映えのしないその願いは、だからこそより暖かく、城之内の心を身体を包むのだ。
 

── 誕生日おめでとう。
 

 次いでのように告げられた言葉は、それでも酷く大切なものだった。


-- End --