Act5 そして今日も平和な日

 飼い猫で、しかも雄猫となれば『そう』されてしまうのはかなりの確率で仕方の無い事で。分かってはいるものの、それでも酷く気の毒に思えてしまうのは自分も同じ『男』だからだろうか。

 毛並みのいい真っ黒なその身体にぐるぐる巻きにされた白い包帯と、それを頻りに気にするカツヤの事をじっと眺めながら、城之内は何となく悲しい気分になってはぁ、と大きな溜息を一つ吐いた。それを全く気にしていない振りでその実良く見ていたらしい瀬人が「なんだその大きな溜息は」と素っ気なく突っ込んで来る。
 

「そりゃ溜息も出るってモノですよ。オス猫のこんな姿を眺めちゃね」
 

 そう言いながら彼はもう一度同じ大きさの溜息を吐く。それをやはり下らない、と言いた気に見返した瀬人は酷く柔らかな声で、けれど余りにもいキツイ一言を事も無げに口にした。

「カツヤは随分と大人しくなったぞ。貴様も取れば少しは大人しくなるのではないか」

 そう言って艶やかに笑い、幾分気の毒がっているのかずっと己の膝の上に乗せて優しく頭を撫でてやっているカツヤになぁ?と小さく同意を求める。

(馬ッ鹿じゃねぇの?オレのが無くなったら困るのはお前の癖に!)

 即座に覚えた憤慨は、城之内の心の中だけで響いたので、優雅にソファーに座る瀬人の元へと届く事はなかった。
「去勢手術〜?!カツヤとセトの?!」
「そうだよ。一応やっとかないと何かあった時面倒だろ。子猫が沢山増えたら困るしね。兄サマがそう言ったんだぜぃ」
「何かって……この馬鹿デカイ屋敷から外に行く訳でもあるまいし、必要ないじゃん。あいつらオス同士だし」
「そのオス同士で恋人になってる奴からは言われたくないぜぃ。それにあいつら、最近は外にも遊びに行ってたんだぜ。元々捨て猫だったからさ、あんまり怖くないみたい」
「へーそうなんだ。……って!おい!オレと海馬は関係ないだろ!人間と猫を一緒にすんなよ!」
「同じだと思うけど。あいつらだってさ、メス猫の姿が見当たらなければオス猫だって構わないで襲っちゃうかもしれないじゃん。現にカツヤ、セトにちょっかい出してたし」
「ちょ、マジで?!」
「今丁度発情期だろ。二匹とも凄い気が立っててさぁ、大変だったんだ。寄ると触るとメス猫もいないのに喧嘩だろ。揚句の果てには……」
「……いい!その先は言わなくていい!なんか生々しいッ!」
「なんだよ。まァとにかく、そういう事情があって一昨日病院に行って来たんだ」

 だからあんまり騒ぐなよ。カツヤが可哀想だから。

 そう言って、瀬人の代わりに城之内を出迎えたモクバとセトは、上目遣いに少々面食らって立ち尽くす彼の事を見つめると、分かったか?と念を押す。それに茫然としたまま何となく頷いて、城之内は先程から頻りに足に身体を擦りつけているセトの事を抱きあげると、ぽつりと「男って切ないよなぁ」と呟いた。それに「にゃあ」と答える白い顔に思わず小さくキスをすると思い切り鼻の頭を齧られる。

「いってぇ〜!!噛むなよお前ッ!」
「……何やってんの?」
「何でもねぇ。つかコイツ何か攻撃的じゃね?」
「だから言ってるじゃん。発情期なんだって。セトはまだ取ってないから気を付けた方がいいぜぃ。後、カツヤに近づけんなよ」
「え?掘るから?」
「バーカ!お前と一緒にすんなよ!ちょっかいかけて傷口開いたら困るだろ!だからオレ、兄サマにカツヤを預けてセトを連れだしてるんだからな」
「あ、成る程。ていうか、話の流れで肝心な事聞いてなかったけど、海馬いるんだよな?」
「いるよ。部屋でカツヤ抱えて仕事してるんじゃない?」
「おぉ、なんかすっげー羨ましい響きだな」
「そんなに羨ましければお前も取って貰えば?兄サマに優しーくして貰えるかも」
「冗談はやめて下さい」
「あはは。じゃ、セトをこっちに貸して。オレも後で行くから先に行ってていーよ。何か食べる?」
「適当に見繕っといて」
「了解。……まさかとは思うけど、カツヤに嫉妬とかしないでよ。兄サマに怒られるからね」
「しねーよ」

 オレはそこまで凡骨じゃねぇっ!そうモクバに口にして、自分で自分の事を凡骨呼ばわりしてしまった事に軽く凹んだ城之内は、セトを彼に返すと鞄を肩に引っかけ直して少し大股ですっかり覚えてしまった屋敷の中を闊歩した。

 すれ違う度に優しい声をかけてくれるメイド達の傷だらけの手も、城之内の姿を見た途端一瞬距離を取ってその手に猫を抱えていないか観察し、いないと知るとほっとした表情を見せながら挨拶をしてくる磯野の姿も、もうすっかり慣れたもので、如何にあの二匹の子猫達が(既に子猫では無くなっていたが)この海馬邸の住人としての地位を確立してしまったかが良く分かる。

(最初は物凄く妙な取り合わせだと思ったけど、慣れって怖いよなぁ)

 完璧に磨き上げられた回廊の隅の支柱に大きく刻まれた引っ掻き傷を何とは無しに眺めながら、城之内は最奥にある一際豪奢な扉の前へと立ち尽くし、ノックもそこそこにさっさと足を踏み入れた。

「おーい、海馬」
「貴様、ノックと同時に入って来るな。何の為のノックなのだ。それに妙な呼び方をするな」
「あ、いたいた。久しぶり!三日も顔を見ないと寂しくて死んじゃうぜ、オレ」
「煩いわっ!」
「や、煩いのはお前の方だって。何そんなにカリカリしてんだよ」
「別にカリカリなどしてないわ。貴様が来て早々騒ぎたてるから苛ついただけだ。先にモクバに合わなかったのか?」
「あ、会ったぜ。お前と違ってやさしーく……でもないけど、出迎えて貰った」
「ならば事情は知っているだろうが。静かにしろ」
「事情ってカツヤの事?取っちまったんだってな。可哀想に。お前もひでぇ事するよな」
「いかにもオレがやったみたいな言い方をするな。飼い主としての当然の処置だ」
「んで、その可哀想なカツヤ君はどこにいるの?」
「ここにいるだろうが」
「ん?……あ、ほんとだ!何こいつオレの特等席をぶんどってんだよ!」
「騒ぐなと言っているっ!それに何が特等席だ!」
「当たり前だろ!お前の膝の上はオレとモクバのモノなんだからな!」
「………………」

 入室して早々所持していた鞄を下ろしもせずにぎゃんぎゃんと喚き立てる城之内の事を、瀬人は大分うんざりした顔をして睨み上げた。殆ど怒鳴り声と言っていい程の大声に、膝に乗せているカツヤが起き出さないかと冷や冷やしつつ、とりあえず黙れッ!と図らずも大きな声で一喝してしまった。それにかなりむっとした顔を見せたものの、素直に黙り込んだ目の前の恋人に深い溜息を吐きつつ、まずはいいから大人しく座っていろ、と幾分優しさを滲ませた声で言ってやる。

 そして、二人の時間は冒頭の会話へと繋がるのだ。

「去勢手術かー痛そうな上に悲しいよなぁ。オレ、人間で本当に良かったぜ」
「別に猫だから特別にそうしなければならないと言う法はないぞ」
「……お前さっきから妙に攻撃的だけど、セトと一緒で発情期なの?」
「は?」
「や、だってあいつもチューしたら鼻に噛みついてきやがったし。モクバに聞いたらそうだって言ってたから」
「猫と一緒にするな。それに万年発情期の貴様からは言われたくないわ」
「周期ってものがないから人間はいいよな。いつでもどこでもラブラブ出来るし」
「……頭の悪い発言をするな。貴様は本当に躾のなってない犬だな」
「ご主人様の飼い方が悪いんじゃねぇの?今だってカツヤをずーっと膝に乗せてさ。オレいい加減嫉妬しちゃうんだけど。犬って独占欲が強いんだぜ」
「貴様は馬鹿か」
「だってよー」

 先程モクバ相手に「嫉妬なんかしない」と豪語していた事はとっくに無かった事になっているらしい彼は、既に瀬人の膝の一部と化している様な黒猫に向かって恥ずかしげもなくそんな事を言う。それに先程よりもさらに呆れた顔を見せると、瀬人は今までに見た事も無いほど優しい手つきで膝の上のカツヤを毛布ごと隣に下ろしてしまうと、ふぅ、と肩を上下する程の溜息を吐いた。本当に、どうしようもない『克也』だと思いながら。

「駄犬の癖に猫に嫉妬するとは何事だ」
「ふん。お前、オレにあんなに優しくしてくれないし」
「貴様もカツヤと同じ事になったら同情して優しくしてやってもいいが」
「モクバと同じ事言うなっ!大体オレはメス猫のケツ追っかけたりしねーし、喧嘩もしねーよ!万年発情期だけどっ」
「自分で言うな」
「なぁ、カツヤが可哀想なのも分かるけど、オレにも構ってくれよ。一週間ぶりだぜ?」
「後でな」
「絶対だぞ」
「しつこい」
「ちゃんと約束してくれないとヤダ。お前すぐ逃げるし」
「鬱陶しい!誰が逃げるかっ」

 なぁなぁ、と甘えた声を出しながら今にも喉を鳴らしそうな勢いで近づいてきたその身体を捕まえて頭をぐりぐりと押し付けて来る城之内の事を、瀬人は仕方がないと言う風に肩を竦めながら今までカツヤにしていたのと全く同じ様な手付きであちこちに跳ねている癖の強い髪を撫でてやった。

 やはり、この駄犬は猫よりも始末が悪い。本当に去勢でもして大人しくさせた方がいいのではないだろうか。……まぁでも、この男の場合はモノがあろうがなかろうが煩さに余り差は無い気がするが……そこまで考えて、何故かあらぬ方向に考えが行ってしまい、図らずも頬が赤くなってしまった瀬人の事を城之内が見逃す筈も無く。

「あれ、なんでお前赤くなってんの?既にその事考えちゃったとか?」
「ばっ、違う!勝手な事を言うな!」
「あ、じゃあカツヤとシンクロしてくれてたとか。オレのナニが無くなって困るのはお前だもんなー」
「やかましい!むしろ取ってやりたいわ!」
「はいはい。でもどーせ取るんだったらオレじゃなくってお前じゃね?使わないし」
「!!……前言撤回だ。今日はもう構ってやらん!」
「……嘘です、ごめんなさいっ。オレ達人間だからどっちも大事だよなっ?!うん!……なぁなぁだから約束してくれよ約束ぅ」
「鬱陶しいと言っている!」

 そんな事をぎゃあぎゃあ喚きながら部屋の中央でじゃれ合っていた二人は、何時しか床に座り込んで人間らしい愛のコミュニケーションを始めるのだ。
 

「なんだかんだ言って兄サマ達ってほんと、お前達と似てるよなー。なぁ、セト?」
 

 ズボラな城之内がきっちりと閉めていなかった扉の隙間からその様をちらりと覗き見たモクバは、よろしくやっている所を邪魔しないように、パタンと扉を閉めてしまうと手の中で少し興奮気味ににゃあにゃあと鳴くセトを宥めながら小さな溜息を一つ吐いた。

「お前も来週にはなくなっちゃうのか。可哀想だな」

 まぁでも確かに使いはしないだろうし、特に困らないかな?城之内もなかなか面白い事を言うぜぃ。

 その様にショックを受けるどころか、逆に声を立てて笑ったモクバは、手にガリガリと爪を立てるセトを構わず胸に抱きしめると、夕食の時間を少しだけ伸ばして貰えるよう料理長に言いに行くべく、くるりと扉に背を向けた。

 その扉の向こうでは胸に抱くセトの「にゃあ」という甘ったれた鳴き声と良く似た兄の鳴き声も聞こえていたのだが、そこは敢えて聞かない振りをした。

 オレも大人になったものだぜぃ!

 えへん、と何故か胸を張りながらそう口にしたモクバは、鼻歌を歌いながらその場所を後にする。
 

「ま、でも。だからと言って城之内に負ける事なんて万が一にも有り得ないけどね!」
 

 最後に元気よく紡がれた少々不穏な言葉は、幸か不幸か誰の耳にも入る事は無かった。


-- End --