Act29 「幸せになるのなら、お前とがいい」

「今度引っ越しするから、一緒に暮さねぇ?」

 その言葉を口にした瞬間、殆ど夢の中にいる様な表情をしていたその顔が一気に覚醒し、ぱちりと開いた青い目がオレの事を凝視した。そして二、三度瞬きをしながら額に触れていたオレの右手を掴み取り「どういう事だ?」と聞いて来る。

 どういう事もこう言う事もないよ。言葉通りだ。

 そう言って取られてしまった右手はそのままに、今度は左手を伸ばして横たわる目の前の身体の下へと潜らせて上半身を抱える様に起こしてしまう。それに特に抵抗する事無く従った海馬はすっかり同じ目線になった瞳をやっぱり神経質に瞬かせて、もう一度、同じ言葉を繰り返した。

「どういう事だ?」

 未だ殆ど湿ったままの細い髪が、ぺたりと白い頬に張り付いて落ちる。それを持って来たタオルでふわりと包んで、オレは丁寧に指先を動かした。そして鼻歌でも歌う様な気軽さでその理由を口にする。

「だってお前って、オレがいなきゃ駄目だって気にさせるんだもん。なんつーか、これ以上ほっとけねぇ」

 今だってみろよ。この寒い時期に面倒臭いというただそれだけの理由で、濡れた身体のままバスローブをひっかけて頭すら乾かさないで寝ようとしてるじゃん。こういうのを見過ごす訳にはいかないのです。鬱陶しいとか、どうでもいいとか直ぐに文句が飛んでくるけど、だったらちゃんとしろって話だよ。自分でちゃんと出来ねぇ奴は人に構われるのは仕方ないだろ?

「……それと今の話とはどういう関係があるんだ」

 ゆっくりと自分の頭を掻き回す白いタオルとオレの指の感触にはっきりと不快感を表しながらも、されるがままにしている海馬は少し不満そうな顔でそう口にする。それを面白く眺めながらオレは大分水気を吸って重くなったタオルを傍に放り投げると、忘れずに持って来たドライヤーをベッド上部にあるコンセントに差し込んで「ほら」と小さな声で促した。

 初めは少し抵抗するけれど、結局最後はオレに無理矢理言う事を聞かせられる羽目になるから、最近は比較的素直に海馬は従う。未だ「納得が行きません」という気持ちを前面に出しながらくるりと後ろを向いたその肩を一瞬抱き締めて、湿った頭にドライヤーを近づけると、熱がらない様に調整しながら少し濃くなった栗色の髪に温風を吹き付けた。

 こういう事をしていると、なんだか昔を思い出す。

 小さい頃は静香の頭を良くこうやって乾かしてやっていた。可愛い可愛い妹だから出来るだけ優しく丁寧にしてやったお陰で、幼いながらも彼女から絶大な信頼と愛情を寄せられた。まさかこの手法が大人になっても使えるとは思わなかったけど。……尤も、海馬は口には出さないから本当はどう思っているのかなんて分からない。けれど黙ってされるがままにしているって事は、まぁ嫌ではないんだろうな。

 そもそもこうやって無防備に背を向けるなんて事を普通の奴にする事はないし、その一点だけを考えても物凄く好かれてるんだな、とは思う。まぁヤっちゃった時点で好かれてなかったら殺されてる訳だけど。……良く考えたらスゲー勇気あるなオレ。表彰もんだ。

「城之内」

 オレが手を動かしながらそんな事を考えていると、質問に答えない事に少しイラついたのか若干の苛立ちを含んだ声が名前を呼ぶ。あーそうでした。そういや今話してたんだっけね。えーとなんだっけ?なんでオレがお前に、『あんな事』を言ったか、だっけ?……だから何でって言われても答えようがないんだってば。純粋にそう思っただけだから。

 でも、何にでも理屈を通さないと聞く耳を持たない相手だから、ここはちゃんと言った方がいいのかな。……そうだよな。

「もう大分乾いたな。軽くなった?」
「そんな事はどうでもいい」
「前髪もするからこっち向いて」
「質問に答えてないだろうが」
「いいから」
「良くない」
「じゃーこっち向いたら答えてやるよ」
「貴様、このオレに交換条件を持ち出すつもりか」
「うん。いーじゃんこっち向く位」
「………………」
「お、偉いなー。いい子いい子してやろうか?」
「ふざけるなよ」
「まぁまぁ」

 そんな他愛もない事を言い合いながら、目の前の身体をくるりと反転させて今度は向かい合う形になる。途端にかっりと合った目が「言う事を聞いてやったぞ。さぁ早く言え」と思い切り睨みつけて来るから、オレは笑いながら肩を竦めて、じゃあ、と前置きした上でベッドの上に落ちていた海馬の左手を持ち上げた。

 風呂上がりだっていうのにちっとも色が付かないその中指に光るのは、何の飾り気もないプラチナのリング。勿論オレとペアになっている。去年のクリスマスにかなり奮発して買ったコレは気分的にはエンゲージリングだ。本人には言ってないけど。

 そう、エンゲージリング。なのに、海馬は中指に嵌めている。それは何故か?

「まずはこれな」
「は?」
「それからここと、ここと……他にも沢山」
「……さっぱり意味が分からないんだが」
「分かんねぇかなぁ。だから問題だと思うんですけど」

 はぁ、と小さく溜息を吐いてオレは指差し確認の為に上げていた人差し指を元に戻す。それを酷く不審な顔で睨んだ後、海馬はまた瞳だけでオレに先を続ける様に促した。結構分かり易くしたつもりなんだけど、自覚がない人間には無駄でしたか。これは一つ一つ説明しなけりゃ駄目なんですね。なんつーか、居たたまれないよな、うん。

「勿体つけてないで言いたい事があるならはっきり言え」
「……じゃあ、説明させて頂きます」

 オレは仕方なく訳も分からず眉を潜めるだけの恋人に懇切丁寧に説明してやる事にした。ちなみに居たたまれないのはオレと言うより海馬の方なんだけど、本人が分からないって言うんならしょうがない。オレは余り気が進まないまま、もう一度手放した海馬の左手を手に取ると、そこにあるリングにちょい、と触れて少し恨みがましい目を向けてやる。

 勿論意味が分からない海馬は寄せている眉をますます寄せた。その表情は他人が見れば余り可愛くないものだけど、オレ的には凄く可愛く見えるんだから好きって気持ちは恐ろしい。

「なんだ」
「この、指輪さ。なんで中指に嵌めてるんですか?」
「……駄目なのか?別に何処でもいいだろう、していれば」
「まぁそうなんだけど。ペアリングなんだから同じ場所につけて欲しいじゃん。なんで薬指に嵌めねーんだよ。その理由が知りたいんですけど」
「理由?特にない」
「ふーん。ホントに?」
「……ああ」
「ちょっと外させて貰いますね?」
「何故だ」
「いいからいいから」

 オレがそう言って海馬の指からリングを抜き取ろうとすると、海馬はちょっと慌てた風に左手を握って抵抗する。あ、こいつもしかして自覚あるのかな。あるんだろうな。あるんだったらさっきのオレの台詞の意味にも気付くだろうに分かんねぇ奴。

 そうこうしている内にリングは海馬の指から抜き取られ、オレの手の中に戻って来る。よーし後はこいつを本来の位置に戻すだけだ。多分……無理なんだろうけど。

「返せ!」
「取んねーよ。ちょっと左手貸してみ?」
「嫌だ」
「なんで」
「なんでもだ」
「嫌がるって事は、海馬くんはちゃんと分かってるって事ですよね?」
「何がだ」
「言わなくてもコレで分かるって。早く」
「………………」
「怒んねーから。な?」

 よっぽど指摘されたくなかったのかさっきのちょっと嫌な顔が凄く嫌な顔に変化して、海馬は身体ごとオレから逃げる様に後ずさる。けど、そんな事をしたって無駄な足掻きだっていうのは海馬が一番良く分かってる事だから、結果的に引っ込められた左手は渋々オレの所へ戻って来るんだ。

 おずおずと差し出されたそれを軽く握って、オレはきっちり持ち返したリングを今まで収まっていた中指ではなく、薬指にゆっくりとくぐらせる。するすると抵抗なく進んで行ったリングは、白い指の付け根まで辿り着いても想像通りきちんと収まる事はなかった。オレが指を離すと、くるりと不安定に揺れてしまう。

 勿論このリングはきっちりサイズを測って作ったオーダーメイドだ。だから、合わないなんて有り得ない。と、言う事は。変わってしまったのは指輪のサイズではなく、海馬くんの指の方で。

「………………」
「………………」
「お前、痩せただろ。何この指。指輪ブカブカとかないだろ普通。だから薬指に嵌められなかったんだろ、コラ」
「………………」
「子供じゃねぇんだから都合悪くなると直ぐぶすくれるのやめろよな」

 二人の間でゆらゆらと揺れていたそれは、海馬が少し手を動かした途端ころりとシーツに落ちてしまった。ほら見ろ、気まずくなったじゃねぇか。このリングも、そしてさっき指摘した目の下の隈も、両手で押さえると指先同士がくっついちまう位貧相になった腰回りも、全部オレの悩みの種なんだっつー事をコイツは多分知らないんだろうな。放っとくと直ぐにこれだよ。だから、オレは。

「お前の自己管理能力に果てしなく不安があるから、一緒に暮らそうって言ってんの。それが理由。何か反論は?」
「……一緒に暮らそうが暮らすまいが現状と特に変わりはないだろうが。基本的に生活時間帯は合わないし、オレは仕事で何日も家を空ける」
「うん、そうだよな。でも、変わりがないんだったら一緒に暮らしても別に不便しねぇって事だよな?」
「意味があるのか?」
「少なくても目は届くだろ。今みたく通ってるんじゃー疎かになってる所一杯あるし」
「………………」
「後、オレが幸せだし」

 二人だけの空間でお前に対して正当な世話が焼ける。こんなに楽しい事って他にはないだろ?気分の問題かも知れねぇけど、人間一番大事なのはその気分だ。少なくともオレはそう思う。

「なー、一生面倒見てやるからー」
「訳の分からんシチュエーションで間の抜けたプロポーズをするな!」
「あ、ご不満ですか?もっとこうオシャレなレストランでワイン片手に『君の瞳に乾杯!』なんて言いながら将来を約束した方がいいですか?」
「……もういい」
「じゃー決まり?」
「考えておく」
「考える必要なんかないって、思い立ったら即実行って言うだろ?絶対後悔させないから」
「とっくの昔に後悔しているわ!」
「あ、じゃーこれからは後悔させない」
「嘘吐け」
「ホントだって」
「信用ならん」
「大丈夫!」

 何せオレはお前の事が世界一好きで大切に思っているから。これからもずっと、もっと近くで、一緒に生きて行きたいんだ。

「だから、な?一緒に暮らそう」

 幸せになるのなら、お前とがいい。そう言って、返事を待たずにオレは目の前の身体を思いっきり抱き締めた。何時もは直ぐに突き飛ばされてしまうのに、その時だけは特に抵抗はされなかった。それが多分海馬の答えだったんだと思う。物凄く分かりにくいけれど、そこがいい。

 明日は少し早めに起き出して、前々から決めていたあのマンションへ下見に行こう。そう言ったら、海馬は少し口を尖らせて「オレの意見は聞かないのか」と呟いた。

 勿論聞くよ、当たり前じゃん。そう即座に耳元に囁くと、次いでとばかりに近くの唇にもキスをした。息も止まる様な長い長いキスだった。

 こう言う時はなんて言ったらいいんだろう。ふつつか者ですが、よろしくお願いします、なのか?

 息継ぎの合間にそんな馬鹿な事を口にしたら、海馬は呆れた風に肩を竦めた。そして……。

 力一杯、オレの身体を抱き締めた。


-- End --