Extra バレンタイン・キス(Side.城之内)

 その姿を視界に捉えた刹那、オレは一瞬目を疑った。

 既に夜が訪れて、暗闇の中にふわふわとした雪が舞うその中で……あいつはただ黙ってそこに佇んでいた。

 10年前のバレンタインの日。

 あの日も、海馬はオレを待って園の門の外に立っていた。両手をポケットに突っ込んで、酷く寒そうな格好をしている癖に顔はどこまでも無表情で、ただじっと、オレの事を待っていた。あの不味いカカオ99%のチョコレートを隠し持ち、素っ気無い別れ話をする為に。

 ……時が戻ったのかと思った。オレは一人、あの10年前の今日にタイムスリップしちまったんじゃないだろうか。そんな馬鹿な事を本気で思ってしまう程、この光景には概視感を感じた。だって、少し距離を置いてそこにいる海馬の姿は、あの日と変わらなかったから。10年という年月は海馬を何一つ変える事はなかったんだ。

 そしてオレも……特に変わった所は無い。変わりたいと思わなかったから、変わり様が無かった。好きな女も出来なかった。オレの誰かを愛するという感情は、あの日からずっとこの冬の空気の様に冷たく凍っちまって、溶ける事無く今も心の奥底で眠っている。どんなに足掻いても、オレの力じゃ溶かす事なんか出来なかったんだ。だから、他の誰かに気持ちが向く事も無かった。

 当然だよな……諦められなかったんだから。
 今でも、オレはあいつの事が好きなままだ。

「……海、馬?」

 大きく息を吸い込んで、目の前にいるその姿をしている男の名を呼んでみる。奴は余りにも無反応で微動だにせずオレを見ていたから、もしかしたら幻なんじゃないかと不安になった。オレが一日も忘れずに思い続けて、そろそろ限界に近づいて、全財産投げ打ってでもアメリカまで乗り込んでやろうと考えていた矢先に現れたんだぜ。そう思うのも仕方無いだろ?

 ……なあ、何とか言ってくれよ。
 そうじゃないと、信じられねぇよ。

 声に出さずにそんな事を呟きながら、オレは海馬の反応を根気強く待った。もう10年も待ったから、後少し待つ位はどうって事ない。それ以上は……待てないけれど。

 オレの声に海馬は一瞬顔を歪め、何をどう応えたらいいか躊躇している様だった。吐く息が白く闇に溶けて、それだけでその姿が幻じゃないって分かったけれど、やっぱり少しだけ怖かった。手を伸ばして触れてしまえば幾度も見た夢の様に、ホワイトアウトして消えてしまうんじゃないだろうかと、そう思って。

 もう一度、名前を呼ぶ。けれど、やっぱり反応は無い。

 仕方なくオレは自分の足で、立ち尽くす海馬の元へと歩んでいく。一歩一歩、うっすらと降り積もった雪を踏みしめる様に、ゆっくりと近づいて行く。元々室内から出て来たという事と、暖かなダウンジャケットともう何年使ったか分からないマフラーと、そしてオレ自身海馬を目の前にして自然と沸き起こる感激や興奮とで一気に急上昇した体温の所為で、凍えそうな程寒いマイナスの気温の中にいるというのにオレは背中に汗をかいていた。

 オレと海馬との距離は歩数にして20歩位。その20歩を、複雑な思いを噛み締めつつ歩いていったオレは、未だ無言で佇んでいる海馬の元に漸く辿り着く。腕さえ伸ばせば確実に届く位置だ。海馬は相変わらず男の癖に女みたいな白いコートと、高級そうな薄いマフラーを巻いて視線をオレから外さずに立っている。

 もう一度名前を呼んだ方がいいのか、それとも何も言わずにただその存在が嘘じゃないか確かめるべく抱き締めてしまった方がいいのか、オレが暫し悩みながら戸惑っていると、不意に視界が白く陰り、身体に軽い拘束感を感じた。何、と感じる間もなくそのまま強く抱き締められる。

 安っぽいジャケットの表面がギュ、と妙な音を立て、オレの鼻を随分と懐かしい香りが擽った。額にもさらりとした髪の感触。雪に濡れてかなり湿っていたそれはひやりと冷たい。

 何の前触れも無しにオレにそんな真似をしたのは、それまで微動だにせずオレを見つめていた海馬だった。こいつは一言も声を発さずに、ただ縋る様にオレを抱き込む腕の力を強めて来た。

 いてぇよ。そんなに強く掴まなくてもオレは逃げていかねぇよ。

 余りにも強い腕の力にオレは思わずそう言ってやろうと思ったが、生憎唇は海馬の肩口で塞がれていて思う様に開く事が出来なかった。

 仕方なく、オレは唯一自由な両腕で同じ様に海馬の背中を包み込むと、柔らかく、けれどもしっかりとその身体を抱き締めた。
 

 雪まみれで、酷く冷たい、10年ぶりのその身体を。   
「お前、本当に『今』の海馬なんだろうな。余りにも変わりがなくて気持ち悪ぃんだけど」
「何を訳の分からない事を言っている」
「あ、でも目ぇ悪くなっただろ。こっち見てた時、すげぇ怖い目つきしてたし」
「……最近は眼鏡をかけっぱなしにしている」
「やっぱり。だからあんまり目を使い過ぎるなって言ったろ。一度視力落ちると戻らないんだぜ。言う事聞かないからそうなるんだ」
「何故オレが別れた男の言う事を聞いていなければならないんだ」
「可愛くねぇ。だったら何でその『別れた男』の所にまた顔出したんだよ。10年もあっちに逃げてた癖に。今更どの面下げてここにいんの?」
「………………」
「結婚でもする気になった?もう33だもんな。いい加減身を固める気になったろ」
「それは貴様だろう。この10年何をやっていた。貴様はオレに再三子供が欲しい、子供が出来たら立派なデュエリストにしたいとほざいていただろうが」
「あぁ、そんな事言ってたっけ」
「……ああ」  

 園の近くにある、昔は良く海馬と二人で通っていた小さなカフェ。

 過去の指定席だった窓際の隅の席に静かに向かい合ったオレ達は、互いに好きだったものをそれぞれ注文した後、暫く黙って相手の胸元を見つめていた。

 オレは一人になっても相変わらずここに通っていたから、すっかり馴染みになったマスターと、一人しかいないお姉さん……というには少々年齢が厳しいウェイトレスはオレが最近の定席になっているカウンター席に座らない事に少しだけ驚いて、オレの後に続いて入って来た海馬を見て更に驚いた。

 お久しぶりね、と声をかけて来る彼女の笑顔に海馬はほんの少しだけ表情を和らげて、そうですね、と答えていた。その途端彼女の視線がオレに向き、口元の笑みを深くした。その笑みにオレは至極複雑な気分になる。

 彼等は海馬の事を勿論知っていて、奴が『あの』海馬瀬人だという事も知っていた。こいつが突然社長を辞任して弟にその椅子を譲り、表舞台から一時的に姿を消した時はオレよりも大騒ぎしていたっけ。オレと海馬との関係は元クラスメイトだとしか紹介していなかったけれど、海馬と妹の静香以外の人間をここに連れて来た事はなかったし、派手な痴話喧嘩をした事も一度や二度じゃないから、なんとなくただの友達ではない事位知っていたんじゃないかと思う。

 現に海馬がオレと別れてアメリカへ行っちまって、一人でこの店に来る様になった時、彼等はそれとなく失恋した人間に見せる独特の優しさをみせてくれたし、今もまたどうみても祝福的な眼差しをこちらに向けている。まだどうなるかまるで先が見えないのに気が早すぎる。こいつの事だから、現在の自分の幸せっぷりを報告しに来たのかも知れないじゃないか。

 大体こいつ、こんなナリして伯父さんなんだぜ。弟の娘……一回だけ見た事があるけど何故か海馬にそっくりの小生意気な美少女で、来年オレの保育園に入るとか言ってさ……世界有数の大企業、海馬コーポレーション社長のご令嬢が、町立の安い保育園に入るとか、よく考えると凄い事だ。全く持って有り得ない。

 あぁ、でも海馬やモクバだって公立の童実野高校卒業だっけ。親がそうだから別に変じゃねぇのか。って、そんな事はどうでもいいんだけど。

 ……参ったなぁ。やっぱりここにするんじゃなかった。話がやりにくくてしょうがねぇよ。

 けれど、ここ以上に二人の話が出来る所をオレは思い出せなくて、結局出されたカフェオレに手を伸ばして、懐から煙草を取り出して火を付けた。

 保育士になった時に酒や煙草は絶対にやらねぇって誓ったけど、やっぱり一人の寂しさの前には勝てなくて、本当に時折だけど癖でこうして吸ってしまう。けれど子供に「克也先生臭い」と言われるのも悲しいからその辺は上手くやってる。

 そんなオレの姿に、それまで本当に一言も喋らずにそこにいた海馬が始めてゆるりと顔を上げ、凄く嫌な顔をして開口一番こう言った。  

「煙草はやめろ。馬鹿になる」  

 …………一体誰の所為でこんなもんに金を払う生活になったのか余りにも分かっていない無神経な発言にオレは、ついにカチンと来て「うるせぇよ」と吐き捨てちまった。再会してすぐ喧嘩なんかしたくねぇのに、一瞬にして過去の自分を取り戻したオレはついやっちまった。ヤバイ、怒鳴られるか?と即座に身構えたオレだったが、海馬から帰って来たのは、短い小さな溜息一つだけだった。

 そして、オレ達は冒頭の会話を始める事になる。  
 ゆらゆらと揺れる紫煙の向こうで、青い瞳が余りにも威圧的にこっちを睨んで来るものだから、オレは仕方なくまだ三服しか吸っていない煙草を灰皿で揉み消して海馬を見た。 徐々にクリアになってくる視界にはっきりと見えるその顔は、本当に……何一つ変わりがなかった。

 オレは元々童顔で昔から「年相応に見えない」と会う人会う人全てに言われ続けて、それでも30を超えたらそれなりに変化が出てきたのか、「若い」と言う言葉も余り聞かれなくなって来た。自分でも、あーちょっとオジサンになったかなぁなんて思ってしまう。まぁ、それでも30には見えないって言われるけど。

 けれど海馬は……こいつの場合は逆に昔は妙に大人びててガキには見えなかったけれど……マジで『変わってない』。10年前の写真をどこからか引っ張り出して来て見比べてみれば気持ち悪いほどそのまんまだっていう事が絶対に分かるだろう。

 まさに年齢不詳だ。何なんだこいつ。

 本当に同じ環境下で生きているのかと思う程生白い肌の色も、少し不機嫌そうに見える整い過ぎたその顔も、社長業をやめて研究員となり日々小難しい研究を重ね、昔よりは大分手先を使う労働をしている筈なのに、全く荒れ知らずの長い指先も何もかも。オレの記憶の中のこいつと寸分たりとも違いがなかった。

 海馬の中ではあの日から時が止まってしまったんじゃないだろうか。そんな馬鹿な事を真剣に考えられるほど、目の前の姿は昔のままだった。

 その時オレはふと思った。 
 じゃあ、その中身は?中身も、昔のままなのだろうか。と。  

 ……オレの中身は……いや、心の中は、ずっと昔のままだった。今でも目の前に座る海馬の事が凄く好きだし、ブランクなんてまるで感じない程愛しいと思う。許されればさっきの様に手を伸ばして思い切り抱き締めたい。キスがしたい。……抱きたい。何も変わらない。変わらないからこそ、この店に一人で通い続けた。他の誰かとここに来たいなんて思わなかった。

 ……そんな事、思いすらしなかった。
 

『ガキってさーすっげぇ可愛いよな。馬鹿でおっちょこちょいで生意気でもさ、凄く可愛い。ああいうの見てっと、オレも子供欲しいなーって思ったりするよ。男でも女でもさ、有能なデュエリストにしたいとかさ、夢みちゃったりして』

『オレは、子供なんか欲しくない。必要ない。 将来的に捨てられる位なら、オレが今捨ててやる』
 

 オレと海馬が別れる切欠になったのは、今海馬が口にした「子供」というたった一つのキーワードからだった。

 オレが職業に保育士を選ぶほど根っからの子供好きで、事ある事に職場での体験談やら、ガキが夢の話をするみてぇに口にしていた「オレも子供欲しいかも」という話を海馬にしていたら、海馬はオレがその夢を叶える為には自分の存在が邪魔なのだろうと思い込んで、別れるという決断を下してきた。

 即断即決。そして、一度決めた事を覆すという事を何よりも嫌う性格だったから、奴は直ぐにオレを切り捨てて、自分が振り向けない様に、そしてオレが追いかけて来れない様に、生きる場所までも変えてしまった。

 今思い返しても当時のあいつは凄いと思う。きっと万事が万事あの調子で今日まで生きてきたんだろう。でも、安心した。今はあの時のような苦しさと悲しみで押しつぶされそうな顔はしていない。

 それだけでも、本当に良かったと思う。

 あの時のオレは……凄い陳腐な表現だけど、本当に若かったんだと今では思う。自分だけ毎日が凄く楽しくて、その楽しさに浮かれたまま、口にする言葉が相手にどんな影響を与えるかも考えもせずに、本当に気軽に海馬に話をしていたんだ。

 話だけじゃない。こいつに対する何もかもがそうだった。今が永遠に続くと思っていて、失うなんて考えもしなかったから、腹が立てば酷い事も平気でやった。

 勿論後で反省して謝ったけれど、幾度か同じ事を繰り返した。要するに、何も分かっちゃいなかったんだ。でも、悪いのはオレばかりじゃない事を海馬もちゃんと分かっていて。だからこそオレを責める事無く、静かに、けれどきっぱりと別れを告げて来たんだと思う。

 ……海馬は別れたくて別れた訳じゃない。それは当時でも良く分かっていた。

 けれど、あの時はそうするしかなかったんだろう。しなくてもいい我慢を勝手にしたのは海馬だったけれど、その我慢を強いてしまったのはオレだったから。あのまま一緒にいてもきっと駄目になっていた。今だからこそ分かる事だったけれど。

 この10年。オレは色々な事を考えた。与えられた自由を最大限に生かそうとも考えた。

 海馬に笑顔で話していた通り、結婚して、子供を作って有能なデュエリストにして……の夢物語もやろうと思えば何時だって出来たと思う。自慢じゃないけど、オレは女にはモテる方だったから相手がいない訳じゃなかった。望めば何時だって手に入れる事が出来た。

 けれど、いざ自由になり、その『夢』を叶えられる段になって急にオレの中からその『夢』を叶えたいという意思が消えてしまった。何人か付き合ってはみたものの、どれもイマイチしっくりこなくて、こいつの子供が欲しいなんて思える奴なんて一人もいなかった。そのうち彼女すら欲しいと思えなくなり、いつの間にかその夢自体が夢ですらなくなった。何もかもが、虚しくなった。

 子供は相変わらず可愛いと思う。

 仕事をしていると最高に楽しい。けれど、自分の子供が欲しいという願望は、もう無かった。その変わりそれ以上に強く湧き上がったのは、海馬への思慕の念だった。

 オレはやっぱり海馬が好きで、海馬がいるなら他には何もいらないと思える程好きだった事に気がついた。けれど海馬はオレといるのが辛いから別れると言う決断を下したんだし、今更オレの方からやり直したいと持ちかけても迷惑なだけだろうと、敢えてオレから連絡を取ろうとはしなかった。

 それでなくても海馬は社長職を辞してからというもの、本当にやりたかった研究に没頭出来て、守るべき存在だったモクバは無事結婚して子供まで出来て弟離れし、晴れて完璧に自由の身になって。海馬だってオレと同じ様に海馬なりの夢を持っていたのかもしれないと、そう思って。

 オレにはああ言ったものの、時間の経過と共に考えも変わって、子供が欲しいと思える様になっていたら、尚更オレから声をかけるべきじゃない。そう考えたら余計に何も出来なくなった。

 オレに残された選択はただ一つ。この思いを抱えながら一人で生きて行く事だけだった。

 そんな時に、ずっと恋焦がれていた相手が昔と何一つ変わらない様相で目の前に現れたら……どうしたらいいか分からなくなる。相変わらず無表情でオレをじっと見ている海馬の顔からは何の想いも読み取れない。

 会話は途切れたきり、次への糸口を見つけ出せないでいた。

 

2


 
 カチャリと目の前の白いソーサーの上に同色のカップが触れ合う音がしたと思った瞬間、目の前の表情が僅かに動いた。微かに眉を寄せ何かを堪える様に視線を伏せるその仕草は、オレの知らないものだった。

 紡がれた台詞も相まって酷く切ない気持ちになったオレは、海馬につられる様に視線を落としてしまう。そしてカップの底にまだ数センチ程残っているカフェオレを見つめ、それに手を伸ばそうか否か、そんなどうでもいい事を考えていた。

 硬く引き結ばれた唇は微かに歪んでいて、嘲笑を浮かべていた。それは勿論こいつ自身に向けられたもので、寄せられた眉と相まって酷く痛々しい表情を作り出している。オレの脳裏にずっと焼き付いて離れなかった表情。今にも泣きそうな、けれど決して泣かない苦しい顔。そんな顔を見せる位なら、思っている事全部ぶちまけて欲しいと何度思った事だろう。

 沈黙が、重い。
 海馬はまだ口を開かない。その事に僅かに苛立つ。

 そういえば、あの時のオレもこんな風に海馬が何も言わない事に苛立っていた。何を言っても、何をしてもただ黙って受け止めるばかりで自分の気持ちなんて何一つ口にしない。昔はそうじゃなかったのに。どんなに些細な事でも文句を言って、喧嘩して、時には殴り合ってでも分かり合おうとした。分かり合えなくても「仕方ないこいつはこういう奴だから」とお互いに受け入れて上手くやっていた。そこにストレスは存在しなかった。

 それが何時の間にか大人になって、大人特有の諦めと忍耐をこいつは先に身に着けてしまって。相変わらずガキだったオレはそれに気がつけなくて。歪みが出来て、同じ視線で見つめ合えなくなって、その視線すらかわされて、最後には目の前からいなくなった。いなくなってから初めてその事に気付いたけれど、それではもう遅過ぎて。

 大事な物は失ってから気付くなんて下らない言葉を若い頃は鼻で笑ったりしたものだけど、あの時は本当にそれを痛感した。涙が出る位に、辛かった。

 今こんな事を考えるのも馬鹿馬鹿しい事だけど、あの時海馬が抱えていたその悩みを一言でも口にしてくれれば、オレはこいつを無駄に悲しませる様な事はしなかったと思う。確かに子供が欲しいとは思っていたけれど、その事とお前の存在を天秤にかける様な事はしない。それとこれとは別問題で、お前を捨てて誰か他の女と結婚して、望みを叶えようとかそんな事は思ってない。そう言ってやれたかもしれないのに。

 将来的にはどうなるかは当然分からなかったけれど、あの時点では確実にそれは言ってやれた。 けれど多分、海馬は今その時の事だけじゃなくて、将来までも見据えて考えていただろうから、仮にオレの言葉を聞いても同じ決断を下したのかもしれない。

 でも、それでも。

 少なくともあそこまで思い詰める事は無かったんじゃないか。……そう、思う。思いたい。それは殆ど願望に過ぎなくて、今更どうにかなる事でもなかったけれど。
 

「……この、10年の間、オレはずっと貴様の事を忘れていた」
 

 オレが沈黙する海馬を静かに見つめながらそんな事を考えて僅かに唇を噛み締めていた時、不意に奴が口を開いた。店内に流れるクラシック音楽に紛れる様に密やかな声で紡がれたそれは、オレにショックを与えるに十分な言葉だった。
 

 ── 忘れて、いた。
 

 ……オレの事を忘れていたという事は、やっぱりそれだけ辛い思いをしたからなんだろう。何もかもをかなぐり捨ててアメリカに行っちまったお前だから、新天地にまでその辛さを持っていく気にはならなかった、そういう事だ。そして、あっちで時を重ねていく内に、お前の中のオレは完全に『忘れられ』て、思い出されもしなかったんだ。

 ああ、だからお前から連絡が無かったのは、一度だけ会ったモクバが、お前の事を尋ねたオレを少し気の毒そうに見返したあの視線の意味は……そういう事があったからなのか。別に片時も忘れなかったと言って欲しい訳じゃなかったけど、何でわざわざそんな事を言って聞かせるんだろう。

 こいつはオレに10年前の仕返しでもしたいのだろうか。

 ただそれだけの為に別れたその日を選んで寒さの中立ち尽くして、オレを待ってたとでも言うのだろうか。だとしたら、それこそ下らない笑い話だ。洒落にもならない。

「……じゃあ、なんで日本に……童実野に戻って来たんだよ。全部捨ててアメリカに行ったんだろ?忘れてたんだろ?オレの事なんか。だったらどうして……!」
「思い出したからだ」
「……え?」
「忘れたものを全部思い出したから。いや、本当は忘れてなんかいなかったんだ。忘れようと自分に言い聞かせ、忘れたと思い込んでいただけだった」
「海馬」
「本当は……オレは何一つ、捨てる事が出来なかったんだ」

 自分から捨てた癖に、そう最後に呟くと海馬は再び口を噤んだ。何時の間にかカップから離れた手はテーブルの上で硬く組まれ、かなり力を込めて握り締められていた。白い指先が血液を失ってますます白くなっていく。

 なんだか話が矛盾している。忘れていたと言った口で、本当は忘れてなんかいなかったと言うお前。……一体何なんだよ。何が言いたいんだよ。相変わらずお前の言ってる事は訳分かんねぇんだよ。オレにも分かる様に説明しやがれ。

「……意味が分かんねぇんだけど。お前、何が言いたいの」
「………………」
「また直ぐ黙る。お前って本当に……変わってねぇのな。あのな、今だから言うけど、オレ、お前のそういう所にマジムカついてたんだぜ。お前はそういう奴じゃなかっただろ?もっと我侭で煩くてヒステリックで、些細な事でブチ切れて、オレを殴ったりしてきただろうが。やられっぱなしじゃ無かっただろ。それがどうしてそんなに大人しくなっちゃったんだよ。物分りが良くて大人しいお前なんてお前じゃねぇよ」
「……そうか?」
「そうだよ!ああもう面倒くせぇな。で、何?何だって?お前が人でなしのオレの事を捨ててアメリカに行った後、綺麗さっぱり忘れたつもりだったけど、実は忘れられなくて?即断即決のお前の事だからまたこうして会いに来たとか、そういう話?」

 いつまでも煮え切らない海馬の態度に、それまでのもどかしさも相まって一気にキレてしまったオレは、思わず立ち上がってつい数分前まで真剣に、そして真面目に考えていたあれこれも全部どこかに行ってしまって、勢いのまま思った事をよく考えもしないで海馬に投げつけた。口調すら、昔に戻って。

 オレのまるっきり勝手な想像から出来上がったその話に、海馬は驚いた様に目を瞠ったままオレを見上げた。その表情では当たりなのか外れなのかさえ分からない。

「どうなんだよ。何とか言えよ」

 ただ単に懐かしくて顔を見に来たのか、今現在の近況を話しに来たのか、そもそも日本には一時帰国しただけなのか、それすらも分からなくて。オレは募る焦りと共に海馬を見つめる眼差しを鋭くしていく。……こういうのが駄目だって分かっているのに、やっぱりオレは10年経っても余り変われない。そんな最悪な事実だけを身を持って知っていく。

 また沈黙が続く。海馬は長い間オレの目から目線を外さずに何かを考えている様だった。そして、やがて奴の中で何かが固まったのか、テーブルの上で組んでいた手を外し懐に手を入れる。程なくして再びオレの前に現れたその手の中には……意外過ぎるものが握られていた。

 コトリ、とテーブルの上に置かれたそれを目にした瞬間、オレは絶句する。

「……こ、れ。携帯じゃねぇか。あの時の!」
「あぁ、そうだ。オレが持っていた携帯だ」
「なんでこれがここにあるんだよ!捨てたんじゃなかったのか?使えねぇもん持ってたってしょうがねぇだろ?!なんで?」
「だから言っただろう。捨てられなかった、と」
「携帯を?」
「……貴様に対する、全てを、だ」

 奥歯を噛み締める様に、最後の方は篭った声でそう言った海馬は、そこで初めてオレから視線を反らせてしまう。その手が触れているのは、今となっては大分古めかしいデザインの、マリンブルーの携帯電話。持っていたのが海馬だからこそなのだろう。10年経った今でも新品みたいにピカピカで、直ぐにでもまた使えそうな程綺麗だった。

 電源がつくというから、海馬に許可を貰ってそれを取り上げて中を開く。懐かしい起動音がして指先で操作すれば、古いディスプレイの感触やら見慣れたメールボックスやらが次々と現れて、それを何気なく開いたオレは、今度こそ本当に……驚愕した。

 そこには、全て残されていた。

 海馬の携帯がこれに変わってから、オレと別れるまでのメールが全てそのまま……10年前の記憶が丸ごとそこには残されていた。間隔が徐々に空いて行く送受信記録。オレが怒りのままに海馬に送ったメール。ごめん、という短い一言。気にしてない、の素っ気無い返事。そして、最後に海馬がオレに送り付けて来たスクロールバーが見えない程の長い別れのメールまで……全て。

 その時に何を思い、感じ、憤った感覚までリアルに蘇って来るようなその「記録」に、オレは暫し没頭した。

 海馬はこれを抱えたまま、10年という月日を一人で過ごしていたんだ。服の内ポケットという最も体に近い場所に常に収めて。オレの事なんか捨てたんだ、忘れてしまったんだと自分に言い聞かせながらこんなものを大事にしていたなんて馬鹿みたいだ。本当に、訳が分からない。

「……どうして、捨てなかったんだよ!」
「オレは『貴様』以外何も捨てるとは言ってなかっただろう。貴様が勝手に捨ててやる、と言ったんだろうが」
「屁理屈言うな!お前がオレを捨てた癖に!嫌いじゃねぇのに、別れようって言った癖に!」
「……あぁ、そうだな」
「ほんっとうにお前はずるい奴だよ!」
「そんなもの、最初から分かっていただろうに」
「分かってたよ、嫌って程な!でも、好きだったんだ!死ぬ程好きで、別れるなんて考えもしなかったんだ!」
「けれど。貴様は子供が欲しいと言った。幾らオレでもそれは叶えてやる事は出来ない。ならば取るべき道は一つだろう。違うか?」
「何もお前を捨てるなんて言ってなかっただろ?!」
「いずれはそうなるのなら同じ事だろう?だからオレは」
「オレの意思も確認しねぇで勝手にそう思い込んでただけだろ!口に出すのと、実際に行動するのとは別の話じゃねぇか!」
「口に出したという事は、考えの中にあるという事だろうが!」
「そうだけど、でも!」

 ……マリンブルーの携帯を挟んで、オレ達は10年前にしなければならなかった喧嘩を今ここでやり始めた。全く、どっちも救えない位の大馬鹿野郎だ。どうして、こんなに簡単な事を昔のオレ達は出来なかったんだろう。お互いの考えをちゃんと口に出して、何も隠さないで感情のままに怒鳴りあって、分かり合って。きつく睨み合う互いの目から真意を読み取ろうと必死になる。今なら何の躊躇もなく出来ているこの事を、何故……。

「……どうして、それを10年前に言わなかったんだよ。お前はずっと黙ったまんまで、オレに何も言わねぇで……まともに喧嘩も出来ねぇで終わっただろ?今更こんな事でやりあったってしょうがねぇだろうが」
「今は?」
「何?」
「今は、どうなのだ。昔の事はいい。今の貴様はどう思っている」
「どう思ってって…」
「今でもまだ子供は欲しいか、結婚願望はあるのか……オレは、それを知りたくてここまで来た」
「……ある、って言ったら、お前はどうするんだよ」
「今度こそ貴様にはっきりと別れを告げて、アメリカに帰る」
「無いって言ったら?」
「………………」
「そんなものはもう無いって言ったら、お前はどう答えるんだよ!」

 オレが一際大きくそう叫んだ瞬間、少し離れた席で朗らかな笑い声が聞こえて来た。オレ達が隅の席でこんな喧嘩をやらかしていても、周囲はそれに気付かない程自分達の話に夢中になっているようだった。それに少しだけほっとして、オレは海馬を強く睨んだ。

 海馬はそんなオレの視線から一歩も引かないで、軽く瞬きを繰り返した。見あげる青の瞳はやっぱり綺麗に澄んでいて、そう言えばこいつのこの目に惚れたんだっけ、とそんな更に古い記憶まで呼び起こしつつ、オレは海馬の次の言葉を待っていた。

 そして、数秒後。
 海馬は至極はっきりした声で、オレにこう言ったんだ。
 

「日本に戻って、貴様とやり直したい」
 オレは一瞬息を飲んだ。

 ……今、こいつ何て言った?オレと……やり直したいとか、言っていなかったか?10年前にオレに別れを告げた時と全く同じ調子で同じ声色で、ただ淡々と一言、そう呟いて。あの時はオレにそう言った後、辛そうに顔を歪めて視線を反らせちまったけれど、今はまるでオレを射抜く様に何処までも真っ直ぐな視線を投げつけて来て、澄んだ青に映るオレの戸惑った顔が微かに揺れている。

 その刹那、オレは目の奥から熱いモノが込み上げて来て、それが溢れてしまうのを堪える為に強く唇を噛み締めなきゃならなかった。その所為で、海馬の言葉に直ぐに反応が出来なかった。

 この瞬間を、オレはもう随分長い間待っていた気がする。一度は捨てられてしまったけれど、やっぱり諦め切れなくて、けれどもどうしたらいいか分からなくて、寂しい一人の時間を持て余しつつただ日々を過ごしていた。澄んだ青が一段と綺麗に見える快晴の日には何気なく空を見上げて、この空の向こうにいるだろうこいつの事をずっと考えてしまって泣きたくなった。

 そう、泣きたくなったんだ、今みたいに。苦しくて。

「オレ、お前が好きだ。ずっとずっと好きだった」
「ああ」
「これからも、ずっと好きだと思う。多分、一生」
「……大きく出たな」

 こみ上げてくる衝動を何とか奥に押さえ込んでそれでも震えてしまう声で、オレはなんとか海馬にそう言った。そんなオレの言葉に少しだけ苦笑しながら、やんわりと茶化す海馬の顔が少しだけ滲んで揺れる。ここが公共の場じゃなければ手を伸ばしてその身体をしっかりと捕えてしまいたかったけれど、それも目の奥の熱と共にぐっと堪える。

 好きだ。

 海馬と別れてから一度も口にしなかった言葉。この言葉だけは、他の誰にも向けた事はない。考えてみれば、あの後誰と付き合っても告白なんてものはした事がなかった。軽い意味の「好き」は子供相手に安売りしていた。『先生、あたしのこと好き?』甲高い声で投げつけられる言葉に、ちゃんと同じ言葉で返してやらないとぐずって泣く子もいたからだ。

 でも、大人には、女には、他の誰にも……好きだなんて言わなかった。言うつもりもなかった。

 その事を海馬に告げたらどういう顔をするだろう。下らないとか女々しいとか、そう言って罵られてしまうだろうか。でも、何て言われたっていい。お前から向けられる言葉は別れ以外ならなんだってオレは在り難く受け止めたいんだ。今の、オレは。

「だから、オレもお前とやり直したい。……いや、オレの場合はやり直しなんかじゃない。お前と10年前の続きをしたいんだ」

 声の震えを悟らせないよう、少し強めの口調で一息に吐き出したその言葉に、海馬は一瞬目を瞠り、ほんの僅かに眉を寄せた。どこか困ったような戸惑ったようなその表情に、オレは何か失言でもしたのかと今の自分の発言をもう一度頭の中で反駁しようとしたその時、答えは海馬から直ぐに教えられた。何時の間にかテーブルの上の海馬の手が再び強く握り締められている。

「続き、は嫌だ。あんな日々の続きは、もう……」

 溜息と共に吐き出され、最後は掠れて周囲の雑音に紛れる様に消えてしまったその声。

 ……そうか、オレにとっては他愛のない日々だったけれど、海馬に取っては10年前のあの日々は凄く苦しんだ時期でもあったんだ。徐々にすれ違っていく気持ちに苛立って、海馬に向かって投げつける声は荒くて刺々しいものばかりになって。それと呼応する様に殆ど暴力じみた抱き方をした事もあった。

 オレは海馬の事を……海馬が何故オレに対して距離を置き始めたのかその理由を知ろうと一生懸命になっていたつもりだったけれど、半分は就職したばかりで好きな仕事に就けた嬉しさからその事にも夢中になっていて、それが両立できなくて訳が分からなくて余裕がなくて、互いに涙を流していたあの日々。

 ……確かにあんなものの続きをしたいとは思えないだろう。当たり前だ。
 ああ、だから『やり直したい』なのか。何もかもを、最初から。

「……ごめんな。あの時は、本当に悪かったと思ってる」
「別に、謝らなくてもいい。オレも悪かった」
「今度はああいう事にはならねぇ様にするから」
「そうだな」
「お前もだぞ。言いたい事はちゃんと言え。我慢するな。一人で勝手に全部決めんな。オレだって馬鹿じゃねぇんだから、ちゃんと話してくれれば考えるから。答えを、出すから」
「……その答えがオレの望むものと合わなかったら?」
「喧嘩しようぜ。どっちかが折れるまで、徹底的に。昔はよくやりあっただろ。アレ、一種のストレス解消なんだぜ?アレがないと調子狂っちまうよ」
「……喧嘩をするとオレに負けるからしない、と言ったのは貴様だろうが」
「今度は負けて勝つ方法も身に付けたんだぜ。大人になるっていい事だよな。そうだろ?」

 そう。オレ達は、もう十分過ぎる程大人になった。大人にならなくちゃいけなかったんだ。子供のままで全てを誤魔化して繋がろうとしても上手く行く筈もなかったんだ。凄く長い10年だったけれど、そう考えるとオレ達には必要な時間だったのかもしれない。

「最初からやり直そう、海馬。リスタートだ」
「以前の設定は、残したままか?」
「ああ。最強の剣と最強の防具は持ったままでやり直し。すげぇだろ」
「子供じみた例えはやめたらどうだ」
「お前も乗ってきた癖に。……とりあえず、スタート地点に帰ろうか。ゲームで言えば王様のいるお城。現実で言えば……オレの家に」
「貴様の家……?」
「お前の実家、既にモクバ一家に乗っ取られてるんだろ。お前の住むとこ、オレの家しかねぇじゃん。そうだろ?」
「べ、別に貴様の家に転がり込まんでも住む場所位幾らでも……!」
「却下。お前はオレのとこに来るの。来なきゃいけねぇの。もう離れてるの嫌だから」
「………………」
「オレ、子供はもういらねぇけど。それ以外の我侭は全部通すつもりだから。覚悟しとけ」

 そう言い切ってしまうとオレは直ぐにテーブルの上にあった海馬の手を素早く掴んで、ぎゅっと強く握り締めた。周囲の喧騒は既に遠く、甲高い笑い声さえも何時の間にか聞こえなくなる。今のオレに見えるのは海馬の顔だけで、感じるのは握り締めた指先の少し冷たい体温だけだ。ただ、それだけ。でも、それ以外はもう何もいらないと思った。

「じゃあ、始めから。オレはお前の事が……」
「少し待て、凡骨」
「な、なんだよ。しかも凡骨呼ばわりかよ。そこまで戻る事ねぇだろ」

 オレが10数年前に戻ったつもりで、最初から……それこそ学生時代、一番最初に好きだと告げたあの時の様に、もう一度海馬に告白しようとしたその時だった。突然海馬はオレの口元に空いている方の手を伸ばして言葉を遮ると、徐にその手で奴が着て来たコートのポケットを探り、何かを取り出す。そしてゆっくりとそれをオレの前へと差し出した。

 いかにも高級そうな漆黒に金のラインが入った包装紙に銀のリボンでラッピングされた……小さな箱。手に取ると、思ったより軽い感触。

 何、と聞くよりも早く、海馬は少しだけ目線を反らせて、やや早口でこう言った。

「今度は、『本命』のチョコレートだ。モクバが言うにはリキュール入りで、結構美味いらしい」
「えっ、ちょ……」
「今日は、バレンタインだろう?」
「ああ、そうだけど……だからってお前これマジで……えぇ?!」
「好きだ、城之内」

 驚いて口をぱくぱくさせるオレの事なんかまるきり無視で、海馬はもう二度と言わないだろうその言葉を物凄くさらりと口にして、口元に本当に微かな笑みを浮かべた。

 それは、オレが今までに見た事が無い程幸せそうな笑みだった。

 余りの不意打ちにその幸せを良く噛み締める事が出来なかったオレは、海馬に向かってもう一回!と必死に頭を下げてみたが、海馬は二度と今の笑みも好きだの台詞も口にしてはくれなかった。

 けれど、未だ握り締めたままだった右手を反転させて、強くオレの手を握り返してくれたんだ。

 

3


 
「……寒いなぁ」
「二月だからな。モクバの話では、今年は余り雪が降らないと言っていたが?あの子……瀬奈が、雪だるまが作れないと言ってかなり憤慨しているとか。去年はこちらに来て楽しんでいったようだがな」
「あーそうそう。ここ最近ずっと雪少なくてさースキー場とかも大分苦労してたみたいだ。これだって初雪みたいなもんだし。でも、この調子だと積もるかな?」
「どうだろうな」
「お前、もしかしてアメリカから雪まで呼んで来たんじゃないだろうな。器用な奴」
「人を雪おこしみたいに言うな」
「しっかし瀬奈ももう保育園かー早いなー。あいつなんかお前に似てすげー生意気でさ、顔は可愛いのに中身が超可愛くねぇでやんの。教育間違ってるってモクバに言っとけよ」
「貴様が直接言えばいいだろうが。親との交渉は得意だろう」
「モクバには幾らでも言えるんだけど……あの人はどーもなー……苦手系」
「奇遇だな、オレもだ」
「なんだよ弟の嫁にビビッてんじゃねーよ」
「人の事が言えるか。その内海馬邸に呼んでやるからな」
「ちょ、勘弁してくれ。『お兄さんを嫁に下さい』とかやんのかオレは!」
「多分、散々叱られると思うがな。オレ共々」
「お前もかよ!」
「アレはオレの母親に雰囲気が似ている。モクバはよくは知らないだろうがな」
「……へぇ」


 話題に上った、モクバの愛妻である超美人な『あの人』を思い浮かべながら、オレ達はさくさくと何時の間にか靴が半分埋もれるほど降り積もった雪の中を二人で進む。しんしんと雪が降り続ける静かな夜の裏道で、オレ達はどちらともなく手を繋いで身体を寄せ合って歩いていた。

 十年前の今頃は確か海馬とずっと立ち話をして、何処までも平行線を辿るそれに嫌気がさして、「もう帰ろう」って呟いた後、並んで歩きながらもこんな風に寄り添う事はしなかった。海馬邸までの長い距離を苛立ちと寂しさと虚しさを抱えて、一言も言葉を交わさず目線すら合わせないままただひたすら歩き続けた。
 

『なぁ、キスしようぜ』
『それは、恋人がするものだろう?』
『もう、そうじゃないっていうのかよ。これからセックスするっていうのに』
『恋人じゃなくてもセックスは出来るだろうが』
『……ひでぇ言い方』
『事実だろう』
『ま、そうだけど』
 

 キス一つしなかった、バレンタイン。
 もう恋人じゃないのに抱き合ったあの日。

 次の日から別々の道を歩く事を見据えながらそれでも直ぐに諦めが付かなくて、最後に一回抱かせてくれって頼み込んだ。海馬はその夜のこれからをオレに選べと突きつけて来た方だったから、そんなオレの我侭にも特に何も言わずに頷いた。頷いたけれど、もうキスはさせてくれなかった。
 

 恋人じゃなくても、セックスは出来る。
 

 まるで何かの本を朗読する様に淡々とそう言った海馬の言葉を、後にオレは嫌という程実感した。実際あの後オレは恋人でも何でもない女と、まるで陳腐な「愛してる」の言葉を免罪符にセックスをした。

 その時は確かに気持ちいいと感じたし、それなりに満足もしたけれど、やっぱりそれは一瞬の事だった。後に残るのはいつも寂しさと遣り切れなさがない交ぜになった虚しさばかりで、いつしかそんな事もやめてしまった。

 心が伴わないセックスならどこか店でやったって同じ事だ。けれど、残念ならオレにはその余裕が無かった。だから、自然と遠ざかった。

 そんな事を考えながら海馬の手を強く握り、あの日の海馬邸に行くよりももっと長い距離をゆったりと歩く。本当は電車を使って帰る距離だけど、歩いて帰れない事はないからオレは歩く事を提案した。別にそんな回りくどい事をしなくても今夜は……いや、今日からはずっと海馬と一緒にいられるけれど、なんとなくこんな時間をゆっくりと噛み締めたいと思ったんだ。

 話したい事は沢山あった。聞きたい事も沢山あった。十年という月日はよく考えなくても半端なく長い時間で、その間にどれだけの事がお互いに起こったのか、それを知るだけでも一苦労だろう。けれど、それだってこれからの時間に比べたら多分一瞬みたいなもので、そんなに焦る必要もないと思った。

 本当は質問攻めにしたい位オレは海馬の事を知りたかったけれど。海馬はオレが話しかけないと、自分から積極的に教えてなんかくれないんだ。これは昔からそうだったから、もう諦めるしかない。根気強く、機嫌を損ねない程度に聞き取り調査をしていくしかないんだ。凄く面倒な事だけど。でもそんな事も、今のオレにとっては楽しみの一つでしかない。

「お前はさ、あっちで恋人とか作ったの?」
「恋人?」
「うん。だってお前だって男だろ。やっぱどうしようもなくなる時あるじゃんか」
「そうだな」
「で、どうなんだよ」
「どう答えて欲しい?」
「はい?」
「ずっと貴様だけ思い続けて恋人を一人も作れなかったと言って欲しいのか。恋人は作らなかったがセックスはしていたと答えればいいのか。それとも本当は恋人がいて結婚まで考えたが、結局貴様が忘れられなくて破局したのだ、とか。どれがいい?選ばせてやる」
「ちょ、それって選ばせるもんじゃねぇだろ。事実を言えよ」
「聞いてどうする?嫉妬でもして見せるか?」
「……お前ってやな奴だな。ちなみにオレはごく一般的な成年男子でしたから?それなりに遊びましたよ。一時は子供欲しいかなって思って、真面目に考えた事もあったし。でも、やっぱそんな気にはなれなかった」
「そうか」
「オレはちゃんと言ったぞ。お前は?」
「………………」
「お前は、どうだったんだよ」

 白い息を吐きながら歩く振動で揺れる横顔をじっと見つめ、オレは比較的真面目にそう問い詰めた。海馬は暫く無言で前を見たまま特に反応もしないで足を動かしていたけれど、不意に目の前に現れた大通りに面する信号で立ち止まった際に、ぽつりと小さな声でこう言った。

「オレは特に……そういった事はしなかった。元々興味も余り無いしな。そんなものに意識を向ける間もなく仕事に没頭していたし、その気になれば……一人でどうとでも出来た」
「えっ」
「残念だったな。嫉妬できる機会を失って」

 最後に耳元でそう言って、意地悪気にくすりと笑ったその横顔に嘘は無かった。同時に吹きかかった海馬の暖かな息が耳朶を掠め、なんだか身体が熱くなる。……こいつ、さらっととんでもない事を言いやがる。つーか一人でとか、お前……オレにそれを想像させんのか。ありえねぇな。

「……お前、最悪だ」
「何がだ。貴様の質問に答えてやっただけだ。それで何を想像しようが、オレの知った事ではない」
「そういう事言ったって事は、覚悟出来てんだろうな、おい」
「何の覚悟だ」
「あーもう、すげームカつくッ!」

 余りにも涼しげな顔で更にオレを炊きつける海馬に心底腹が立ったオレは、周囲に人影がない事を確認して、思い切り奴の首に腕を巻きつけ、力任せに引き寄せた。海馬の顔が近くなり、冷たい頬に手を添える。そして、そのまま強く唇を重ね合わせた。

 信号が、青に変わる。けれど、渡る気になんてならなかった。
 闇夜にぼんやりと見える緑がかった青の光が再び赤に変わるまで、オレ達はずっと十年ぶりの長いキスに没頭した。

 人間、我慢しようと思えば何処までだって我慢が出来るけど、一度許されてしまうとそれまで我慢していた分が一気にきちまうんだって事を始めて知った。余りにも久しぶりなルージュやグロスを一切つけていない些か弾力性に欠ける唇は、それでもどの女のそれよりも冷たくて柔らかかった。

 もう忘れたと思っていたその感触を触れた瞬間に思い出したオレは、全てを取り戻す為に夢中になって公道の真ん中で酸欠になるまでキスを繰り返し、しつこい、と海馬に頭を叩かれてやっと手を離した。

 雪は相変わらずちらちらと降っていて、オレ達の身体を冷たく濡らしているけれど、抱き合って互いの体温を上げたお陰で少しも寒くなかった。

「オレ、どうして今までお前に会えないの我慢出来てたんだろう。ありえねぇよ」
「無理に追いすがらなかった事は貴様にしては上出来だったな、褒めてやろう」
「嬉しくねぇ。でも、そろそろ限界だったけどな。アメリカまで追いかけてやろうかなーとかマジで思ってた」
「来た所で門前払いを食らわせてやるだけだ」
「だろうな。お前はそういう奴だよ」
「分かっているなら口に出して言うな」
「口に出さないと伝わんねぇだろ」

 もう何度目か知れない赤信号をやり過ごして、漸く先へ進む気になったオレ達は、反対側から歩いて来る若いカップルとすれ違いながらそんな言葉を投げ付けあう。そこにはかつての冷ややかさや棘はもう無くて、少しくすぐったい様なそんな甘さが含まれていて。高校時代に付き合い始めた頃の何をしても楽しくて幸せだったあの頃に戻ったみたいだ。

 全てを失うのは一瞬で、取り戻すのもまた一瞬で。そんな一瞬を繰り返して今があるんだと思うと、何だか妙な感慨に浸ってしまう。

 周囲にちらほらと人影が見え始めたけれど、オレは変わらず海馬の手を握り締めたままで、海馬もそれを無理に振り解く事はしなくて、ずっと同じ歩調で歩き続けた。

 吐く息が白くくゆり、在るのか無いのか分からない位の薄い睫の上に雪がかかる。瞬きをしてそれを落とすと、不意にまた涙が出そうになった。海馬と別れたあの日に思い切り泣いたのを最後に、涙なんて存在すら忘れていたのに、どうして今になってこみ上げてくるんだろう。
 

 少し上を向いて二度目の衝動をやり過ごす。
 すると今度は目の中に雪が入って冷たかった。   
「……貴様にしては随分とまともな所に越したんだな」
「薄給とは言え、立派な社会人になりましたから。オヤジの借金も全部返せたし、自分の為にこん位はしてもいいだろ」
「何も買う必要はなかったと思うが。貴様はこの町に腰を据えるつもりだったのか」
「あぁ。オレ、やっぱ童実野が一番好きだし……ここにはお前の会社があるから。傍に、いられるじゃん」
「もう『オレの会社』ではないけどな」
「社長なんて誰だっていいだろ。お前がここまで成長させた会社なんだからよ。相変わらず町で一番デカい建物のまんまで、どっからでも良く見える。リビングの窓からなんてもう景色の一部なんだぜ。東側だからさ、朝日が昇ると憎たらしい位光って見えんの」

 そして、夜は夜で町のイルミネーションが輝いて結構綺麗な夜景なんだ。

 オレが少し自慢気にそう言うとつまらなそうな顔で生返事をした癖に、海馬はカーテンを引かずに開け放したままだった硝子窓の向こうをじっと眺めていた。相変わらず雪が降りしきる外の世界は、ここから見える景色を全て白く濁らせて、明日目を覚ます頃には一面を白で埋め尽くす勢いだ。その中でもやっぱり目立っている海馬コーポレーションの本社ビルは、こんな時間なのに未だ殆どのフロアの明かりが付いていてキラキラと眩しかった。

 オレがこの童実野を一望出来る少し高台にある新築マンションに越したのは、海馬と別れて少し後の事だった。前に住んでいた学生時代からお世話になったアパートは、海馬のものを全部捨てた筈なのにどうしても消し去れない思い出に苦しめられて結局直ぐに引き払った。

 その後園に比較的近い安い部屋を転々とし、懸命に日々を過ごしながら背に重く圧し掛かっていた借金を返済し、その残がゼロになったと同時にオレはこの部屋を購入した。

 たまたま通りかかった不動産屋に張り出してあった、少し凝った作りのチラシを見て『童実野町が一望できる』だの、『海馬コーポレーションを常に間近に捉え』だのの文句に惹かれ、そのまま人生で始めての……そして最高額の衝動買いをする事になった。月々のローンはそれまで返していた借金と大差ない金額だったから、まぁなんとかなるだろうと思ったんだ。

 それまで住んでいた部屋よりも二周り以上大きく広い2LDK。一人暮らしなのにそんな部屋を買った所為で周囲からは誰かと同棲か、はたまた結婚かと騒がれはしたけれど、単純にこのマンションにある部屋が3LDKか2LDKしか無かったから必然的にこうなっただけで、特にそんなつもりはなかったし、当然誰かと一緒に住むなんて予定もなかった。

 その頃は適当に付き合っていた相手がいるにはいたけれど、この部屋に連れて来た事は一度も無い。それからもずっと、友達以外の誰もこの部屋に入れる事はなかった。何故、と言われても分からない。ただなんとなく、嫌だったんだ。

 けれど今考えてみれば、もしかしたらあの時のオレは未来的にこうなる事をどこかで期待していたんじゃないだろうか。だからわざわざ高い2LDKの物件を選んで、友達以外の誰もこの部屋には触れさせないで殆ど馬鹿みたいなけじめをつけていたんじゃないかと、そう……思った。

 最初から備え付けてあった沢山の家具は全てオフホワイトを始めとした明るい清潔な色合いで、汚すのが得意なオレには到底似合わないものばかりだった。一人で寝るにはちょっと広過ぎるダブルベッドも、半分も使い切れないクロゼットも、使う当ても無いPC設備も全て……今隣に立つコイツを無意識に思っていたからなのかもしれない。

 全部捨ててやり直そうと思った筈なのに、結局はオレの根底に染み付いてしまったものはどうしても拭い去る事は出来なかったんだ。もし海馬がこうしてオレの元に姿を現す事がなかったら。オレはこの部屋で何を考えながら一生を過ごすつもりでいたんだろう。

「どう?この部屋。気に入った?」
「悪くは無いな。だが、貴様の趣味ではないだろう」
「いや?オレの趣味だぜ。だからてめぇの金で買ったんだ。当然だろ」
「嘘つけ」
「嘘じゃねぇよ。本当に、オレの趣味なんだ。全部」

 本音を言えばこんなスタイリッシュで広い部屋も、置かれた汚れやすい白い家具も、覚えるだけで頭が痛くなってくる機能的なキッチンも、全てオレの趣味なんかじゃないけれど。オレが住みたいと思ったのは、本当にこんな部屋だったんだ。お前の好きそうな部屋だなぁと思ったら、買わずにはいられなかったんだ。

 ……こんな未来を、夢に見る事すらしなかったのに。

「全部捨てると大口を叩いた割りに女々しい男だな」
「うるせぇ。使えない携帯をずっと持ってた奴に言われたかねぇや。寂しかった癖に」
「別に、寂しくなどなかった」
「強がるなよ。黙ってこっそり泣く癖に」
「誰が泣くか」
「そういえばお前、オレの前でって泣いて見せた事ないよな。……今が初めてか」
「誰が……っ」
「女々しい奴。馬鹿みてぇ」

 伸ばした指先が温かく濡れる。

 照れ隠しなのか少し不機嫌な顔で外を見ていた海馬のその頬に、いつの間にか細い涙の筋が光っていたのに気付いたのは、オレが何気なくその横顔に視線を送った時だった。呼吸すら乱す事なくただ黙って硝子の向こうを見つめたままの海馬は、オレに指摘されて始めてその事に気付いたみたいだった。驚いた様に持ち上げた白い手の甲に落ちたそれに目を瞠る。

 その姿に、オレはもう何も言わずに両手を伸ばした。すぐ傍に在った薄い身体を抱き寄せて、溢れる涙を止められず戸惑った様にオレを見るその顔を肩口に抱き寄せた。

 過去に冷たく頼りない印象しかなかったその体温は、今は意外な程暖かく、オレの体温をも一緒に上昇させるようだった。こんな時にオレも一緒に泣ければさっきの様に堪える事もしなくていいから楽なのかもしれないけれど、生憎オレは相手の涙に引きずられる様な繊細さは持ってはいなかった。

 相変わらずオレよりも背が高くて、手足も長くて、肩幅も広い癖に、抱き締める事よりも抱き締められる事の方が好きで。自分から何かを言うよりも言われる事を待っていて、本当は凄く短気で自分の思い通りにならないと気が済まない癖に、超が付くほど我慢強くて変な所への気遣いが長けていて。

 本当に、どうしようもない程馬鹿な奴だと思う。天才となんとかは紙一重とか言うけれど、まさにこいつはその通りだ。

 だからこそ……凄く、愛しいんだと思う。

「泣くんなら気が済むまで泣いた方がいいぜ。中途半端は身体に悪いから」
「……煩、い…っ。貴様の…指図など……受けるか、馬鹿が…っ」
「しゃくりあげながら言われてもなぁ。お前ってほんと年の割にはガキっぽいよな」

 それでよく一人で生きていこうとか思えたもんだ。感心するね。

 そう言ってやると海馬は一瞬顔を上げてオレをきつく睨んだけれど、勿論迫力なんかなかった。こういう所も全然変わんねぇ。きっとこいつは一生変わる事なんかないと思う。だからこそオレは何年でも待っていられたし、もしこの瞬間が無かったらずっと……待っていたんだろう。

 未だオレの肩口を濡らし続ける涙が止まるのを待つ前に、オレはそっとその顔を持ち上げて、まだ何か反論しようとしていた唇を塞いでしまう。熱っぽく湿ったそれは相変わらず柔らかくて、漏れる声すら全て口内に飲み込んでしまいたくなる。

「……ぅ……んっ…」

 項を押さえた手の甲に感じるさらりとした髪の感触。その長さ。こんな所も何一つ変える事無く、海馬はここに帰って来たんだ。セックスはしなくても、キス位は誰かとしたんじゃねぇの?逃げる舌を絡めながら、そんな台詞が浮かんだけれど、また変な想像を掻き立てられる答えが返ってくる事しか予想できなくて、結局それも流れ込んでくる海馬の唾液と共に飲み込んでしまう。目の前の頬を伝って流れた涙が口内にまで入り込み、少しだけ塩辛かった。

 互いの体が熱くなり、海馬が体重の殆どをオレに預けて来る様になった頃、オレは背に回した腕に思い切り力を込めて抱き締めると、その耳元に熱い吐息ごと誘い文句を吹き込んだ。

 長い間一人で何とかなっていたと豪語したお前に、もう一人ではどうしようもなくなる様にしてやるよ、と意地悪く言うと、海馬は少しだけ顔を歪めてオレの手に爪を立てた。  

 その痛みすら、刺激になった。

 

4


 
 一人では広過ぎたベッドも、身長の高い男がもう一人横になれば結構窮屈に感じる。オレが最初に裸になったこいつの上に跨る形でその光景を眺めた時に思ったのは、そんな当たり前の事だった。適度な室温に保たれている筈だと思ってはいても、軽くシャワーを浴びて余りよく拭きもしないまま裸で居れば体はすぐに冷えちまって一人でいると寒い位だ。

 同じ様に風呂に入って、オレよりは少し長めに入った海馬の緩く纏ったバスローブの中に手を突っ込んで、まだ暖かいその身体から体温を奪わないと鳥肌が立ってしまいそうだった。どうせすぐに脱ぐのにオレのその仕草を嫌がる海馬を無理矢理押し倒してキスをする。薄い青のシーツに湿った栗色の髪が散らばって、それを撫で付ける事も無くもう必要の無いパイル地の紐を抜き取り、床に放る。

 そして袖は抜かせないまま唇を少しずらした。

 キスの余韻で少しだけ零れた唾液を舐め取って、顎を辿り、そのまま耳元へと顔を寄せる。当然同じ匂いのするそこに顔を埋め、許可を貰って吸い付いた。透き通る様な白に浮かぶ鮮やかというには少し毒々しい色の赤に口の端が持ち上がる。夢中になって繰り返す。耳朶を舐って穴まで犯し、気持ち悪いと文句を言う口を左手で塞いで、右手は温かな肌を這った。

「……ぁっ……んっ…」

 もう記憶が曖昧だけれど、ほんの少しだけ痩せたかも知れない骨ばった脇や鎖骨を指先で辿りあげて、行き着いた淡い色の乳首を軽く弄る。びくりと海馬の身体が跳ねて軽く噛み締めた唇から喘ぎが漏れた。少し寄せられた眉と薄いピンクに染まった頬が艶っぽい表情を作り出し、その顔にすら煽られる。

 年齢とか、性別とか、セックスをしたい衝動にそんなものは無関係だ。要は相手に興奮出来るか。ただそれだけだ。どんなに若くて美人でスタイルのいい女がいても抱きたくなるかどうかはまた別で。逆にこいつがもっと年を取って、外見的に衰えたとしても、オレはきっと興奮するんだろう。

 その表情に、その仕草に、ただ会話する時の声にさえ身体が反応する。傍に居れば手を伸ばし、嫌がられると無理にでも掴んで引き寄せたくなる。無理やり開かせた足の間に同じモノが勃ち上がっていたとしても、それを舐めしゃぶって鳴かせたい。何度でも繋がって、欲を吐き出したい、こいつにも吐き出させたい。

 オレの求めていたセックスはそういうもんだ。何も変わりになんてなれない。  

「なぁ、お前、一人でシてた時、どうやってたの?」
「── あッ!……くっ…」
「ここ触ってこんな事したり、後ろに自分の指突っ込んでかき回したりしてたのかよ?」
「っ……やっ……やめ、ろッ!」
「なんで?お前がオレにそういう想像させるんじゃん。やらしい奴。今度オレの前でもしてみせてくれ」
「絶、対に……嫌だ!」
「何もお前一人でなんてさせねーよ?オレもサービスでやってやるからさ。オナニーショー。オレのは凄いぜ。お前の名前呼びながら何回でもイける」
「!!……さ、最悪だ……変態が……っ!」
「お互い様だろ。それだけ恋しかったって事だよ」
「……ひっ!……あっ……あぁ!」  

 オレがいない間、誰にも救いを求めずにやっぱり我慢を続けたお前は、どうやってその熱を逃していたんだろう。出来れば一度見てみたいなんて悪趣味な事を思いながら、胸をまさぐる指先に確かな手ごたえを感じた所で爪を立てる。それを追う様に唇を下げて赤く腫れ上がったそこを舐めあげると海馬の指先がオレの肩を強く掴んだ。

 細い割に力の強いそれは、長い爪も相まって結構な痛みを与えてくる。この調子だと傷だらけになるかもしれないけど、今は冬でプールもないから特に問題はなかった。

 胸に伏せた顔はそのままに、右手を下へと下げていく。薄い下腹部を撫で上げ、細かく震えるその感触を楽しみながら、既に緩く立ち上がりオレの腹に当たっていた海馬自身を掴みあげる。瞬間奴はギクリとして腰を引こうとしたけれど、とろとろと滲んでいる先走りを捏ねる様に先端の窪みを弄ってやると直ぐに力を失った。そのままゆるゆると掌全体で包んで扱く。オレの肩を掴む指の力が強くなる。

 構わずにオレは更に身体をずり下げて、手の中のそれに唇を寄せた。音を立てて溢れる雫を吸い上げて、そのまま軽くキスをする。ひっ、と頭上で息を呑む声が聞こえた瞬間、オレはそれをゆっくりと口の中に入れてしまう。

 喉奥に届く程深く飲み込んで舌で舐り、緩く歯を合わせて刺激を与える。海馬の口から悲鳴の様な声が上がり、オレの肩を掴む指が離れてしまう。

「いっ!……あっ!…くぅっ!……あぁっ!…んっ!」

 今更そんな事をしても無駄なのに、オレから離れた手は海馬の口元に戻ってあられもなく出続けていた喘ぎ声を押さえ込んだ。手の甲を唇に当て、そこに歯さえ立てて懸命に刺激に反応して出てしまう声を堪えている。

 余りにも必死過ぎて自分の皮膚を噛み千切ってしまうんじゃないかと心配に成る程その姿は壮絶で、オレは直ぐに咥え切れなかった部分を愛撫していた手を持ち上げて、海馬のその手を強く掴んだ。同時に、口の中のモノに少し強く歯を当てる。

「── くっ!……あああぁっ!」
「……っ、……ぐっ!」

 瞬間、海馬の身体が思い切り跳ねて、オレの口に熱い精液を吐き出した。青臭い、決して美味いとは言えないそれを、半分は飲み下して、半分は添えた掌に出してしまう。糸を引いて流れるそれを指先に集まる様に手を傾けて、そのまま少し萎えた海馬自身を僅かに退けると、その奥にある小さな穴へと塗りつけた。

 まだ硬く閉ざされたそこは指先で触れても拒否る様に口を閉ざすばかりで、指先を押し込めると直ぐに押し出そうとする。それを宥める様にそこにもそっと口を寄せて、まるで唇にする様に小さなキスを一つ落として、そのまま舌で舐め上げた。

 ひくり、とそこが動いて抱えた海馬の足に力が入る。それを無視して、少し力を込めて舌先を中に押し込む。強引に、開いていく。

 そうしていると徐々にそこが綻び始めた。海馬の呼吸に合わせてひくひくと蠢き、意外に早い反応に『一人でしていた』という台詞が嘘じゃない可能性が強くなる。その様を想像してオレのアソコが痛い位に張り詰めた。直ぐに指を一本入れる。余裕で入った事ににやりと笑ってもう一本。限界まで埋め込んで、指先を軽く曲げながら中を探った。

 ぐちゅぐちゅとすげぇやらしい音がする。早くここにぶち込んでやりたいと、そう思った。

「すげ……お前の指なら何本入ったんだろうな、ここに」
「んあっ!……は…っ……ふ……くぅっ……あ、ぃあっ!」
「気持ちいい?指でイけるんならイってみろよ。見ててやっから」
「はっ、あッ……い、やだッ!……ぅああっ!」
「それとも……っ……オレが欲しい?思い出したい?」
「……あ……う、ぅっ…!」
「言えよ。口で言わなきゃ…分かんねぇよ!」

 後肛を指で乱暴にかき混ぜながらオレはこの期に及んでもまだ何も言わない海馬に焦れてそう言った。それにやっぱり首を振る事で誤魔化そうとするその態度に苛立って、仰け反った白い喉に噛み付いて歯を立てた。途端にオレの指が締め付けられる。

 もう限界な筈なのに何処までも強情な海馬にもうオレの方が待てなくて、仕方なくオレは言葉を引きずり出す事は諦めて、早急に指を抜いた。けれど少し悔しいから、海馬の呼吸が整うのを待ってなんかやらなかった。

「うあっ……あっ……待てッ!」
「待たねーよ馬鹿。覚悟しろって言ったろ!力抜け!」
「ひっ!……ぐ…っ……うあぁ!」
「くっ……待ってたんだろ…っ!……拒否んなよッ……!」

 濡れた指で奴の太股を強く掴んで押し広げ既にはちきれそうなオレを押し当てる、そしてそのまま一気に最奥まで捻じ込んだ。狭い肉を抉じ開ける痛みと熱さをダイレクトに感じて、オレからも声が上がる。

 衝撃に一気に跳ね上がった海馬の身体が大きく震え、触れた肌が一気に粟立つ。きつく閉じた瞼からはぼろぼろと涙が零れて、開いた口からは悲鳴のような声が上がった。互いに全身から汗が噴出して肌が滑る。行き場を無くした海馬の手が足から腰に移動したオレの腕を強く掴んだ。そのままギリギリと爪を立てる。

「──ッ!……あぁっ……あッ……く…ん、んんッ!」

 構わずに、腰を引いた。
 ベッドのスプリングを利用して、大きく弾んで再び突き刺す。

 痛いだのやめろだの、そんな意味のない言葉を繰り返す唇を塞いで吸い上げた。これでもう、悲鳴すら聞こえない。海馬の手がオレの首に回り、頭を押さえ込んで強く抱え込む。呼吸をする間も惜しんで唇をすりつけあう。擦れ合った場所からは熱が生まれ、焼き切れそうな痛みと共に快感が背を駆け上がる。

 突き入れて、引き抜いて、何もかもを飲み込んで飲み込ませる様に一つになる。十年分の時を一気に埋める様にオレ達は身体を起こす気力が無くなるまで抱き合った。 

 もう何度目か知れない射精の瞬間、海馬は掠れた声でオレの名前を呼んだ。

 何度も何度も、まるでそれしか名前を知らない様に、城之内、と叫び続けた。
 ベッドサイドに置いたデジタル時計の音が、やけに耳障りに聞こえる。静かだ。本当に、耳が痛くなる程静かだった。

 あの後、まるで気力を全て使い果たした様に、ぐったりとして眠りについちまった海馬はそれから生きているのか死んでいるのか分からないほど静かに目を閉じていた。その寝顔を見ていると、まるであの日に帰ったみたいだ。

 カーテンの隙間から見える外は相変わらず雪が降っていて窓枠にはもう薄らと積もり始めてる。寒くなるかな。そう思って手元にあったリモコンを引き寄せて設定温度を一度上げた。エアコンの機械音が、静けさの中に大きく響く。

 不意に寝返りを打った海馬が意味不明な声を呟いて、少しだけ口元を綻ばせた。

 何かいい夢でも見てんのかな。何にせよ、穏やかな寝顔っていうのは見ていて幸せな気分になる。その目元に指を伸ばし、枕に触れてみても、そこはもう冷たくはなかった。指先に伝わるのはどこまでも暖かな体温で、これからはずっと、こうして不意にやってくる深夜の静けさにも、もう苦しくはならないだろう。

 このまま、朝まで寝ちまおうかな。

 そう思って静かにかけ布団を引き寄せて目を閉じようとしたその時、ふと海馬の横に光る何かを見つけた。手を伸ばして探ってみると、それは海馬の携帯だった。小さな液晶ディスプレイには『モクバ』の文字。ああ、返信が来たんだな。そう思って、明滅が気にならない様に伏せて元の場所に戻してしまう。

 眠りに付く少し前に、海馬は既に殆どない意識の中で何故かしきりに携帯を気にしていたから、オレは勝手にそれまでのこいつとの話の中で読み取った今日の日を陰で演出してくれたらしいモクバに報告をしなければならない、という意味だと受け取った。あいつは兄貴と違ってこっそりとオレの事も気にしてくれていて、それとなく接触を試みてくれた事も何度かあった。多分今も、オレと海馬の事を心配しているのかもしれない。

 そう思ったオレはそのまま寝てしまった海馬に断らずに勝手に携帯を開くと、穏やかな奴の寝顔の画像付きで、モクバに『海馬は今日からオレの家で預かる事にしたんで心配なく』とだけ打ってやった。

 その返信がきっとあの青いランプなんだろう。オレが打ったメールなんだからオレが見たって別にいいんだろうけど、モクバがその気持ちを一番最初に伝えたい人間も、受け取りたい人間も、きっと海馬だろうから。

 どこか暖かい気持ちになりながら目を閉じる。

 傍らの温もりに手を伸ばし、懐深くに抱き込んだ。首筋に触れる息がくすぐったいと思いながら、オレもまた眠りに付く。  

 眠りに落ちる寸前、明日起きたら海馬から貰ったリキュール入りの生チョコレートを二人で食べようと、そう思った。  

 その甘さはきっと、あのカカオ99%の酷い苦味を……一瞬にして忘れさせてくれるだろうから。


-- END --