沈黙は愛なり After

 遠くで酷く耳障りな音がする。心地よい眠りの只中にいた海馬は、それに小さく舌打ちをすると未だはっきりしない意識のまま、音が聞こえる方に手を伸ばす。程無くして指先に触れたのはシーツの波に埋もれる様に転がっていたスマートフォン。最後にチェックした時に、着信設定をサイレントからバイブレーションにしていたのを忘れていた。

 未だ諦めずに震え続けるそれを緩慢な動作で取り上げてディスプレイを確認すると、そこには弟のモクバの名前。迷わず指を滑らせて耳に当てると「兄サマおはよう!」と元気な声が聞こえて来た。

「おはよう。どうした、何かあったのか?」
『んーほんとは直接行けばいいんだけど……お邪魔しちゃ悪いかと思って……まだ寝てるでしょ?』
「…………そうだな」

 最初の勢いは何処へやら、兄が電話に出るや否やひそひそ声でモクバはそんな事を言う。それに僅かに肩を揺らすと海馬は目線をちらりと眼下に送り、溜息交じりの声で肯定した。実際、彼のすぐ隣……というか真下には至極幸せそうな顔で眠りこけている相手……城之内がいる。一晩中絡んだままだった左の指先は僅かに痺れ、振り解こうとしても相手は未だ力を込めて握り締めていた。今のところ不自由はないので諦めて放置すると、海馬は改めてモクバに何の用だと訊ね返す。

『えっと、まず一つ。兄サマは今日一日お休みでいいよ。オレからのもう一つの誕生日プレゼントだぜぃ!もう磯野達には話通してあるから』
「何?」
『昨日は一日式典とパーティで忙しかったし、ゆっくりしなよ。大体兄サマ、気付いてないかもしれないけど、声が凄い事になってるよ?その分だとすっごく疲れてるだろうし』
「………………!!」
『もう一つは、朝食どうする?って話なんだけどこれは用意だけしておくから。あ、部屋に持って行かせる?』
「……前に置いておけ。後は勝手にする」
『はぁい。じゃあ、オレはこれから出社して、適当に残務処理したらそのまま遊びに行って来るぜぃ。夕飯までには帰って来るから』
「ああ、宜しく頼む。それと……色々済まないな。ありがとう」
『どういたしまして、だぜぃ!』

 少し照れたのかやけに早口でそう言い切ると、モクバは慌ただしく通話を切ってしまった。途端に無音になる手の中の物体に海馬は改めて着信設定をし直すと、今度は意図的にベッドサイドにあるテーブルへと乗せ上げた。ついでに見た時計の時刻は8時過ぎ。昨夜、何時寝たのかも定かではないが、6時起床を常としている彼にとっては随分とゆっくりした朝だった。

 不意に下敷きにしていた身体がもそりと動く。海馬がスマートフォンを取る為に身を伸ばした所為で少し上かけが肌蹴、上半身が外に出てしまって寒いのだろう。馬鹿は風邪をひかないと言うが、万が一にも体調を崩させては事だと上かけを引き寄せながら、もう起きてしまうか否か逡巡する。昨日は色んな意味で疲労し、意識を失う様に寝てしまったので何かと居心地が悪かった。まるで抱き締める様に腰元に回された相手の腕が余計にそれを思い起こさせて、一人顔が熱くなる。

 だが、今しがたモクバから今日は一日休みだと告げられた事や、指摘された通り自分が大分疲れている事を鑑みると然程急いで行動する必要が感じられない。それに、今の状態が存外心地よい事も海馬の判断を鈍らせた。付き合ってからこの方、一番初めの夜以外余りこう言った時間を持つ事がなかった。故に新鮮さも相まって、つい身を委ねてしまいそうになる。

「………………」

 悩む事数秒、結果的に海馬は起こしかけていた身を再び元の場所に収めてしまうと。自身に向かって呆れた様な溜息を一つ吐いた。結局、触れている素肌から伝わる体温の暖かさ、そして未だきつく握り締められた左手を解く労力を考えると勝てそうもない。折角モクバから休息と言う贈り物を貰ったのだから、存分に生かすのが兄心というものだろう、と誰に対するものでもない言い訳を頭の中で巡らせながら、海馬は最後まで抵抗するように持ち上げていた頭を眼下の胸元へと落としてしまう。

 規則的に聞こえる心音と耳朶を擽る寝息に誘われる様に、海馬は惰眠を貪るべく目を閉じた。
 

 こんな休日も、たまには悪くないと思いながら。
「…………ん?」

 それから一時間後、深い眠りの淵から漸く浮上した城之内は、多少の息苦しさに眉を寄せて重い瞼を持ち上げた。見れば目の前に海馬の旋毛がドアップで迫っていて、胸元の辺りが何処となく湿っている。丁度己の肩口に頭を乗せる形で熟睡している恋人の存在に気付いた途端、城之内は一気に覚醒し何故か一瞬硬直した。こんな風な朝を迎えた事は人生で二度目だったからだ。

(えーと、今どうしてこうなってるんだっけ?)

 覚醒はしたものの頭の回転が偉く鈍っていた彼は状態はそのままで必死に現状把握に努めてみる。しかし、昨日の出来事を順を追って思い返して行くと、直ぐに「ああ」と納得した。そう言えば昨日は海馬の誕生日で自分は夜遅くにここを訪ね。そしてなんだかんだと遣り取りをした後、結局最後にはベッドに引き摺りこんで甘い時間を過ごしたのだ。

 それまでには自分だけが誕生日を知らなかった事や、知った後海馬に会いに行ってその事を告げても特に色よい反応がなく胸中には苛立ちや絶望が渦巻いていたが、一旦肌に触れてしまえばそんな事はやけに些細な物に思えてしまい、今となっては甘酸っぱい思い出の一ページに刻まれるレベルにまで昇華してしまった。今、自分の腕の中で至極心地良さそうに寝息を立てている相手を見ればそう思わざるを得ないだろう。

 一体あの騒ぎはなんだったんだと思う所もかなりあるが、全ては結果オーライだと城之内は綺麗さっぱり思い切った。

 頬に触れる柔らかい髪の感触が少しこそばゆい。

 昨日、途中からしっかりと握り締めていた左手がまだ絡んでいる事に驚いて、最新の注意を払いつつ振り解く。見れば力を入れていた場所が少しだけ凹んでいて、痺れて殆ど感覚が無くなっていた。それだけでも、どれだけ強く握りこんでいたか分かるというものだ。

「まぁ、サービスするって言ったしなぁ……」
 

『せめて心地いい眠りを提供するぜ!それも『日常』の一つだろ?お前の望みだろ?』

『今日はサービスしてやるよ。誕生日だし!』
 

 最後の最後で勢い込んで言った言葉を忠実に再現した結果、かなり長丁場なセックスになってしまった。一応日付が変わる前に寝かせてやろうと思っていたのだが、多分就寝時間は大幅にずれ込んでいたに違いない。結局お互い精魂尽き果てて、始末さえする暇もなく寝入ってしまった。海馬がのしかかっている所為で身動きが取れなかったが、カーテンの隙間から差し込む光の明るさを見るにきっといい時間になっている筈だ。

 今日は土曜日だし元々バイトも休みだった為城之内に支障はなかったが、海馬のスケジュールはどうなっているのだろう。こんな風に呑気に寝ている暇はあるのかと心配になる。が、何か予定が入っている場合どんなに疲労が溜まっていても絶対に寝坊などする事が無いとも知っているので、そこまで焦りもしなかった。何より海馬がこうして穏やかに眠っている姿は貴重なのでもう少し堪能していたかった。

 が、その目論みは相手の目覚めと共に脆くも崩れ去ってしまう。

「……城之内?」
「あれ、目が覚めちゃった?悪ぃ、今オレ動いたかも」
「……いや、二度目だ。今、何時だ?」
「えーっと、9時頃?」
「……そうか」

 言いながらまだ寝足りない子供の様に目を擦りつつ身を起こす気配のない海馬に城之内は目を瞠る。思わずあやしてしまいたくなる手を自重しつつ「随分ゆっくりと寝ちまったけど、お前時間とか大丈夫なのか?今日の予定は?」と訊ねてみた。それに海馬は欠伸をしながらのんびりと答えを返す。

「……あったのだが、今日は休みになった」
「え?」
「先程モクバから連絡があってな。誕生日プレゼントだそうだ」
「モクバから?あ、だから今二度目って……」
「尤も、そうでなくともこの体たらくでは出社しようがないがな」

 言いながら徐に自分の喉元に手を添えて意味ありげにこちらを見る海馬に、城之内ははっとして彼が言わんとする事を正確に読み取った。そして少しだけ申し訳なさそうな顔で「ごめん」と言う。

「あーそれは……モウシワケアリマセンデシタ」
「何故片言になる」
「いやだって……なんか逆に疲れさせたみたいだし」
「良くは眠れたがな」
「あ、そう……それは良かった……のか?」
「中々心地良かったぞ。普段は決してしない二度寝までしたしな」
「そういやこれって珍しいよな。お前って一回目が覚めると何時までも寝てないし」
「折角休みを貰ったから有効活用しようと思っただけだ。今日はのんびりするのも悪くない」

 再び小さな欠伸を一つして、やはり起きる気配のない海馬は横たわったまま城之内を眺めている。その様が何故が酷く楽しそうで城之内は頭の片隅に疑問符を浮かべつつも、自分も合わせる様に身体の向きを変えて向かい合った。濃密さはないが甘ったるい空気が二人を柔らかく包んでいる。それを戸惑いと共に受け入れて、城之内はふとある事を思い付いて口を開いた。

「ちょっと思ったんだけどさ。やっぱりオレ、お前の誕生日祝いたいんだけど。ちょっと遅れたけどマジ欲しいもんとかねぇの?」
「オレの希望は昨日伝えた筈だが」
「聞いたけど。何もしない事がプレゼントってのはつまんねーよ」
「今朝も勝手に頂いた」
「はぁ?」
「十分だ」

 そう言うと海馬はそれ以上何も言う気はないとばかりに目を閉じてしまう。意味が分からない城之内は一人満足気に吐息を洩らすその姿を眺めながら「意味がわかんねーんだけど!」と声を上げた。海馬がその怒鳴り声さえも心地よく思っている事には気付かないまま。

 そう、本当に、海馬は満足していたのだ。この穏やかな時間と、心地いい温もりがある『日常』に。

「なー海馬ー」
「……そこまで言うなら今日は一日オレの言う事を聞け。それをプレゼントとして貰ってやる」
「なんだよそれ」
「とりあえず風呂に入って朝食を取りたい。湯を張って来い」
「えっ、オレがすんのかよ!」
「貴様が命じて欲しいと言ったんだろうが」
「言ってねぇよ!」
「不満ならもう少し考えてやるから兎に角行動に移せ」
「……納得いかねぇ」
「バイトはないのか?」
「元々入れてねぇけど」
「ならば問題ないな」
「何がだよ!」

 オレが言ってんのはそういう事じゃないんだけど!と文句を言うその口を緩く伸ばした腕と意図的に近づけた唇で押さえつけて、海馬は笑みを消さないまま同じ台詞を繰り返した。最後に「祝うつもりではなかったのか?」と脅しに近い言葉も添えて。

「こういう一日も悪くない」
「お前の考えてる事ってやっぱ良くわかんねー。まぁ、いいや。そんなんでいいのなら付き合ってやるよ」
「その言葉忘れるなよ」
「後から無理難題吹っかけるのとかはナシだからな!」

 主人に忠実な犬さながらに、多少の名残惜しさを見せながらベッドを離れていく城之内の後ろ姿を眺めつつ、海馬は口だけで分かったと言いながら、再びゆっくりと目を閉じた。そして、これからの時間をどう過ごそうかと彼にしては珍しく期待に満ちた思いで考えていた。

 一日遅れの誕生日プレゼントは不思議と鬱陶しさを感じない幸せなもので、海馬は己の単純さにも笑いを抑えずには居られなかった。
 

 誰もが笑顔になる、そんな10月26日。


-- End --