Looking for… Act15

 頬を襲った強烈な痛みに、城之内は一瞬何が起こったか分からなかった。しかし、自分が掴んでいたらしい人物の硬い腕の感触と、それまでの自らが記憶する状況を考えて、即座にその痛みの答えを出した彼は、瞬時に沸きあがった衝動のままに、声の限り叫んだのだ。その声に、その台詞を投げつけられた対象人物……瀬人は、酷く驚いた顔をして固まった。

 なんだコイツ。自分で人の事を力一杯殴りつけておきながら、何ビビった顔してやがんだ。そういやオレ何してたっけ?確か、約束の時間にここにいなかった海馬を待っていて、寝ちまったんじゃなかったっけ?じゃあ、今オレはコイツに起こされたのかよ。起こされた挙句に殴られた?その前にも散々物を投げつけやがって最後にこれかよ!なんだそれ?!

 未だ驚愕の表情でこちらをじっと見つめている瀬人の顔を眺めながら、城之内はジンジンと痛む頬を押さえながら比較的冷静にそう考えていた。彼のその思考は、二週間前の『あの時』に戻っている事を当然本人は知る由も無い。彼にとって現時刻は、『あの日』の喧嘩をした直後のものなのだ。

「……城之内、貴様……」
「このバカイバ!人を気軽にボカスカ殴りやがって!頭打って記憶喪失にでもなったらどうしてくれんだ!お前、責任取れるのかよ!!暴力はやめろっつってんだろ!!」
「………………」
「何だよ。黙ってねーで何とか言えよ!!つーか謝れ!!」

 何故かしっかりと掴んでいた瀬人の腕を力任せに振りほどき、怒りのままソファーの上に仁王立ちになった城之内は、彼の名前をぽつりとつぶやいたきり、また黙ってしまった瀬人へ再び怒鳴る。その声にも全く反応せずにひたすら呆然としている瀬人に、城之内は沸騰している頭の片隅で何か変だと思い始めた。

 ……あれだけ散々暴力を働いておいて、急にその怒りを収めてこちらを呆然と眺めるなど、常の彼からは考えられない行動だからだ。一体何だってんだ、訳分かんねぇ。そう思いつつそれでも怒りが収まらない城之内は、まだしつこく言葉を発しようとしない瀬人を睨んだその時、彼の瞳は驚きに瞠った。
 

「── え?!お前っ……何で泣いてんだよ!!」
 

 上から思い切り見下ろしていた、見慣れた白い顔が微かに歪んだと気づいた瞬間、その頬を一筋の涙が伝っていた。思いもかけない相手の落涙に城之内は心底驚愕して思わず後ずさってしまう。

 何だよ。何なんだよ?!一体何が起こったんだよ?!内心そう絶叫しながら瞬時に引いてしまった怒りと共に、力の抜けた足に従うままにソファーに腰を下ろしてしまう。瀬人は依然何も言わない。何も言わずにただ、城之内を見ている。

「あ、あの……海馬くん?ちょっと……どうしたの?!」
「煩い!馬鹿が!ふざけるな!」
「何が?!わ、訳が分かんねぇんだけど!オレ、何かお前泣かすような事した?!つーかオレ殴ったのお前だろうよ!」
「……全部貴様が悪い!貴様こそオレに謝れ!」
「えぇ?何だよそれ!何でオレが悪いんだ!……ああもう何がなんだか……ちくしょーどうしたらいいんだよ。……とりあえず泣くのやめてくんねぇかな。オレ、人に泣かれるのダメなんだよー頼むよー」
「………………」
「もー。海馬ぁ……」

 先程の怒りは何処へやら、心底困り果てた顔でそう口にした城之内は、目の前でただひたすら涙を流し続ける瀬人の腕を掴んで引き寄せた。未だスーツを着たままの細い体は微かに震え、顔を見られたくないのかいつの間にか俯いてしまった頬からは変わらずぽたぽたと透明な雫が流れ落ちている。

 時折漏れる嗚咽を堪える様に口元に当てられた手を何となく凝視しながら、城之内は暫し戸惑った後、それを静かに取り上げた。途端に薄い唇が噛み締められる。その様をやはりじっと見ていた城之内は、ふとそこに薄らとした傷痕を見つけた。

 色素が薄い唇に目立つ、赤い擦過傷。こんなもの、何時出来たのだろう?……覚えが無い。最後にキスした時だって気付かなかった。当然だ。瀬人の唇は男の癖に荒れ知らずで、温度こそ少し低いものの、何時だって柔らかくて気持ちがいいのだ。

 自身の少し荒れた、時には皮さえめくれて硬くなった唇にキスされて痛いと騒ぐ位繊細な場所なのだ。その唇に出来た見慣れない赤に、城之内はそれが瀬人の落涙の原因になっているのではないかと思い至った。が、それもあくまで推測で、理由など全く分からないのだが。

 恐る恐る、見つめていたそこに指を伸ばす。そんなに噛締めたらお前、また傷がつくぜ。そう思いながら指先で触れる。やはりそこには濡れた柔らかな感触があった。けれど、それを感じるのは随分と久しぶりな気がする。

「お前……これ、どうしたの?傷ついてんじゃん。こんな傷あったっけ?オレの記憶にはねーんだけど」
「………っ」
「オレさぁ正直な所……今何があったのかも、お前が何で泣いてるのかも、さっぱり分かんねぇ。だからお前に謝れって言われても、何を謝ったらいいのか分かんねぇよ。何でオレを殴ったの?」
「……そっ……それ、はっ」
「落ち着いてからでいーからきちんと説明してくれ。ちゃんと聞くから。その上でオレが悪かったら謝るし、お前も悪かったら謝れ。な?」
「……何を偉そうにっ……!」
「ふーんだ。泣いてる奴に言われたかねーっての。泣きやめないんなら背中トントンってしてやろうか」
「余計な、世話、だ……!」
「はいはい。あーあー目元腫らしちゃって可哀相に。今タオル持ってきてやっからちょっと待っとけ。……って、ズボンがめちゃめちゃ窮屈なんですけど……オレなんでお前の服着てるんだろ?ほんっと訳分かんね」

 そんな事をぶつぶつと呟きながら、城之内はその言葉通り立ち上がって浴室へと消えていく。その後姿を眺めながら瀬人は不覚にも流れてしまった涙を止めようと躍起になったが、それは彼の意思に反してなかなか止まる気配がなかった。
「はいこれタオル。……オレの服、どこ行ったか知らねぇ?」
「……知るか」

 それから数分後。城之内が持って来た、親切にも冷水で湿らせたタオルで漸く止まった涙を拭いながら、瀬人は未だ熱を持った目元を隠すようにそっぽを向きつつ、隣に座った城之内の様子を伺っていた。

 漸く瀬人の記憶を取り戻した城之内は、逆に記憶を失っていた期間にあった出来事を綺麗さっぱり忘れているようだった。彼の話を聞いていると、どうやら瀬人と盛大な喧嘩をしたあの日でその記憶は綺麗に途切れているらしい。よって、今の城之内は未だ『あの日』に留まったままで、瀬人が彼にした事も、彼が瀬人にした事も全て分からなくなってしまったのだ。

 そんな複雑な状況に瀬人はまず何から説明したらいいのかを迷い、密かに頭を悩ませていた。納得の行く説明を求められている以上、その期待には応えなければならず、かといって正直に話したところで何か得るものがあるかというと、特に無いような気がする。
 

 ただ一つだけ。

 思い出した方が良かったのか、それともあのまま忘れてしまった方が良かったのか。この二週間、瀬人の心を揺さぶり続けたその一点だけが気がかりだった。
 

「うーん、どうにも意味不明だな。今日はオレ、お前と約束してたよな?バイトまでの時間、会いに行くからって。そいで、オレがここに来た時お前はいなくって、めっちゃ頭に来てフテ寝して……それで……えーと」

 瀬人が事態の説明方法に頭を悩ませていた矢先、一人で疑問を露にしてブツブツと呟いていた城之内だったが、やはり分からないものは分からないのか次第に顔を顰めて頭を抱えるその姿に、瀬人は漸くとりあえずざっと説明はしてやろうと、彼に徐に声をかける。

「凡骨」
「あ!そうだ!お前4時近くに帰ってきたんじゃねぇか!んでいきなりオレが読んでた本をぶん投げてきて……!」
「凡骨!」
「なんだよ!オレ悪くねぇんじゃん!って、何?!」
「『今日』は何日だと思う?」
「え?いきなりなんだよ」
「だから、貴様の言う『今日』とは何日の事なのかと聞いているのだ」
「何日って……四月の第二日曜日だろ」
「違う」
「へ?」
「今日は四月の第四金曜日だ」
「はぁ?お前、何言ってんの?んなわけねーじゃん」
「オレの言う事が信じられないのなら携帯を見てみるがいい」
「携帯って……意味分かんねぇ」

 瀬人からいきなり切り出された突拍子もない台詞に城之内は心底驚いた顔をして、テーブルの上に放られている自らの携帯に手を伸ばす。そしてパチリと小気味いい音を立てて開いたそれを凝視する。ディスプレイの片隅に表示されている日付。それは、確かに……。

「えぇ?!4月27日?!嘘だろっ?!」
「……だから言ったろうが」
「ど、どういう事だよこれ。オレ、確かに……!」
「貴様は、この二週間、一部の記憶を失っていたのだ」
「え?」
「だから、覚えがないのだろう」
「記憶を失ってたって……え、マジで記憶喪失になっちゃってたって事?!」
「……ああ」
「……ありえねー。んな事現実にありえるのかよ」
「現にそうだったのだから仕方あるまい」
「……オレ、この二週間どーしてたんだろ。あ、もしかしてお前がオレを殴ったのって、その『オレ』がなんかやらかしたのか?!だからお前、怒って泣いて……」
「う、煩いな。泣くとかいうな!」
「だって泣いてたじゃん。何、オレ、お前にそんな酷い事したの?お、覚えがないからどうしようもねぇけど。やっぱ謝らなきゃダメな事しちゃったのか?なぁ!」
「……別に」
「オレが悪いんならちゃんと頭下げるから、教えてくれよ、海馬!」

 携帯を取るついでにソファーを降りて、いつの間にか瀬人の目の前へ移動していた城之内は、少し身を屈めて眼前の肩に手を置くと真面目な顔でそう口にする。その顔は『あの』城之内もこの城之内も変わらない。いつも必死に、それこそ滑稽なほど真剣に瀬人に向き合い、答えを求めてくるのだ。

 肩を掴んでくる手に熱さを感じる。一度は諦めかけたものだった。城之内が瀬人の事を忘れ続けているのであれば、それまでの関係を全て解消し、彼が本当に好きなものに目を向ける事が出来るようにしてやるつもりだった。その方がいいに決まっている。これは、その為のチャンスとさえ思ったのだ。

 けれど、こうして全力で自分に向かってくる眼差しや言葉を受けていると、そんなものはただの欺瞞に過ぎず、そうなる事など全く望んでいなかった事に気づく。やはり自分は、この男が好きだったのだ。幾ら腹を立てても、失いたくないと思ったのだ。

 こんなにも、思っていたのに。城之内は、至極あっさりと自分の事を忘れ、自力で思い出しもしなかった。よく考えたらとんでもない話だ。腹が立つ。そう、すごく腹が立ったのだ。その事に。

 瀬人はゆるりと腕を持ち上げて、己の肩を掴む城之内の手を上から包んだ。そして、力強く握り締める。

「……貴様は、『オレの事だけ』を忘れていた。他のものは何一つ失わなかったのに。オレの事だけを」
「えっ」
「オレがモクバの兄だという事も、KCの社長だという事も、貴様のクラスメイトだという事でさえ、『あの』貴様は分からなかったのだ」
「── マジで?」
「嘘を言ってどうする!貴様、オレの事をみて『誰だお前は』と言っただろう!モクバと似ていないとか、クラスにこんな奴はいないとか、あまつさえ「オレは女が好きだから、男に好意を持つ事なんて絶対にない」などとほざきおって!その割りに、貴様の出来の悪い脳みその変わりに身体だけは物覚えが良くて、訳もわからんうちに人に勝手に触れたり、キスまがいの真似までして……オレは、それに心底腹が立ったのだ!この下半身男が!恥を知れ!」
「……海馬……」

 手を握る力をこれでもかと強めて、瀬人はまるで何かに憑かれたように次々と言葉を吐き出す。感情的なその叫びを聞くにつれ、彼が二週間という期間の内に抱えてしまった悩みの全てが、先程の涙の理由だった事を知る。

 恋人である筈の瀬人の事だけを忘れ、お前は誰だとお前なんか知らないと、非情な言葉を浴びせてしまった。どんな事情があったにせよ、忘れてしまえるような存在だったのかと錯覚させてしまった。不安を与えてしまった。

 それは、何よりも瀬人を傷つけたに違いない。自分がもし同じ事をされてしまったら、きっと立ち直れなくなるだろう。
 

 確かに、酷い事をした。殴られても仕方が無い。
 

「……貴様の脳が元に戻ったら、聞いてやろうと思っていた」
 

 不意にそれまでの勢いを収めた瀬人が、幾分声を低めてそう言った。苦し気に歪んだ顔が、僅かに城之内の正面から反れる。

「……何を?」
「貴様の本心は何処にある。本当は、もううんざりしてたのではないのか。『あの』貴様の言葉が、正直な気持ちだったのだろう?だから、オレの事だけを忘れてしまったんだろう?!思い出さないほうが良かったんじゃないのか!」
「そ……」
「どうなんだ?正直に言え!正直に言えば今貴様の思う通りにしてやってもいい。別れろというんなら別れてやる。どちらでも構わない。今すぐ答えを出せ!」

 いつの間にか肩に置かれた手を振り解いて、ソファーの背に身を預けるようにして距離を取った瀬人は、やはり今にも泣き出しそうな顔でそう叫んだ。折角涙が止まったのに再び潤んでくるその青色の瞳を見つめながら、城之内は心底愛しいと思う気持ちと、最高潮に呆れた気持ちを抱えて、深く大きな溜め息をついた。
 

 ……全く、こいつってほんっと思い込み激しいよな。
 

 声には出さず、心で盛大にそう呟くと、城之内は払われて中途半端に空に留まっていた両手を再び瀬人へと伸ばしながらこう言った。

「なぁ、キスしていい?」
「……は?!」
「だってオレ、お前を二週間も忘れてたんだろ?なんかもうすっごくお前にキスしたい気分。キスして、抱きたい」
「な、何を言っている?!貴様、人の話を聞いていたか?!」
「うん。だから、それがオレの正直な答え。正直に答えたら、オレの思う通りにしていいんだろ?」
「…………だから!」
「『あの』オレだって、きっともうちょっとすればお前を好きになったと思うぜ。仮に全部忘れちまっても、絶対オレはお前を好きになる。間違いない」
「そ、そんな根拠もない事をよくも……」
「根拠なんてなくていいじゃん。オレがこう言ってんだから納得しろよ。まあ……お前って煩いし暴力的だし、我侭だし可愛くねぇし、時々面倒だなーうんざりするなーって思う時もあるけど……それでも全然嫌いになれないんだよな。結局は好きで好きでどうしようもない。だからオレ、ここにいるんじゃん。このオレがさ、嫌な事を我慢できる、忍耐強い男に見える?」
「………………」
「見えねぇだろ。それ、お前が一番良く知ってるんじゃん。だからさ、変な事考えて勝手に暴走すんのやめろ。オレの気持ちもちゃんと考えろ。人の話はよく聞け。わかった?」

 まるで子供に言い聞かせるように至極優しい声でそう言った城之内は、伸ばした手で瀬人の頬を柔らかく包むと、ゆっくりと引き寄せる。そして、吐息が触れるほど近くに顔を寄せて、最後に一言、こう言った。
 

「忘れてて悪かったよ。ごめんな」
 微かに濡れて少し熱を持っている瀬人の目元に唇を寄せる。舌を伸ばし柔らかに舐めあげると、塩辛い涙の味がした。

 普段こんなものとは全く無縁である筈の瀬人が、皮膚の色が変わる程泣いてしまった事。その一点だけでも、城之内は自分がどんなに瀬人を苦しめてしまったのかを知る。もし、あのままずっと思い出す事もなく日々を重ねていたら、もう二度とこんな事は出来なかったのだろうか。

 瀬人には絶対に好きになると豪語してはみたものの、その実今の自分ではない自分の事をコントロールする事など不可能だった。元々男が好きなわけではない。当然だ、自分は変態ではない。だから瀬人の言う通り、これを機会に本来の好みに返ってしまわないとも限らない。可能性はゼロじゃない。

 よく考えなくても昔からそういう意味で気にしたのは女の子ばかりであり、今でも綺麗でスタイルのいい女性を見ると見とれるし、興奮する。普段見るビデオや雑誌だって巨乳の美女モノだらけだ。男になんて目が行くはずが無い。

 女性特有の柔らかで暖かい身体や甘い匂い、細やかな優しさも大好きだ。昔から彼女にするなら絶対顔が良くてスタイルのいい巨乳の女と決めていた。ついでに身長は自分よりも低い子がいい。怜悧で近づきがたい完璧な美人よりも表情がよく変わる素直で可愛い子がいい。

 もし目の前にそういう子が現れたとしたら、間違いなく好きになるだろう。彼女になって、というかもしれない。付き合って、恋人になって、挙句の果ては結婚、なんて事もありえない話じゃない。城之内とて普通の男だ。一般的な願望は当然持ち合わせている。
 

 けれど。

 それはあくまで瀬人がいなければ、という前提があっての話だという事に気づく。瀬人がいなければ、そうなっていたんだろうな、と。
 

 目元に触れていた唇を、涙の軌跡を辿りながら、徐々に下へと落としていく。邪魔な掌は緩やかに肩に落ち、ついで背中へと撫で擦る様に回し込んだ。そのまま、強く抱きしめる。腕の中の身体が、少し驚いたように強張った。何時の間にか同じように背に回された白い手がぎゅ、と薄いシャツを握り締めてくるのを感じる。
 

 ……数多の理想や憧れを全て粉砕してくれたのがこの目の前にいる海馬瀬人だ。我侭で、暴力的で、可愛くなくて、身長は自分よりも遥かに高く、その身体は見た目こそスタイルがよく見えるものの、触る分には細くて硬くて心地いいとは程遠い。それに、何よりも彼は男だ。柔らかく大きな胸も、可愛らしい高い声も持ち合わせてなどいない。

 それどころか自分と同じモノを持ち、声は低いバリトンで、喉元を探れば硬い骨の感触。どこからどうみても完全なる男の身体。女っぽいなんて微塵も感じない。まぁ、顔は綺麗だとは思うけど。自分の好みと照らし合わせて考えれば、該当する箇所が殆ど無い。

 それでも、自分は恋に落ちたのだ。気が付けば目で追って、憎まれ口ではあったけれど声をかけて、近くに寄って……そしてキスをした。何故だ、と聞かれてもその時は答えられなかった。何故かなんて理由を考える事が出来ないほど好きだったからだ。今もどこが好きかと言われれば全部好きだと答えてしまうだろう。いちいち上げていたら日が暮れてしまいそうだ。
 

 こんなにも、思っていたのに。思って、いるのに。
 それが上手く伝わっていなかった。あらぬ誤解を呼んでしまった。

 信じさせる事が出来なかった。
 

「ごめん」
 

 ほんの二週間でも忘れてごめん。お前に嫌な決断を迫らせるような真似をしてごめん。
 

 キスの合間に、何度も何度もその言葉を口にする。ついには震える声で「うるさい」と言われても、また言ってしまった。本当に悪いと思ったから、何度でも謝らなければ気がすまない。瀬人に殴られた頬はまだ痛かったけれど、殴られて良かったと思う。そうじゃなければ、自分はまだ目覚める事は出来なかった。

「……ん……」

 唇が、漸く瀬人のそれへと到達する。赤くなっている箇所を優しく舐め上げて、痛みを感じていない事を確認すると、そのまま深く触れ合わせた。角度を変えて何度も触れる。僅かに空いた隙間から舌を差し入れ、口内を舐る。舌同士を絡めて唾液を啜る。柔らかく熱い感触に酩酊する。夢中になる。

 背に回した手はゆるゆるとその形をなぞる様に体中を撫で擦り、邪魔なジャケットとネクタイを取り払い、シャツのボタンを外していく。シュル、と布同士が擦れる音が妙にやらしくてぞくりとする。

 息継ぎが辛くなり一旦唇を解放すると、互いの間に透明な糸が引く。その際少しだけ目を開けた瀬人が状況を確認し、問うように上目遣いをしてくるのを見て、城之内はその目が何を言おうとしているかを直ぐに感じ、僅かな間考える素振りをした後、こう言った。

「そうだな、移動すっか。ここちょっと窮屈だし、ブルーアイズ一杯いるし」
「……は?」
「オレだって嫉妬する事あるんだぜ。お前があんまりブルーアイズの事好き好き言うからさ。……悔しいからこいつらには絶対お前のエッチなとこみせてやんないんだ」
「……何を言っている。貴様は馬鹿か」
「なぁ、海馬。不機嫌になるのはお前だけだと思うなよ。オレだって、我慢してる事結構あるんだぜ?だから、雑誌やビデオ位で目くじら立てんな」
「……………」
「本当に浮気したら、蹴られても殴られても文句言わねーからさ。まぁ、浮気する暇があったらお前んとこ来るけどな」

 だからちゃんとオレの相手をしろよ。じゃないと分かんねーぞ。そんな軽口を叩きながら、手を差し伸べてくる城之内の顔を睨みつつ、瀬人も右手を差し出した。痛いほど握り締めてくる硬い指先。

 やや足早に隣の寝室へと引きずっていくせっかちな背中を見つめながら、瀬人は小さな溜息を吐く。

 しかし、それは決して憂う意味でのものではなかった。
 性急に巨大な寝台の上に乗りあげると、城之内はさっさと窮屈な服を脱ぎ捨ててしまう。裾や袖の大いに余るシャツやズボンは、己の下で照れくさそうにそっぽを向いている瀬人の手足の長さを思わせて、日本人なのにその体系はねーだろ、とかなり昔に思ったそんな気持ちを改めて思い出させる。

 天然の栗色の髪とか、全体的な色素の薄さとか、鮮やか過ぎる青色をした瞳だとか。本当に同じ人種なのかと疑いたくもなる。否、同い年の人間かどうかすら怪しくて。

 ……だから、触れたくなるのだろうと思った。触れて、確かめたくなる。

 自分ばかりが素肌になっているのも癪で、城之内は眼前の瀬人も直ぐに全部剥いてしまう。邪魔にならないようにベッドサイドに放り投げると、スーツが皺になる、と文句を言われた。散々抱き合った後で今更皺もねーだろ、と答えるとむっとする。その尖った唇にまたキスをする。今度は唇だけには留まらず、漸く露になった喉元や胸にまで口付ける。

「……くっ……ん…」

 キスよりも舌を這わせる事に重点を置いて、そこここを丁寧に舐め上げながら、時折強く吸いあげる。唇を離すと色鮮やかに残る鬱血の痕に嬉しさにも似た思いを抱き、白い肌にそれを刻む事に夢中になった。いつもなら「やめろ」と即座に制止が掛かるその行為も、今日は何も言われない。それだけ、瀬人も焦がれていたのだろうか。そう思うと、凄く幸せな気分になる。

「── っあ!……んぁっ!」

 脂肪の欠片も無い平らな胸を掌で撫でて、柔らかな突起を指先で摘むと徐々にしこって立ち上がる。程良く出張った所でちゅ、と音を立てて吸い上げてやれば、びくりと背を跳ね上げて声をあげる。女の喘ぎ声にも負けない程の艶っぽい響き。快感に寄せられた眉とほんのりと薄紅にそまった頬がひくりと震える。

 『あの』自分はこんな風に瀬人に触れたいと思わなかったのだろうか。抱きしめてキスをして、掌で皮膚の滑らかさを味わって……繋がりたいと、思わなかったのだろうか。そうだとしたらその時の自分はかなりイカれていたと思う。……『彼』からすれば、今の自分の方がよほどオカシイと言われてしまうかもしれないが。

 掌が眼前の下半身へ伸びていき、僅かに綻んだ状態で投げ出されていた足の内側を緩く撫でる。滑らかな感触を味わいながら、徐々に中心へと戻っていく。唇はまだ胸にあり、既に唾液に塗れて赤くなっている乳首を飽きずに舐る。

 そんなに何もない所が好きなのか。女でもあるまいし、気色悪いからやめろ、と過去に不快感を露にして瀬人に詰られた行為であったが、そこは素直に好きだぜ、と答えておいた。

 胸に執着するのは何も巨乳が好きだから、というわけではない。単純に瀬人の反応がいいからだ。それこそ男の癖に女のような声を出して喘いでる癖に、それに気付かないんだから幸せだよな。そう思いつつ、またキスをする。軽く歯を立てて、甘噛みする。

「っ…!……っう、はぁっ……」
「すっげ。お前、もうとろとろじゃん」
「!!…………」

 何時の間にか中心に達していた掌は瀬人の男を握り締めていて、先端から溢れている先走りを塗りつけるように緩やかに上下する。その度にびくびくと震える身体を至近距離で見下ろして、再び肌に口付けた。胸元に、わき腹に、そして淡い陰りの際にまで唇を寄せて吸いあげる。それに、一際大きく瀬人が震えた。シーツを掴む指の力が強くなる。

 それをしっかりと視界の端に捕らえながら、城之内は唇を掌で握るそれに寄せようとして、留まった。そして身体をも下に下げて更にその奥、二人が繋がる場所へと顔を寄せる。既にそこにも半透明の雫は到達していて、濡れて蠢く様はどうしようもなく淫猥だった。

 空いた指でそこに触れ、躊躇なく舌を伸ばす。生暖かい感覚に、瀬人の腰が跳ね上がる。

「!!……ぅあ!……あ、んっ!…い、きなり、そこか!」
「ごめん、お預けが長すぎたから、我慢できない。力抜いて」
「んあぁっ!……な、舐めるな!気色悪いッ…!…うっ!」
「オレの好きにしていいって言ったんだから、好きにさせろよ。いいから集中しろ」
「ん、っく……はあっ……」

 くちゅ、と粘着質な音がして、城之内の熱い舌が瀬人の体内に入り込む。少しずつ丁寧に慣らしながら奥を探り、僅かに綻んだ所を見計らって指を一本挿入する。普段は呆れるほど不器用なそれはこんな時ばかり器用に動き、瀬人に強烈な快感を齎していく。内壁を擦り、前立腺を探り当て、見つけたそこを幾度も突きあげる。その度に、悲鳴が上がる。

「ひっ、あっ、あ……あぁっ……あアァ……っ!」
「気持ちいい?お前、すっげーやらしい顔してる」
「!くっ……下らん事を言うなっ、…うっ……この、変態めっ!」
「その変態に忘れられて泣いてたのどこのどなたでしたっけ?お前、本当にオレの事諦めるつもりだったの?もうこんな事、二度とオレとしないと思ったの?」
「……んっ!……くぅ…っ」
「多分、無理だと思うけど。オレも無理だし。……だから、弾みでも別れるとか言うなよ。寂しいから」

 ゆっくりと瀬人の体内へ収めていた指を引き抜いて、元より大きく開いていた脚を抱えあげる。大分綻んだ奥に既に硬く張り詰めた自身を押しあて、城之内は上半身を僅かに倒した。遠くにあった顔同士が酷く近くなり、互いの視界一杯に相手の表情が映り込む。もう何も言わず、何も言えない唇を一瞬深く重ね合わせ、城之内はそのまま瀬人の胎内へと押し入った。

「──── くっ!!」
「っひ!……んあぁ……あァッ!!」

 勢いをつけてこれ以上入り込めない所まで深く挿入する。薄い肉同士がぶつかり合い、鈍い衝撃音が粘った水音と混ざって部屋に響く。それを掻き消す程大きな悲鳴にも似た喘ぎ声。互いの身体に腕を回しきつく抱き合って、飽きる事無く唇を重ね合わせる。

 貫かれる痛みも、爪を立てて縋り付かれる痛みも、呼吸が追いつかない苦しさも、それらを全て超越するほどの快感も二人で分け合って、どうしようもない熱に翻弄される。訳が、分からなくなる。

「海馬っ!……かい…ばっ…!」
「や、あ……!ああぁっ……!…じょう……の、うちっ!」

 最後にその名前だけをひたすら呼び合って、二人はきつく抱き合いながら同時に果てた。
 

 ── 海馬。
 

 その呼び名が、こんなに耳に心地よく届いたと思ったのは、初めてだった。
「ちょ、お前っ!じゃあお前の所為でオレ記憶喪失になったんじゃん!!なんだよ?!やっぱオレ悪くねぇじゃん!」
「煩い!貴様の頭が想像以上に脆かっただけだ!オレの所為じゃない!」
「うっわー何その言い草!ちょっとは反省しろよ!!そんなんだからオレ、お前だけすっぱり忘れちまったんじゃねぇのか!自業自得だろ!」
「思い出したのだからいいではないか!」
「そーゆー問題じゃねぇ!自分でやっておいて泣くとかお前は馬鹿か?!」
「馬鹿に馬鹿と言われたくないわ!」
「なっ!………あーもういい。疲れたわ。腰いてぇし。お前元気だな」
「元気に見えるか。起き上がれないんだが」
「口だけは元気じゃんか」

 一通り抱き合って気が付けば外は明るくなっていて、遮光カーテンの向こう側から差し込む朝の光を眩しく感じる頃、二人はベッドの中でそれまでの時間が嘘のように賑やかに口論していた。

 ある程度落ち着いた頃を見計らって、瀬人が城之内にそうなった経緯をそれとなく口にしたからだ。原因が瀬人の暴力だった事を知った城之内は、それまでの優しさや穏やかさを瞬時に投げ捨て「なんだよそれ?!」と瀬人に向かって怒鳴りつけた。そして、今に至る。
 

「まぁ、でも……無事に元通りになったからいっか。オレ、特に不都合なかったし」
「貴様は実に楽しそうだったがな」
「またそういう事言う。いっくら楽しくてもさ、やっぱ何かが欠けてるって気持ち悪いもんだぜきっと。『オレ』もそう言ってなかった?」
「さぁな」
「今度こそ暴力振るうのやめろよ。奇跡は二回起きないんだからな!」
「フン、仮に忘れたとしても『絶対に』思い出すのだろう?」
「はい?」
「さっき貴様はそう言ったではないか。ならば同じ事が起きても心配は無い」
「……何その理屈。あ、あれはその、もしもの話であってだな。出来ればそういう事は二度と起きないといいなーって」
「嘘吐きめ」
「嘘じゃねぇって!仮にそうなったら絶対に……」
「どうだか」
「っかー!!お前超ムカつく!生意気すぎる!!そういう生意気な奴にはおしおきしてやる!」
「やってみろ凡骨が!」
「やってやるよコノヤロウ!」
 

 そんな憎まれ口の応酬がただの戯れになるのに、そう時間は掛からなかった。然程距離がなかった身体を抱きしめあい、互いの暴言を封じるように深いキスを交わす彼等は、その実同じ事を胸に抱いていた。実に単純で、簡潔な、ただ一つの事を。

 大好きだ。

 余りにも端的なその言葉を、どちらも口にする事はしなかった。

 特にその思いを一度も口に出した事はない瀬人は、漸く全てを取り戻したその身体をより強く己の腕の中に閉じ込めた。
 

 今度こそ、何があっても……例え彼の何を失っても、手放す事はしないだろうと思いながら。


-- End --