これは恋なんかじゃない

 ふと、喉の渇きを覚えて目を覚ます。緩やかに目を開けて、手探りで近間に置いてある筈の携帯を見つけ出し、フリップをカチリと開ける。ぼんやりと光る青白いディスプレイの照明が暗闇に閉ざされた部屋を仄かに照らす。午前二時。まだ夜も深い真夜中だ。

 無意識に零れ落ちる大きな吐息。最近こんな瞬間が多くなった。突然眠りの淵から掬われるように目を覚まし、妙な渇きを覚えて水を求める。お陰で今までまるでお飾りだったサイドボードに置かれたクリスタル製の水差しの中身が良く減る様になった。この部屋を担当する使用人などはいい傾向だと根拠も無く口にしてきたが、彼……瀬人はとてもそうは思えなかった。

 無造作に身を起こし柔らかな羽布団をぞんざいに押しのけて、冷たい床に素足のまま降りて歩く。数歩もすれば目的のものに辿り着き、些か乱暴な手つきで丁寧に整えられたその場所からグラスを取り上げ、水差しを傾けるとそのままぐい、と口にした。冷たい水の流れが喉を潤し、同時に溜息を連れて来る。

 ここは、何処までも静かだった。暗闇の只中で一人きり、余りにも慣れた光景だが、今は何故か心細い。埒もない事だと一人己に苦笑を滲ませた彼は、起きたついでにと気紛れに足を進め、隙間なく閉ざされた厚い遮光カーテンの元に歩み寄る。今夜は初雪が降るって言ってたよ、楽しみだね。そうはしゃぎながら眩しい笑顔を見せたモクバの顔を思い出したからだ。

 手触りのいい高級な布に両手をかけて、僅かに左右に押し開く。室内の暖かさで曇った窓硝子に少しだけ眉を寄せながら冷たいそこに指を滑らせ水気を取ると、そこにはモクバの笑顔の元が現れた。しんしんと降り積もる細雪。大分前から降っていたのか、地面は既に薄い白で覆われている。

 つい先刻までいかにも侘しい枯れた色で少しだけ気分を荒ませていた庭の木々も、灰色の冷たいコンクリートもふわふわとした新雪で見違えてしまった。これは、明日は大騒ぎだな。容易に想像できるその様を頭に思い描いて訳も無く楽しいと感じた瀬人は、口の端をほんの少しだけつり上げて声には出さず一人密かに微笑んだ。

 朝起きてこの光景を目にした途端、モクバはまるで子犬の様に雪の庭を駆け回るのだろう。去年はそれで初めての風邪を引き、瀬人に散々叱られた。それを少しは反省したのか、何時雪が降っても風邪をひかずに外に飛び出せるように今年は早めに防寒着を用意していた。しかも何故か三人分。そこまで考えて、ふと瀬人の笑みが深くなる。

 ああ、そういえば今年は一人増えているのだった。初めての経験なのかは知らないが、随分と熱心にモクバに冬や雪についての説明を求め、早く触れてみたいと騒いでいた。「空から冷たいモノが降って来るとはどういう事なんだ?瀬人」と人の仕事の邪魔をしながらやけに真剣な顔で尤も基礎的な事を聞いて来るその顔を見返して、瀬人が呆れた様に溜息を吐いたのは今から数時間前の出来事だ。全く、見かけはいかにも見識がありそうな青年に見える癖に、中身はモクバと大して変わらないのだから、面白いと言うか、なんと言うか。

 そんな事を思いながら、隙間が開いたそれを元に戻し、緩やかに踵を返す。同時に再び暗くなった室内に、瀬人の笑みがふっと消えた。何故だか分からないが、光を閉ざすと共に心が冷えた気がしたのだ。

 静まり返った室内。また、喉が渇く。

 その喉の渇きの原因を瀬人はおぼろげに気付いていた。あの男が目の前に現れてから、と言えばその関連性は明白だ。だが、その事を瀬人は認めようとはしなかった。それはこの喉の渇きだけではなく、男に関わる全ての事柄に及び、その存在を深く身の内に取り込まない様に徹底して努めていた。そうしなければならないと彼は最初から強く思っていたからだ。

 何故なら、瀬人には『予感』があったから。何がどうという具体的なものではなく、彼本人が嫌悪する根拠の無い直感によって齎されたその感覚は、彼にとって仄かな幸福への種であり、絶望への呼び水だった。彼以外の人間が、『それ』を的確に表現するならば……。

「!………………」

 不意に緩やかな足取りで再び寝台に戻って来た瀬人の視界に見慣れないものが飛び込んで来た。否、飛び込んで来た訳ではない。瀬人が気付かなかっただけでそれは予めそこに存在していたのだ。瀬人が捲り上げた羽布団のやや奥の方、巨大な寝台の端に見える不自然な盛り上がりの陰に見える明るい栗色の長髪。『何』と考える必要も無い。この屋敷でその髪色を持つのは瀬人自身ともう一人、たった今彼の心を少しだけ悩ませていたあの男以外には存在しないからだ。

「……おい」

 酷く硬い声でそう呟き、瀬人は辿り着いた寝台の盛り上がりに手をかける。何をしている、等と聞くだけ馬鹿馬鹿しい。何故ならこんな事はこれが初めてではないからだ。

 些か乱暴な瀬人の手付きにも無反応だったそれは、やや暫くしてもぞりと身体を動かし、しっかりと身を隠していた羽布団を少しずり下げて顔を見せる。男が常に外さずにいる目元の青布の所為で寝ているのか起きているのか正確には判断出来ずにいたが、薄い唇が緩い弧を描いた事から目は覚めたのだろう。「なんだ」と応える声がやや掠れている事からそれまで本気で眠っていた事も明白だ。だからどう、という訳ではないのだが。

「なんだではない。貴様、また勝手に人のベッドに潜り込んだな。貴様の寝床はここではないと言っているだろう!」
「嫌だ」
「何?!ふざけるな!」
「こんなに広いのだから別にいいだろう。それに今日は少し寒い。雪とやらが降る所為か、あの部屋ではなかなか寝付けないのでな」
「オレの知った事か!」
「お前も眠れないのだろう?起き出して、うろうろしていたじゃないか」
「な……オレは眠れないからそうしたのではない。現に今眠る所だ。邪魔をするな、帰れ!」
「まぁそういきり立つな。お前が布団を捲って行った所為でそこはすっかり冷えている。こちらへ来い」
「誰が行く……離せっ!」
「瀬人、『おやすみ』」

 男が眠る傍で妙な感情の高ぶりもあって必要以上の大声で騒ぎたてる瀬人を、男は動揺の欠片も見せずに寝そべった体勢のままで眺めていたが、やがて諦めた風に肩を竦めると、言葉ではなく仕草で瀬人の声を奪うが如く寝台へと引きずり込んだ。そして、有り余る腕の力強さにものを言わせてその細身の身体を抱き込んでしまい、落ち着く様にふぅ、とわざとらしい息を吐く。肩の力は抜けた筈なのに、瀬人を拘束する腕の力は緩まない。こうなってしまうと抗うのは時間と体力の無駄なのだ。

 チッ、と瀬人の口から小さな舌打ちの音が漏れる。それに反応する事も無く、男は再び静かな呼吸を始めた様だった。首筋に感じる生温かな空気の動きと、身体全体に感じる熱い位の体温に、瀬人の眠気は急激に覚めていく。水が欲しい。強くそう思っても、もう朝までここを抜け出す事は不可能だった。

 こうして抱かれる事は嫌いじゃない。幼い頃に失った何かを取り戻した様で、幸福すら感じる。だが、心も体も成長した今、それは穏やかで優しい感覚だけでは有り得ないのだ。もっと強く、情熱的で切ない感情。瀬人が男に覚えたのはそんな……恋にも似た、否、恋と同じものだったのだ。

 けれど、それを自覚はしても彼は認めない。認められない。
 何故なら男は、瀬人と同じ『人』では無かったからだ。

 ちなみに男側の感情は最初から真っ直ぐで純粋だった。なんの臆面も無く瀬人を好きだといい、どんなに拒絶されても全く堪えずに変わらずそこに存在していた。人では無い所為か、はたまたそう装っているのかは知らないが、好きという気持ちに付随する欲望を見せる事はなく、あくまで子供の様に慕って来ている。それがまた瀬人には厄介なものだった。

 恋だの愛だのに発展する可能性が今の所ないのは嬉しいが、モクバの様な形で心の奥深くを占められる様な事になっては余計に辛いからだ。

 どんな形であれ、執着してしまえば失うのが辛くなる。今まで数多くのものを失った瀬人にとって、それは恐怖にしかならなかった。

 『人』ではないもの。その存在理由が明確に付けられないもの。突然現れた時と同じ様に突然消えてしまうかもしれない不確かさ。瀬人は、何時しかあらゆる物事に臆病になっていた。諦める事さえ難しくなっていた。

 だから、最初から欲しがらない。心を砕かない。通り過ぎるだけならば、忘れる事も容易だからだ。故に他人から言わせれば互いの一目惚れから始まった男との恋であり、愛である感情を、瀬人本人は必死で否定し、拒絶するのだ。
 

 ── これは、恋なんかじゃない。と。

 

2


 
「うわぁ!凄いよ兄サマ、もうオレの足が埋まっちゃう程積もってる!ね、見てみてカイ!これが『雪』ってヤツだぜぃ!」
「なるほど、これが雪か。随分と綺麗な色をしてるんだな。冷たいのか?」
「水分が冷気で凍って結晶化して出来てるものだから、冷たいに決まってるじゃん」
「触ってみたいな」
「朝ご飯食べたら外に行こうぜ。雪だるまの作り方教えてやるよ。……ね、いいでしょ兄サマ。ちゃんとあったかくするから」
「ああ。お前が風邪さえ引かなければそれでいい」
「瀬人、お前が心配するのはモクバの事だけだな。オレにはその一言を言ってくれないのか?」
「当たり前だ。貴様は素っ裸で外に転がろうが何とも無いだろうが」
「……何かとんでもない誤解をされている気がするが、まぁ否定はしない」
「カイって変な奴だよな。精霊って本当の所、どうなってんの?」
「どう、と言われてもな。基本的にはお前達と何も変わらない。まぁ、身体は確かに頑丈だし、生命は永続的で、人間にはない能力は色々とあるんだがな」
「ふーん。なんだか凄いぜぃ」
「お前達何時までそうしているつもりだ。外で遊びたいのならまず朝食を食べてからにしろ」
「はーい。今日はスクランブルエッグだぜぃ!兄サマもちゃんと来てね」
「ああ、直ぐに行く」

 今日学校が休みで良かった!と心の底から嬉しそうに笑いながらパタパタと軽快な足音を立てて部屋を後にするモクバの後姿を眺めながら、瀬人は残された男を敢えて無視する形で手にしていた朝刊をその場に置き、深く腰かけていたソファーから立ち上がると、扉へ向かって歩き出した。その姿を男はじっと眺めている。まるで視線に温度がある様に彼に向けた背が熱い。

 三人で存在するには少し広すぎるリビングの片隅で、瀬人は大きな溜息を吐く。結局朝目覚めるまで瀬人を拘束していた男は、瀬人が目を覚ますと同時に自らものそりと寝台から起き上がり、「おはよう」と屈託ない笑みを見せながらまるで子供の様に顔を寄せて来た。それを掌で遮り、「鬱陶しい事をするな」と毒づくのもいつもの事。

 男の唇はなにも瀬人の口を塞ごうという意図で近づくのではないと分かっていながらも、瀬人は未だ一度もそれを許した事は無い。一度許してしまえば……この共寝の様に一つの習慣になってしまうからだ。

 散々拒絶し、普通の相手ならば激怒する様な事を何度も仕かけ、なんとか止めさせようと努力してみたのだが、結果はこんな事になっている。そして、案の定二度と手酷い拒絶が出来なくなってしまった。それどころか、心地いいとさえ感じている。

 こんな事では駄目だ。そう思い何度も唇を噛み締めた。悔しさに歯噛みした。けれど、己の心も体も必死なこの気持ちを裏切るばかりだ。

「瀬人」

 ふいと顔を背け、さっさと部屋を出ようとする瀬人に、男は何時も通りの至って平静な声をかけて来た。その響きには瀬人の行動を咎める要素は微塵もない。その事に、瀬人は酷く落胆する。

「なんだ」
「雪とは綺麗なものだな」
「その台詞はさっき聞いた様に思うが」
「ああ、あれはモクバに言った台詞だ」
「オレも聞いていた」
「そうだな」
「ならば何故同じ事を改めて言う。時間の無駄だ」
「お前に言いたかったからだ」
「……………………」

 それはどういう意味だと瀬人が訊ねる間もなく、男は少し早い足取りで窓際に留めていた身体を瀬人の隣まで寄せて来ると、にこりと小さな笑みを見せた。特にどうという事はない、普通の笑み。けれど瀬人にはそれが酷く眩しいものの様に思えた。ほんの僅かに、胸が痛む。

「わざと近づいてくるな」

 それを誤魔化すように大股で距離を取り、いかにも嫌悪するような顔をしてみせる。それをどう受取ったのか、男は相変わらず読めない笑顔でそこに立ち、穏やかな声で「そんなに嫌うな」と呟いた。

「瀬人もモクバと共に付き合うのだろう?」
「雪遊びにか?冗談じゃない。オレは寒いのは苦手なんだ。二人で存分に楽しんで来い」
「オレはお前とも遊びたいのだが」
「子供ではあるまいし、そんな事に時間を割いていられるか。オレは忙しい」
「瀬人」
「なんだ!」
「どうしてお前は声を荒げてばかりいる?静かな雪の中では、その声は少し煩い」
「………………っ!」

 そんな事、決まっているじゃないか。誰のせいでこうなると思っている。貴様が、突然現れて人の心を乱した貴様がオレに声を荒げさせるんだ。ふざけるな!

 そう心の中に響く己の声を、瀬人は僅かにも漏らす事は出来なかった。元より閉ざしていた唇をさらにきつく引き結び、知らず握り締めた指先に力を入れる。真っ直ぐに見返す事はしない。見返してしまったら、必死に抑え込んでいる全てが流れ出てしまうから。

 どうして、こんな思いをしなければならないのか。いっその事、今直ぐ消えてしまえばいいのに。瀬人は一度軽く目を閉ざし、己の心が落ち着くのを待った上で、再び緩やかに瞼を持ちあげる。蒼く透明な光を湛えたそれは、先程までの苛烈さを少しだけ押え、どこか距離を置いた眼差しを男に向けた。痛みを感じた心が冷える。指先が、ゆるりと解けた。

「雪で遊ぶのなら、少しでも早い方がいい。予報では、昼過ぎには晴れるらしいからな」
「……?どういう意味だ」
「雪は温度が上がれば消えてしまう。酷く儚い存在だからな」
「そう、なのか。それは少し残念だな。だが、また降るのだろう?冬の間は断続的に見れるとモクバは言っていた」
「ああ、そうだな」
「ならばそう急がなくてもいいじゃないか」
「次が何時になるか分らんからな。降るという保証もない」
「お前は何でも堅いものの見方をするな。疲れないのか?」
「悪いか」
「別に、悪いとは言っていない」
「……だから、オレは雪に限らずそこにいつまでも在ると確約されない不確かな物には触りたくない。触ろうとも思わない」
「何の話か良く分からないが、そんなに真剣に考えるものなのか?たかが雪だろう?」
「雪だけに限った話ではないと言っただろう。……独り言だ、聞き流せ」
「せ……」
「貴様も余りどっぷりとこの地に浸らぬ様にした方がいいのではないか?帰れなくなったどうする。未だオレには理解しかねるが、精霊界とやらの長なのだろう?」
「何を言って」
「早くしろ、モクバが待っている」

 最後に吐き捨てる様にそう言うと、瀬人は今度こそ相手になぞならないという強固な意志をその横顔に乗せて、その場から素早く離れる。男が咄嗟に伸ばした腕も僅かな差で届かず、服装の所為で白い一つの光に見えるその姿は、開かれた扉の向こうに軌跡を残しながら消えて行った。

 軽く、規則正しい足音が幾重にも反響しつつ遠ざかって行く。その響きをどこか遠い場所で聞きながら男はその場に暫し立ち止まり、彼が残した言葉の意味を考えた。しかし酷く遠回しなその物言いは、元から察しのいい方では無い男の理解を得られるまでに至らない。けれど自らに向けて発せられたその声や、合わせる事をしなかったその眼差しから、おぼろげに切ないものを感じていた。それを切ない、と男が的確に受け止めたかどうかは分からないが。

「………………」

 思えば、瀬人は最初からそうだった。 出会った当初は彼の理解を超えた不可思議な現象に大げさに騒ぎたてたものの、それが落ち着いてからはどこか一線を引いて己と対峙していた。

 非科学的だ、有り得ない。事あるごとにそう口にはしていたのに、存在を無視する事はしなかった。嫌々ながら相手をしている内に傍にいる事を許すようになり、彼のみならず周囲の人間も自分の事を普通の人間して取り扱い、『名前』だけは与えられぬものの、男がこの世界に在る事を認めてくれた。

 男もまたそれを受け入れ、徐々にこちらの世界に入り浸る様になり、今に至る。その過程をみれば実におかしな現象だったが、慣れてしまえば日常になった。当たり前の事として毎日も特に考えもなく過ごしていた。

 緩やかに過ぎて行く穏やかな日々。けれど、ふとしたはずみに瀬人は真っ当な現実を突き付ける。どこか悲しげな顔と共に。

 何故だ?

 その度に男は問う。何故瀬人は今考える必要の無いそれを見せつけて、唇を噛み締めるのだろう。己の存在を認めた癖に、受け入れる事はしないのだろう。本当は嫌悪しているのだろうか。迷惑なのだろうか。勿論その両方の感情があるのには違いない。

 大体彼の常人よりも硬く閉ざされた心には得体の知れない存在が容易に入り込める隙はない。それは十分に分かっている。しかし瀬人も本当にそうであるならもっと強く拒絶し嫌悪すべき筈なのに、そこまで徹底しているとも思えない態度を取る。訳が分からない。

 男は密かに困惑していた。そして、瀬人も困惑しているのだと気付いた。だが、それをどうすればいいのか分からない。分かり合う為に、必要なものが揃わないから。

 最初は単なる興味本位だった。誰もが等しく未知の世界に興味を抱くのと同じ様に、男もまた人間界に心を惹かれただけに過ぎない。一枚のカードを通して繋がった世界に目を向け、足を延ばして、そこで『瀬人』に出会ってしまった。そして惹かれた。……それだけの事だったのに。

 何故惹かれたのか、そんな理由は今更どうでもいい。余りにも感覚的過ぎて語る事も難しい。ただ、一目見た瞬間手を伸ばして触れたいと思った。己の腕に抱きたいと思った。……それが、始まり。

 人間界の言葉で言い表すならそれは恋なのだと言う。未だにその言葉の意味を明確に理解出来ないが、この気持ちがそうなのだと言われれば、そうと認識するしかない。長という立場上、余り一つのものに執着する事がなかった男が、初めて目線を留めたのが瀬人だった。その姿と言うよりも、『存在』に心を奪われたのだ。
 

『……え?カイって兄サマの事が好きなの?』
『好き、とはなんだ?』
『えぇっと……うーんと、何て言ったらいいのかなぁ。例えば、ずーっと見ていたいとか、傍にいたいとか、触りたいとか、話がしたいとか……とにかくそういう事を思う気持ちの事。……どう?』
『言われてみればそう思うな』
『じゃあ好きって事だよ。それが人間の世界で言う『好き』。それがもっと強くなると、恋とか愛とかになるんだぜぃ』
『恋?愛?』
『その辺は別に分かんなくてもいいけど……そうなんだ。兄サマも変な奴にばっかり好かれちゃって……なんか可哀想』
『どういう意味だそれは』
『別に。でもそっか。じゃあオレもお前の事をちゃんと考えなくちゃな!兄サマはどうなのかちょっとオレには分からないけど、傍に置いてくれてるって事は案外お前の事が好きなのかもしれないぜぃ』
『そうか。それは嬉しいな』
『でもお前、人間じゃないんだろ。そこがちょっとなー』
『人間じゃないと、好きと言っては駄目なのか?』
『駄目じゃないけど……どうなるか分かんないじゃん。だってお前、元々あっちの世界に住んでるんだろ?長っていうと、ようするにボスだから、お前がいないとあっちの世界の奴等が困るじゃん。兄サマもさ、社長だろ?社長っていうのはお前と同じ『長』だから、兄サマがいないと困る奴が沢山いる』
『………………』
『だからお前も、こっちで遊んでばっかりいたり、ましてやずうっといようなんて考えちゃ駄目なんだぜぃ。兄サマが好きなのもいいけど、ちゃんとその辺考えなくちゃな』
『……よく、分からないが』
『もー……別に大丈夫ならいいけどね』
 

 少し前にモクバと交わしたこの会話がふと脳裏に蘇る。男が瀬人に対する気持ちを自覚した時の話だ。あの時、モクバも先程の瀬人と言葉は全く違えど似たような事を言った気がする。 未だに良く意味が飲み込めてはいなかったが、あの時よりは少しだけ理解出来る様な気がした。けれど、それと瀬人のあの態度がどう結び付くのかが分からない。

「…………………」

 男は知らず小さな溜息を吐いていた。その微かな呼吸音は先刻瀬人が立てたものと同じものだ。そう、瀬人もここで溜息を吐いていた。と言う事は何かを思い悩んでいたのだろう。何を、までは察する事が出来なかったが。

「カイ!何してんだよ!お前の分もオレが食べちゃうぞ!」

 不意に開け放した扉の向こうから、モクバの焦れた声が飛んで来た。そういえば、食事だと彼がここを飛び出してから随分と時間が経った様な気がする。急がなければ、今度は小さな拳でこつんと頭を叩かれてしまうかもしれない。雪も、溶けてしまうかもしれない。

「すまない。今行く」

 大股で入り口を抜け広い回廊に顔を出し、遠くにある可愛らしい顔に悪びれずにそう声をかける。その言葉を受けたモクバは口を尖らしながらもそれ以上怒る真似はせず、早くと片手で手招きをしながらダイニングルームへと引っ込んだ。その姿を追う様に、男は直ぐに歩きだす。

 その間、瀬人は同じ部屋に存在している筈なのに、声はおろか気配も感じさせなかった。自らが部屋に入って行ったとしても、多分その様子は変わらないのだろう。硬く口を引き結び小難しい顔をして、自席に座って出されたものに手をつけるだけだ。男の存在を努めて認識しない様に視線を反らしながら。それを思い描いた瞬間、男の胸にもほんの少しの痛みが走った。だがそれが何に対する痛みなのか、男には解する事が出来なかった。

 こうしている間にも雪は降り積もるのだろうか、そして、直ぐに消えて行くのだろうか。そんな埒も無い事を考えながら、男は中途半端に閉ざされた扉へと手をかける。そして、僅かに呼吸を整えた後、それをゆっくりと押し開いた。温かな空気が、少しだけ冷えた身体を優しく包んでくれる気がする。

「待たせたな、モクバ、瀬人」
「もー!遅いぜぃ!お前の分のデザート、罰として半分オレに寄こせよ!」
「それは勘弁して貰いたい。今日はオレの好きなものにして貰ったからな」

 直ぐに飛び出したテンポのいい明るい会話も、テーブルの中央に座す瀬人の笑みを引き出す事は出来なかった。ちらりと目線を寄こす事すらなく、先程とはまた違った種の新聞を黙々と読むその姿に、男は再び小さな溜息を吐く。

「瀬人の分は?」
「兄サマはもう食べちゃったぜぃ。……と言っても、珈琲一杯だけだけど」
「またか。おい瀬人、飲み物だけでは腹は膨れないぞ」
「うるさい」

 いつもの一日が緩やかに動き出す。だが、どこか少し冷えていた。それは未だ窓の向こうに見える白い雪の所為では無い事を、男も……そして瀬人もおぼろげに気付いている様だった。
 

 男が視線を合わせようと顔を向ける。
しかし、それに瀬人が応える事はついぞ無かった。

 

3


 
「なんだこれは、凄く歩きにくいんだが」
「歩く時は気をつけて歩けよ。転ぶからな」
「ふむ。これが雪か、サクサク音がすると思ったら、触ると案外柔らかいのだな」
「そうだよ。冷たいだろ?」
「ああ。通りで寒いわけだ。だが、触ると溶けてしまうな」
「元は水だからね。だから、気温の寒い今しか降らないし、積もらないんだ。普段は雨が降るだろ?今だとそれが凍って雪になって降って来る。そういう仕組みなんだよ」
「雪は『儚い』のだな」
「うん?」
「いや、瀬人がそう言っていた」
「あー、うん。兄サマはさ、雪があんまり好きじゃないんだ。好きなんだけど、好きじゃない」
「?……難しい事を言うのだな、お前は」
「本当はもっといい表現が在るのかもしれないけど、オレにもどう言ったらいいのか分かんなくって」
「何故、瀬人は雪が好きではないのだ?」
「消えちゃうからだろ」

 言いながらモクバはその場にしゃがみ込み、周囲の雪を手袋をした両手でかき集めるとぎゅ、と包み込み、その後器用にくるくると回し始めた。そしてある程度の塊になった時点で再び雪の大地にそれを投げ出し、今度はその上で転がし始める。小さな手に無造作に置かれているだけだった雪の塊は、次第に丸く形を成して行き、数回雪の上を往復すると大きな球体に変化していた。見る間にモクバの半分位の大きさになったそれをその場に放置し、彼は再び同じ動作を繰り返す。

「?何をやっている」
「何って、雪だるま」
「雪だるま?」
「まぁ、出来るまで待ってろって。お前も後で作ればいいぜぃ」

 ただの雪だるまじゃつまんないから、オレ達の雪だるまを作ろうぜ!

 そう楽しそうに笑うモクバにつられて自然と笑みになった男は、外の光を反射してキラキラと輝く雪の大地とその中を身軽に移動する彼の事を眺めていた。雪は簡単に形になるんだな。そうぽつりと呟くと、モクバが目を輝かせながらそうだぜぃ!と答えて来る。

「だから皆、雪遊びをするんだぜ。こうして雪だるまを作ったり、もっと一杯集めてかまくらとか、滑り台とか、とにかくなんでも出来るんだ。後は……」
「?なんだ?」
「そーれっ!」
「うわっ!」
「こうやって雪の玉を作ってぶつけあったりね!雪合戦って言うんだぜ。当たったら負けなんだ」
「冷たいな!背中に入ったぞ!」
「それが面白いんじゃん!」

 瞬間、あはははは!と甲高い笑い声が澄んだ空気の中に響き渡る。大きな雪の玉を転がしながらいつの間にか小さな雪玉をこしらえていたらしいモクバが、悪戯っ気を含んだ笑みと共に男にそれを投げつけたのだ。

 彼のこぶし大のさほど硬くも無い冷たい白の塊は、男の頬に当たってその欠片の幾つかを服の中に落としながら砕け散った。後に残ったのは、冷たい水の感触と衝撃に少しだけ震えた皮膚の痛みだけ。

「全く酷い奴だな。お返ししてやる!」  濡れた頬をぐい、と袖で拭いながら、男は自らも見よう見真似で足元の雪を掬い取り、ぎゅ、と手の中に握り締めると、丁度背を向けていたモクバの頭目がけて放ってやる。途端に白く弾けた雪玉に彼が「イテッ!」と声を上げた。素早く振り返り「お返しかよ?大人げないぜぃ」と言葉と裏腹な笑みを見せる。

「痛かったか?」
「雪だもん、痛くないよ。お前も痛く無かっただろ?」
「冷たいがな」
「そういうもんなの。さて、と。こんなもんかな。似てる?」

 黒い髪に沢山付いてしまった雪の欠片を鬱陶しそうに払いながら、いつの間にか雪の塊を見事に変化させたらしいモクバは、そう言って男を手招いた。言われるがままに近づくと、そこには目の前に立つ彼にそっくりの顔をした、小柄な雪人形が立っていた。ただし、実際は重ねた雪玉の上にモクバの顔が乗っている、という形状だったが。

「これが、雪だるまか?」
「そう。普通はもっとシンプルなんだけどね。これは特別」
「似てるな」
「オレ、美術得意なんだ。学校で一番だぜぃ」
「ほう」
「兄サマの方がこういうのは凄く上手だよ。ブルーアイズなんて一瞬で作っちゃうかも」
「雪でか?」
「昔はよく一緒に作ったんだぜ。雪人形は勿論、雪のお城とか、町とかさ。兄サマは細かければ細かい程上手なんだ」
「なんだそれは。瀬人は寒いのが苦手だと言っていたぞ。だから、雪遊びなどしないと」
「この家に来てからはしなくなったなぁ、そういえば。でもそれとは関係なしに、兄サマは嫌になったんだと思う」
「嫌?」
「だってどんなに上手に作っても雪だから。最後には溶けちゃうだろ?溶けてなくなってしまうものなら、作る事自体が無駄だって」
「………………」
「今の兄サマは何でもそうなんだ。ちょっと諦めが良過ぎるっていうのかなぁ。そんな感じ。オレはそんな事ないよって思うんだけど……でも駄目みたい。だからさっきも言っただろ、兄サマは本当は雪が好きなんだけど、嫌いなんだ。眺めてるだけなら、寂しくも悔しくも無いからいいって言うんだけどね。なんか、変だよね」
 

『好きだと?下らん事を言うな。オレは人外に興味など無い。大人しく自らの存在する世界に帰れ無法者が』
 

『非科学的なものなど認めんと言っているだろう。必要以上に近づくな!』
 

『……だから、オレは雪に限らずそこにいつまでも在ると確約されない不確かな物には触りたくない。触ろうとも思わない』
 

 不意に、男の脳裏に今まで投げつけられた瀬人の言葉が蘇る。どこか焦りを含んだ荒々しい上ずった声や、悲しみに沈み、今にも消えてしまいそうな程小さな声で吐き出された数々のそれは、どれもが皆一つの確固とした意志を含んでいる。これまではその事が良く分からなかったが、今ではおぼろげに分かる様な気がするのだ。

 ふわふわと、いつの間にか頭上から雪が降り落ちて来る。その一つが、頬に触れて濡れた感触を残して消えて行った。指先で触ろうとしてもその痕跡すら残らない。

 儚い。
 確かに、『これ』はとても儚いものだ。

「……カイ?」
「!……なんだ?」
「何ぼーっとしてんだよ。寒さで頭が凍っちゃったのか?精霊も大した事ないぜぃ」
「何気に酷い事を言うな。そういう所はお前も瀬人にそっくりだ」
「だって兄弟だもん。そっくりに決まってるだろ。それはそうと、寒いんなら一旦部屋に入って暖かい飲み物でも飲んでくれば?兄サマも一人でつまんないだろうし。ああ見えて兄サマ、オレ達が仲良く遊んでると寂しそうにしてるんだぜ」
「そうか?瀬人はオレが近づくと物凄く鬱陶しがるが」
「そんなのはポーズに決まってるだろ。お前ってほんとニブイなぁ」
「………………」
「でも、真面目な話。兄サマは寂しいんだよ。本当は欲しい癖に、無くすのが嫌だからって全部触ろうとしなくてさ。結局なにも残ってない。元から自分のものじゃないから悲しくは無いなんて言ってるけど、絶対そうじゃないと思うんだ」

 はぁ、とモクバの溜息が、白く空気を燻らせて空に消える。その掌には再び作り始めた白い雪玉が乗っていたが、何時まで経ってもその大きさは変わらなかった。徐々に、身体が冷えて行く。

「ねぇ、カイ」
「……なんだ?」
「お前、兄サマの事好きなんだろ。どれ位好き?」
「どれ位、とは?」
「一番好き?オレよりも好き?……あ、遠慮とか気を使うとかしなくていいから。正直に言えよ」

 ぎゅ、と小さな音がして、モクバの手の中から雪が消える。硬く握り潰されたその欠片は妙な形に歪んで白い大地へと落とされた。それを何気なく目で追いながら、男はたった今向けられた言葉に対する答えを考えていた。

 好き、と言う感情。この小さな子供の定義では、見ていたい、傍にいたい、触りたい、話がしたい、と切に思えるようなそんな思いの事を差すのだと言う。男は、瀬人に対して素直にそれらの欲求を感じ、正直に態度に表わしてきた。日々を過ごすに連れて、その思いはより強くなっていた。今となっては失う事も考えられない。

 生きる世界が違っていても、互いにそれぞれの世界で人を導く立場であっても、好きという気持ちになんの関わりがあるのだろう。

「お前には悪いが……一番、好きだな」
「離れたくない?」
「ああ」
「お前と兄サマは精霊と人間だってこと、ちゃんと分かってる?」
「勿論だ」
「でも、お前はいつかあっちに帰るんだろ?」
「そんな事は誰が決めた。特別な理由がない限り、この状態は維持し続ける」
「出来るのかよ」
「出来るさ。その為の長だろう?オレがルールだ」
「……本当に?」
「嘘を言ってどうする。大体、ゲートが開いたのも偶然ではない。必然だ。特に難しい事をしたつもりもない。瀬人やペガサスがM&Wをこの世界に維持し続ける限り、それは保障する。オレ達はカードの精霊だ。カードがこの世に在る限りは何時でもこちらに足を運ぶ事が出来るだろう。そして」
「そして?」
「瀬人は、生きている限りはカードを愛するデュエリストで居続けるだろう?断ち切られる訳が無い」

 そうだ、瀬人を初めとするデュエリストがこの世界に存在する限り、オレと人間界を切る事は決して出来ない。そう言って深い笑みをその口元に刷いた男は、些か自慢気に腕を組んで見せた。それに、モクバの顔が明るく笑う。

「じゃあお前は雪じゃないんだね」
「?なんの話だ?」
「時が来れば消えちゃうようなものじゃないよねって事だよ」
「当たり前だ。消そうと思ってもオレは消えない」
「それを、兄サマに言ってあげて。兄サマはお前を雪だと思ってるんだ。だから、ああやって部屋に閉じこもってる。お前を鬱陶しいって言って邪険にするんだ」
「……なんだと?瀬人はオレを嫌ってるんじゃなかったのか」
「だから違うって言ってるじゃん。オレ、前に言ったろ。傍に置いてるって事は嫌いじゃないからだって」
「………………」
「ちなみに、そこまで好きだって思うのなら、それはもう好きじゃないんだよ。恋って言うんだ」
「恋?」
「そう、恋。そして兄サマも同じ思いならお前達は恋人同士ってヤツなんだぜぃ。恋人っていうのは、そう簡単に離れないものなんだ。ま、その辺はオレよりも兄サマの方が良く知ってるだろ、年上なんだから」
「そうなのか?」
「とにかく、そうと分かったら早く兄サマのとこに行って来なよ。それで、上手くまとまったらここに連れて来て。オレ、一緒に兄サマと雪遊びしたいんだ。無理にとは言わないけど」

 そう言って、促すように男にくるりと背中を向けたモクバは、今度は鼻歌を歌いながら足元の雪を掬い上げた。器用な両手は先程よりも随分と手際よく雪を玉に変えて行く。

 その後ろ姿をくすりと笑って見下ろしながら、男は素直に踵を返して目の前に聳え立つ巨大な屋敷へと歩き出した。 その片隅にある一人では広すぎる部屋の中で、瞳を伏せて黙々と仕事をしているだろう瀬人の元へ、少しでも早く辿り着く為に。

 

4


 
 遠くで、甲高く笑うモクバの声が聞こえる。ついで、こちらは余り明確には聞こえない男の声。屋敷にごく近い場所で遊んでいるのだろう、彼等が雪を踏み締めるその音まで聞こえて来る様で、瀬人は手にしていた雑誌をその場に投げて深い溜息を一つ吐いた。 ついで、長時間座していた場所から立ち上がる。

 様々なイベントが一挙に押し寄せる冬のこの時期は毎年とかく忙しいものだった。去年の今頃など十二月に入ってから家に帰った事など殆どなく、顔を合わせたモクバに「お久しぶり」などと嫌味たっぷりに言われたものだった。

 今年はそうならない様スケジュールを上手く調整し、任せられる所は部下に全て任せてしまい、こうして休日は一日家にいる事が出来る様になった。尤も、理由は休息が出来ないからというそれだけではなく、瀬人に煩く詰め寄る輩が一人増えたからなのだが。

 カーテンが開け放たれた窓際に立ち、何気なく外を見遣る。本日の天気予報は今の所外れた様で未だ外には細かい雪が降り続いている。この調子では、雪だるまを作っている最中に自分達が雪だるまになってしまうのではないか。相変わらず外ではしゃいでいる二人の事を思い、何処となく頬が緩む。

「雪だるま、か」

 幼い頃は瀬人も数多の子供と同じ、雪が大好きな普通の無邪気な少年だった。モクバと共に白銀の大地に身体ごと飛び込んで元気よく駆けまわり、その後好奇心と創作意欲が向くままに様々なものを作り、そして遊んだ。元より手が器用だった所為か、作る物は周りの群を抜いて精巧なもので、それを見た施設の教師達等は手放しで褒め称えてくれたものだった。

 白い雪で作った雪人形。大きな氷柱を削って作った氷の彫刻。美しく手軽な天然の素材は瀬人をとかく夢中にさせた。けれど、所詮はただの水分の塊だ。春がくれば皆溶けて無くなった。跡さえも残らない。

 辛うじてそれらが在ったという証拠になるのは、記念に撮影した数枚の写真だけ。けれど、その写真さえも今はどこかに行ってしまった。あるのはこうした余り鮮明では無い記憶だけだ。 
 

『消えてしまうのなら作る意味なんかない。時間をかけるだけ無駄な事だよ』 
 

 最後の作品が消えた朝、瀬人はそう言って既にほぼ水と化した、元は綺麗な氷像だったそれを片足で踏み潰した。ぐしゃりと音を立てて小さな足の下に消えてしまったブルーアイズ。どんなに一生懸命に作っても、作る過程の上で愛着さえ覚えても、それは永遠にそこに在り続けるわけじゃない。

 そう思った瞬間、瀬人の気持ちは閉ざされてしまった。ならば最初から作らなければいいと、そう決め込んで顔を背けた。

 それは、小さな氷像に限った事ではない。瀬人の望んだものは大抵彼を残して消えて行った。早くに亡くした両親も然り、その後父となった男も然り、唯一無二のライバルと認めた男も瀬人に強い思いを抱かせた後あっさりと去ってしまった。

 残されたのは、行き場の無い苦しみにも似た思いのみ。消化する事さえ出来ないそれらの思いは未だ心の中に消えない痛みとなって存在し続ける。それだけでもやり切れないものを、これ以上増やす真似はしたくなかった。

 オレには、モクバだけで十分だ。あの子だけは絶対にオレを裏切らない。だからもう何も要らない。欲しがらない。まるで口癖の様に己にそう言い聞かせて今日まで生きて来たのだ。 そんな彼の日々は、あの男が目の前に現れるまでは平穏そのものだった。何物にも心を乱さず、自らに課した無謀とも思える使命を全うする為に必死で仕事に没頭して来た。これからもそうであると思っていた。だが運命は、常に突然訪れるもので。

 まさか人以外に心を惹かれるとは思っていなかった。しかも己が尤も嫌悪する科学的な証明が出来ない未知の存在に。容姿が似ているとか、非科学的ではあっても自らが密かに切望している強大な力を持っているとか、誰も関わりたがらなかった自分にモクバと同じ愛情を持って無心に慕って来た事とか、『そうなる』要素は確かにあったが、本気になるとは思わなかった。

 好きだ、という言葉が脳裏に浮かぶ事になろうとは思わなかったのだ。

 冷えた硝子に頬を寄せる。頭の中が靄が掛った様にすっきりとしなかった。仕事に戻らなければならないのに集中出来ない。だから瀬人はこの忙しい時期にも関わらず休日にここにいる事を選択した。この状態ではどこにいたのだとしても、多分思う様に効率など上がらないからだ。

 なんだか息苦しい。そう思い、酷く冷たくなってしまった身体を窓際から突き離し、瀬人はらしくなくクッションが乱雑になったままのソファーへと戻って行った。瞬間バサリと音を立てて不安定な状態のまま辛うじて座面に引っ掛かっていた雑誌が床に落ちる。それに肩を竦めて身を屈め、右手で拾い上げたその時だった。
 

『クリスマス、恋人限定イベント開催中!大好きなあの人とロマンチックな夜を過ごしませんか?』
 

 特に見るでもなくつけっ放しにしていたスクリーンの画面から妙なテンポのジングルベルと共に流れて来た音声に顔をあげる。何が恋人とのクリスマスだ、馬鹿馬鹿しい。直ぐ様向けたリモコンのスイッチで、騒がしいそれは消えてしまう。
 

 ── 大好きなあの人と。
 

 違う。好きなんかじゃない。気になどしていない。恋などもっての外だ。オレは、人ですらない奴の事など何とも思っていない。否、思ってはいるかもしれないが、欲しいとは思わない。どうせ最後には目の前から去ってしまうのだ。そんな事を思ってどうする。所詮裏切られるだけだ。苦しむだけだ。だから、オレは。

 ギリ、とソファーに添えた指先に力が籠る。どうしようもなく、心が苦しかった。何故今日に限ってこんな気持ちに囚われるのかは分からなかったが……きっと雪の所為なのだろう。『恋人達』が楽しむ季節になったからだろう。だから雪は嫌いなんだ。冬も好きではない。忘れていた寒さを思い出すから。

 溢れそうになる思いを辛うじて胸の奥に飲み込んで、瀬人は苦労して再びソファーに座し軽く額を抑え込む。拾い上げた雑誌は落ちない様にテーブルの中央へと叩きつけた。無駄に気持ちが苛立つ気がする。本当に、どうかしている。

 雑誌を投げた衝撃でテーブルの上に置き去りにしていたカップがガチャリと耳障りな音を立てた。中身が入っていては事だと、不安定に揺れるそれに瀬人は思わず手を伸ばす。白く優美な弧を描くそれは瀬人の指先に簡単に押さえられ、静かにその場に留まった。幸いな事に中身はすっかり空だった。

 ほっと息を吐き、僅かに乗り出した姿勢を戻す為に上体を持ちあげる。その時、瀬人の視界に数枚のフォトプリントが目に入った。数日前にモクバが新しいデジタルカメラを購入したと言って戯れに目に付いたものを写し撮ったものだ。たしか、瀬人の事も数枚勝手に収めていた様な気がする。その中には男も一緒に撮るのだと無理矢理割りこんだものもあった筈だ。

 その事を溜息と共に思い出しながら、瀬人はつい、と手を伸ばす。一枚一枚を特に吟味する事無く眺めていたがとある画像を見た瞬間、大きく瞳を見開いた。そこには、在るべきものが写っていなかったからだ。

 不機嫌な顔で画像の右端に座する瀬人の隣にある不自然な空間。何かを押しのける様に伸ばされた白い手の先にあるのは、写り込んだ背景だけだ。そこには、なにも無い。記憶にはそこに確かに男がいた筈なのに。

「………………」

 記録媒体には何一つ残る事の無い、不可思議な存在。あの男はそういうものだと改めて思い知らされる。こんな風に、あれはいつしか現実からも消えてしまうのだろう。瀬人をその場に残したままで、影すらも無く。

 音を立てて小さな画像記録が床へと無残に散らばって行く。
 それを色の無い瞳で眺めた後、瀬人は緩やかに目を閉じた。
 
 ── やはり恋など、出来る筈も無い、と。
 
 外で存分に被って来た雪を暖かなホールで撒き散らしながら、男はメイドがあげる悲鳴にも似た声を気にも留めずに瀬人と最後に別れたリビングへと向かった。 寒いから動く気がしない邪魔だけはするな、と言って早々に追い出されてしまったそこに、彼の気が変わらない限りは存在している筈だからだ。

 食事中は結局一度も瀬人は男の方を見向きもしなかった。食事が終わってからも無言のままソファーに移動し普段は余り読みもしない雑誌を広げながら、モクバが慌ただしく防寒着を着込み早く早くと男を促す声に無関心を装っていた。「瀬人もどうだ?」と一縷の望みを賭けて投げた言葉も「断る」の一言だけで手酷く跳ね付けられてしまった。全く、取りつく島も無い。

 仕方なく肩を竦めて、先に出て行ったしまったモクバを追おうと足を踏み出した時に、ほんの一瞬だけ瀬人が顔を上げてこちらを見ていた。咄嗟に「なんだ?」と声をかけてみたが、首を振って反らされた。あの時は余り気にも留めなかったが、今思えばあれも一つの意志表示だったのだろう。しかも、無意識の。

 全く、自分はいかにも大人で分別のある、誰よりも出来ている人間だと豪語する割に、瀬人は時たまモクバよりも幼い仕草をする事がある。それは大抵本人も無自覚な事が多いのか、指摘すると顔を真っ赤にして怒鳴りつけ、そのままいつもの拒絶へと発展する。貴様には関係ない。寄るな、触るな。まるで機関銃の様に勢い良く飛び出す言葉の陰には瀬人の別の気持ちが隠されていたのかも知れない。少なくても、モクバはそうだと言っているのだ。
 

『兄サマは寂しいんだよ』
 

 ……それを知った今なら、瀬人のあの態度も理解出来る気がする。自分にはそんな思いをした経験など無いからそこまで切実に考える気持ちなど分からなかったが、想像する事位はたやすいものだ。

 いずれ失うのなら初めから手を伸ばさない。雪が解けるのを恐れて触れるのを拒む様に瀬人は自分を避けていたのだ。それはすなわち彼が己の存在を大きなものと認めているのと同じ事で。好き、の言葉が無くとも、そう言われたも同然なのだ。

「全く分かりにくい上に素直では無いな。ただ一言言えばいいだけだろうに」

 消えて欲しくなければ、傍にずっといて欲しいのなら、「消える事は許さない」と、いつものように居丈高に言えばいいだけの話なのに。尤も、それが素直に出せたのなら瀬人が瀬人ではなくなってしまうのだろうが。

 男は雪が溶けて濡れた口の端を僅かに緩めると、いつの間にか辿り着いたリビングの扉へと手をかけた。綺麗に磨き上げられた金色の取っ手を不器用に動かし、軋んだ音と共に部屋に入る。ノックを忘れたがいつもの事なので特に問題はないだろう。小煩い小言が飛んでくるのかも知れないが。

「瀬人?」

 回廊よりも数倍暖かい部屋に完全に入り込み、瀬人がいた場所に目を向ける。しかし、そこには求める姿は見当たらなかった。代わりに、その場にあったのは放られた雑誌と床に散らばる数枚の紙の様なものだけ。興味を引かれてその場へ近寄りその一枚を拾い上げてみると、そこには不自然な形で瀬人が写り込んだ見覚えのある光景があった。

 これはたしか。モクバが妙な機械を構えてその辺のものを小さな画面に写し撮っていた時のものだ。あの時、近くにいた瀬人もその隣にいた自分も目が痛くなるような眩しい光と共に撮られた筈だ。だが、そこには自分の姿だけ残されてはいなかった。それは多分……人ではないから。

「………………」

 それをじっと見遣った後、男はその場に散った全てのフォトプリントを拾い上げ、適当に重ねてテーブルへ乗せあげると、瀬人の姿を探して室内を見渡した。すると、隣室への扉がほんの僅かに開いていて、内側から光が漏れている。ここの隣は男が瀬人に宛がわれた簡素な寝室だ。元は特に使う用途のない部屋だったから普段は誰も入る事がない。……けれど。

 妙な確信を持って男は迷う事無く隣室へと向かうべく踵を返した。男の長い足では扉へ辿り着くまで歩くのはたった数歩で、直ぐに木製のそれに手が掛る。躊躇いも無く一気に引き開け、軋んだ音を立てる前に歩みを進める。寝台が場所の大半を占めるその部屋は、入室してしまえば中の様子を把握するのは簡単だった。

「瀬人」

 小さく呼んだその声に、広い寝台の上に仰向けになって寝転んでいた細い身体がびくりと揺れた。男が入室するまで閉ざされていたらしい瞳は、思いがけない侵入者に慌てて開かれ、何かを問う様に数回瞬きを繰り返した。同じ様に無意識にだろう開かれた口は何か言葉を紡ごうとして僅かな開閉を繰り返す。

 それに気付かない振りをして、男はごく普通にいつもの調子を湛えたまま声をかけた。

「そんな所で何をやっている?具合でも悪いのか」
「っ貴様、何時の間にっ」
「たった今だ。外は寒くてな。一足先に帰って来た」
「モクバはどうした」
「まだ元気一杯で雪だるま作りに没頭しているぞ。お前にも是非参加して欲しいそうだ。その任務も負っている」
「オレは行かないと言っているだろう。しつこいな」
「それは構わないが、一人にしておくと拗ねるとモクバが言うのでな」
「何?」
「現にこんな所で不貞腐れているだろうが。違うのか?」
「誰が……!」
「瀬人」
「っ何だ!」
「そこを動くな」
「何を言って……!」

 男の余りの突飛な言動に、瀬人が驚愕と怒りを混ぜた声を上げたその時だった。部屋の入り口付近に立ち尽くしていた大柄な体は、何の躊躇も無しに目の前にある寝台の上へと乗り上げて、そこに転がる瀬人の身体に覆い被さる形で落ち付いた。

 シーツに沈む瀬人の頭の両側に腕を付き、丁度視線がかち合う様に顔を見合わせる。余りに突然の事でそれを避ける事が出来なかった瀬人は、ただ驚いて自分を上から見下げて来た男を見あげるしか術は無かった。一体何故こんな事に。そんな事を声に出して呟く程の余裕も無い。

「貴様、何をやっている!ふざけるのは止めてそこを退け!」
「ふざけてなど無いぞ。そう騒ぐな。何もこのままお前に何かするとは言ってないだろう」
「そういう問題では……!」
「普通の状態ではお前は話を聞いてくれさえしないからな。少々強引な体勢を取らせて貰ったまでだ。聞き分けろ」
「…………っ!なんの話をすると言うのだ!」
「オレ達の話だ」
「何?」
「お前が敢えて避けているらしい、オレ達の話がしたい」

 瞬間、ひくり、と瀬人の喉が震えた気がした。瞬時に見開かれた双眸は観た事が無いほど大きくその蒼を輝かせる。意味が分からない。驚きに彩られた顔がそう呟くのを敢えて拾わずに、男は単刀直入に思った事を口にした。

「お前が好きだ、瀬人。オレはお前に恋をしているらしい」
「?!……恋?」
「良く分からないが、モクバによるとこういう感情は恋だと言うのだ」
「……こういう感情、とは?」
「お前と共に居ると凄く楽しい。ずっと傍に居たいと思う。沢山話もしたいし、許されるのなら触りたい。そういう感情だ」
「な………!」
「お前はどうだ?瀬人。オレにそう思われるのは迷惑か?」

 言いたい事だけを臆面も無くすらすらと口にして、男は心持ち顔を瀬人に近づけてやけに真剣な表情をした。口元からは常に湛えている締まりの無い笑みは消え、声すらも変えてそう言い募る。そんな男の言葉に、瀬人はただ息を呑み強く眉を寄せる事しか出来なかった。

(幾らそんな事を口にしても、貴様はオレを残して消えてしまうのだろう?)

 どんなに好きだと言われても、共に居たいと言われても不確かな未来に全てを預ける勇気はない。足で踏みつぶさなければならなかった氷のブルーアイズの様に、これまで見送って来た様々な人や物事の様に。……どうせ、貴様も。

 瀬人は一瞬奥歯を噛み締めてその思いを飲み込んだ後、こちらを見下げる男同様、隠されて見えない瞳を真っ直ぐに見返して、酷く緩慢な動作で首を縦に振ろうとした。

 そうだ、そんな気持ちは迷惑だ。押し付けられて受け入れて、馴染んだ頃に放り出されるのはもう沢山だ。だからもう構わないでくれ。近づくな。不用意に触れたりするな。いっその事今直ぐ消えてしまえ。そう思って。

 微動だにしなかった顔を瀬人がゆっくりと下に向けようとした瞬間、男はその答えを待たずに再び言葉を投げ付けた。

「言っておくが瀬人。オレは雪では無いぞ」
「…………は?」
「お前は何か勝手な思い込みをしている様だが、オレは頼まれてもこちらから消える気はないからそのつもりで答えてくれ」
「………………」
「好きだ」
「……今聞いた。いや、何度も聞いている」
「ならば答えて貰おう。お前は、オレが『好き』か?出来れば、オレはお前と恋人になりたい」
「こ……」
「触りたいのだ、瀬人」

 その言葉と共に男の長い髪が一房その肩から零れ落ち、瀬人の頬を掠めて横に流れる。さらりとしたその感触に気が逸れそうになった瞬間、大きな手に両の頬を包まれた。外に居た所為か氷の様に冷たいそれは、逆に男の存在をより強く感じさせた。思わずシーツに付いたままだった手を持ち上げて触れてみても、変わらずそこに在り続ける。あの切り取った画像の中の様に消えてはいない。此処にいる。確かに、この男は自分の目の前に存在するのだ。

「今の言葉は本当か」
「どの言葉だ」
「全てだ」
「ああ、本当だ」
「……だが、貴様は精霊で、ましてや精霊界の長だろう」
「だからなんだ」
「いずれは向こうに還るのではないか?」
「お前が居なくなれば考えてもいいが、今の所そんな予定はない。自由に行き来しているこの状態で、何も問題がないからな」
「そんな事を言って、万が一帰れなくなったらどうする」
「有り得ないな」
「有り得ない?」
「ああ、有り得ない。だからお前はそんな在るかどうか分からない事態を勝手に想定するのは止めにして、少し素直になってみろ」
「……素直?」
「オレが好きだろう?瀬人」
「何故、断定で話をする」
「自信があるからだ。本当に嫌っているのなら傍にも寄せないとモクバが言っていたからな。違ったら否定すればいいだろう」

 さぁ、どうだ?

 そう言って返答を待たずに顔を寄せて来た非科学的な存在に、瀬人はもう何も言わず瞳を閉ざす事で肯定の意志を示した。どうせ頷いても頷かなくても吐息が触れるまでに近づいた唇は、勝手に答えを奪うのだ。出会ってからこの瞬間まで断続的に与えられた胸の痛みの原因は、意外にもあっさりと能天気な声が除いてくれた。一体、何の為にこうまで思い悩んでいたのだろう。馬鹿馬鹿しい。

 馬鹿馬鹿しい、けれど。特に不快には思わなかった。これもまあ、仕方がない。

「触る前に、一つ条件がある」

 そのまま唇同士を触れ合わせようとした不埒な口元を辛うじて手で押さえ、瀬人は完全に覇気を取り戻した声で男に言った。それを怪訝な顔で見返して、それでも意外な所で律儀さのある男は素直に動きを止めて、瀬人の次の言葉を待つ。

「なんだ」
「貴様の普段のいい加減さを見るに、先程の言葉だけでは信用ならない。もう一度、きちんと誓え」
「何を」
「分かっているだろうが。ただ繰り返せばいい」
「ならばオレにお願いをしてみるんだな」
「何だと?」
「お前が望めば、オレはその通りに誓ってやる。顔が似ているのだ。考えている事も分かるだろう?」
「何故オレが!」
「オレは、お前に素直になって欲しいだけだ、瀬人」

 拒絶と嫌悪に彩られた遠回しな切望ではなく、直接その声でその身体で、お前を望むと言って欲しい。

 唇からやや逸れた柔らかな耳元に口を寄せながら、男は至極真摯な声でそう言った。ついで聞こえる含み笑いに、瀬人は一瞬怒りにも似た羞恥を覚えたが、それを表に出す事はしなかった。散々苦しめられた未来への恐怖を言葉一つで無くせるならば、少しの躊躇など簡単に飲み込める。

 この男が欲しい。共に居たい。
 その思いを成就させる事が出来るのならば……。

 瀬人は、男の顔に触れていた指先を払う様に空に滑らせ、改めて目の前の……今度は頬でなく身体へ腕ごと回して柔らかく抱き締めると、全ての想いを込めてこう言った。
 

「貴様が好きだ。ずっとオレの傍にいろ」
 

 先程まで抱えていた重苦しいあの想いは、確かに甘い恋ではなかったのだろう。けれど、そんな事はもうどうでもいい。
 

 これから、彼等は恋をする。
 世界を超えた、それでも、普通の恋をするのだ。
 
 静けさに満たされた、温かな冬の部屋の片隅で。漸く互いに一番触れたかった唇を触れ合わせた二人は、確かに『恋人』になったのだ。
 

 ……酷く、ぎこちないものだったけれど。
「兄サマ!来てくれたの?!」
「ああ。この男が喧しく騒ぎたてるのでな。仕方なくだ」
「よし、モクバ。雪だるまを作るぞ。早速やり方を教えてくれ」
「やり方って……お前さっき見てたじゃん。あれで分かんないの?」
「雪を丸めて作るのだろう?三つ作ればいいんだな?」
「おい、貴様。顔はちゃんと作るのだぞ、手抜きは許さん」
「分かっている。直ぐには溶けない様なものを作ってやるからな」
「へー!それは頼もしいぜぃ!……ぜーんぜん期待出来ないけど」
「何か言ったか」
「ううん、何でも」
「終わったらこの間の機械で完成品を写してくれ。雪ならばちゃんと写るだろうからな。きちんと三人揃っている所をしっかりと頼む」
「オッケー。分かったよ!」
「尤も、記録に残さなくても、記憶には残るだろうがな」
「……どこぞの野球選手の様な事を言うな貴様。ふん。貴様など消そうと思っても消えないのだろうが、これ以上鬱陶しいものを増やさなくていい」
「何、お前が寂しがると思ってな」
「誰が寂しがるか!」
「もー兄サマ達喧嘩はやめてよ!仲良くなったのは分かるけどさ、もうちょっと落ち着いて。冬の恋人達っていうのはもっとしっとりラブラブって奴なんだぜぃ!」
「モ……モクバ?!」
「そうなのか。よく分かった!よし、瀬人!しっとりラブラブだ!」
「意味も分からない癖に勝手を言うな!」  

 その後、予報が外れ一日中降り続いた雪の下で、三人は騒ぎながら三つの精巧な雪だるまを作り上げた。それを約束通りデジタルカメラで写したモクバは、後にリビングの一番目立つ場所に豪奢なフレーム付きでそのフォトを飾ったのだ。

 実物は次の日直ぐに消えてしまったけれど、あの日の光景はいつまでも残り続ける。  

「なかなか良く出来てるじゃないか、瀬人。オレが一番格好いいな」
「当たり前だ。オレが作ったのだからな。不格好などと抜かしたら撃ち殺す」
「それは困る。お前が泣いてしまうからな」
「自分で消したものに何故オレが泣くか!」
「声を荒げるな、煩い」
「誰の所為だと思っている!」
「瀬人」
「何だ!」
「好きだぞ」

 そう言って唇を寄せて来るこの男の仕草は、いつの間にか日常になっていた。思いを確かめあってからまだ数日しか経っていない筈なのに、いつの間にか。

 こうして、少しずつ触れ合うものが多くなって行くのだろう。それに付随するように記憶も増えて行くのだろう。尤も、記憶として残すまでもなく、男は瀬人が望む限りその傍に在るつもりなのだ。
 

 そう、誓った。
 

 これは、恋なんかじゃない。こんなに甘やかなで優しい気持ちは、不安定な要素を持つ恋では無いのかもしれない。ただ、それを別の、もっと深く強い意味を持つ愛と言う単語に置き換える事は今の瀬人には出来なかった。  

 唇と共に自然と触れ合った指先は、互いの熱を分け合った後も長い間離す事無く、強く絡んだままだった。
 

 ── 確かなる、思いと共に。


-- End --