Second Step

「あーもう最悪ッ!今日天気予報で雨降るって言ってたっけ?」
「朝のニュースでは言ってたぜぃ。夕立の恐れがありますってさ。そうでなくてももう梅雨なんだからさ、傘位持ち歩けよ」
「この間コンビニでパクられてさぁ、持ってねーんだよ」
「はぁ?お前、馬鹿だろ。コンビニの中位は持ち歩けよ!……あーもうやるよ傘位。折り畳みと普通の、どっちがいい?」
「えっ、マジで?!じゃー折り畳みがいいかなー」
「オッケー。あ、ゴメン、兄サマの部屋にあった紺色の傘、持って来てくれる?あれ、兄サマ要らないって言ってたから」
「えっ。海馬の?!」
「正確に言えば兄サマが貰った傘だけどね。兄サマは一人で外を歩くなんて事まず滅多にしないから、折り畳み傘は要らないんだって。……って、とにかくお前は着替えて来いよ。びしょびしょじゃん」
「や、でも。海馬いないんなら長居するつもりないし」
「今日は遅くならないって言ってたから直ぐ帰ってくるよ。いいから早く」

 そう言うと、モクバはオレをこの部屋まで案内してくれたメイドさんに向かって「ついでにコイツを風呂に案内してやって」と言うと、まるで犬を追い払うみたくしっしっと片手を振って退出を促した。

 それに仕方なく従ったオレは、メイドさんに案内されるがままに入り口からして偉くゴージャスなお風呂に連れて行って貰って、ごゆっくり、と頭を下げられてしまった。そして音もなく締められてしまったすりガラス製の扉を見つめて溜息を吐く。

「……何やってんだろうなぁ」

 ぽつりとそう呟いて、こうなってしまうと風呂に入るしか選択肢は残されていないから、オレは早々に濡れた制服を脱ぎ捨てると、それ自体が緩い熱を持っている床を踏み締めて中に入る。硝子一枚隔てた向こう側は想像通りの広さと豪華さで、その辺の高級ホテルなんか目じゃないと思う。……入った事無いから知らないけど。

 軽くシャワーを浴びてからお湯が溢れる程に張られてるバスタブへと飛び込んで、いつの間にか芯まで冷えちまってたらしい身体を温める。熱過ぎず温過ぎず適温に保たれたそれは、長く浸かってると余りの気持ち良さに眠ってしまいそうだった。

 それにしても……本当に、突然の大雨だった。

 授業が終わる少し前までは、窓際の席だと少し暑いと感じるほど太陽が燦々と照りつけていた筈なのに、HRが始まった段階で急に空が暗くなり、掃除を始めた頃には音を立てて降り始めた。夕立なんだから直ぐに止むだろ、と思っていたら雷まで鳴って殆ど嵐になった。ベランダに洗濯物干しっぱなしだよ……そう思ってうんざりしながら雨の中を歩いていたら、いつの間にか海馬の家の前にいた。無意識だった。
 

 海馬に告白してから約二ヶ月。
 あれから、オレ達の物理的な距離は一向に縮まる気配がない。
 

 まぁ、当然と言えば当然か。海馬は最初から「それでもいいなら」と宣言していたし、「それでもいい」と言って強引に押し切ったのはオレの方だ。だから、海馬の半径1.5メートル以内に近づけなくても、たまに心底嫌そうな顔をして「今日は一人にしてくれ」と言われても仕方がない。

 恋人なのに友達よりも遠い距離。けれど、どうしても諦めきれなかった。これからも諦める事なんて出来ないんだろう。

 常にそんな調子だったけれど、オレは凄く嫌だとか、苦しいとかは思わなかった。何故なら物理的な距離は全然縮まらないけれど、精神的な距離は少し近づいた気がするからだ。

 例えばこうして家に勝手に上がり込む事を許可してくれた事。学校にいる時は極力一緒にいてくれるようになった事(特に昼は約束を守ってくれた)。人嫌いで、いつも人の傍から逃げる様に身を隠していた事を誰よりも良く分かっているからこそ、こうした変化はとても嬉しかった。海馬なりに努力してくれてるんだと思う。

 努力をしてくれてるって事は愛されてるのと一緒で、それを思うと多少の不自由さなんか気にならなくなる。健全な青少年としては色々と困る事もあるけれど、失う事に比べればそれ位は我慢できる。海馬の努力とオレの我慢は多分同等だ。それが少しずつ負担にならなくなればいい。今願うのはそれだけだった。

「城之内〜?お前の制服、クリーニングするから持ってくな?すぐ乾くから。代わりにちゃんと服置いておくから、これ着て出て来いよ。兄サマのだからちょっときついかもしれないけど我慢して」
「えぇ?」
「あんま長湯してのぼせんなよ」

 そんな事を何気なく考えていたら不意に硝子扉の向こうからモクバの声が聞こえて来た。そして直ぐに静かになる。着替えとか別にいいのに。あーでも折角温まっても濡れた服来たら意味ないのか。水分を吸ってずっしりと重くなった学ランの感触を思い出してちょっとだけ溜息を吐いたオレは、少し足をずらして口元まで湯につかると、特に意味もなくぶくぶくと泡を立てる。

 そう言えば、最初にこの家でモクバに会った時はびっくりしたっけ。

 あの日もたまたま海馬は学校に来ていてなんとなく一緒に過ごした後、その後も予定がないって言うからオレは勇気を出して「じゃあお前の家に行ってみたいんだけど」って言ってみたら、結構あっさりOK貰って。初めての海馬邸だー!とはしゃいでいたら、急に仕事が入ったとかなんとかで、海馬は直ぐに会社に行っちまって、残されたオレはそれでも諦めきれなくて、話は通っているから先に勝手に入っていていいと言う海馬の言葉に甘えて、一人海馬邸に向かったんだ。

 けど、海馬の知り合いの中でも疎遠の部類に入る、ましてやいがみ合っていた相手でもあるオレが家に来るってのはどうなんだろう。特にモクバなんか物凄く不審がるんじゃないだろうか。場合に寄っては叩きだされちまうかもしれない。どうしよう。

 放課後、意気揚々と門の前まで辿り着いたものの、そこから先へ進むのにそんな事を考えて延々と悩んでいると、防犯カメラか何かでその様子を見ていたらしいモクバが、屋敷から門の所まで颯爽と歩いて来て一言「何やってんの?兄サマに言われて来たんだろ?入りなよ」と声をかけて来たんだ。……アレにはビビったね。

 けど、それよりももっとビックリしたのがその後の展開だった。

 だって、家に入るなり何でか偉く嬉しそうな顔でオレを振り向いたモクバが、両手をがしっと握って来てこんな事を言ったからだ。
 

「お前、兄サマの恋人になるんだって?色々大変だと思うけど、宜しくな。オレ、全力で応援するぜぃ!」
 

 あの時は本当に、心臓が口から飛び出るかと思った。思わず「なんで知ってんだよ?!」と大声で叫んじまった位ビックリした。こいつはエスパーか何かなのか?!余りに余りな事態に本気で混乱して、その場で有り得ない事をぐるぐると考え始めたオレに、モクバはやっぱりにこりと笑って、あっさりとこう言ったんだ。
 

「え?だって兄サマがそう言ってたから。屋敷の人間は皆知ってるよ」
 

 その瞬間、オレの中で何かが弾けたのは言うまでもない。勿論嬉しくて、だ。
 

 

 いい加減茹でダコになりそうだったから、ざばりと湯から上がって結構な距離があるシャワーの元へと歩いて行く。その傍に整然と置かれたシャンプー類はどれもこれも横文字で、何気なく手に取って裏を見ると、そこにも小さな英字がびっしりと印刷されていた。何製だよ。金文字だから偉く高級品なんだろうなぁ。なんか髪も身体もつやつやになりそう。そう思いながら手に取って泡だてる。クリームみたいな泡がふわふわと気持ちいい。

 海馬が、オレの事を恋人だ、と言っていた。それはオレに向かって好きとか愛しているとか言われるよりもよほど堂々とした告白なんじゃないかと思う。まだ触った事もないけれど、それでもその名称で呼ばれ、周囲にそう見られる事は本当に嬉しい。

 何より最大の砦だろうと思っていたモクバがいともあっさりとその事を了承し、応援するとまで口にしたんだ。モクバが味方についてくれれば100人力。鬼に金棒って奴だよなこれって。

 それからモクバとは結構色んな話をした。勿論大半が海馬の事だ。話してくれってお願いしたのにも関わらず、自分の事に関してはほとんど口を開かない海馬の代わりに色々と教えて貰おうと思ったからだ。でもモクバはあくまで弟であって本人じゃないから、海馬が何を考えているかとか海馬のこれまでの人生で何があったのかとか、詳しい事は余り分からない。けれど、海馬が極度の人嫌いと言う事は流石に知っていた。

 なんで触るのも駄目なんだろうな、オレ、絶対海馬を傷つけたりしないのに。

 いつだったかぽつりと愚痴っぽく口にしたその言葉に、モクバは少しだけ困った顔をして「兄サマは恵まれなかった捨て猫みたいな人だから、人間が嫌いなんだ」と呟いた。捨て猫って、じゃあ海馬は誰に捨てられたんだ。そう聞こうとしたけれど、流石にそれは聞けなかった。

 ああ、でも、それなら分かる気がする。人間不信の猫はとにかく人に近づきたがらない。優しく手を差し伸べても唸るばかりで、餌すらも拒絶する。気を許したら酷い目に合う、拾われても捨てられる、その気持ちがずっと抜けなくて甘える事が出来なくなるんだ。そして、一人で何も出来なければ死んでしまう。……幸いな事に海馬は一人で何でも出来るから、誰に手を差し伸べられなくても立派に生きていけるけれど、だからといって一生孤独で過ごせる訳もない。自分だったらそれこそ寂しくて死んでしまう。

 心が傷ついた捨て猫を懐かせるのはどうしたらいいのか。

 モクバとその話をしてからと言うもの、オレはずっとその事ばかり考えていた。……本当に猫だったら物で釣ったり出来るけれど、海馬は人間だからそう簡単に行く筈もない。けれど人間だからこそ言葉が通じるという強みもある。やり方は幾らでもあるはずだ。そう、幾らでも。
 

 

「ちょ、なんだこれ、めちゃくちゃきついんだけど!ズボン無理だろコレ」
「しょーがないじゃん。兄サマのなんだから」
「それにしたって無理だって。上はいいとして下はファスナー開けっ放しとか駄目だろ流石に」
「あはは、確かに。じゃあバスローブにする?そこにあるけど」
「なんだよそれがあるなら最初から言えよ!」
「だって城之内、一回でもいいから兄サマの服、着てみたいかなーと思ってさ。本物にはまだ触らせて貰えないみたいだから」
「……そういう気遣いね。ありがと。すげー余計な御世話」
「あはは、ごめんごめん。あ、兄サマ今帰って来たよ。部屋に行ってみたら?」
「え?マジ?……つーかこのままで行けってか!」
「まだ服乾かないから仕方ないだろ。大丈夫だって。あ、もう少ししたら夕食だから、呼ばれたら兄サマも連れて食堂に来いよ」
「お前は一緒に来ないの?」
「オレはもう兄サマにお帰りって言ったからいい。何ビビってんだよさっさと行けよ」

 そう言ってモクバは未だ頭から滴を垂らしている状態のオレを力任せにリビングから追い出すと「じゃ、ごゆっくりー」なんて扉を閉めてしまう。……人の家でバスローブ一枚で何やってんだ、と思いつつ仕方なくオレはこれだけは完璧に覚えた海馬の部屋へといつもよりも大分ゆっくりとした足取りで向かった。廊下にまで高級そうな絨毯が敷き詰められている所為か足音が全くしない。

 程無くして、現れた巨大な扉の前で大きく深呼吸をしたオレは、一応の礼儀として入るぜ、と声をかけた後返事を待たずに中に入った。すると海馬はいつもの定位置であるデスクの所じゃなく、その前に置かれているソファーの上に腰かけて本を読んでいた。そしてオレの姿に気づくと呆れたように肩を竦め「濡れ鼠が一匹迷い込んだと聞いてな」なんて軽く口の端を持ち上げた。言うに事欠いて鼠かよ。失礼な。まぁ、あの恰好はまさに濡れ鼠だったけどな。

 心の中でそう小さく悪態をついて、オレはバスタオルを抱えたその姿のまま海馬がいる反対側のソファーへとどっかりと腰を下ろして向かい合った。

 いつもの距離。これよりも近づく事はまだ許されない。

 今日も今日とて人嫌いの捨て猫は、オレの一挙手一投足に無駄に緊張して身体を強張らせる。何もしないって分かっているのにどうしてもそれだけは変えられないらしい。疲れるだろ、と声をかけると無意識なんだ、と言われるからどうしようもない。せめてその緊張を解いてやる事が出来たら幾らかはマシなのに。

 それを極力意識しないようにと再び本を読み始めた海馬の姿をじっと見つめる。中身のなさそうな細い身体。オレは筋肉はついている方だけど、標準よりも大分細身の方だ。そのオレですら着れない服を着るこいつの細さは一体なんなんだろう。抱き締めたってきっと凄く薄いんだろうな。そういや捨て猫って痩せてるもんな。抱きあげると骨の感触しかなくってさ……白い頬や手足も見るからに冷たそうだ。こんなに温かい部屋にいるのにちっとも温かそうに見えない。

 可哀想だ。こんな事を思っちゃいけないかもしれないけど、心の底からそう思う。けれどその事を口に出す事は絶対に出来ない。多分誰よりもそれを分かっているのは海馬だから。そしてその事にとうに諦めを付けているからこそ生きていける。……でもそれじゃ、悲し過ぎる。

 せめて温かさを感じて欲しいと、そう思う。オレの体温は平均よりも少し高い。だから触ればきっと温かいのに。温めて、上げられるのに。お前はオレに触られるのを酷く嫌がるから、近づく事すら出来ない。

 出来ないけれど……。

 そこまで考えて、オレはふっといい事を思いついた。『オレから』が駄目なら『お前から』なら大丈夫なんじゃないか。人に触られるのが嫌だと言っていた。……だったら、触るのは?

「なぁ、海馬。一つお願いがあるんだけど」
「……なんだ」
「髪、拭いてくれない?びしょびしょなんだ」
「……は?」
「だから、この髪拭いてよ。こっち来て、後ろからでいいから」
「何を言って」
「オレはお前に触れないけど、お前はオレに触れるんじゃないの?それとも、触るのすら怖い?……オレ、絶対に動かないし、自分からはお前には触れない。信用ならないんなら誰かに言って手足を縛って貰ってもいい」
「……そんな事までしてする事なのか」
「うん。タオル越しでもいいから、お前に触れたい」
「我慢、するのではなかったのか」
「してるよ、目一杯。だからそれしか望んでないじゃん。お前は絶対に嫌だっていうけれど、オレは諦めない」
「………………」
「一歩ずつ、進んで行きたいんだ」

 それは、最初の約束とは違うけれど。あの日、オレはちゃんと海馬に言った筈だ。未来のお前の事も大事にしたいんだ、と。少しずつ変えてみせると、そう誓った。それを全部聞いた上でお前は頷いた。第三者にオレの事を恋人だと宣言した。それで覚悟がないとは言わせない。
 

「大丈夫だって、取って食いやしねぇから。犬拭いてやってると思えばいいだろ。どうせオレの事なんてペット位にしか思ってない癖に。今尻尾振ってる状態だぜ。可愛いもんだろ」
「………………」
「何度でも言うよ。オレは、お前を裏切らない」
 

 お前を捨て猫にした他の人間とは決して同じにはならない。約束する。この約束は、絶対だ。
 

 頭からみっともなく滴を垂らし、ぐしゃぐしゃになったバスタオルを握り締めている滑稽極まりない格好だったけれど、オレは本当に真剣に、心の底からそう言った。

 その真剣な姿が海馬の心を少しだけ動かしたのか、長い長い沈黙の後海馬は黙って席を立って、少し遠回りにオレの背後まで近づくと、膝の上にあったバスタオルを取り上げて、本当にタオル越しだったけれどオレの頭に触れてくれた。

 意外に繊細な手つきで髪に纏わりつく水分を拭っていく。

 高級でふかふかなバスタオル越しじゃ、その指の感触は良く分からなかったけれど、その優しく丁寧な動きはそれから暫く、オレの感覚に残り続けた。
 

 ほんの一瞬だったけれど、それでも、オレは十分に幸せだった。


-- To be continued...? --