寒さを堪えながら冷たいステンレス製のドアノブに触れ鍵を取り出して右に回すと、ジャケットの内側が激しく震えた。それについ、と視線を巡らせて使い古した手袋を口で外した城之内は徐に懐に手を入れて、内ポケットの中に収められていた所為で暖かくなっていた携帯を取り出すと未だ強く震え続けるそれをカチリと開けた。
仄暗い明かりの下で目立つ青白く光るライトの元に現れたのは『遊戯』の文字、それを見た彼は微かに口元に笑みを浮かべると、通話ボタンを押した後、徐に耳に当てた。瞬間、放たれたのは予想通りの明るい言葉。
『誕生日おめでとう、城之内くん!』
18歳の男にしては少し可愛らしいその声は、暖かな温度を連れて城之内の胸に届いた。
── 1月25日午前零時五分。
今日は、城之内克也の18回目の誕生日。
高校最後の、記念すべき一日だった。
「なんだよ遊戯、お前こんな時間まで起きてんのか?」
『うん。っていうか、最近は受験勉強してるからね。まだまだ起きてる時間だよ』
「そっかー。大変だなぁ、受験生は。試験何時だっけ?」
『2月14日のバレンタインの日だよ。今年はチョコに浮かれてる場合じゃなくて悲しいよ』
「はは、そうだな」
『城之内くんの方はどう?就職組の皆はもう学校に来ないから、教室ががらんとしちゃってなんか寂しいんだ』
「あーうん。オレは昨日やっと内定決まった。バイト増やしてスーツ買わねぇと、って思ってるとこ。あと免許な。バイクはあっから通勤には問題ねぇけど」
『忙しいね』
「やーでも、受験組よりは全然楽だぜ。働いてりゃいーんだし」
『それはそうだけど、でもやっぱり大変だよ。あ、そうだ。今年は皆忙しいし、去年みたいにパーティ開いてあげられないんだ、ごめんね。プレゼントは明日……っていうか今日本田くんが届けに行くって』
「あーそんなん気ぃ使わなくていいって。18にもなって誕生日とか恥ずかしいしよ」
『でも、皆で騒げるいい機会だから、やっぱり無いと寂しいよ。去年なんかすっごく盛り上がったじゃない』
「それはそうだな。ま、お前等に取ってはオレの誕生日を口実に好き放題やりたいだけだろうけど?」
『そ、そんな事無いよ!』
「どうだか」
携帯を片手に部屋に入り、ファンヒーターの灯油を確かめた後、スイッチに手を伸ばしながら、城之内は未だ外と余り変わらない室温を確認しつつも着ていたジャケットを脱ぎ捨てた。吐く息が白くくゆる。
それは然程意味の無い場所に備え付けられた換気扇の隙間から入り込む外気の所為だとは分かっていても、開閉を調節するツマミが壊れている所為でどうにもならない。あー寒い。そう心の中で呟いて、未だ携帯を握りしめたまま床を這った彼は、テレビの近くにある炬燵の電源を探り当て、『入』に赤いランプが点灯した事を確認して先日変えたばかりの掛布の中に潜り込んだ。こちらは直ぐに電気がつくので温かい。
携帯の向こうで楽しそうに話をする遊戯の声を聞きながら、城之内は軽く膝を抱えて相手には聞こえない様に小さく溜息を吐いた。やたらと遊戯が口にする『去年』の話。そう、確かに去年は遊戯達から大げさ過ぎる誕生日パーティを開いて貰ったのだ。
学校でプレゼントの一部を渡され、今日はパーティをするから家に行っていい?と言われ、ピザやファーストフード店のチキンだったが沢山の御馳走を持参して、賑やかにお祝いをしてくれたのだ。その時に貰った数々の贈り物は、食べ物以外は全て手元に残されている。丁寧に保管とはいかないが、疲れた時などたまに取り出してはしみじみと眺め、疲労回復に一役買ってくれていた。
思えばあの頃が一番楽しかった気がする。勿論今に不満がある訳ではないが、受験だの就職活動だのに追われて、遊ぶ時間が極端に減っている事は否めない。この時期に至っては遊戯の言う通り、既に進路が決まっている面々は学校に顔を出す必要も無く、後は約一ヶ月後に迫った卒業式を迎えるのみ。
そうしたら今度こそ皆バラバラになってしまう。それが、何とも言えない寂しさとなって、城之内を襲うのだ。
外国留学、県外の専門学校、地元ではあるが自宅からは通うのに困難な私立大学。皆の進路は見事なまでにバラバラだった。そして、童実野に居残るのは城之内のみ。その事が余計に城之内の気持ちを沈ませた。18にもなって情けねぇ。ゆっくりと時を刻む壁時計を睨みながらそう己を知ったしても、どうにかなるものではない。
そんな城之内の気持ちを知ってか知らずか、遊戯は最近頻繁に電話をかけて来るようになった。本人は受験勉強の息抜きだと言っているが、本当は違うのだという事に城之内は気付いていた。気付いていて、敢えてその好意を受け入れた。小さな感謝の気持ちを抱きながら。
『そう言えばさ、海馬くんとはその後どう?』
「えっ」
『僕は全然会ってないからさ、元気にしてるのかなぁと思って。勿論、テレビとかで顔は見るから表面的には元気だって分かるんだけど』
「あー、うん。元気じゃねぇの」
『じゃないのって……連絡は?』
「一応してっけど、あいつ忙しいからよ。こっちからメールを10回送って、1回返ってくればいい方だな。しかも超素気ない奴。社員用の使い回してんじゃね?って位」
『そ、そんな事はないと思うけど……って、あ!ごめん!もしかしたら電話来るかも知れないよね?!もう切るよ』
「来ねぇよ、多分。気にすんな。大体あっちではまだ日付違うだろ」
『そんな事ないって!じゃあ、夜遅くにごめんね。また電話する』
「おう。あんま無理すんなよ」
『うん、城之内くんもね』
そう言ってぷつりと切れてしまった携帯をテーブルに放り投げ、城之内は自らの頭もテーブルに伏せてしまう。今まで余り考えない様にしていたのに遊戯の言葉で一気に思い出してしまったからだ。
「……海馬」
小さく呟いたその名前は、温まりかけた部屋の中で微かに響いては消えていく。
『来月から渡米する。帰りは何時になるか分からん。卒業はしなければならないから試験には一度帰るが』
『え。何だよそれ。クリスマスとか正月は?!』
『どうにもならん。一番忙しい時期だ』
『……そういやお前の進路聞いてなかったけど、どうすんの』
『進路だと?社長であるオレに敢えてそれを聞くのか貴様は』
『そ、そうだけど!一応知っておきたいじゃん!』
『大学へは今のところ行くつもりはない』
『それは知ってるよ』
『後は……多分貴様の想像通りだ』
最後に面と向かって顔を合わせたのは何時だっただろう。期末試験直前の、吹く風が大分冷たくなって来た夕方の事。その日は珍しく海馬が朝から登校していて、全試験を前倒しで受けた所為で放課後まで彼は同じ校内に存在していた。前々から年末は忙しく、学校に来るとすれば一日仕事だと聞かされていた事もあり、城之内は暗くなるまで海馬を待ち、一緒に帰ろうと持ちかけた。そんな、なんて事は無い、いつもの帰り道での話だった。
それから直ぐに、海馬はアメリカへ飛んでしまい、既に二ヶ月近く顔は愚か声さえも聞いていない状況だ。遊戯に話した通り、時折メールは返ってくるが、どれも恋人は愚か友達にさえも送らないようなやけに事務的なものばかりだった。
最初はその事に腹を立てたりしたものだが、今ではそんな気力すら湧いて来ない。城之内が願うのは一つだけ。一日でもいいから直接会って共に過ごしたいというただそれだけった。
否、本当は、そんな些細な望みではない。けれど……。
はぁ、ともう何度目か分からない溜息を吐きながら、ぼうっとしたまま視界に入る時計の針を見つめる。時刻は既に午前一時を過ぎていた。明日も午後からではあるがバイトがある。遅い夜食を食べて、風呂に入って布団に入って寝なければいけないのに、どうしてもその気にはなれなかった。
1月25日。18歳の誕生日。
遊戯からおめでとうと言われてその時は酷く嬉しかったけれど、今はまた酷く悲しい気持ちに戻っていた。
誕生日なのに。否、誕生日位電話をかけて来てくれたっていいんじゃねぇの?やっぱりお前は愛が足りないよ。信じらんねぇ。
そんな言葉を声には出さずに呟いて、投げ捨てた筈の携帯を握りしめた。そんなに焦がれるなら自分からかければいいようなものだが、それもまた気が引けて、フリップを開けて通話ボタンを押す勇気が持てなかった。
些細な事だとは思う。けれど、今の城之内にとってそれは酷く冷たい仕打ちの様に感じた。
「高校を卒業して、社長業に専念……。それからどうなるかなんて、嫌と言うほど分かってるよ。どうせ、本格的にアメリカに行っちまうんだろ」
重い口が勝手に開き、そんな声が零れ落ちる。二ヶ月前に交わした言葉、決まっている答え。それを敢えて明言しなかったのは彼の優しさなのだろうか。ここ数ヶ月の、余りにも素気ないその態度は、もしかしたらその計画を遂行する為の下準備なのかもしれない。
日本とアメリカの遠距離恋愛。そんなとてつもなくスケールの大きい非常識な関係を『城之内が』継続出来るとは思えないからだ。海馬もその事は良く分かっているのだろう。
だから。
徐々に間隔を開けて、つれない態度を取って、そのままフェードアウトしてしまうつもりなのだろうか。そうだとしたら悲し過ぎる。考えるだけで胸が痛い。
『お前最近冷たいし。愛が欲しいんです、オレ』
そう言えば、昨日の今頃もそんな事を口にして海馬を大いに驚かせた記憶がある。あの時は、ほんの戯れで言った言葉だったが今は結構切実だ。二ヶ月先の未来が見えない分、余計に不安と孤独を感じる。自分がそんな思いに駆られている事などあの朴念仁には分からないのだろう。それが更に城之内を焦らせた。けれど、そんな事をここで思っていてもどうにもならない。
電話をしてみようか。自分から「今日、オレの誕生日なんだけど、忘れてた?」なんていうのはみっともない気がするけれど、この孤独感には耐えられない。こちらが努めて明るく言えば海馬とて素気なく携帯を閉じる真似はしないだろう。
そう、信じたい。
そう思いのそりと身を起こした城之内は、意を決して握り込んでいた携帯を持ち直す。そしてカチリとフリップを開き、海馬の名前を探そうとした、その時だった。
「──── っ!」
手の中の携帯が、明滅しながら強く震えた。慌てて画面を覗き込むと、そこには今まさに電話をかけようとした相手が目立つ派手なアイコンと共に大きく表示されていた。
『海馬』
その二文字をこんなに嬉しく思った事は初めてだった。城之内は慌てて通話ボタンを押した後、耳に当てる。
最初にどんな言葉を口にしようと、その事ばかりを考えながら。