Act7 サレンダー

 色々と深く悩んだ割にはしっかりと取れた睡眠に我ながら現金なものだと思いつつ、いつも通りの時間に目が覚めた城之内は、既に空間となっている傍らに手を伸ばし、深く大きな溜息を一つ吐いた。

 時刻は午前6時55分。後五分ほどで起きて隣の部屋に行かないと瀬人が自分を起こしに来る。大抵はその前にこうして目が覚めているのだが、起こして貰うというのも楽しみの一つと捉えているので、敢えてベッドから出る真似はしなかった。

 こんな生活も、今日でもう終わりかも知れない。昨夜は何とか持ち堪えられたものの、次回もそうとは限らない。何か事が起きる前に一度離れるべきなのだ。してしまってからでは取り返しの付かない事になる。

 未だ二人分の温もりが残る暖かなブランケットの中で、城之内はそう強く自分に言い聞かせた。本当は昨夜同様……否、もっと真剣に瀬人に告白する事を試みようと思ったが、彼のあの態度を見れば自分への気持ちなど一目瞭然で、ここで畳みかけたとしてもきっと同じ様に肩透かしで終わってしまうのだ。

 ならば一度仕切り直した方がいい。何事もタイミングが重要である。

 この幸せな温もりを自分から手放すのは酷く惜しいと思ったが、無理な我慢を強いられる方が余程辛い。自分で蒔いた種とはいえ、余りにも憂鬱過ぎると彼は再び溜息を吐いてごろりと寝返りを打った、その時だった。

 ガチャリと些か大きな音がして寝室と私室を繋ぐ扉が開かれる。次いで少し早い足音が近づいて、城之内の憂鬱の根源がやや苛立った声を張り上げた。

「凡骨!貴様何時まで寝ているのだ!もう7時を廻ったぞ、いい加減にしろっ!」

 そう言ってギシリとベッドに片膝を乗り上げて来る瀬人の声に、城之内は内心大きな舌打ちをしてぎゅ、とブランケットの端を握った。

 いい加減にするのはお前の方だってのこの世間知らずの鈍感男!お前の所為で無駄にオレが悩んでんじゃねぇか!そんな余りにも理不尽だと自覚している文句を必死で喉奥で留めながら、イライラが手に取るように分かる相手の動きをブランケット越しに感じ取る。

 寝てればあんなに大人しくて可愛いのに。どうして起きるとこうなのかね。多分自分も相手に全く同じ事を思われてるだろう台詞を声に出さずにぼやいて、城之内はそろそろ雷が落ちる頃だと身構えた。こんな事も、今日で最後かも知れないからだ。

 その瞬間を今か今かと待ち構えていると、相手は意外にもそれ以上怒鳴る真似はせず、何故か気配が近づいてくる。何だ?と流石に不審に思い、被っていたブランケットを捲くろうとしたその時、不意にその端を掴んでいた手に冷たい指が触れた。そして、驚く間も無く強く握り締められる。

 余りの事態に一瞬ビクリと身を竦ませた城之内に構う事無く、瀬人は掴んだ彼の手ごとゆっくりとブランケットを下にずり下げる。途端にかっちり合ってしまった視線に、瀬人は呆れたような顔をして小さな溜息を一つ吐いた。

「な、なんだよっ。びっくりするじゃねぇか」
「……なんだ。起きているのではないか。返事が無いから具合でも悪いのかと思ったぞ」
「へっ?なんで?」
「昨晩も妙な事を口走っていた気がしたのでな」
「………………」
「なんだ。呆けた顔をして、やはり何処がおかしいのか?」

 相変わらず手は握り締めたまま、表情は常と変わらない仏頂面でそう口にする瀬人の事を城之内は心底驚いて見上げていた。何故なら今までも自分が起きて来ない事など数多くあったし、その場合は容赦なくベッドから蹴り落とされるのが常で、こうして瀬人が近づいて、顔を覗き込むなどという行動に出た事はなかった。

 そこに来て昨夜の話である。半分以上寝ぼけていて覚えてなどいないと思ったのに。何がとは言わないが、ちゃんと耳に入れていた事を主張して来たのだ。これで驚くなという方が無理である。

「……お前、昨日のアレ聞いてたのかよ」
「ああ」
「……で、返事は?」
「答えただろう?」
「はぁ?」
「とにかく、何でもないのなら早く起きろ。オレはそろそろ出社する」

 答えたって。あれを答えというのかお前は。なんつー卑怯者。

 こちらを覗き込む体制のまま訝しげに見下ろしてくるその白い顔を眺めながら、城之内は絶望感に浸らずには居られなかった。あの「分かっているから」のくだりが瀬人の本気の答えなのだとしたら、やはり完全にはぐらかされたという事なのだ。

 現に瀬人はあの時の城之内の台詞を口にして確認しようともしなければ、自らの答えを改めて口に出すつもりもない。という事は、あの話はあの場で終わりだ、という意思表示。付き合い的には然程長くも無いが、それ位は読める。

(……やっぱりね。分かっちゃいたけどさ)

 ほんの僅かな希望に縋る気持ちにトドメを刺してくれた相手に少しだけ恨めしい気持ちになりながら、城之内はがっくりと肩を落とした。そんな彼を瀬人は相変わらず無表情で眺めていて、その体制の所為で目の前に下がるターコイズブルーのネクタイが、視界を邪魔するようにゆらゆら揺れる。

(あーもーちくしょう。そのネクタイ引っ掴んで、キスの一つでもぶちかましてやろうか)

 悔し紛れにそんな事を思ってはみても、その行動に出る事はどうしても出来なかった。やろうと思えばそんな事は容易く出来る。けれど、その代償はきっと計り知れないほど大きいのだろう。今までの苦労が水の泡になるのは悲しいし、それ以上に相手を傷つける真似だけはしたくない。それが例え、肉体的にも精神的にもさほどダメージを与えない行為一つであっても、だ。

 そんな覚えるだけ虚しい衝動の代わりに浮かんだのは、昨夜の二択。その片方を完全に諦めてしまった今、城之内が瀬人に言う事が出来る言葉は一つだけだ。

 辛いけれど、苦しいけれど、忍耐の限界を超えるよりはずっといい。

 はぁ、と今度は瀬人が溜息を吐く音がする。何時まで経っても微動だにしない城之内にじれたのか、はたまた時間故に自らのスケジュールに則った行動にでる為なのか、瀬人の身体がするりと下がり、ベッドから降りる為か背を向ける。

 今だ、言うタイミングは今しかない。

 何故そう思ったのかは彼自身にも分からないが、不意に覚えた衝動に突き動かされるように、城之内は勢い良くその場から飛び起きると、緩やかに離れて行くその身体を思わず両腕で捕まえて、何時もと同じ至極明るい声でこう言った。

「あのさ。オレ、もうここには来ないから。冬の間、邪魔してごめんな」

 瞬間、腕の中の身体が驚いたようにひくりと震えた。どんな反応が返ってくるのだろう。内心複雑な思いで答えを待っていた城之内に、ややあって齎された答えは……こちらも普段と然程変わらないぶっきらぼうな言葉だった。

「そうか。好きにしろ」

 疑問一つ含めない、余りにも端的な返事に、城之内は「うん」と頷く事しか出来なかった。
 

 そのまま何事も無かったように、成り行き上抱き締める形となっていた腕の中をするりと抜け出して行く細い背中を眺めながら、城之内はパタンと小さく締められたドアの音をただ聞く事しか出来なかった。

 

2


 
「うあーもーダメだー」
「なんだよ朝から鬱陶しいなぁ。兄サマと喧嘩でもしたのかよ」
「喧嘩出来る位なら苦労しねーよ」
「えっ、何?もしかしてついにやっちゃったとか?!」
「ヤッてません」
「そっちのやるじゃねーよ。お前が何かやらかしたのかって事」
「……あぁ、まぁ」
「何したの」
「告白。大失敗」
「はぁ?」
「ついでにもう来ないって言っちまった。だからお前とこうやって朝メシ喰うのも最後かな」
「えぇ?!本当かよ?」
「嘘なんか言わねぇよ」
「なんでまた」
「なんでって……何時までもこのままではいられねーだろ。幾らなんでも。オレだって健全な青少年だぜ?」
「ようするに、ガマン出来なくなったって事なんだ」
「……うん」
「しょーがないよな」
「……うん」
「で、諦めるの?」
「考え中」
「なんだよお前、意気地無しだなぁ」
「だって嫌われたくねぇもん」
「兄サマなら大丈夫だって言ってるだろ」
「やー幾らなんでもそっち系は大丈夫じゃないだろ普通に」
「そうかなぁ」
「お前めちゃくちゃ他人事だな。お前の兄サマだぞ。兄サマ」
「オレの兄サマだからそう思うんだけど。でもそっか。お前がそう決めたんならオレは何にも言えないけど」
「もう冬もそろそろ終わりだしさ。口実もなくなっちまうだろ」

 コトリと両手で抱えたコーヒーカップをテーブルに置き、その姿勢のまま溜息交じりにそう言った城之内に、モクバは心底同情しながら誰が見てもしょぼくれているその顔を眺めていた。彼にその顔をさせた張本人は、特に表情の変化もみせないまま常と同じ飄々とした態度で、さっさと会社へ行ってしまった。

 城之内の最大限に勇気を振り絞った言葉など、まるで聞いていないかの如く振舞っていたその姿を思い出しながら、モクバは我が兄ながらも大いに呆れてしまう気持ちを隠せなかった。今時、小学生だってもっと大人の対応をするよ兄サマ……ぽつりとそう呟いた言葉は彼に届く前に消えてしまう。

「兄サマは城之内の事、絶対に嫌いじゃないと思うんだけどな」
「ああ、そりゃそうだろ。でも、好きじゃねぇんだよきっと」
「好きかどうかもわかんないような相手と同じベッドに寝るっての、オレは考えられないけど」
「オレだって有り得ないと思うぜ。だけど、海馬には特にどうって事ねぇって事だろ。単に他にチャレンジする人間がいないから誤魔化されてるだけだ」
「…………でも」
「しょーがないって、こればっかりは。オレもさ、ちょっと考えてみる」
「考えるって、何を?」
「んー色んな事。……あ、やべ、もうこんな時間だ。そろそろ行くわ。色々とサンキューな」
「また来るんだろ?」
「………………」
「城之内!」
「早く行かねーとお前も遅刻するぞ。じゃあな!」

 モクバの声を遮るように城之内はいつもよりも大分素早い動作で席を立ち、廊下へと繋がる扉をさっさと開いてしまう。そして、最後に決まり文句でもあるその言葉を口にして、彼は足早に邸を出るべく歩き去った。バタン、と乱雑に閉まる扉の音を聞きながら、モクバは眉間に皺を寄せて腕を組む。

「モクバ様、登校のお時間です。お支度を」

 そんな彼に隣室で控えていた邸内では古参の部類に入るメイドがさり気なく声をかけて来た。7時50分。確かにそろそろ家を出なければ間に合わなくなる。そうとは知りつつもこんな気分で学校も何もないと半ば不貞腐れていたモクバは、なかなかその場を動かない事に不思議な顔をして近づいて来た彼女に、むっとした表情のままこう言った。

「なんか朝からすっごく嫌な気分だよ」
「どうかなさいましたか?」
「ねぇ、人の恋愛に首を突っ込む事ってどう思う?」
「はい?」
「城之内、もうここには来ないって言ったんだ」
「え?瀬人様と、大きな喧嘩でもなさったんですか?」
「ううん、逆。あんまり仲良くなり過ぎたからツラくなったんだって」
「?……はぁ」
「兄サマの鈍感っぷりっていうか、人への無関心さには流石のオレもイライラするよ。そう思うだろ?」
「それが瀬人様の良さでもありますから。それに、お小さい頃はそうでもなかったんですよ?」
「え?どういう事?」
「それはモクバ様が一番分かってらっしゃるのでは?とにかく、本当に遅れてしまいます。行ってらっしゃいませ」

 そう言うと彼女は優しくモクバの背を押し、部屋を出て行くように促した。扉の前で一度振り向くとにこやかな笑顔が無言の圧力をかけて来る。二人がこの屋敷に来た時から二人の最も近くで働いている彼女は、モクバが知らない瀬人の姿を色々と知っているのだろう。

(小さい頃はそうでもなかったって、どういう事なんだろう?)

 結果的に無言の圧力に負ける形で食堂を後にしたモクバは、エントランスに向かいながら先程彼女が口にした言葉の意味を考えていた。小さい頃はそうではなかったという事は、あの絶望的な鈍さは彼生来のものではなく、後から『そう』なってしまったという事なのだろうか。だとしたらそれには何か理由がある筈で、理由があるのだとしたら、それを付きとめればこの切ない現実も少しは改善されるかもしれないのだ。

 折角、兄を好いてくれる相手が出来たのだ。このまま終りになんかしたくない。

 モクバ個人としても大好きだと思える城之内の事を、彼はそう簡単に諦める訳にはいかなかった。勿論一番大事なのは瀬人本人の気持ちだが、その瀬人にしたって城之内の事を嫌ってなどいない。それこそ、自分が誰よりもよく分かっている。

 好きだけど、上手く伝わらない。伝えても、届かない。

 そんな苦い思いを恋と呼ぶのなら、自分は恋なんかしたくない。そんな事を思いながら、モクバは遠くから「早く」と呼ばれる声に、少し苛立たしげに答えを返した。学校になんか行く気分じゃない。今すぐにでも兄サマの所に行ってどういうつもりなのか怒ってやりたい位だ。
 

 足音も荒く階段を降りながらそう心の中で吐き捨てた彼を、エントランスで待っていた何も知らない運転手は怪訝な顔で眺めていた。
「おはよう、城之内くん!」
「ああ、はよー」
「あれ、なんか元気ないね。どうしたの?風邪でも引いた?」
「ん、別に」
「こいつが風邪とかありえねぇよ、遊戯。どーせ夜更かしでもしたんだろ。な?城之内。この間貸したエロ本返せよ」
「あーまだ読んでねぇからもうちょっと貸しとけ」
「変なもん付けて返すなよ。キチョー品なんだからよ」
「うるせぇ」
「もー。からかっちゃ駄目だよ本田くん。ねぇ、城之内くん、もし本当に具合が悪いんだとしたら我慢しないで保健室行きなよ。今季節の変わり目だから体調崩しやすいんだってママが言ってたよ」
「そーだな。サンキュ」

 全く覇気のない声でそう一言口にすると城之内はへらりと笑って、まだ何か言い募ろうとしている遊戯の傍から離れてしまう。踵を履き潰したついこの間買い変えたばかりの内ズックをパタパタと鳴らしながら自席へと帰った彼は、鞄を下ろすのも早々に深く重い溜息を一つ吐いた。

 不意に直ぐ横にある硝子窓の向こうを見ると、どんよりとした灰色が空を埋め尽くしているのが見える。天気予報は確か雨だった。傘持って来てねぇや、どうでもいいけど。そんなそれこそどうでもいい事を一人心の中で呟きながら、机の上に置いた組んだ両腕の上に顔を伏せて目を閉じる。

 遠くで「今日の一時限ってテストだっけ?」の声が聞こえてくるが、教科書を出す気にもなれない。

 まるでこの世の終わりが来たかのような、酷く憂鬱な気分だった。
 

 瀬人と最後に言葉を交わしてから一週間後の月曜日。
 

 あの日から城之内は自らの言葉通り、最近は三日と空けずに通い詰めていた海馬邸に足を向ける事はなかった。それどころか今までは毎日欠かさずに眺めていたKCビルや、毎日何かと瀬人が話題になる生真面目なニュースなども見なくなり、生活の全てからその存在を一切排除してしまった。

 そうでもしないと、意志の弱い自分は直ぐに己の誓いをなかった事にして、同じ事を繰り返すのが目に見えているからだ。その位はいくら能天気な城之内でも分かっている。だから見ないように気にしないようにと努めたのだが、その事がまるきり逆効果になってしまった。「見ない。気にしない」と強く思っている時点で物凄く気にしているのだから、無理もない事だったが。

 こうして、何もしないでじっと目を閉じていると、嫌でも考えてしまうのは瀬人の事ばかりで、そんな時間が余りにも辛いからこの一週間バイトを増やして仕事に勤しんでみたものの、余り効果はなかった。お陰で心だけが疲れていたものが、体まで疲れてしまった。風邪は引いていないが酷くだるい。もう何をするのも億劫だった。
 

『……そんなのは分かっているから寝ぼけてないで眠いのならさっさと寝ろ』

『答えただろう?』

『そうか。好きにしろ』
 

 素っ気ない言葉。まるで興味がないと言わんばかりの無表情。眠る時の距離が近づいて来たのとは裏腹に心の距離は全く縮まる事はなかった。むしろ余計な事を言ってしまったばかりに遠ざかった気さえする。このまま現状がずっと維持され続ければ、もっともっと遠くなってしまうだろう。

 けれど、城之内はこの状態を改善する気にはなれなかった。中途半端は苦しいだけでいい事など一つもないとこの数ヶ月で学んでしまったからだ。一番初めの、ただ瀬人の傍にいるだけで幸せだと思えたあの頃の気持ちを取り戻したいと思っても、もう無理な話だった。

 だから切り捨てるしかなかった。けれど、切りはしたものの、簡単には捨てられない。

 元来自分は熱しやすく冷めやすいタイプだ。だから3日も経てば少しは良くなる。そう思っていたのにそんな性格と何故か同居しているやっかいな諦めの悪さが今回は勝っていて、少しも冷めてはくれなかった。先程本田が言っていた本もその実一度も開いてすらいない。刺激的な表紙を眺めるだけで萎えてしまった。こんなものでは何の慰めにもならないと、心の中の自分がそっぽを向く。

 これ以上進めない、かと言って下がる事すら出来ない。完全立ち往生のこの状態は城之内の疲労と溜息を増やすばかりで。

(もうどうすればいいんだよ……)

 呟いてしまうのは聞くのも鬱陶しい弱音ばかりで、最後にはなんだか泣きたくなってきた。小さいガキじゃあるまいし、自分の思い通りにいかないからと泣くなんて本当に情けない。そう思うと今度は情けなさに泣きたくなる。

 完全に堂々巡りだった。どうしようもない。

 凹みに凹んだ心を持て余し、城之内はもう一度大きな溜息を吐くとぼんやりと顔を上げて考えた。今日はなんだか生きる気力さえもない。特に具合は悪くないがそう見えるのなら好都合だ。このまま適当に理由を付けてさっさと学校をフケてしまおうか。

 そんなヨコシマというには余りにも情けない考えに、座っていた椅子から腰を浮かそうとしたその時だった。コツン、と頭を小突かれる衝撃と共に、酷くぶっきらぼうな声が頭上から降って来た。

「おい」
「いてっ……なんだよ本田……やめ……!」
「なんだはこちらの台詞だ。誰が本田だこの犬め」

 反射的に小突かれた頭を押さえ、この教室内で気軽にそんな事をする奴の名を呼んだ刹那、城之内の視界一杯に酷く不機嫌な表情をした白い顔が入り込んだ。余りにも予想外なその人物の登場に、思わず悲鳴を上げそうになり咄嗟に口を手で塞ぐ。そして、大きな深呼吸を一つした後、改めて驚きを露わに眼前に立つ男の名を呼んだ。

「……かっ、海馬?!お前、なんでここに?!」
「何でだと?今日は時間が空いたので、登校しただけだが」
「あ、そ、そうなんだ。へぇ」
「久しぶりだな。生きていたようで何よりだ」
「ひ、久しぶりって。最後に顔合わせてから一週間しか経ってねぇよ」
「そうか。貴様を家で見ないものだから、そんな気がしただけだ」
「……あ、うん。……オレ、もう来ないって言ったろ。聞いてなかったのかよ」
「言ってたな」
「もしかして、本気にしてなかった?だから、待ってたとか」
「いや?聞いていたから、気になどしていなかった」
「……そっか」
「そろそろ春だからな。オレの家に用などないだろう」
「………………」
「それとも、他にもっと寝心地のいいベッドでも見つけたのか?」
「え?」
「どちらにしてもオレには関係ない事だがな」

 ふ、と小さく笑う気配がして、瀬人はくるりと背を向けて歩き出す。途端に始業のチャイムが鳴り響き、教室中が俄かに靴音と椅子を引く音で騒がしくなり、やがて担任が姿を現すと同時に静かになった。しかし直ぐに小声でひそひそと話す声などが聞こえてくる。

 そんな緩みきった雰囲気の中、響き始めた出席確認の声に城之内はただ茫然と自席に座った瀬人の横顔を眺めていた。常と同じ無表情で持ち込んだ書類の束を処理しているその様を眺めながら、城之内は今瀬人が口にした台詞の意図するものは何なのかを考えていた。

 特に抑揚もない声で投げつけて来た城之内にとってかなり不可思議なそれは、瀬人の事だから殆ど意味などないのかもしれない。けれど、聞き流すには余りにも衝撃的なものだった。

「………………」

 城之内は暫く無心でじっと瀬人の姿を見つめていた。自分の名前が呼ばれた事も気付かずに無視した結果、欠席扱いになってしまっても、その意識は彼から逸れる事はなかった。

 

3


 
「ねぇ、兄サマ。城之内、本当に来ないね」
「城之内?……先日から何度も言っているが、奴はもう来ないと言っていたぞ」
「それは知ってるよ。オレも聞いたもん」
「ならば来ないだろう」
「そうだけど。兄サマ、何とも思わないの?」
「何が?何を思えというのだ。凡骨がここに来ようが来なかろうがどうでもいいだろうが。オレとしては単に以前の生活に戻っただけだ。何の変わりも無い」
「連絡とかは?」
「奴の連絡先など知るか。それに用などない」
「……うー」
「お前は一体何が言いたいのだ。意味が分からないぞ。言いたい事があるならはっきり言え」
 

 それは城之内が学校でこの世の終わりとも付かない顔で溜息を吐く数日前の朝の事だった。

 バサリと手にした新聞を投げ捨てて、瀬人は置き去りにしていて大分温んでしまった珈琲を一気に煽る。冷めた所為で苦味が増して余り美味しくないそれに顔を顰めつつ、彼は隣に座るモクバを見た。

 世間では一応休日という事もあり、普段よりは些か余裕のある時間を過ごしていた瀬人は、朝顔を合わせてから一時も離れずにいるモクバから幾度も似たような言葉をかけられて正直辟易していた。

 彼はここ数日事ある毎に同じような問答を繰り返し、何とかして瀬人に城之内を気にするように仕向けている様だった。自分とよりも大分仲の良かった二人だから、その宣言通りふつりと姿を見せなくなった事が酷く気になるのだろう。

 瀬人とて既に日常になりつつあったものの変化を完全に無視している訳ではない。私室で仕事をしている最中につい誰も居ないソファーへと無意識に目線を向けてしまったり、日付が変わる時刻になると決まってかけられる声が掛からないのを不審に思い顔を上げてしまったり、己のベッドなのにも関わらず気がつけば常に中央よりもやや右寄りに眠っていたりする。目覚めた時の拘束感が無いのにも未だ慣れない。

 その事に忌々しいと思う気持ちと、それ以外の自身にも良く分からない不可思議な感情が交じり合い、瀬人を僅かに苛立たせていた。そんな状態のところに、このモクバの執拗な話題の振りである。これで不機嫌になるなという方がおかしい。

「じゃあはっきり言うけどさ。兄サマ、不安じゃないの?」
「は?何がだ」
「だって普通、仲がいい友達が突然お前の所にもう来ないなんて言い出したら不安にならない?」
「仲のいい友達?!何の事だ」
「だからー城之内の事だってば」
「ありえん」
「兄サマが幾ら有り得ないって言ってもさ、普通の人はどんな理由があったって他人と一緒に寝るなんて事はしないものなの。オレだってした事ないよ。そりゃ旅行に行って雑魚寝した時は別だけどさ」
「雑魚寝?」
「分かんないならスルーしていいから。まぁとにかく、一緒に寝れるって事は凄く仲がいいって事で……」
「それは訂正しろ」
「しない。だって事実だもん。んで、その友達からそういう事言われたら普通は嫌われたのかな、とか、誰か他にもっと仲のいい奴が出来たのかな、とか思うじゃん」
「気になどした事がないから分からん」
「もー!そういう問題じゃなくって!」
「そんな事はどうでもいい!」

 どうしてモクバはこの件に関してはこんなにしつこいのだ?!モクバのしつこさに、というよりモクバにここまでしつこくさせている城之内についに怒りを噴出させた瀬人は、そう一言吐き捨てるとふい、と大げさな程顔を背けて見せた。

 その口調とは裏腹の彼にしては至極子供っぽい態度に、モクバは怒るどころか内心面白く思いながら何故か身を乗り出して瀬人の顔を覗き込んだ。それにますます白い顔は反らされる。

「……兄サマ、怒ってるの?」
「別に怒ってなど無い。何故オレが怒らなければならないのだ」
「だったらその眉間の皺、なんとかしてよ。オレ、兄サマを怒らせるような事言ってないつもりだけど。でも、怒るって事は気にしてるって事だよね?」
「だから、怒ってなどいない!」
「ほら、怒ってるじゃん」
「それはお前がしつこいからだ!凡骨の事なぞどうでもいいわ!そんなに気になるのならお前がどうにかして連絡を取ればいいだろうが!」
「だって、城之内はオレ目当ててここに来てたんじゃないもん。兄サマの……」
「オレの寝室にあるベッドを、だろう?」
「兄サマ、本当にそう思ってるの?」
「何がだ」
「だから、あいつが兄サマのベッド目当てでここに来てると思ってたの?って」
「そうだろう?季節が変わって暖を取らずとも良くなったから、来なくなった。ただそれだけの事だろうが」
「……うわー」
「なんだ、その「うわー」は」
「兄サマってさぁ……改めて思うけど、凄いよね」
「どういう意味だ」

 さっぱり意味が分からん。そういって、今度は本格的に追及から逃れる為に席を立つ。それすら追いすがろうとするモクバの顔を睨みつけて、「くるな」とぴしゃりと一言言い放つと、さっさと部屋を後にする。少し苛立たしげな足音が遠ざかるのを聞きながら、モクバは深い溜息を吐いた。

「なんか予想以上に望み薄だよなぁ」

 そうぽつりと呟かれたその言葉は広い室内にやけに大きく響いて消えて行く。天然だ天然だと思っていたけれど、まさかここまでとは。あのメイドは小さい頃はそうでもなかったと言っていたが、これはもう生まれ付きのレベルとしか言い様が無い。

 けれど、自分の言葉に声を荒げて反応してきたという事は全く無関心という訳ではないのだろう。瀬人の性格を一番良く知っていると自負している自分がそう感じるのだから間違いない。彼は本当に関心の無いものに関しては眉一つ動かさないのだ。それがあの騒ぎである。

 と、いう事は瀬人はそれなりに城之内の事を気にしているという事なのだろう。それがいい意味なのかまでは分からなかったが。

「……まぁ、オレがじたばたしたって何が変わる訳でもないんだけどね。でもやっぱり城之内が可哀想だし」

 そう一人ごち、モクバは大きく伸びをすると、瀬人が乱雑に置き去りにした経済新聞を手に取り、綺麗に折り畳んでテーブルへと戻した。あの単純な兄の事だから少し時間をおけば同じ話をしても直ぐに怒り出す事もないだろう。そう思いちらりと近間の壁時計を眺めると、モクバは暫くはゲームに熱中していようとさっさと部屋を後にした。
 部屋に辿りついた瞬間、口から酷く重い溜息が出た。同時にやはり苛立つ気持ちに背にした扉を後ろ手に軽く叩く。何故、自分がこんな不快な気分を味合わなければならないのか。休日であってもやる事は山の様で特にする事も思い浮かばない瀬人は、全く気乗りはしなかったが自席へと歩いて行った。

 静かな部屋。今まではそれが当たり前の筈だったのに、ここ最近の賑やかさのお陰で、静かな状態が落ち着かない。そんな瑣末な事まで気に障り、やはり苛立ちは募っていく。それでも漸くその事を意識する回数が減っていたのに、モクバのお陰で急激にぶり返してしまった。その影響力は想像以上だ。

 全く忌々しい、心底そう思いつつ少々乱雑な態度で椅子に座り、数多あるファイルの中から処理を急ぐものを選び出し、書類を抜き取る。そして直ぐにPCを立ち上げた、その時だった。

「失礼致します」

 不意に瀬人の世話を主とするメイドが軽いノックと共に入室し、飲み物一式を乗せたワゴンを指し示し、お淹れしますか、と声をかけてきた。時刻は丁度10時を過ぎた辺りで、この時間は家でも社でもブレイクタイムと決まっている。その事に時計を見て気づいた瀬人は、ただ短く「ああ」と答えを返し、視線をディスプレイへと向けた。

 常よりも僅かに素っ気無い態度だったがそんな事も既に慣れきっている彼女は、黙々と手馴れた手つきで彼好みの珈琲を白いカップに注ぎ淹れると静かに机上の定位置へ置いてしまう。普段ならばそれで現時刻の彼女の仕事は終了で、後は速やかに退出するのみ。しかし、今日ばかりは勝手が違っていた。仕事を終えたはずの彼女が何故かその場から立ち去ろうとしなかったのだ。

「何だ。何か用があるのか?」

 カップを机上へと置いた後、瀬人の動向を伺う様に静かに佇んでいた彼女の視線に不可思議なものを感じた瀬人は何処と無く嫌な予感を覚えながら思わずそう声をかけてしまう。彼女が瀬人にこうした視線を向ける時は、大抵その口から出るのは説教めいた事ばかりだからだ。そうでない時は積極的に声をかけてくるので、その点は至極分かり易い。

 年齢的にも姉と言ってもいい位の歳の差もない、それ故物怖じしない性格の彼女の事を瀬人は嫌いではなかったが、少し苦手な存在だった。特に、こんな顔を見せる時は。

 そんな事を考えながら瀬人が眼前の顔をなんとなく見返していると、彼女は一瞬逡巡する素振りを見せた後、徐に口を開いた。

「瀬人様。最近、城之内様がお見えにならない様ですが、喧嘩でもなさったんですか?」
「……は?何を突然……」
「お姿を拝見しないもので、気になって……それに、こちらもお返ししなればと思って」
「なんだこれは」
「瀬人様のお部屋をお掃除した時に落ちていたものと、私が城之内様に預けられていたものです」
「下らん雑誌や漫画は分からんでもないが……この、タオルだの歯ブラシだのもそうなのか?」
「はい。いつも借りてばかりで悪いから置いておく、とおっしゃって」
「………………」
「城之内様がいらしたらお返ししようと思ってこうして一纏めに……」
「ずうずうしい。奴はここをなんだと思っているのだ」
「あら、それを許可なさったのは瀬人様でしょう?それに、この歯ブラシなんて瀬人様のカップの中に入っていましたけど。お気づきにならなかったんですか?」
「何だと?!」
「ともかく、喧嘩なさっているのなら早めに仲直りをして下さいね。私達も城之内様の姿を見ないと寂しくて。皆で噂をしていたんです。モクバ様も少し塞いでらっしゃるようですし」
「……いや、というか。ちょっと待て。オレと城之内は……お前達は何か誤解を……!」
「じゃあ喧嘩はなさっていないんですね?」
「そっちの誤解じゃない!」
「あ、この荷物はここに置いて行きますね。瀬人様が預かっておいて下さいませ」
「話を聞かんかっ!」

 なるべく早くお願いしますね!

 最後にトドメとばかりにそう口にして、彼女は来た時とはまるで違う軽い足取りで部屋を出て行ってしまう。その後姿を呆然と眺めていた瀬人は、置き去りにされた城之内の荷物が入っているという編み篭を前に呆然とした。

 なんとなく気になってしまい瀬人は苛立たし気に席を立つと、乱雑な仕草で篭の中に手を突っ込み、内容物を検分する。いかがわしい内容の本や漫画、多分借り物のDVD数種。その下には先程確認したバスタオルだの歯ブラシセットだの、必需品であるらしい整髪料だの、揚句の果てには下着や靴下まである始末だ。これではまるで同居人そのものだ。

 城之内克也恐るべし。

 瀬人は顰め面のままその籠を遠くへ押しやると、深い深い溜息を吐いた。こんなものが堂々とこの部屋に置いてあるのだとしたらそれは誤解をされても仕方ない。自分には全く、本当にこれっぽっちもそんなつもりはないのに(ちなみに瀬人が思う「そんなつもり」は彼自身何を指し示しているのか分っていない事をここに付記しておく)心外な事この上ない。未だ友と称される事すら疑問に思っているのに『仲がいい』とは何事か。更に何故来ないのかと自分が責められるなどと理不尽この上ない。たかが共寝をした位で何が仲良しだ。意味がわからん!

 瀬人は心の中で一人延々とそんな愚痴を零してみたものの、聞いてくれる者やましてや理解してくれる人間など居よう筈もなく、このどうしようもないもやもやをどう処理したらいいのか分からない。誤解をされているなら解けばいいだけの話だが、あの調子では自分が何を言っても聞く耳など持たないのだろう。相手が一人ならまだしもモクバを含めた邸の人間全員だ。いかな瀬人とて、それらに立ち向かうのは少々難しい。

 ……何だか疲れた。こんな事からは早く解放されたい。

 床に両手をついて座り込むという彼らしからぬ様相で暫し絶望に浸っていた瀬人は、魂すらも抜け出てしまいそうな深い深い溜息を吐くと、ちらりと改めて城之内の『荷物』を見遣った。そして、ある事を決意する。

 そうと決まればその行動は素早く、瀬人は目の前の荷物を速やかに部屋の隅にあった段ボール箱に詰めてしまうと厳重に封をして再び部屋の隅へと追いやった。そしてデスクへと戻り、スケジューラーを立ち上げて次に登校出来る日を検討し始める。

 然程時間をかけずにそれを決めてしまうと瀬人は受話器を手に取り、磯野に至極簡潔にこう言った。

「例の会議は週末に延期しろ。明日は登校する」

 電話の向こうで何事か騒ぐ声がしたが、聞きもせずに切ってしまった瀬人は既に遠くに追いやられた段ボール箱を改めて眺めて、ふん、と小さく毒ついた。そして、ぽつりとこう呟いた。
 

「不要物は早々に突っ返してやる」

 

4


 
「兄サマ、ちょっとドア開けて〜一人じゃ入れないぜぃ」
「……なんだ突然。それに、その荷物はどうした」
「……よいしょっと。ありがと!うん?今日は兄サマの部屋にお泊りしようと思って。色々持って来たんだぜぃ。漫画でしょ、ゲームでしょ、宿題とパジャマ!明日の用意もちゃんとしてあるし!」
「何?お泊り?」
「久しぶりに一緒に寝ようよ。兄サマもずっと一人寝で寂しかったでしょ?」
「いや、ぜんぜ……」
「オレ、枕は自分の持って来たから。兄サマのベッドに置かせてね」
「おいモクバっ!」

 今日は夜に気温が下がるって言ってたから丁度いいよね!

 そう言って、何故か上機嫌のモクバは彼お気に入りの柔らかめの羽根枕を抱えて寝室へと消えて行く。その後ろ姿を眺めながら、瀬人は訝しげな顔をして小さく首を傾げていた。今朝、喧嘩と言うには些細な争いごとをしてしまった所為で、今日一日ぐらいは傍に寄りついて来ないだろうと思ったモクバが、夕食前にひょっこりと部屋に顔を出し満面の笑みを持って瀬人が明日学校へ行く事を嬉しそうに確認して来たのだ。

 嘘を吐いても仕方がないので、「そうだが」と淡々と応えてやると、彼は何故か「やったぁ!」と大喜びしつつ、大荷物を持って再び瀬人の部屋へと戻って来たのだ。その彼の行動理由が全く分からない瀬人は、目の前で盛大に広げられるモクバの私物を眺めながらその訳の分からなさに再び重い溜息を吐いた。

 城之内が邸内から消えてからというものなんだか疲れる事が増えた気がする。おかしい。以前は奴がいたからこそ疲れていたのではなかったか。そう心の中で思いながら、瀬人は目の前の小さな騒ぎが収まるまでソファーで静観していようと、オフホワイトのそれに深々と腰をかけたその時だった。

 不意に、頭の隅の方で「本当にそうだろうか?」の声が聞こえた。脳内に他人を飼う趣味はないのでそれは紛れもなく自分の声で、今の自身の気持ちに対しての異論を素直に唱えて来る。

 何故そこで疑問が出る。当然だろう。家族でも友でもない、全くの赤の他人である男に散々付きまとわれて、ベッドすら占領されていたのだぞ。疲れない訳がないだろうが。……そう即座に否定してみたものの、よくよく考えれば彼がここに存在した間、こんな風に心底重い溜息を吐いた事はなかったし、本当の意味で頭痛や目まいがした事なども一切なかった。むしろ比較すれば前よりも今の方がずっと煩わしい事が増えた気がする。

 それは例えば自分でも無意識にその存在を探してしまう事や、モクバにしつこく絡まれる事、使用人達に執拗に「何故城之内が消えたのか」を問い詰められる事など、上げてしまえばキリがない。それらを回避しようとすればするほど、瀬人の気力は疲弊していき、今の様にすっかりくたびれ果てた状態になってしまっていた。

 冷静に考えればとてつもなく理不尽でおかしい事だったが、それは紛れもない事実だった。つい先程まで、鬱陶しい煩わしいとずっと思っていたのだが、その実本当に煩わしかったのは今の状態だったのだ。

「………………」

 ちらりと先程部屋の隅に追いやったばかりの荷物を眺めやる。つい先刻まではアレを本人に突っ返し「忘れ物だ。もう用もないのだから来るなよ」と言ってやるつもりだったが、果たしてそれで本当に解決に至るのだろうか。

 用もないのに来るなという事は、用があれば来てもいいという事ではないのか。奴がここに来ていた理由は自分の最高級寝具を気に入っていたからで、それで眠る事を目的としていたのであれば、用はあったはずだ。いやでもアレと同じものを奴の家にも送っている筈で……なんだか訳が分からなくなってきた。自分の考えが一番分からないのは自分自身だ。

 一体『オレ』の本当の気持ちは何処にあるのだろう。
 

『お前はオレの事どう思ってる?』

『実はお前の事が好きなんだけど』
 

 不意に何かの折に唐突に投げつけられた言葉が蘇る。その時は特に何も思わずに聞き流していたが、よくよく考えてみれば結構重要な言葉だったのではないだろうか。前者には当時思っていた気持ちを素直に言葉にして応えてやったが、後者に関しては未だ明確な答えを出してはいない。

 ただ、『分かって』はいた。幾らなんでも、例え目的が違う所にあったとしても、嫌いな奴の所に熱心に通う馬鹿など早々いないからだ。嫌いでないのなら好きなんだろう。当たり前ではないか。そうごく自然に受け止めたから「分かっている」と答えただけなのに。

 思えば、その直後だった。城之内が酷く硬い声で「もう来ない」と言ったのは。

 それまでだったら自分が幾ら迷惑だと拒絶しても来るなと怒鳴りつけても取り合う事すらせず自分の我を張り通して来たあの男が、そんな些細な一言で引き下がるなど考えにくい。ますます意味が分からない、一体なんなのだろう。
 

「………………」
 

 そんな取り留めのない事を考えつつ、自然と眉間に深く寄った皺に組んだ手を宛がって苦悩していると、漸く落ち着いたらしいモクバがいつの間にか綺麗に整頓された荷物をソファーの横に纏め置いて、瀬人の直ぐ傍まで近づいて来た。そして、ひょいと顔を覗きこんでくる。

「兄サマ、また眉間に皺寄ってる。それ、癖になっちゃうぜぃ。考え事?」
「……別に」
「さっきからずっと気になってたんだけど、あの隅の段ボール、何が入ってるの?兄サマがああいうの部屋に置いておくのって珍しいよね」
「段ボール?……ああ、明日学校に持っていく荷物だ」
「学校に……提出物か何か?あんなに溜めてたの?」
「違う。オレのモノじゃない。凡骨のだ」
「え?」
「だから、凡骨が邸内に置きっぱなしにしていた私物だ。下着の果てまで持ち込むとはずうずうしいにも程がある。全部突っ返してやるわ」
「突っ返すって……もしかして明日急に学校行きを決めたのは……」
「当然奴にアレを押し付ける為だ。何時までも目ざわりだからな」
「えー?!なんでだよ?!オレはてっきり……」
「てっきり、なんだ?」
「城之内と仲直りする為に行くんだとばっかり思ってたのに!!」
「……仲直りって……別にオレと奴は喧嘩していたわけでは」
「でもっ、喧嘩するより悪いじゃんこんなの!ああもうっ、兄サマの馬鹿!もう一緒に寝てやらないぜぃ!」
「……いや、お前が勝手に寝たいと言って来たんだろうが……それにオレは学校に行くとは行ったが凡骨とどうこうするなどとは一言も……」
「そんなのはどうでもいいの!!」
「……どうでもいいのか」

 先程のご機嫌な様子から一転して地団太を踏みそうな程憤慨したモクバは行儀悪くソファーへとよじ登り、立ち膝をして瀬人の直ぐ横へと迫ると、その肩をぐい、と掴む。その胸中は余りにもちぐはぐな2人への憤りで一杯だった。

 あんなにも好きだ好きだと喚いていたのに、肝心な所でしりごみしてしまう城之内も、そんな城之内の事を許していて、『気を許すイコール好き』という図式が成り立っているにも関わらずそれに一切気づく様子の無い瀬人の事も、どちらも余りにも子供過ぎて。ついに我慢の限界値を超えてしまった若干12歳のKC副社長は頭に昇った血を沸騰させつつ、腹を決めた。

 あーもうじれったい!!あいつが言えないのならオレが言ってやるぜぃ!

 そう決意した気持はそのまま瀬人へと向かい、体制の所為で酷く近い位置にあるその顔をキッと睨みつけると、モクバは殆ど噛みつく様な勢いでこう叫んでしまう。

「あのねっ、良く聞いて!城之内は兄サマの事が好きなんだよ!」
「な、なんだ突然」
「だって兄サマってば全然分かってないんだもん!オレ、もう限界だし!」
「は?何が限界なのだ」
「そんな事はどうでもいいからオレの話をちゃんと聞いて!この際だから全部言っちゃうけど、城之内の『好き』は本気なんだからね?!兄サマちゃんと分かってて聞いたの?答えたの?」
「……またどうでもいいのか。というか、何の話をしている?お前の言っている意味が分からない」
「オレ、城之内から全部聞いたんだ。城之内が最後にここに来た時、あいつ兄サマに言ったでしょ?聞かなかった?『好きだ』って」
「……ああ、そんな事を言っていたな。でもそれは」
「でもも何もないの。それをどうして真面目に受け取ってあげないのさ!」
「いや、真面目も何も……それにオレはちゃんと答えたぞ。分かっている、と」
「分かってない癖に」
「は?」
「兄サマ、何にも分かってない癖に何が分かってる、だよ?兄サマがそんなだから城之内はもう家には来ないって言ったんだよ?!このまんまじゃ辛いだけだからって」
「辛いって、何が辛いのだ。ただここに来て寝るだけの事に何か辛い事でもあるのか」
「そ、それはちょっと、オレの口からは言えないけどさ……とにかく、城之内が来ないって言いだしたのは全部兄サマの所為だから!ちゃんと良く考えて、仲直りして!ね?」
「だからオレは別に凡骨の事など」
「うん。そうかもしれない。もし本当に兄サマが城之内の事なんかなんとも思ってないんならはっきりそう言ってあげて。その方があいつもすっきりするから」
「………………」
「今度は適当に答えちゃ駄目だよ。ちゃんとしないと、兄サマはずっとこのまんまだよ。オレはまぁいいとして、メイド達にしつっこく『城之内様はどうしたんですか?』って聞かれるんだから。あいつら、すっごく城之内の事気に入ってたから、兄サマの所為で来なくなった、なんて知ったら何て言うかな。曖昧な事言ってるとエスカレートしてくるかもね」
「な、なんだと?!」
「そういう訳だから。明日学校に行ったら城之内ときちんと話してね。話して、どんな結果が出たとしてもとりあえずあいつをここに連れて来て。荷物はあそこに置いておいてさ、あいつに持って行かせればいいじゃん。学校に持っていくのも持って来られるのも迷惑だよ」

 ね?約束!

 そう言って、己の主張だけを物凄い勢いで口にしたモクバは、瀬人の肩に置いていた手をゆっくりと下げて、いつの間にか辿り着いた瀬人の手をぎゅっと握り締めると、ついでとばかりに勝手に小指を絡めてその言葉通り指切りをする。

 小さく細い癖に力だけは一丁前のモクバの小指を眺めながら、瀬人はやはりうんざりした気持ちを覚えつつ、それでも諦めたように微かに首を縦に振って「分かった」と呟いた。そうでもしないとどこまでも食い下がってくる事など目に見えているからだ。

 面倒臭い、なんでオレが……そんなもやもやした思いを胸に抱えつつ、瀬人はもう何度目かしれない溜息を一つ吐いた。
 

 けれど心の奥底で、口実を与えられて少しだけほっとする自分がいる事に、瀬人自身は全く気付かなかった。
「x,yについての条件Aをこのように定め……次の条件が成立するための実数aの値の範囲を求めよ。この問題は……堀井!お前やれ」
「うぇ?!分かりません!」
「速攻諦めるな!じゃ、三上!」
「予習してきませんでしたぁ〜」
「ふざけるな!どいつもこいつも……お、今日は海馬がいるのか、珍しいな。じゃあ、海馬、やってみろ」
「はい」

 ガタリ、と大きく椅子が動く音がして、後ろから静かな足音が響いて来る。その足音に……否、その前に聞こえた『海馬』の名前に、直ぐに爆睡体勢から浮上した城之内はのそりと頭を上げて、バリケードにしている辞書越しに足音が聞こえる方を見遣った。

 その当人は真っ直ぐに正面だけを見て黒板の前まで歩み寄ると、チョークを手にした途端恐ろしいスピードで黒い板面を埋めて行く。横に書かれた教師の文字よりも読みやすい几帳面な数字と記号の羅列は、その大半が良く分からなくてもきっと正答なんだろうと思った。それは何も板面から読みとらなくても、傍で見ている教師の表情を観察していれば良く分かる。

「もういい、正解だ。席に着け」

 瀬人の回答が教師の想像したものとは違ったからなのだろうか。普段は偉そうに踏ん反り返り生徒を怒鳴り散らす彼が見せたその驚愕の表情に、城之内は思わず小さく噴き出してざまぁ見ろ、と心の中で呟いた。そして何故か少しだけ誇らしげな気持ちで席に戻って行く瀬人の姿を見送る。勿論こちらの方などちらりとも見なかったが、それでも席に着く瞬間まで視線は外さずにいた。

 瀬人が着席するのを見届けると、気を取り直したらしい教師が今の設問に対する解説を始める。この解き方でも勿論正解だが、一般的な解答法は……などとどもっている。そんな話など勿論聞く気もなく、城之内は再び生真面目な顔をして視線を落としている瀬人をまだ見つめていた。
 

『そろそろ春だからな。オレの家に用などないだろう』

『それとも、他にもっと寝心地のいいベッドでも見つけたのか?』
 

 今朝、何気なく告げられたその言葉。特に何の感情も含まれず、表情も常と同じ無表情だった為、その真意がどこにあるのかは分からないが、それがずっと頭の片隅にこびりついて離れない。一体どういう意味なのか。海馬はオレに何が言いたいのか。

 そもそも、KCや海馬邸でならまだしも、学校内で『海馬から』話しかけられた事もその実これが初めてだった。元々何を考えているかなど全く分からない相手故に、その謎は深まるばかりだ。好意的なのかそうでないのかすら分からない。

 これが普通の人間なら、瀬人じゃなかったら、その台詞はかなり意味深なものだ。他にもっと居心地のいいベットを見つけたのか?……なんだそれ、それじゃオレが浮気してるみたいじゃねぇか。浮気どころか気持ちすら分かってない癖に。ふざけんな。

 そう内心ぼやいてみた所でどうにもならないし、瀬人がそんなつもりで口にしてる訳ではない事位分かっている。むしろそういう意味合いで攻められてみたいとすら思うのに。

 その真意を確かめようと城之内は休み時間を利用して瀬人を問い質そうと試みたが、久々の登校故に瀬人は授業の合間に呼び出しを食らっているのか、チャイムが鳴ると同時に直ぐに席を立って廊下へと姿を消してしまう。

 全ての授業を受けずに帰る事も日常茶飯事故に、いつその姿が見えなくなるか気が気ではない城之内は、瀬人が席を立つ度に机横のフックを確認し、彼の鞄がまだあるかどうかのチェックを怠らなかった。そんな事を繰り返していたらもう4時限目だ。次の休みは、昼休み。

 今度こそ何処かに消えてしまう前に捕まえなければならない。一歩この空間を出てしまえばもうお前の所には行かないと豪語した以上、城之内は瀬人に近づく事すら出来ないのだ。……だから。

(次のチャイムが鳴ったら、スタートダッシュで海馬を捕獲。そんで屋上かどっかに拉致ろう。……よし!)

 一向にこちらを見る気配がない無表情な顔から目を反らし、教壇の上部中央にある時計をちらりと見遣った城之内は、後15分……と心の中で呟いて、瀬人を捕まえたらまず何を言おうかと真剣に考えた。

 けれど幾ら考えても適切な言葉は思いつかず、結局机に突っ伏して、長い長い溜息を一つ吐いた。
 

 

「海馬っ!てめぇ、ちょっと待っとけよ!!」

 4時限目終了のチャイムが鳴ると同時に全員で席を立ち、終業の挨拶の為に頭を下げた瞬間、遠くの席からそんな怒鳴り声が聞こえて来た。名を呼ばれた瀬人のみならず、その場にいた生徒全員、果ては数学の教師まで一斉に視線を送った先には、城之内の妙に焦っている様な不可思議な顔があった。

「おい城之内!お前なんだ!挨拶中に!」

 皆一様に呆気にとられた風にぽかんとした顔をして静まり返ってしまった教室の雰囲気など気にせずに、大声を上げた張本人は勢い良く席を離れると、足音も荒く廊下側の最後尾の席へと向かってくる。その姿に一足先に我に返った数学教師がすかさず怒りを爆発させたが、城之内は全く聞こえていないかのように瀬人の元へと駆け寄ると、その腕を掴んで強引に廊下へと引きずり出した。

 耳障りな音を立ててしっかり閉ざされてしまった扉の向こうでは未だ静まり返っていたものの、そんな事はお構いなしに城之内は掴んだ腕をぐいぐい引こうとする。そんな彼の突飛過ぎる行動に最初は他の生徒同様目を丸くしていた瀬人だったが、即座に身を硬くして抵抗し、痛いほどに食い込んでくる指先を振り解こうと手に力を入れる。けれど、声を荒げたりはせずに口を開いた。

「何の真似だ」
「や、だって。お前休みの度にどっか行っちまうし。ちょっと話したい事があんだよ」
「何を」
「何をって……だから、色々と!いいから付き合え」
「何処に」
「何処でもいいじゃん、話が出来るとこ!」
「だったら教室でも構わんだろうが」
「いいから、黙ってついて来いよ」

 本当は何を話したいかなんてまだ決めてはいなかったけれど、とりあえず二人きりになれる状況を確保しようと、城之内は当初の計画通り瀬人を連れて屋上へと続く階段を上り始めた。その姿は確実に異様なものだったが、昼休みで大勢の生徒が好き勝手に行動している今の時間帯では然程目立つ事はなかった。

 先を行く城之内の履き潰した指定靴の踵がパタパタと階段を叩いていく。

 常とは違い何処か余裕のないその後ろ姿を見上げながら、仕方がないと肩で息をついた瀬人は、その動きに従って黙々と足を動した。

 二人分のその足音は周囲の賑やかさに交じる事無く、やけに大きく彼らの耳に届いて消えて行った。

 

5


 
「うわっ、寒っ!やっぱまだ春は遠いよなぁ〜でも誰も居なくって丁度いいや」
「……だからこんな所まで来る必要があるのかと言ってるんだ」
「まぁいいじゃん」
「それで、話とはなんだ」
「そんな喧嘩腰にならなくてもいいじゃん」
「別に喧嘩越しになどなってない」
「いいから聞けよ。あ、つか寒くねぇ?」
「寒いに決まってるだろうが。それよりも、いい加減手を離せ。痛い」
「あれ、まだ掴んだままだっけ。ごめんごめん。でも寒いからこのまんまでもいいだろ?あっためてやるよ」
「結構だ」
「そう言わずに。風邪ひかせたらヤバいもんな」

 城之内の腕に引かれるまま屋上に辿り着いた二人は、着いて直ぐ少しだけ錆びついた鉄扉を閉めてしまい、未だ冷たく吹き付ける寒風を避ける為に扉の陰に身を置いた。

 日差しの温かな日には昼食を食べる生徒で賑やかになるこの場所も、さすがにこんな寒さでは階段を上がろうと言う気すら起きないのか、人っ子一人見当たらない。勿論城之内はそれを狙ってこの場所を選んだのだが、指先が悴んでしまう程の風の冷たさにほんの少しだけ後悔した。

 その寒さに城之内は思わず瀬人の腕を掴んでいた指先に力を込める。けれど既に冷たくなってしまっている制服の上からでは意味はなく、それを口実に指を腕から手へと滑らせた。彼の手などもう飽きる程握り締めていた筈なのに、細過ぎるその感触は酷く久しぶりで幸せさえ感じる。そして、やはりこの手を放す事は考えられない、と改めて思ったのだ。

(ああ、やっぱりオレ、海馬が好きだ)

 冷たい風とは裏腹の酷く温かい気持ちが胸に満ちる。そんな事、最初から分かってはいたけれど、持ち前の強固な忍耐力を発揮させていくうちに自然と心の奥底に押し込めていた。それを口にしてしまったら拒絶されてしまう、関係が終わってしまう……そう、思ったから。

 ただ一緒にいるだけでいい。誰よりも近くにいる事が出来たらいい。数か月前は確かにそれで良かったのだ。けれど今は、もうそれだけでは我慢出来ない。

 いきなり懐に飛び込んではみたものの、その所為で身動きが取れなくなるなんて思わなかった。なんとかなるだろ、と安易に考えていた数ヶ月前の自分の浅はかさに城之内は今更ながらに呆れ返る。しかし、当時の自分はそれでも必死だったのだ。どんな手段でもいいから近づいてこの身体に触れたかったのだ。

「今更こんな事言うのもなんだけど……オレさ、お前に最初から嘘を吐いていたんだ」
「何?嘘?」
「そう。嘘。……その嘘の所為で、今オレ、物凄く苦しんでる。夜も眠れない位」
「何だそれは。……その嘘は、そんなにも大それたものだったのか?」
「うん。でも、ずっと嘘吐いてた訳でもない。たまにはホントの事も言ってたんだけど、オレが最初に嘘吐いたからお前には全然分かって貰えなかった。今も多分、そうだと思う」
「どういう意味だ?話が見えないんだが」
「ごめん。たしかにまどろっこしい言い方だよな。っつーかオレもどういう風に話を持って行ったらいいんだかわかんなくて」
「どういう風も何も、言いたい事があるならはっきり言えばいいだろうが。どうでもいいが早くすませろ。寒い」
「そう……なんだけど」

 いざ海馬に真実を告げようと意気込んだものの、今までが今まで故に何と言ったらいいか分からずに、城之内は暫し逡巡した。好きだ、と単刀直入に伝えても華麗に受け流した相手である。再び同じ台詞を口にしても、まともに受け取って貰えないかも知れない。嘘吐きの代表である狼少年もこんな気持ちだったのか、と殆ど明後日の方に考えを巡らせて現実逃避し始めたその時だった。

 そんな城之内の葛藤など露知らずいささかうんざりしたような顔を見せた瀬人が、ふうっとあからさまに大きな溜息を吐くと、疲れた風にこんな事を口にした。

「貴様の話が進まないのなら、オレが先に話をしてもいいか。簡潔に済ますから」
「えっ?!お前の話?」
「ああ。オレも貴様に話があった」
「な、なんだよ、話って。……もしかして今朝のもっと居心地のいいベッドがどうとか、そういう話か?」
「まぁ、そういう事だ」
「ちょ、ちょっと待て。勝手にオレがお前の家に行かない理由を決めつけんなよ?それ、今の話にも通じるから!」
「そんなのはどうでもいい。オレが言いたいのは……貴様と違って回りくどい言い方は好きではない故はっきりと言うが……もう家に来ないのなら、置き去りにしていた荷物を引き取りに来い。目障りで仕方ない。来るのが嫌なら届けさせるからそう言え」
「…………え?」
「それと、家に来なくなったその理由をちゃんと言え。どういう訳か知らんが貴様はオレの家でモクバを筆頭にメイドに至るまで何故か特別視されていてな。奴らと来たらオレに向かって何故城之内は来ない、喧嘩ならば早く仲直りしろと煩くて敵わないのだ。もううんざりだ」
「………………」
「オレと貴様は友達でも何でもない。ただのクラスメイトだろう。今までも、これからもそうなのだろう?だったら……」
「海馬、ストップ」
「何が」
「だからストップって言ってんだよ。それ以上何も言うな。黙ってオレのこれから言う事聞いとけ」
「勝手な事を……んぐっ!」
「黙れっつってんだよ!いいか、今から正真正銘マジな話をするからよっく聞け。な?」
「んんっ!ん!」
「呼吸は鼻からでも出来っから慌てんな」

 そう言って、瀬人の指先に触れていた右手で徐に目の前の口を塞いでしまった城之内は本人の言う通り、今までに見せた事のない真剣な表情でそう言った。自分でも予想外の行動だったが、こうでもしないとこの世界一空気が読めない常識外れの鈍感男は、こちらの事情を斟酌する事無くあっさりと最後通達を出しかねないからだ。

 我ながら随分な強硬手段だと思ったが、瀬人相手にはこれ位で丁度いいのだ。そう勝手に自分の中で折り合いを付けて、城之内はどさくさに紛れてさり気なく目の前の身体を引き寄せながらわざと耳元に口を近づけて口を開いた。

「オレ、お前の事が好きなんだ。友達として好き、とかそういう軽い意味じゃねーぞ。ぶっちゃけて言えばキスとかエッチとかやっちゃいたいっていうそういう『好き』だ。そうだな、恋してるって言うと分かる?」
「っ?!」
「さっきお前に嘘吐いたって言ったよな?その嘘が、今の言葉に繋がってんだ。去年の冬からずっとお前のベッド目当てで海馬邸に通ってたけど、本当はベッドが目当てじゃなくって、単純にお前と一緒に寝たかったんだ。最初はそれだけで凄く満足してたし、幸せだった。ずっとこのままでもいいやって思う位。……でもさ、やっぱ無理だったんだ」

 城之内の段々と語尾が小さくなっていくその声に合わせて、瀬人の口を塞ぐ掌も力を失っていく。そのチャンスを見逃す彼ではなく、瀬人は直ぐに己の唇をしっかりと押さえつけていたその指先を振り払うと殆ど驚愕の眼差しで城之内を見つめ直した。

「っは。……い、いきなり口を塞ぐな馬鹿!……な、何が無理だったのだ」
「言っていいの?多分ドン引きするぜお前」
「オレが引くような事なのか」
「うん」
「なんだ」
「我慢出来なくなった。ただ、一緒に寝るだけじゃ、我慢出来なくなったんだ」
「…………は?」
「あー!相変わらず鈍い奴だなぁもう!!だからっ!オレはお前が好きで!この年で好きっつったらイコールヤりたいって事だろ?!セックスだよ!」
「セッ……?」
「好きな奴が隣で無防備極まりない姿晒してんのを見て我慢できるかってんだ!だからオレは、このまま一緒に寝てたらいつかお前襲っちまうかもしんねーって思って、距離を置く事にしたんだよ、わかったか!!」

 今言わなければ何時言えばいい?!とばかりに自分の想いをここぞとばかりに全部ぶちまけた城之内は、内容が内容故に自然に熱くなる顔と荒くなる呼吸を抑えながらそう一気に吐き出した。興奮の余韻で激しく上下する肩はそのままに、まるで挑むようにその言葉を驚愕のまま聞いていた瀬人を睨みつける。

 大きく見開かれた蒼の瞳。一体コイツは何を言ってるんだと言わんばかりに、困惑気味に潜められた眉。複雑な瀬人のその表情は、どこをどう見ても『引いている』としか思えない。
 

 ……あー、やっぱりドン引きか。そうだよな。
 

 内心がっくりと肩を落としながら、城之内は分かりきっていたその事に改めて落胆した。そして、自身の恋の終わりを早々に悟り、小さく「ごめん」と口にして、それまでの勢いをすんなりと収めて、瀬人から少し距離を取った。

 本当は、この勢いのまま抱きしめてキスの一つでもしてやろうと思っていたが、そう出来ない雰囲気になってしまったからだ。それほどまでに、瀬人の引き具合は激しかった。……否、そういう風に城之内には見えたのだ。

 長い長い沈黙が、二人の間を重苦しく流れて行く。

 その重さについぞ耐えきれなくなった城之内は、それ以上何を言ってもやっても駄目な気がして、無意識に一歩後ろに後ずさった。そして逃げる様に踵を返す。

「……そういう事だから。その……っごめん!」
「おい、凡骨!待て!」

 いきなり自分に背を向けて走り出した城之内に、瀬人は再び驚いて声をかけたが、既にすっかり逃げ腰になっていた城之内は、その声に振り向く事もないまま勢い良く扉を開き、校内へと駆け込んでしまう。

 バンッ、と激しく閉じられた鉄の扉がビリビリと震え、それが収まらない内に脱力したように身体から力が抜けて、上体が崩れ落ちた。斜めに倒れたそれは少しだけずり落ちはしたものの、扉を支えに上手く留まる。先程来た扉とは違う場所故に瀬人が追ってくる気配はない。

「……何やってんだろうなぁ。カッコ悪……」

 勢いのまま告白して、ドン引かれて速攻逃げ出して、めちゃくちゃ凹んでるオレって一体……。

 薄暗い屋上扉前の階段の踊り場で、城之内は深い絶望と共に吸い込んだ重い空気を深く深く吐き出して、首が折れそうなほど項垂れた。そうする事しか、出来なかった。

 遠くでチャイムが鳴る音が響いたが、彼は暫しその場から動けなかった。
 冷たい風が直接正面から吹き付けて来る。ほんの数分前まで目の前にいた風避けが消えてしまったから、酷く寒いと瀬人は思った。大分前に離されてしまった指先は、もう冬も終わりだと言うのに悴んでよく動かない。
 

『オレ、お前の事が好きなんだ。友達として好き、とかそういう軽い意味じゃねーぞ。ぶっちゃけて言えばキスとかエッチとかやっちゃいたいっていうそういう『好き』だ。そうだな、恋してるって言うと分かる?』

『だからっ!オレはお前が好きで!この年で好きっつったらイコールヤりたいって事だろ?!セックスだよ!』

『好きな奴が隣で無防備極まりない姿晒してんのを見て我慢できるかってんだ!だからオレは、このまま一緒に寝てたらいつかお前襲っちまうかもしんねーって思って、距離を置く事にしたんだよ、わかったか!!』
 

 城之内が逃げる様にこの場から姿を消してから数分間、一人残された瀬人は殆ど茫然自失状態でその場に佇んでいた。少し前に、まるでマシンガンの様に続け様に放たれた城之内の台詞が上手く頭に入っていかず、せめて大意だけでも飲みこもうと真剣に考えていたのだが、結局良く分からなかった。否、言葉としての意味は分かるのだが、理解が出来ない。

 確か昨日モクバにも「城之内は兄サマの事が好きなんだ」的な事を言われた気がするが、あの時は未だ良く分かっていなかったのだ。今もその実余り良く分からない。

 お前が好きだ、なんて台詞は何度も聞いた。そこは今更驚く事じゃない。けれどその好きが、所謂友愛としてのそれではなく恋愛的要素を持った好き、という意味だとは今日初めて知った。

 しかも、砂糖菓子の様な甘い恋心などという生易しいものじゃない。隣で寝ていたら襲いたくなるから眠れない、というレベルの話なのだ。これで驚くなという方が無理な話で、それを最初から分かっていたからこそ、城之内も「ドン引くかも」と前置きをして、漸くその真意を口にした。

 そして、予想通り瀬人が瞠目して黙り込んだのを見て逃げてしまった。逃げる位なら最初から言うな、と瀬人が思った時には、その姿はもう校内に消えていたのだ。そして、始業のチャイムが鳴り、今に至る。

 午後の授業は何だったか。確か美術だか音楽だかの教養科目だった気がする。他の必修科目とは違って出席率を重視する授業だったから、本当は学校に来ている時位顔を出さなければならないのだが、到底そんな気分にはなれなかった。けれど、ここは寒過ぎる。

 そう思った瀬人は、一人小さな溜息を一つ吐くと、重い足取りでゆっくりと歩き出した。とりあえず教室に戻って……今なら皆移動してるだろうから一人になれる筈で、手早く鞄を取って帰ってしまおう。どうせ今日は出席率を稼ぎに来た訳じゃなし、城之内と話も出来たのだから一応の目的は達成した。もう学校には用はない。

 屋上を出て薄暗い階段を一歩一歩踏み締めながら、瀬人は未だ脳裏にこびりついて離れない城之内の台詞を反駁し、また考える。未だに驚いてはいるものの、不思議とマイナスの感情は覚えなかった。これには瀬人自身も別の意味で驚愕した。他人に好意を向けられて、直ぐに反発や拒絶を覚えなかった事など無かったからだ。

 これまでも告白を受けた事は何度かあった。それが純粋な好意であれ、明確な下心を持った戯言であれ、その言葉を聞いた瞬間に嫌だと思った。興味がない、面倒臭い、そもそも他人から思われることが煩わしい。そんな感情が即座に沸き上がり、自分でも意識しない内に拒否を示す言葉が出ていた。それはもう条件反射と言ってもいい。

 けれど、さっきはそれが出なかった。本来なら「ふざけるな!断る!」と絶叫し、自分からその場を去る位はした筈なのに。
 

『兄サマが幾ら有り得ないって言ってもさ、普通の人はどんな理由があったって他人と一緒に寝るなんて事はしないものなの。オレだってした事ないよ』
 

 不意にモクバの言葉が脳裏を過る。あの台詞も聞いた当初は何がおかしいのか分からなかったが、改めて考えてみればなるほど妙な話である。家族でも恋人でも、ましてや友達でもない男と一つのベッドで抱き合って眠る。今まで全く意識などしなかったが、確かにそんな事は『有り得ない』のだ。一般常識的には勿論、瀬人独自の行動理論からしても、だ。
 

(……もしかしなくても、オレは城之内の事を『好き』なのか?『嫌』ではないのだからそうなのだろうな)
 

 その『好き』は、城之内の言う恋愛的意味を持った好きとは多少……否、大分異なる気がしたが、少なくても共に寝ても嫌悪は覚えなかった。鬱陶しいと思う事はあれど本当の意味で嫌だと思った事はなかった。と、言う事は……そういう事だ。

「……何を今更」

 そうぽつりと呟いて、瀬人はいつの間にか辿り着いていた教室の扉を引き開け、無人のそこへずかずかと入り込み自席に座ると、大して物など入れていない机の中に手を突っ込んで筆記用具やプリントその他を掴み取り、鞄へと押し込んだ。そして、教卓へと向かいいつもそこにあると知っている出席簿を取りだすと、自分の名の横に『午後2時早退』と書き添える。その足でさっさと教室を後にしようとした瀬人だったが、出席簿を元の場所に戻した後、暫し身体が止まってしまう。

 教壇がある為に他の席よりも一段高いその場所から、ぐるりと室内を見回した彼の視線が一所に留まった。前方に数種の辞書でバリケードがしてあり、見える部分には下らないラクガキが施されたその机は、考えなくても城之内克也の席で、移動教室故に慌てて出て行ったのか机上に乱雑にぶちまけられた机の中身が雑然さに拍車をかけている。

 その様を呆れたように眺めると、瀬人はふと思い立って胸の内ポケットに入っていたペンを取り出し、教卓の上のメモ用紙を一枚拝借してさらさらと何かを書き綴った。そして、徐に顔を上げ、教壇を降りると今しがた目を付けたその席へと歩いて行き、四つ折りにしたメモ用紙を中途半端に広げられた教科書の上に投げ捨てる。直ぐにも他の物に紛れてなくなりそうな位置だったが、特に気にはしなかった。

「………………」

 それを軽く一瞥すると、瀬人はくるりと踵を返し教室を後にする。

 しんと静まり返った廊下に響く教師の大きな声を聞きながら、彼はそのまま学校を後にした。
「歌のテストとかなんだよ。ありえねー!」
「僕苦手だから嫌だなぁ」
「たて笛ならプロ級だけどな、オレ。つかなんだよ城之内、机の上きったねぇな。中身全部ぶちまけてったのか?」

 5時限目終了後、音楽室から帰って来た城之内は暗澹たる気持ちを抱えて教室へと足を踏み入れた。一番最初に目を向けた海馬の席はその想像通り蛻の空で、脇に掛っていた鞄も既に無くなっていた。授業に出なかったという事は、あのまま自宅へと帰ってしまったのだろう。

 これは完全に嫌われたな、こうなるとは分かってたけど。

 そう内心呟いて肩を落としつつ自席へと戻ると、近くの席である遊戯と本田が散らかし放題の城之内の机上を見て即座に声を上げた。その声を内心鬱陶しいと思いつつ、城之内は些か乱暴な動作で椅子に坐り、机に山となっている教科書類とその上に積まれているプリント類を整理にかかる。

「……急いでたからよ。教科書奥に突っ込んでたから取り出すの手間取って」
「なんだよお前、今日はなんか元気ねぇな。そういや昼間海馬連れ出して何処行ってたんだよ。喧嘩でもやったのか?……あれ、つか海馬は?」
「喧嘩っつーか。なんつーか。どうでもいいだろ。いないんなら帰ったんじゃねぇ?邪魔だから散れよ!」
「おーこわ。男のヒステリーはみっともねぇぞ」
「うるせぇ!」

 お前らにオレの気持ちが分かってたまるか!

 そう内心叫びながら城之内は未だしつこく絡み続ける本田を追い払う為にしっしっ、と大きく手を振った。その瞬間。肘が教科書の端にあたり、ぐらりと乱雑に重ねられたそれが崩れる。

「あ、城之内くん、崩れる!!」
「え?!うわっ!」

 その様子を傍目で見ていた遊戯が咄嗟に手を出したものの、量が量故に間に合わず、机上の荷物はドサドサと派手な音を立てて床へと落下した。あーあ、という本田の声と共に周囲にいたクラスメイトの視線が一気にそこへ注がれる。

「あーもうムカつくー!」
「自業自得だろ、さっさと拾えよ」
「てめぇ、本田!手伝いやがれ!」
「やなこった」
「もう、二人とも喧嘩しないでよ。はい、城之内くん。ここに纏めて置いておくね。あ、そこにもあるから足元気を付けて!!」
「悪ぃな遊戯。後でジュース奢るぜ」
「いいよそんなの。えっと、これで全部かな。……あれ?」

 足下に散乱した教科書やプリントをその小柄な体を生かして素早く拾い集めた遊戯は、器用に両端を揃えると次々と机の上に戻して行く。そして最後に皺くちゃになった何時のか分らないプリントを手にして立ち上がろうとしたその時、丁度椅子の足下に小さく折り畳まれた紙が転がっている事に気がついた。

 不思議に思いそれを拾い上げた彼は中身の確認をしないまま、大雑把な動作で教科書を揃えていた城之内の目の前にずい、とそれを差し出した。

「うっわ、埃だらけになった。最悪…ん?どした?なんだこれ」
「これも椅子のところに落ちてたんだけど、城之内くんの?」
「さぁ、見覚えねーけど……ちっと貸して」

 鼻先に突き付けられた物体に一瞬面喰った城之内だったが、自分の足下に落ちていた物ならもしかしたら自分のものかも知れないと一応受け取り、まじまじと見つめてみる。几帳面に四つ折りにされた、B5ノートの4分の1位の大きさのメモ用紙。顔にはてなマークを張り付けたままさっさと中身を見てみようと端をつまんで開こうとしたその時だった。

「────っ?!」

 一瞬だけ見えた見慣れた文字に城之内は驚きの余り叫びそうになり、慌てて口の端を引き締める。そして即座にメモを学ランポケットの中に放り込んだ。その一連の動作に「どうしたの?」と言いた気な顔でこちらを見た遊戯に「オレのだった」と小さく応え、礼を言って自分の席に帰るようにと促す。

 タイミング良く次の授業開始のチャイムが鳴った為遊戯も傍に立って違う生徒と話していた本田も、自席へと帰って行った。すぐに授業開始の挨拶が行われ、教師の声が教室中に響き渡る。

「おいお前ら、週末に出した宿題はやって来ただろうな?授業の最後に回収するからやってこなかった奴は急いでやれ。カンニング及び間に合わなかった奴にはレポート付きの追加課題を出してやるからな、覚悟しろよ!」

 そんな教師の話を右から左へと聞き流しながら、城之内はつい今しがたポケットに忍ばせたメモ用紙を慎重に取り出して、今度は恐る恐る開いて見た。

 真っ白な紙にも関わらず少しも斜めになる事も上下に乱れる事のないその文字は紛れもなく海馬のもの。ただし筆跡鑑定をするまでもなく文末に『海馬』と記されていた為、先程城之内はメモを遊戯の視界から隠したのだ。

 驚きの余り暫くはその文字を眺めるだけで中身を見る迄には至らなかったのだが、改めて良く見てみた結果そこに記された内容に更に驚いた。あんな別れ方をした後で彼が自分に告げて来る事があるとしたら、十中八九自分にとっては手痛い内容であると思っていたからだ。

 けれど彼が城之内宛てに残したメモにはこちらが危惧していた要素はどこにも含まれていなかった。かと言って喜ばせるような言葉があった訳でもなかったが、そんな些細な事など全て払拭してしまうような、貴重な情報が記されていたのだ。
 

── いつでもいい。貴様の都合のいい時に家に荷物を取りに来い。念のため連絡先を書いておく。あくまで連絡用だ。無駄なメールも電話も断る。
 

 文面的には酷く事務的で素っ気ないものだったが、彼から進んで携帯の電話番号とメールアドレスを寄こした事。これは城之内にとっては何よりも嬉しい事だった。本当に自分の事を嫌ってしまったのであれば、例え必要だったとしてもこんなプライベートな情報を寄こす訳がないからだ。

(……これは、いい意味に捉えていいって事だよな?まだ諦めなくても大丈夫って事だよな?!)

 そう内心呟いて城之内は一人机の下でガッツポーズを決めると、早速携帯を取り出してメモ用紙に記された情報を登録した。一人だけ別フォルダに隔離し、厳重にロックをかけると、しばしその画面を眺めていた。

 連絡用に与えられたという事は、当然連絡を取っていいという事で、何時は駄目だと指定もされていない訳だから、今日これからでもいい筈なのだ。今日はたまたまバイトが入っていないし、放課後は自由だ。瀬人も学校へ来る位なのだから忙しくはないだろう。と、いう事は、海馬邸へ向かうのには丁度いい日なのだ。

 一度は逃げてしまったけれど、相手から誘われたのだとしたら話は別で。それが更なる恥の上塗りになろうとも、またもやもやとした日々を過す位なら白か黒かはっきりさせた方が気持ち的には落ち着くのだ。どちらにしても荷物を取りに行かなければならないし、それが何時になっても同じ事。今日でも一週間後でも何も変わる事はない 。

(よし、今日で全部決着をつけてやる!)

 瀬人のメモにより絶望状態から一気にやる気になった城之内は、即座にそう決意すると来るべきこれからの時間に備えて少しでも気力体力を温存しようと完全に寝る体制に入ってしまう。

 後に勿論宿題などやっていなかった彼は追加のレポートを出される羽目になるのだが、それでもその表情は最後まで曇る事がなかった。

 

6


 
「瀬人様、週末の会議の資料です。数ヶ所訂正がありましたので、差し替えて頂けますか」
「……そこに全て納めているファイルがある。勝手に差し替えろ」
「はい」
「………………」
「あの、目を通されないのですか?」
「何?」
「いや、その。いつもならその場で確認なさいますので」
「……ああ。いい、後で確認する」

 そう言って、瀬人は気の無い顔で目の前に差し出された書類の束を一瞥すると、机上に置かれたファイルを指差し今までずっと眺めていたディスプレイへと目線を戻した。それを不可思議な視線で見遣った磯野は、とりあえず指示通りに件のファイルを取り上げて不要な書類を抜き取ると、手にした訂正済みの書類と差し替えて静かに元の場所へと戻してしまう。

 その間瀬人は幾度も溜息を吐き、緩慢な動作でキーボードを叩いていた。何処となく覇気の無いその様子は常の彼からはまず見られない至極珍しいもので、故に磯野はいつもなら用件が済めばすぐ退出してしまうのだがその場に立ち止まり、暫くその様子を見つめていた。数分間そうしていても状態は一向に変わらない。むしろ磯野がそうしている事自体、瀬人は気付かない様だった。

「瀬人様」
「っ!……なんだ貴様まだそこにいたのか。何をしている。もう用件は済んだ筈だろう、下がれ」
「どこかお身体の具合でも宜しくないのですか?」
「は?何を言っている。別にそんな事はない。何故そんな事を言う」
「いつもとご様子が違うようですから。何となく……」
「様子が違う?どこがだ」
「あの、いえ。体調に問題が無いのならいいのですが」
「はっきり言え」
「は、はい!……ええと、少しぼんやりなさっているようで。集中されてないというか」
「………………」
「す、すみません!不躾に……!」
「いや、いい。そうだな。確かに集中出来てないのかもしれん。……今日は早めに帰る事にしよう」
「……はぁ」
「先程の資料については目を通した後、修正があれば追って指示する。貴様はラボに行って会議に使用する試作品がどうなっているか進行状況を確認して来い」
「かしこまりました」

 深々と頭を下げた後常なる機敏さで踵を返した磯野は、今度こそ退出しようとそのまま扉へ向かって歩き出す。そんな彼の背後では再び大きな溜息が一つ響き、緩やかなタイピングが再開された。

 やはり今日の瀬人はどこかおかしい。ぼうっとして、どこか遠くを見るような表情をして、時折大きな溜息を吐く等有り得ない。けれど、どうやら体調が悪い訳ではないらしい。幾らそういったものを隠すのが上手い彼でも、自分位の付き合いの長さになれば特に苦も無く見破る事が出来る。では一体、この状態はどういう事なのだろう。
 

 ぼんやりして仕事に手が付かず、溜息を繰り返す。

 これではまるで……まるで……?
 

「!……まさかそんな」
「なんだ!何を大きな独り言を言っている!」
「はっ、いえ!何でもありません!し、失礼しましたっ!」
「バタバタするな、見苦しい!」
「はいぃっ!」
 

 ── 恋を、しているみたいだ。
 

 

「………………」

 注意したのにも関わらず、バタンと騒々しく閉ざされた扉を瀬人は無言のまま眺めていた。完璧な防音処理が施されている壁越しには廊下の様子など分からないが、きっと磯野はあの調子のままギクシャクと言われた事をこなすのだろう。

 磯野にあれほどはっきりと指摘される様では世も末だな。そう密かに呟いて、瀬人は机上に置き去りにされたファイルに手を伸ばす。パラパラと大量の紙を捲り、付箋で印が付けられていた該当箇所に目を通してみるが、やはり全く頭になど入らなかった。

 眼前にあるディスプレイに流れるデータを見ても同じように視覚情報として捉えるだけで、内容を解するまでには至らない。こんな状態ではもう何も出来やしない、今日は駄目だ。そう漸く諦めを付けた彼は仕方なくシャットダウンを選択し、PCの電源を落としてしまう。

 しんと静まり返った室内に、再び小さく息を吐く音が響いた。

 自身がこうなった原因など嫌という程分かっている。昼間、城之内から投げつけられた言葉が切欠で気付いてしまった様々な事柄を自覚はしたものの上手く咀嚼が出来ない所為だ。どんな事であっても気がかりなものが存在すれば瀬人の集中力は半減する。それが仕事の事ならば切り替えが可能だが、プライベートに関する事となれば話は別で。更にその問題が未知の領域に関する事だからこそ、尚更混乱しているのだ。

 自分が城之内を嫌ではないからと言って、それが何の解決になるのだろう。確かに嫌悪なく共寝はした。特に何も考えずに風呂にも入った。でも、それだけだ。嫌じゃなかった、ただ、それだけで……。

『だからっ!オレはお前が好きで!この年で好きっつったらイコールヤりたいって事だろ?!セックスだよ!』

 キスとかセックスとか、急に言われてもピンと来る訳がない。自分は特にしたいとは……否、想像すらしなかったからだ。けれど、城之内はそれをしたいと望んでいる。それが叶わないなら近づかない、そう言って離れて行ったのだ。ただ寝るだけでは、もう我慢が出来ないから、と。

 ……そんな事を言われても瀬人にはどうしたらいいのか分からないのだ。そもそもまだ城之内に対する感情さえ曖昧で、やっと嫌いではないと気づいただけだ。凄く好きだとか、ましてや恋人へなどは到底考えられない。けれど、城之内を拒否した事で周囲から責められるのも煩わしい。

 部屋に再び溜息が零れ落ちる。こんなもの、幾ら考えたって答えなど出る訳がない。堂々巡りだ。そう思えば思う程うんざりしてくる。頭がそればかりを考える。どうにもならない。

「………………」

 瀬人は何もかもを諦めるように机上に広げていた書類を全て片付け、些か乱暴な動作で椅子から立ち上がる。そして帰宅をする為に近間にかけてあったコートを手に取り羽織ろうとした瞬間、不意に胸元に震動が走った。数秒で切れてしまったそれは多分、電話では無い。

 メールか。

 そう思い、腕を袖に通しながら内ポケットに納めていたプライベートの携帯を取りあげる。外側にある液晶ディスプレイを確認すると、そこに表示されたのはモクバの名前ではなく、見知らぬメールアドレスだった。少々不審に思いつつ、とりあえず確認しようと中を見る。そして、パチリという音と共に目の前に現れた画面を見た瞬間、その瞳が大きく見開いた。
 

『バイトが無いから今日お前の所に行く。オレの荷物捨てんなよ。 -- 城之内』
「お帰りなさい兄サマ!今日は早かったね!」
「ああ。ただいまモクバ」
「今丁度メイドに飲み物頼んだとこなんだ。兄サマも何か飲む?」
「そうだな、珈琲を」
「了解だぜぃ。ちょっと待ってて」

 瀬人が本日分の仕事を諦めて、社を出てから約三十分後。特にどこかに寄る事もせず真っ直ぐに帰った彼を笑顔で迎えたのは、先に帰宅してすっかり寛いでいたモクバだった。

 彼は出迎えと同時に勢いよく飛びついた瀬人の細い身体をまるで仕上げとばかりにぎゅっと強く抱き締めて、会話の通り追加の珈琲を頼むべく踵を返すと、すぐ近くにある内線のボタンを押して「兄サマにも珈琲お願い!」と元気よく頼み込む。

 その様子を視界の端で捉えながら、瀬人は脱いだコートを鞄と共にソファーの上へと放り投げ、自らも疲れた様にその隣りへと腰を降ろした。そして社で着替えて来た紺の学ランは脱がないままに、第二ボタンまで外した後疲れた様に大きな溜息を一つ吐く。緩やかに視線をあげると巨大なスクリーンにモクバが見ていたらしいアニメのエンディングテーマが流れている。

 許可を得てそれを夕方の国際ニュースに変えてしまうと瀬人はのろのろと立ち上がり、彼にしてはやや乱雑に扱ってしまった鞄や衣服をクロゼットにしまい込んだ。パタン、と言う音と共に再び小さな吐息が聞こえて来る。

 その一部始終を特に隠す事無く観察していたモクバは、明らかに普段とは違う瀬人の様子を不思議に思い、「兄サマどうしたの?」と素直に声に出してみる。しかしそんな弟の気遣いにも彼は相変わらずらしくない表情で別に、とだけ答えて元の位置に座り込んだ。その後手持無沙汰な様子で傍にあった夕刊を開いては見るものの、一向に読み進める気配がない。

 やっぱり何か変だ。

 そうすぐに確信したモクバは速やかに自らもソファーに戻り元々座っていた場所に腰を下ろすと、テーブルの上に広げていた課題を少し端に寄せ、改めて瀬人の事を見上げてみた。すると、漸くその視線を気にする余裕が出来たのか、瀬人が先に声をあげる。

「何だ。人の顔をじろじろ見て」
「あ、ごめん。だって兄サマなんかぼうっとしてるみたいなんだもん。何回も溜息ついてるし」
「溜息?そんなものついていたか?」
「ついてたよ。自覚ないの?
「いや、全然」

 余りにも飄々とした表情で瀬人がそう答えるものだから、今度はモクバの方が大仰な仕草で溜息を吐いてしまう番だった。そんなモクバの事を逆に不思議そうに眺めながら、瀬人は再び夕刊へと目を落とす。

 相変わらず動かない視線。その事に気付いてさえいないその表情に、モクバは心底疑問に思いつつ再び瀬人に話しかけようとしたその時だった。不意にいきなり意識した紺色に、はたとある事を思い出す。

(そっか、兄サマ学校に行って来たんだっけ)

 僅かに緩められた白い首元を眺めながら、モクバはなるほど、と一人心の中で呟いた。そう言えば今日は瀬人と「学校に行って城之内ときちんと話をして来る事」と約束をしていたのだ。それがどんなものであれ、どんな形であれ瀬人がモクバとの約束事を破る事など有り得ないから、彼等の間でなんらかの話し合いが行われた筈なのだ。それが彼にとってプラスに作用したのかマイナスに作用したのかは分からないが、現在の瀬人の不可思議な状態は多分その事が影響しているのだろう。

 お前が好きだとか、好きだから『したい』んだとか、同じベッドに眠っていたらいつ理性の箍が外れて襲ってしまうか分からないとか、城之内がダイレクトにその事を告白したのだとしたら、瀬人にとってはまさに衝撃としか言い様がないだろう。

 大体城之内が自分の元へ通うのはふかふかのベッドが目当てだとずっと思い込んでいた位なのだ。一応それは違うとモクバが手助けをしておいたのだが、他人に言われるのと本人から直接聞いたのとでは多分全く違うだろう。

(流石の兄サマも引いちゃったかなぁ、やっぱり)

 チラ、と再び瀬人の顔を盗み見る。常と同じ無表情からは彼のどんな感情も一切読みとれないが、少なくても何も感じていないという事は無い様だった。一体、城之内の言葉は兄にどんな影響を及ぼしたのだろう。この件に関して少なからず首を突っ込んでしまった身としては、結果が気になって仕方がない。これはやはり直接本人に聞いた方が分かりやすい。そう思ったモクバは一人良く分からない決意を胸に、なるべく瀬人と近い視線で話が出来るように身を伸ばした。そして出来るだけ何気ない風を装って口を開く。

「ねぇ兄サマ。今日、オレとの約束守ってくれたんでしょ。城之内とはどうなったの?」
「……約束?」
「あ、もしかして忘れてたの?!昨日の夜兄サマと指切りしたじゃん。城之内ときちんと話をして、あいつを家に連れて来いって」
「……ああ、そうだったな」
「で、どうなったの?」
「どうなったとは?」
「えっとだから……その……」

 城之内と『あいつが望む形』で一緒に寝る気になったの?それともきっぱり嫌だと断ったの?

 そう言いかけて、モクバは何となく口を噤んでしまった。幾ら何でも話す事が出来る仲のいい兄弟だからと言って、その手の話を堂々と持ち出せる程モクバは無遠慮では無かった。これが城之内相手なら幾らでもあけすけに訊ねる事も、言う事も出来るのに、相手が瀬人だとどうしても一歩引いてしまう。彼がこういう話に疎い分、余計にだ。

 そもそも今まで好きな子がどうの、という話すらした事が無かったのだ。いきなりキスだのセックスだのを持ち出したら、今度こそ瀬人は固まってしまうかもしれない。彼の性的知識や経験を疑う訳ではなかったが(経験に関して言えば『ないだろう』と断言出来そうな気はしたが)、今までの言動から考察するにその方面に関してはかなり稚拙な印象がある故に、どう表現したらいいのか分からないのだ。

 そういう所が兄サマの可愛らしい面ではあるんだけど……それに振り回されている人間がいる以上、そんな悠長な事を言っている場合じゃない。ああでもやっぱり。

 そんな風にモクバがぐるぐると悩み続けて数分、考えれば考える程どうしたらいいか分からなくなり、ついにはどうでも良くなってきた彼は、もう何でもいいから聞きたい事を単刀直入に聞いてやろう!という方向に無理矢理自身の気持ちを落ち着けて、言葉を選べば大丈夫!と強く思いながら再びはっきりと口を開いた。

「城之内の『恋人』になる気になったの?」
「恋人?」
「そう!言われたでしょ?好きだって!」
「確かに、好きだとは言われたが……恋人?」
「ちょ、兄サマ。城之内の『好き』の意味、ちゃんと教えて貰わなかったの?あいつは……」
「キスとかセックスとかをしたいんだろう?オレと」
「……はっきり言っちゃってるし。そうそう。だからそれって恋人でしょ?」
「そうなのか?」
「世間一般ではそう言うのを恋人って言うの!!」
「……なるほど。だが凡骨はそんな事は一言も言わなかったぞ。オレの事が好きで、我慢が出来ないから、ごめん。とただそれだけだ」
「なにそれ」
「オレが聞きたい」
「……城之内も中途半端だよなぁ。そこまで言ったんなら兄サマの気持ちまでちゃんと確認すればいいのに」
「………………」
「で、最初に戻るけど。兄サマはどうなの?城之内とエッチしてもいいなぁって思えるの?」
「いや、思えない」
「え?!やっぱり……それって城之内の事が嫌だから?確かにあいつ、男だし、凡骨だし」
「そうではない」
「じゃあどういう事?」
「どういう事って……よく分からん。そんな事を突然言われた所で直ぐに承諾や拒絶が出来るか」
「……ああ、そこかぁ」
「普通はそうだろうが」
「そうだよね……兄サマは、そうなんだもんね」

 そう、そうなのだ。城之内にとっては長い時間をかけて温めた愛の告白だったとしても、瀬人にとってはそれこそ寝耳に水の話で。突然「お前が好きだった、だからヤらせろ」なんて言われた所でどうしたらいいのか分からないのは当然の話だった。

 モクバもほぼ城之内側についていた所為で肝心の瀬人の事が疎かになっていたが、よくよく考えてみれば彼の主張は至極当然の事だったのだ。

「そっかぁ。兄サマは、まだスタートラインにも立ってないんだもんね」

 それじゃあ無理な話だよ。駄目駄目。

 そうモクバが柔らかな声で口にして、笑いながら肩を竦めたその時だった。

 不意に軽いノック音が部屋に響き、次いでメイドのきびきびした声が響く。

「瀬人様。城之内様がおいでになりました。こちらにお通し致しますか?」
「えっ?城之内、家に来たの?」
「ああ、いい。居間に通しておけ」
「かしこまりました」

 直ぐに静かになった扉の向こうを殆ど茫然と眺めながら、モクバは問う様に瀬人を振り返る。その見ようによっては酷く可愛らしい表情をゆっくりと見返して、瀬人は幾分気を引き締めた様な眼差しで、静かに一言こう言った。
 

「ともあれ、お前との約束は守ったぞ。これから、もう一度話をしてくる」

 

7


 
 久しぶりに訪れた海馬邸は、やはり至極居心地が良かった。

 門の所にある最新技術が駆使されているらしいインターフォンのボタンを押して「城之内ですけど……」と口にした瞬間、賑やかな歓喜の声と共に「お待ちしておりました!」と馴染みのメイドから全開の笑顔を向けられた事にも驚いたが、玄関に辿り着いた時にはもっと驚いた。

 何故なら瀬人の一介の友人(と言えるかどうかも微妙だが)である筈の自分を、海馬邸の使用人達が家の主人宜しく総出で出迎えてくれたからだ。一体何事かと疑問に思う暇もなく口々に浴びせられる好意的な言葉の数々にすっかり面喰ってしまった城之内は、その場を取り繕う様に金髪をかき混ぜながら「えーっと、海馬に会いに来たんだけど」と簡潔に言葉を発して、その後の自らの身の置き場を指示してくれる様に頼み込んだ。

 そして現在は居間に通され、温かな飲み物と菓子を振舞われるに至っているのである。

「瀬人様はただいまモクバ様と共に私室にいらっしゃいます。もう少しだけお待ち下さいませ」
「あーうん。ていうか、今日はオレ、勝手に来ちゃって……一応メールはしたんだけど、返事来なかったし。海馬、怒って無かった?」
「瀬人様がですか?いいえ」
「そっか。ならいーんだけど。……あんな事言った後だし、もっと日を置いた方が良かったかなぁ」

 はぁ、と小さな溜息を吐いて、城之内は何かを誤魔化すように目の前に差し出された珈琲カップを取り上げて、良く冷ましもせずに一口飲んだ。結構な熱さのカプチーノが舌と喉にひりひりとした痛みを連れて喉奥へと流れて行く。気にせずそのまま二口目を口にして、彼は再び同じ仕草をしようとして留まった。何故なら、そんな城之内の事を目の前に立つメイドがじっと眺めていたからだ。

「……あの、ええと。なんかオレの顔についてます?」

 何時もなら用事を終えるとさっさと部屋を後にする彼女の意外な行動に城之内は一瞬戸惑い、つい声を上げてしまう。自分はそんなにじろじろ見られるような格好をして来ただろうか。今日は学校帰りに真っ直ぐここに来たから制服を着たままだし、外で喧嘩等も当然していないから髪に乱れも無い筈だ。別段変わりは無い気がするのに、どうして彼女はじっとこちらを見るのだろう。

 そう不思議に思い素直にそのまま口にも出すと、件のメイドは一瞬はっとした表情を見せた後「すみません」と頭を下げて一歩下がった。けれど、その視線はやはり城之内から外される事は無い。やっぱり、何か変だ。手にしたカップはそのままに思わず彼女をじっと見返してしまった城之内は、もう一度同じ質問を投げつけてみようと口を開きかけた、その時だった。

「……私がこんな事をお尋ねするのは不躾だと分かってはいるのですが……城之内様、瀬人様とは仲直りなさったんですか?」
「え?仲直り?……なんで?」
「城之内様がここ最近こちらに顔をお見せにならなかったのは、瀬人様と喧嘩をなさったからなのでしょう?」
「海馬と、喧嘩?」
「はい。私どもは皆そう思っておりました。あの瀬人様の事ですから、きっと意地をお張りになって、だから拗れて長引いているんじゃないかって」
「あー……はは。……なるほど」
「でも、こうして城之内様が訪ねて来て下さったという事は、無事仲直り出来たという事ですよね?それとも、これからですか?」
「こ、これからっていうか、なんていうか……」
「どちらにしても私達はお二方が仲良くして下さらないのは寂しいので、今日は本当に嬉しかったんです」
「嬉しい?」
「ええ。モクバ様も同じ事を仰って。なんとかならないかって私達に零していた位ですから。でも、これで一安心ですね」
「………………」
「これからも瀬人様を宜しくお願い致しますね。城之内様」
「よ、宜しくって。あの!」
 

 いつの間にかオレ等公認になっちゃってんの?!本人達を差し置いて?!

 つーか今更だけど海馬の相手がオレって事になんで誰も突っ込まないんだよ!喜ぶ所じゃないだろ、宜しくじゃねーだろ?!おいっ!!
 

 そう城之内が心の中で絶叫するよりも早くにこりと優しい笑みを見せた彼女は、今度こそ退出するべく深々と頭を下げてさっさと部屋を後にしてしまう。一人残される形となった城之内は、今のやりとりの間に大分冷めてしまったカプチーノの残りを一気に煽ると、力なくカップをソーサーに戻して天を仰いだ。

 言われてみれば、最初からこの屋敷の使用人達は自分には好意的だった。表立っては何も言わないけれど、まるで自宅の様にしょっ中顔を出す自分の事をいつでも温かく出迎えてくれて聞きもしないのに瀬人のスケジュールを事細かに教えてくれた。邸内で城之内が快適に過ごせるように心配りもしてくれた。何時まで待っても瀬人が帰って来ない夜、そんなに忙しいならと、諦めて帰ろうとした時は、引き留めてさえくれたのだ。

 良く考えなくてもあれだけ頻繁に通っていればそう思われても仕方がない。実質証拠はなくても物的証拠や状況証拠さえあれば、事実は勝手に捏造される。瀬人はそれを大いに嫌がってはいたものの、否定するには余りにも証拠が残り過ぎたのだ。この家に徐々に増えて行く己の私物に、ある種の幸せを感じたのは嘘ではない。

 少し前までは『そう』取られているのならむしろ都合がいいと思っていた。いずれはそういう関係になりたいと心底望んでいたのだし、その為の手段として少々卑怯だと思いつつもこんな手を使ってしまったからだ。

 けれど、今は酷く戸惑いを覚える。認められていた。むしろ歓迎までされていた。嬉しい筈なのに、なんだか悲しい。何故なら、周囲にどんなにそう思われていても、当の本人から認められなければ意味がないからだ。

 状況証拠だけが作り出した、まやかしの恋人関係。まだ自分達は意志の疎通すらなっていない間柄だと知ったら彼女等は一体どう思うのだろうか。

(切ないよなー)

 両手を組んでテーブルに肘をつき、その上に額を乗せて軽く俯く。瀬人がどんなつもりで自分がここに来るように仕向けたのかは分からないが、真剣に対峙するのは多分これで最後なのだ。

 つい数時間前に向けられた、酷く驚いた顔が忘れられない。先程、メモを見つけた時に感じた僅かな希望や喜びは今や完全に消沈していた。これからここに姿を現すだろう彼が自分に見せるのはあからさまな嫌悪の表情か、それとも……?

 あぁ、と知らず苦悩の声が口から漏れ出てしまう。待っている時間が酷く辛い。何でもいいから早く来てくれよ、そう思い顔を上げて入り口扉を睨みつけたその時だった。

 小さなノックと同時に閉ざされたそれが勢いよく内側に開く。そして。

「城之内!」

 大きく部屋に響いたのは瀬人のそれではなく、甲高いモクバの焦った様な大声だった。
「モ、モクバ?!お前なんだよいきなり!」
「久しぶり!兄サマだと思った?ごめんごめん。オレが先に話したくってさ。兄サマにはちょっと待って貰ったんだ」
「そ、そうか。ならいーんだけど。オレ……」
「ストップ!時間ないから単刀直入に話すけど。お前、兄サマに全部言ったんだな?」
「え?……ああ、言ったけど」
「最終目的も、ちゃんと言った?」
「さ、最終目的?エ、エッチしたいって奴?」
「違うッ!あーでも違わないか。って、そうじゃなくって!『兄サマとどういう関係になりたいか』ちゃんと言ったのかよ?」
「どういう関係って。キスとか、そういう事をしたいって……」
「だーかーらー!それを何て言うんだよ?相手が好きで、キスとかエッチとか出来る関係をなんていうの?」
「恋人、かな」
「そう!それっ!お前、兄サマの恋人になりたいんだろ?!だったらそこをちゃんと言わなくちゃ。兄サマ、それを分かってないんだよ!」
「えぇ?!嘘だろ?」
「嘘じゃないよ。だってあの兄サマだぜ?分かる様に説明しなくちゃ理解出来る訳がないじゃないか。後ね、お前は前から兄サマの事を好きだったかもしんないけど、兄サマは今日それを知ったんだよ。だから凄く戸惑ってる」
「………………!」
「その辺、考えてあげてくれよ。大体、お前が順番をめちゃくちゃにしたからこうなったんだからな。そう言うのを一つ一つクリアしていけば、ちゃんと分かってくれると思う。兄サマもきっとお前の事、好きだと思うし」
「……そう、かな。なんか海馬、引いてたみたいけど」
「ちゃんとそれも兄サマに聞いた?オレが嫌なのって」
「や、聞いてないけど」
「じゃあ聞いてみろよ。この件に関してはオレもメイド達もそうだったけど、お前達が付き合ってるって思いこんで盛り上がったのは悪かったと思うよ。反省してる。確かめもしないで勝手に決めるのは良くないんだよね、やっぱり。それって、なんでもそうだと思うんだ。……だから」
「……分かった。ちゃんと確かめる」
「うん」
「ごめんな、モクバ」
「なんで謝るんだよ、変な奴」

 まぁ後はお前が頑張るしかないんだけどね。

 そう言って、突然の来訪者は痛い位の強さで城之内の肩を一つ叩くと、くるりと踵を返して速足で帰って行く。そして、開け放したままだった扉の取っ手に手をかけて軽く引きながら、最後に笑顔を見せてこう言った。

「オレ、お前と兄サマが恋人になるのは大賛成だよ。他の奴等も皆そう思ってる。『思いこみ』が『本当』になるのをずっと待ってた」
「……モクバ」
「ちなみに、メイド達がなんでお前を認めてるかって言うと、『彼女』だと嫉妬するからなんだって。女って分かんねーよな!」
「えぇ?そんな理由?!」
「城之内」
「うん?」
「兄サマを、宜しく頼むな。泣かせたらオレが殴るから」

 パタン、と小さく扉が閉まる音がする。同時に遠ざかって行く足音に、城之内は暫し茫然と空を見ていたが、やがて苦笑と共にガシガシと髪をかき交ぜて声を上げた。

「泣かせねーよバーカ!」
「……モクバとの話は済んだのか?」
「うん。じゃなかったらお前ここに来ねーだろ」
「何を、話したのだ」
「内緒。男同士の話」
「……男同士?」
「いいから座れば?オレが怖いならあっちに座ってもいいよ。扉だって開けたまんまでかまわねぇ」
「貴様が怖い?何故だ」
「怖くねぇの?じゃーいいけど」

 モクバが部屋を出て行ってから数分後。多分彼に声をかけられたのだろう瀬人が静かに居間へと姿を現した。常と同じ無表情の白い顔は、部屋に入る時も、その中央のソファーへ座る城之内の側に近づく時も至って平静で動揺の欠片も見られない。

 普通ならあんな直接的な事を言われた後で、それになんらかの感情を抱いていたとしたら、こんなに無防備にかつ平然とした態度で同じ空間に二人きりでいる事など出来ないだろう。

 ああ、でも、こいつは『あの』海馬だったっけ。

 友達とさえ呼べない相手と簡単にベッドを共にして、なんの躊躇もなく素肌を晒してしまえる。世界一の常識知らずの鈍感男。そんな奴が自分のたった一言二言で変われる筈などないのだ。大体、意味を理解さえしていないかもしれない。だからこそ、今ここにいるのだろう。

 キシリ、と皮が擦れる音がして、手を伸ばせば触れられる距離に座る長身。その姿を横目でチラリと盗み見ながら、城之内はゆっくりと口を開いた。

「お前。昼間のオレの話、ちゃんと聞いてた?」
「ああ、聞いていた」
「意味も、しっかり理解した?」
「まぁ、大まかなところは」
「……それで?お前はどう思う?」
「……どう、とは?」
「さっき言い忘れたけど、オレ、お前と恋人になりたいんだ。ぶっちゃけて言えば付き合いたい。そう言う意味でキスとかセックスとか言ったんだけど。……後は、さっき言った通りだ。最初からオレはお前が好きで……」
「………………」
「お前がそういうの嫌だとか気持ち悪いとか、そう思うんなら今ここではっきり言ってくれ。オレだって嫌がってる奴相手に無理強いするほど馬鹿じゃねぇ。今までだって、お前が一回でも嫌だって言ったら止めるつもりだった。変な事してるなって自分でも分かってたし。でも、お前は……」

 一度だってマジな顔して嫌がった事なんか無かった。

 そう言おうとして、城之内は口を噤んだ。それはあくまで城之内の主観であって瀬人側の見解ではないからだ。まただ、また勝手に決めつけてしまう。それはしてはいけない事だと、たった今自分でもそう思い、モクバにも言われたばかりなのに。

 仕方なく城之内は瀬人の言葉が出るまで沈黙を守るしかなかった。そうしないと先に進めない。ずっとここで勝手な憶測を胸に立ち止まったままだ。

 そんな城之内の事を、瀬人は真っ直ぐに見返した。そして、心の中でこう思っていた。

 確かに、自分は今まで一度も城之内の来訪を厭った事は無かった。真の目的が分からなかったにせよ、一人では広すぎるベッドの半分を占拠された所で特に不都合は無かったからだ。オプションとしてむやみやたらに懐かれてしまったが、それすらも別段気には留めなかった。

 勿論最初は戸惑いもした。何故こんな事をするのだろうと疑問に思ったりもした。けれど、だからと言ってやめろと言う気もなかった。嫌では、なかったからだ。

 嫌ではない。

 もう何度その言葉を心の中で反駁しただろう。嫌ではないからいいのだ、とも言いたく無かったが、逆説的に考えればきっと良かったから止めなかったんだろう。どんなレベルであれ相手に好意を持っていたからこそ許せたのだ。きっとそうに違いない。

「オレは……貴様の事が嫌いではない」
「今までの事全部聞いてもその言葉が言えるのかよ」
「ああ」
「じゃあ、恋人になれる?」
「………………」
「一緒のベッドに入って寝るだけじゃなくって、セックス、出来る?」
「……今は」
「今は?」
「出来る気がしない。良く分からん」
「うん」
「でも、出来るようになるかも知れない」
「そっか」
「可能性は、ゼロじゃない。だから、セックスは置いておいて……」
「恋人は、OKって事?」
「貴様の言う『恋人』はセックスも付随するのではないか」
「まぁ、確かにそうなんだけど、例外もありって事で。恋人になってすぐしなきゃなんねーって事もないだろ」
「だが、我慢が出来ないんだろうが」
「うん。でもオレお前に言わせれば犬だから。『待て』ってちゃんと言って貰えれば何時までだって待てるぜ。今までは待ても何も無しでただ餌が目の前にあったから、食べちゃいたい!って思っただけで」
「……言い得て妙だな」
「だから、お前さえはっきり意志表示してくれれば、オレはきっとお前の望むままに動くと思う」
「オレの意のままに?」
「……今までは結構オレに好き勝手させてくれたから、今度はお前が好き勝手出来る番。でも期限は三ヶ月な。オレだって三ヶ月だったんだから、妥当だろ」
「……妥当か」
「その前にどうしても無理だったら、潔くサレンダーしてお願いしちゃうかもしれないけど。でも、頑張るから。ね?オレと付き合ってよ。お前が突っ返そうとした荷物、まだここに置いといてもいいだろ?」

 それまでとは一転して、嬉しそうに滲み出る笑みを隠しもしないでそんな事を口にする城之内に、瀬人は自らも口元に笑みを掃いて「そうだな」と呟いた。

「今までと大して変わらない気がするが……まぁいいだろう」
「マジで?!嘘じゃねぇだろうな?」
「……こんな時に嘘を言ってどうする。何か不満があるのか」
「いやいやいや。不満なんてとんでもない。嬉しくて死にそうです」
「では死ね」
「……お前ってほんと可愛くないのな。襲っちまうぞ」
「そんな事をしてみろ。本当にあの世に送ってやる」
「それは勘弁。……あー、じゃあさ。セックスは我慢するとしても……キスは?」
「キス?」
「キスならしてもいいだろ?優しくするから」

 キスに優しいも優しくないもあるのか?

 城之内の言葉を聞いて反応したのはその部分という所が瀬人が少し常識とはずれている所なのだろう。

 そんな彼を尻目に、城之内は自分からそう問いかけた癖に返事を待ちもしないで緩やかに立ち上がる。そして僅かな距離をわざとゆっくりと歩き、目線だけは瀬人の反応を伺う様にじっとこちらを見つめていた。

 嫌なら嫌と言えばいい。瀬人は彼が目でそう言っている事を珍しく敏感に察したが、実質嫌ではなかったので黙っていた。身動きすらしなかった。

 少し荒れた両手が緩やかに瀬人の肩を包み込む。

「返事がないって事は、OKって勝手に受け取るけど」
「好きにしろ」
「いいのかなーそんな事言っちゃって。案外先にサレンダーするのはお前の方だったりして。抱いて欲しい〜って言わせてみたい」
「ふざけるな、馬鹿犬」
「なぁ、今日一緒に寝てもいい?久しぶりにお前のベッドで一緒に寝たい」
「我慢出来るならな」
「うん、頑張る。まぁ、キスはしちゃうかもしれないけど」

 その言葉を最後に、二人は暫く言葉を発する事をしなかった。

 長いファーストキスの後に、瀬人が城之内に身体ごと強く抱き締められて呼吸すらままならなかったからだ。初めての意味のある抱擁は、それまでのものとは少し……否、大分違っているような気がした。
 

「好きだぜ、海馬。オレは、お前が好きだ」
 

 その言葉を耳にしながら瀬人は、既に置いたデッキに手を翳したい気持ちで一杯になった。

 勝負は最初からついていたのかもしれない。

 ……そして、それは城之内も同様だった。
 

『サレンダー』
 

 彼等の口からその宣言が出るのは、そう遠くない未来の話。
 

 それまでは温かなベッドの中でただ抱き締め合って眠る事が、二人の最上の幸せなのだ。


-- End --