Act7 その声はオレの名前だけ呼んでいればいい

「モクバ、この報告書の事なのだが」
「あぁ、えっとね……これは磯野が昨日KCラボの方から持ってきて。担当者の三上から上がって来たって言ってたけど」
「そうか。磯野だな。磯野は今何処にいる」
「さっき河豚田とB社に行くとか言ってたけど?兄サマが頼んだんじゃないの?」
「そう言われればそうだったな。ではいい。後で三上に直接聞く」
「何か不備でもあった?」
「いや?説明不十分な箇所があるだけだ」
「兄サマあんまり怖い声で詰め寄らないでよ?皆ビクビクしてるんだから」
「オレがいつ怖い声で詰め寄った」
「自分で気付かないだけでしょ。兄サマ短気だからすぐドスの聞いた声になるじゃない」
「……そうか?」
「そう!な、お前もそう思うだろ?」
「は?!あ、ああ。そうだな」
「ほら、あいつもう言ってるぜぃ。気を付けてよ」

 昼下がりの社長室。瀬人が座るデスクからやや離れた黒い革張りのソファーの上でそのやり取りを眺めていた男は、突然の呼びかけにやや慌てた風に口を開いた。

 正直何を言われているかすら聞いておらず、反射的に答えを返してしまっただけなのだが、それが瀬人の意に沿わないものだったらしく、白い顔が不満そうに少し歪む。しかし、然程大した事でもなかったのか、直ぐに表情を元に戻した。そして再びモクバに向き合い、会話を続ける。

 再び部外者になってしまった男は、その様をやはり黙ったまま見つめていた。数多の書類を挟んで真剣に話をする二人の会話の内容など、場所柄仕事の話だという事以外当然分からない。それでも何処となく楽しそうに話し続ける彼らを見ていると、やはり疎外感を味わうのだ。

 別に彼等と共に仕事をしたいとは思わないし、出来る筈もないという事は分かっているが、それでも同室にいて自分だけが理解し得ないという状況はなかなか悲しいものがある。それに、男が尤も切なく思うのは、瀬人の口から自分の名だけが呼ばれない、という事だった。

 一応呼び名があるにはあるものの、こちらの世界では名として余りいいものではないのか、呼びかける時にその名を決して口にはしない。モクバ辺りは適当に略して「カイ」などと呼んではくれるものの、瀬人は頑なに他の人間に使うものと同様の二人称「貴様」と呼ぶ。

 せめてモクバと同レベルの「お前」に昇格しないのかと打診してみたものの、そこは妙な拘りでもあるのか、頑なに変える事はしなかった。よって今でも正式名称で呼びかけられた事は一度もない。最近は専ら「犬」と言われているが。

 今も彼の口からひっきりなしに飛び出すのは他人の名前ばかりで、特にモクバの名を口にする時の声色は酷く優しい。一度でもいいからあんな声で呼ばれてみたいものだ。……真面目に願うには余りにも些細な事柄に、男は小さな溜息を吐いた。

「じゃあ兄サマ。オレ、隣でこの企画についてデータの整理をしてくるよ。終わったら見てくれる?プレゼン用の資料も作れるだけ作ってみるから」
「ああ、宜しく頼む」
「分からなかったらまた来るから。あ、カイ!お前兄サマにちょっかい出して邪魔するなよ。今大事な仕事の最中なんだからな」
「心配するな。邪魔などしない」
「ホントかなー」
「信用がないな」
「貴様の普段の素行が悪いからそうなるのだ。ではモクバ、また後でな」
「うん」

 最後まで微妙に疑わしい目つきを変えないまま、モクバは大量の書類を抱えて隣室へと消えていく。途端に静かになった室内で、男は直ぐ様書類に目を落とし始めた瀬人に、ソファーから立ち上がって近づくと、徐にその名を呼んでみた。

「瀬人」
「なんだ……!!何をする!」

 その声にやはり目線を僅かにも動かさず、おざなりな感じで答えを返すその態度に、男は僅かに苛立ちを感じ、最近では滅多にしなくなった行為……瀬人の仕事の邪魔をするべく、その手の中に納まっていた書類を取り上げた。すると案の定直ぐにきつく眉を寄せた顔が男を睨んだ。その顔に、己の顔を近づけじっと見つめる。

「なぁ、瀬人。何故お前はオレの名を呼んではくれないんだ」
「……何?」
「モクバばかりずるいぞ。オレは一度たりともあの様に名を呼ばれた事などない」
「?何を言いたいのか分からんが……何か不都合があるのか?」
「不都合はない。気持ちの問題だ。名も呼ばれないペットなど可哀想だとは思わないか?」
「……貴様の名は呼び辛いのだ」
「なら、モクバの様に略称でもいい」
「………………」
「呼んでくれないと、永遠に懐かないぞ」
「散々懐いておいて今更そんな事を言うのか」
「いいから。何なら耳元で囁いてくれてもいいぞ。それをしてくれない内は書類は返さない」
「……なっ、何故貴様に交換条件を出されなければならない」
「最近は結構我慢もしているのだからこれ位我侭を言ってもいいだろうが。さぁ、早く」

 そうでないと、書類を返さないどころか本格的に邪魔をするぞ。

 元々至近距離にある顔をますます近づけてそんな事を言う男の声に、瀬人は暫し口を閉ざして考えていたが、やがて根負けするように肩を落とす程の盛大な溜息を一つ付き、彼が見下げてる所為で己の頬に降りかかる邪魔な長髪をかき上げた。さらりとしたそれを覗く白い耳にかけてしまうと、瀬人は本当に渋々と言った風情で髪に触れたその手を男の項に回すと、ぐい、と強く引き寄せた。そして。

 本当に小さな声で、男の名を呼んでやった。

「もう一度」
「嫌だ」
「一度きりなどとは言ってなかっただろう」
「貴様こそ何回もとは言っていなかっただろうが」
「愛がないぞ瀬人」
「元から愛などないわ!」
「ほー。そういう事を言うのか。噛むぞ」
「主人に歯向かったらどうなるか分かっているのだろうな!」
「主人と決めるのも犬次第だというじゃないか」
「やかましいわ!」
「全く犬よりも煩いご主人様だ」
「ふざけ……!!」

 そのまま、耳元でキャンキャンと喚き始めた瀬人の言葉を封じる様に、男は項を捕らえられたままのその体勢で、瀬人の唇にキスを落とした。勿論ただ触れるだけでは飽き足らず、『犬』宜しく口内を舐め回して。

 漸く離れる頃には二人とも軽く息が上がっていて。静かな空調器機の作動する音に混じって、室内に小さな呼吸音が響く。

「……もう気が済んだだろうが!書類を返せっ」
「やはり、もう一度名前を呼んで欲しい」
「まだ言うか!」
「今度は『もう一度だけ』でいいから」

 そう、もう一度だけ。

 出来るならその口から他人の名を呼んでは欲しくないけれど、それは無理な望みだから。今ここで、この存在を認めるが如く、名を呼んで欲しかった。

「愛犬の些細な願いを叶えてやろうと言う気がないのか?ご主人様」

 最後にそうぽつりと呟いて、男は甘えるように瀬人の肩口に顔を寄せた。

 余りにも図体が大きく、それに見合った尊大な態度で、自分よりも力が強い、犬と呼ぶには余りにも可愛げのないその存在を、瀬人は暫し無言で見つめた後、至極優しく抱き締めた。
 

 そしてその耳元にもう一度だけ、望んでいたその名を小さく告げてやった。


-- End --