Revenge

「あのできそこないのダミーには随分と手痛い目に合わせられた。お前は身を守る為に随分と沢山のクローンを飼っている様だが、その違法性を理解しているのか?」
「何を言っている。それに、出来損ないのダミーとは何の事だ。……クローン?」
「とぼけるな。……いや、お前ももしかしたら海馬瀬人ではないのかもしれないがな」
「貴様の言っている意味が分からん。だが、覚えておけ。これ以上このオレに下らん真似をするとその薄汚い口が永遠に利けなくなるぞ」
「フン、随分と威勢がいいな。今危うい立場にいるのが自分だという事を早めに理解した方がいい。……銃口の感触が分からない訳でもないだろう。なぁ、海馬社長?」
「……貴様は、一体何者だ」
「名乗った所で覚えなどあるまい。お前に恨みのある人間など掃いて捨てる程いるだろうし。その中の一人だとでも思ってくれればいい」
「目的はなんだ。金か」
「さぁな。金も欲しいが、権力も欲しい。だが、一番の目的はお前とお前の会社を揺るがす事だ」
「何の為に」
「復讐だよ。些細なね」
「な…………っ!」

 その言葉と同時に左頬に重い衝撃を感じた。ぐらりと身体全体が傾ぐ程の強いそれは、きつく固められた拳で思い切り殴りつけられた故のもので、言葉を紡ぐ為に僅かに開いていた口の端からジワリと赤い血が滲む。咄嗟の事で歯を食いしばる事も出来なかった口内も、裂けた柔らかな肉から同じように血が溢れてきた。苦い鉄の味が舌を甘く痺れさせる。それでも、瀬人は不幸にも意識を失う事はなく、徐々に襲い来る鈍い痛みに眉を寄せる事しか出来なかった。

 思わずその場に血を吐き出す。その様を見ていたらしい眼前にいるだろう人間は、低く笑った。笑って瀬人の髪を掴み上げ、バランスの崩れた細い身体を元に戻す。その様を瀬人は視覚で確認する事は出来なかった。金属の手錠で両手両足を拘束され、瞳さえも厚い布の様なもので覆われて、冷たい壁を背に座らされている彼には、封じられた視覚以外の感覚で相手を認識する外に術が無い。

 何故、こんな事になったのか、いつからここにいるのか。
 何もかもが全く分からない中で齎された暴力に図らずも身が竦む。

 こめかみに感じる冷たい金属の感触。それが脅しの為に突き付けられている銃口だという事は分かっていた。本物かどうかは定かではない。しかし、実物を見ない限り油断は出来ない。仮に弾が込められていないのだとしても、銃の種類によっては頭を叩き割る事が出来るような重厚なものもある。安易に考える事など決して出来ない。

 鼻孔を擽る酒と煙草の入り混じった不快な匂い。瞬時に記憶を洗い出し、あらゆる可能性を考えてみたものの、そのどれもがあり得る事で埒があかない。身内の造反も考えたが耳に届く声は全く聞き覚えのないものだった。

 それに奴は幾度も呪う様に口にしたのだ。復讐だと。
 沈黙が、耳に痛い。

「今からお前の会社に連絡を取る。お前にも話をさせてやるから、優秀な部下にしっかりと頼み込むんだな。あぁ、余計な事を口にしたら即座に死んで貰う。オレはお前から取れるものが取れれば後はどうなろうと知った事じゃない。むしろ用が済んだら始末してもいいと言われている位だからな」
「……良く動く口だ。禍の元にならなければいいがな」
「なんとでも言って貰おう。そんな口が利けるのも今の内だ」
「………………」
「この間の礼はきっちりとさせて貰いますよ、海馬社長?二ヶ月間の病院生活は長かったのでね、色々と鬱憤が溜まっていて」

 その、この間の礼とは何の事だ。そう口を開く前に急に口調が変わった男の自身の髪を掴む指先の力がより一層強くなる。そして次の瞬間、ドン、という鈍い音と共に後頭部を起点に身体全体に強い衝撃を受けた。瀬人の髪を掴んだ男の手が、そのまま彼の頭を背後の壁に強く叩きつけたのだ。

 ずるりと剥き出しのコンクリートと頭が擦れ、髪が僅かに絡まり引き攣る。流石の瀬人もこれには耐えきれず、そのまま意識を手放した様だった。脱力した身体はゆっくりとその場に倒れ込み、薄汚れた石の床には彼の口元から溢れ出た血液が黒い染みを作り始めた。

 底冷えする寒さの中、その姿を静かに見下ろした男は口元に下卑た笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がる。そして、堅い革の靴底でぴくりとも動かない眼下の身体の投げ出された手首を強く踏み締め、少しだけ乱れたスーツの内ポケットの中を探った。

 やや暫くして引き抜かれた男の手の中には、薄い携帯電話が握られていた。限りなく黒に近い藍色のそれを満足そうに眺め、躊躇なく中を開くとアドレス帳を開いて眺める。そしてある番号を見つけた男は、ゆっくりとした動きで通話ボタンを押し、携帯を耳に押し当てた。

 長い呼び出し音が続く中、男はふと気付いたようにちらりと足元の瀬人を眺め、ぽつりとこんな言葉を吐き出した。

「あぁ、そういえば、話をさせる予定だったが……まぁいいだろう」

 携帯の向こうで、聞き馴れない男の堅い声が響く。「瀬人様?」と呼びかける声に、男は再度低く笑ってさも楽しそうな口調でこう言った。
 

「その『瀬人様』を預かっている。これから、オレの言う事を聞いて貰おうか」  
「兄サマが攫われた?!誰に!」
「それが分かれば苦労はしません。多分、ライバル社のどれか……候補があり過ぎて一つには……」
「それで、兄サマは無事なの?何処にいるの?」
「大体の居場所は分かっています。先程掛って来た通信の発信源に寄ると多分、童実野埠頭にある古倉庫のどれか……現在は地下に監禁されているのかそれ以上詳しくは分かりません」
「くそっ、何の為の衛星探査機能だよ?!全然役に立たないじゃないか!」
「も、申し訳ありません、モクバ様」
「……それで、どうしよう。……KCに関わった全企業の名をリストアップしていくしかないのかな。特に最近倒産したり経営が上手く行っていない様な所を重点的にさ」
「しかし、そんな猶予はないと思いますが。相手の要求は約三十億の身代金と、今期末に発表する新バーチャルリアリティシステムの下請けとしてD社を選ぶようにと。今夜中にそれが出来なければ瀬人様を生きたまま埠頭に沈めるとまで言っている。犯人探しも重要ですが、それよりも瀬人様の身の安全を第一に考えた方が……」
「D社?……じゃあそこと繋がりがある所だね。それさえ分かれば洗い出しは簡単だ。けど、どうやって兄サマを……警察には頼めないし」
「ある程度の護身具は所持しているはずです。それに相手も馬鹿ではないでしょうから、すぐに瀬人様をどうこうしようとは思わないでしょう」
「でも、相手がまともとは限らないじゃないか」
「直接奴と対峙した河豚田によれば、電話口の口調はまともだったと。全ての用意が出来れば瀬人様と話をさせてやる、とも言ったそうです」
「………………」
「それに、瀬人様自身がお作りになった緊急時のマニュアルを行使するならば、とりあえず二十四時間は様子を見ろと、そう書いてあったはず。むやみに相手の挑発に乗らず、機を待つのが得策です」
「……そんな!」
「他に何か安全で確実な方法があるのならいいのですが……今の所はこちらの対応に対する相手の出方を待つしかないかと」
「……お前達の考えはそれで一致してるんだね?」
「はい」
「……じゃあ、オレは何も言えないよ。『海馬社長』の事は磯野に任せる」
「……はい」
「でもオレは、ただ待っている事なんか出来ない。社長じゃなくて、兄サマを一刻も早く助けてやりたいんだ」
「?……モクバ様?」
「兄サマの携帯から連絡があったらすぐに教えて」
「モクバ様、何を!」
「大丈夫、お前達の邪魔はしないし、危ない事もしない。オレはオレで動くだけだよ。……あいつに、頼んでみる」
「あいつ?」
「カイなら、きっと何とかしてくれるから!」

 そう言いつつガタリと席を立ったモクバは引き留めようと伸ばされた手をするりとかわし、足早に部屋を後にした。彼の身につけるスニーカーのゴム底が床を擦る音が徐々に遠ざかって行く。その音を聞きながら、磯野は電源を入れたまま放置されたPCのディスプレイをただ茫然と眺めていた。

 瀬人が何者かに連れ去られ、その本人の携帯から法外な要求を突きつけられてから数分後。彼は即座に瀬人の側近とSPを集め、今後の対策を話し合った後、その足でこの部屋へとやって来た。そしてここに座していた副社長……モクバへ動揺を誘わないよう出来るだけ事務的に事実を伝え、これからの事を手短に話した。

 結果、得られた答えは彼の想像の遥か斜め上を行くものだったのだ。
 

 カイなら何とかしてくれる。


 モクバが強い口調で発したその言葉の意味はすぐに分かった。彼はきっと瀬人と瓜二つの容姿を持つあの男に助けを求めるつもりなのだろう。

 人間ではなく精霊だと豪語し、いつの間にか瀬人の傍に常に寄り沿うようになった『奴』の存在は磯野とて不可思議ながらも受け入れざるを得ず、その驚くべき身体能力の高さに驚愕した事も一度や二度ではない。普段は陽気で瀬人とは似ても似つかない性格ながらもいざという時頼りになるという事は知っていた。

 そしてまた、瀬人本人もその存在に随分と助けられているのだという事も。

「………………」

 磯野は小さく溜息を吐くと、くるりと踵を返して副社長室を後にした。そして、現在社長室に詰めている他のSP達に連絡を取ろうと自らの携帯を取り出してカチリと開く。居並ぶ『瀬人様』の文字の中に時折混じる河豚田の名を素早く選び出すと、ボタンを押して耳に当てた。数秒後、堅い口調で応えを返す相手の言葉を封じるように磯野は短くこう言った。

「モクバ様が動いた。『あの男』に救助を要請するらしい。我々はこれより補佐に入る」

 携帯の向こうで上がる動揺を露わにした声に特に答える気もなく、磯野はそのまま携帯をしまい込み、広い廊下をただひたすら闊歩した。相手が何者か分からない以上下手な事は出来ないが、だからと言って手を拱いているのも馬鹿馬鹿しい。

 自分達は瀬人の命に従うのみだが、『あの男』に関してはそんなものは通用しない筈だ。常に身勝手な行動をし瀬人の頭を悩ませる事も多々あるが、結果的にそれが助けになった事も幾度かある。そういえば以前にも瀬人の代わりに襲われて逆に敵を返り討ちにした、という事件を起こしたと聞いた事がある。

 詳細は良く分からないが、あの時も確かどこかの企業の社員だった男が何らかの恨みを持って瀬人を付け狙っていたのだ。随分と以前から機を伺って周囲を徘徊していたという情報もある。

 そんな事は既に社内では『よくある話』として特に気にも留めていなかったが、その直後に起きたこの事件になんらかの関連性がないとも言い切れない。……そこまで考えて、磯野はふとある事に気が付いた。脅迫電話をかけてきたあの男は、なんと言っていただろうか。『この間の礼をたっぷりとしてやる』と凄んでいなかっただろうか。
 

 と、言う事は。もしや。
 

 磯野はしまい込んだ携帯を再び取り出し、性急にリダイヤルボタンを押した。そして、相手の返答を待たずに強い口調でこう口にしたのだ。
 

「河豚田!この間の襲撃事件の詳細を教えてくれ。何か関連があるかも知れない」

 

2


 
 ぽたりと、冷たい雫が地を叩く音がする。

 同時に感じた肌を刺すような冷たさに、瀬人は静かに目を覚ました。殴られた頬や叩きつけられた後頭部の痛みは寒さに既に麻痺しているのか然程強くは感じなかった。

 出来る範囲で身じろいで、顔をあげる。すると地面に擦りつけていた所為で戒めが緩んだのか、目元の拘束感が薄れているのを感じた。緩く首を振り、再び地面にその箇所を擦り付けると、思った通りやや強引ではあったが漆黒の布が結ばれたままその場に残り、漸く瀬人は視覚で物を認識出来る様になった。二・三度瞬きを繰り返し、不明瞭な映像を鮮明にしようと必死に目を凝らす。 

 やがて徐々にクリアになって行く視界にゆっくりと映り込んで来たのは想像通りの光景だった。上から水が垂れ落ちてくるのはここが何処かの地下だからなのだろう。体中に染入るような寒さも、湿りきった淀んだ空気も全てその事実を物語っている。
 

(……一体ここは、どこだ?)
 

 把握しようにも不気味に静まり返ったその場所からは何の手がかりも得られない。遠くに見える錆びた鉄扉の向こう側には人の気配を感じた。多分先程己を威嚇していた男とその仲間が待機しているのだろう。ぐるりと辺りを見回してみても出入り口はそこだけで、この場から脱出する為にはあの扉を通る以外の方法は無かった。

 一体何人いるのかは分からないが気配だけで考えれば片手にも満たない人数である事は確かだ。後は武器の種類や所持数さえ分かれば、瀬人は自力で逃走するつもりだった。その為の備えも幾つかある。

 そこまで考えを廻らせて、まずは手始めに足の拘束を解こうと体勢を建て直し始める。両足を繋ぐ金属の鎖は思ったより細いもので、これ位なら道具の力を借りなくとも断ち切ってしまえそうだった。両足首を使って鎖への負荷を計算しつつ、徐々に力を入れていく。ギリギリと金属が擦れ合う音がして、鉄の輪の部分が薄い肉に食い込んで痛みを感じたが、それでも緩める事はしなかった。

「──── っ!」

 程なくして空気を震わせるような鈍い音がして、足の拘束感が一気に緩む。ジャリ、と鎖と地に敷き詰められたコンクリートが擦れ合い、妙な音を立てた。鎖は、中央部分が僅かに拉げて見事半分に切れていた。

 自由になった足を使って身を起こし、辺りを探る。ついで手の拘束も解こうと思ったが、何故か右手の感覚が無く思う様に動かなかった。それは先程あの男が力を込めて踏みしめた所為だったのだが、瀬人がその事を知るべくも無い。

 それでも、足さえ解ければ走る事が出来る。そう思い瀬人が立ち上がり駆け出そうとしたその刹那、それまでずっと沈黙を守っていた鉄扉が不意に開き、多分先程の人物だろう男がやや驚いた様相で瀬人を見据えた。その手には先程知覚で感じた拳銃が握られている。それを正面に構えつつ、男は立ち上がりかけた瀬人を睨めつけつつ、一歩一歩足を進めた。

 男の履く薄汚れた革靴の底が地面を擦る音が酷く耳障りに響き渡る。

「意外に早いお目覚めだったな、海馬瀬人。足の拘束まで勝手に解いて、どうするつもりだった?」
「……貴様か」
「はは、オレの顔を見た所で見当など付かないだろう?尤も、つけて貰っても今のあんたにどうする事も出来ないだろうが」
「フン、早速品の悪さが露呈したな、ドブ鼠め」
「うるせぇよ。あんたの会社には既に連絡を入れておいた。こちらの要求を受け入れない場合、あんたは数時間後にはコンクリ詰めで童実野埠頭の海底に沈む事になる。それ以前にこちらの機嫌を損ねたらその時点でおシャカだぜ。口の利き方は気をつけた方がいいんじゃねぇか」
「はっ!鼠とまともにきく口など持ち合わせてないわ。殺るならさっさと殺ればいいだろう」
「お望み通り、その時になったら遠慮なく殺ってやる。それにはまずモノを頂かねぇとな。ここにあんたの携帯がある。あんた自ら電話して、不甲斐ない部下どもに一発喝を入れてやったらどうだ?連絡してからもう三時間になるが一切動きがみられねぇ。一体どうなってやがる」
「さぁな」
「冷静だな」
「騒いだところでどうにもならんだろうが」
「………………」

 その台詞を口にした直後、相手を嘲笑うように口元を歪めた瀬人を、男は心底怒りを露わにして見下した。この余裕は何なのだろうか。圧倒的に不利な立場に追い込まれているのにも関わらず、常と然程変わらないだろうその態度に男は微かに焦燥を覚え始めた。

「どうした?急に威勢が無くなったようだが」
「っ黙れ!無駄口を叩くな!」
「黙って欲しければ口でも塞いだらどうだ。まさかこの状況でオレに近寄るのが怖いと言う事もないだろう」
「黙れと言っている!」
「誘拐などと言う大それた事をしでかす割には臆病な事だ。貴様の様な無能な男は実力でのし上がる事も出来ないのだろうな。哀れな事だ」
「煩い!」
「──── っ!」

 瀬人の言葉を遮る様に男が声を荒げた瞬間、その響きに重なる様に一発の銃声が鳴り響いた。同時に瀬人の頬に一筋の血が伝い落ちる。彼の顔のすぐ横の壁には小さな銃痕が出来、微かに白い煙をあげていた。

 男が激昂の余り手にした拳銃を発砲したのだ。

「口を閉じろ。次は頬だけではすまさねぇぞ」
「……意気地無しが」

 銃を掲げ、より一層凄んでみても瀬人の態度は変わらなかった。ただじっと、暗がりの中でも良く目立つ不気味な程澄んだ瞳で男を見上げている。その鋭い眼光には覚えがあった。丁度二ヶ月前、己が執拗に付け狙った揚句、襲撃したあの男。後の情報でアレは瀬人のダミーだという事が分かったが、あの男も丁度今の瀬人と同じ目をしていた。何処までも強い、見る者全てを威圧し、黙させてしまうブルーアイズ。

 それを思い出した瞬間、男はふと自身の脳裏である可能性に辿り着き、息を飲んだ。

 過去、自分を痛めつけた『海馬』と同じ瞳を持ち、こんな窮地に立っても動揺一つしないその剛胆さ。KCに向けて出来うる限り酷薄な物言いで脅迫したにも関わらず、一切の動きが見られない事。その二つの要素が指し示す可能性はただ一つ。目の前のこの男も、海馬瀬人のダミーの一人かもしれないという事だ。

 ダミーならば、何をされようが己の役割を心得ているが故に、動揺など欠片もしないだろう。KCとて、仮にこのダミーを失う事になっても所詮は捨て駒、惜しむものでもない。むしろこれを餌に自分達の動向を探っているのかもしれない。その陰には本物の海馬瀬人が潜んでいるかも知れないのだ。

 己を睨む目の前の『瀬人』の向こう側に、酷薄な笑みを浮かべたもう一人の海馬瀬人の姿を見た気がして、男は思わず拳銃を握り締める手に力を込めた。

 これは確かめる必要がある。もし眼前の男がダミーなら、即刻『処分』をしてこの場から一時退却をしなければならない。そうでなければ、この間と同様、手酷い返り討ちに合わないとも限らない。今回は前回よりも規模が大きく、KC本社をも相手にしている。一瞬の判断ミスが組織全体の命取りにもなるのだ。間違いは許されない。

 そう思った男は銃を正面に構えたまま、真実を見極めるべくゆっくりと瀬人の方へと歩みを進めた。男の歩みと共に響く、硬質な足音が幾重にも反響して消えていく。

「……なんだ」

 そんな男の行動にもやはり微動だにせず、ただ静かにその動向を見守っていた瀬人は、徐々に近づくその顔を無表情に見つめ返すのみ。呼吸すら乱さないその様に、男の想像は徐々に確信に変わっていく。

「……一つ、質問に答えて貰おう。あんたは、本当に海馬瀬人か?」
「何を言っている。貴様気でも狂ったか。オレが海馬瀬人でなければ貴様は誰を捕らえたと言うのだ」
「先程も言ったが海馬瀬人には沢山のクローン……いや、ダミーが存在しているとの情報があってね。オレもその内の一人に先日煮え湯を飲まされた一人だ。あんたの耳には届いていないか?二ヶ月前の事だ」
「……二ヶ月前?……っまさか!」
「そうだ。二ヶ月前に刃物であんたを襲ったのはこのオレだ。結果は、まぁ言わずもがなだが。あのダミーはなかなか良く出来ていたぞ」
「……そうか、貴様がアレを襲ったという鼠だったのだな」
「あぁ。あの男、人間かどうかなど知った事じゃねぇが、出来損ないにしては良く似ていた。随分と手だれていたしな」
「出来損ない?」
「出来損ないだろう?一歩反応が遅ければ死んでたぜ、あいつ。たかがダミーとは言え、もう少し優秀な作りにするんだな。あんたもそうなら尚更な!まぁ、あれよりはあんたの方が幾らか本物に近い……ぅぐっ!」

 瞬間男の体躯は空を切り、数メートル先へと弾き飛ぶ。眼前に突き付けられた銃ごと、瀬人が渾身の力を込めてその顔面を蹴り飛ばしたからだ。ドサリと鈍い音が響き、男の身体が地面に倒れ伏すと同時に瀬人は壁を背に素早く立ち上がり、その身体の元へと走った。近間に落ちていた彼が手放した拳銃を彼方に弾き、その首をきつく踏み絞める。

 ギリ、と皮膚と地面が擦れる音が耳障りに響く。

「っ!てめぇッ!」
「貴様、今なんと言った?出来損ないのダミーだと?」
「あぁ?!」
「貴様を二ヶ月間の病院送りにした、その男の事をなんと表現したのかと聞いている」
「………………」
「どうした。言えないのか」
「…………くっ」
「ならば、死ね」

 両手を拘束され足のみに自由が許されたその身で、五体満足の男をいともたやすく組み伏せた瀬人は、先程男が彼の後ろに描いた『海馬瀬人』とまるで同じ冷たい笑みを浮かべてそう口にすると、男の首を踏み締めている足の力を強めようと徐々に体重を移していく。その瞳には先程とは比べ物にならない程の殺気が籠り、冷徹なその顔にはそれでも静かな憤怒が見て取れた。

 何が彼をここまで激怒させたのか、男にはまるで見当も付かなかったが、今この瞬間、彼が『本物』の海馬瀬人だと言う事を肌で感じた。こいつはダミーなんかじゃない。計画は成功していたのだ。だが、しかし。

 男は徐々に薄れ行く意識の中で、未だ僅かに動いた指先で己の服の内部を探り、通信機のとあるボタンを押した。それは、仲間内に緊急を知らせるエマージェンシーシグナルだった。音もなく明滅するそれに気付く事無く、瀬人はただ静かに男の顔を見下ろして己の足に力を込めた。その時だった。

 ドン、と耳を劈くような音が響き、数メートル離れた鉄扉が勢いよく開く。同時目の前を掠った銃弾に、瀬人の髪が数本はらりと落ちた。

「……っぅあ!」

 はっとしてその方向を瀬人が見るよりも先に彼の視界は反転した。眼下の男が気力を振り絞り己の首をへし折ろうとしていたその足を掴み上げ、勢いよく身体ごと引き倒したのだ。ただでさえバランスの悪い状態で唐突に加えられた引力に瀬人に成す術はなく、彼は敢え無くその場に倒れ込んでしまう。

 両手を拘束されている所為で満足に受け身も取れず、全身を強かに打ちつけた瀬人は、すぐには身動きなど取れなかった。ギリギリと掴み絞められた足首の痛みに構う事なく、とにかくこの男の動きを封じようともがいてみるが、流石に同じ轍は踏めなかった。

 右頬に再び鋭い痛みが走る。堅く握りしめられた男の拳が真紅に染まった。

「っざけやがって!殴り殺してやる!」
「やめろ新田。短気を起こすな」

 男の手が再び瀬人の頬に振り下ろされる前に、扉を開け発砲した仲間らしい数人が鋭い声でそれを制した。大方この男の仲間なのだろう。彼らは皆銃を構え、瀬人に照準を合わせながらゆるりと二人を取り囲むように歩んでくる。その中の一人、どうやらこれが真の首謀者らしい妙にがっしりとした体格の男は下卑た笑みを浮かべてさも可笑しそうにこう言った。

「そう焦るな。取るものを取らない内は海馬社長には生きていて貰わなければならないのでね。短絡的な行動は慎んで貰おうか」
「っだがよ!」
「まぁしかし、それではお前の気も済むまい。……そうだな『口が利ける状態』であれば、何をしても構わん。生きている事さえ分かれば問題はない。それにしても社長、KCの社員とはかくも無能な男ばかりなのですか?貴方が我々の元に来てから既に半日。一向に動く気配が見られませんが」
「……それは、優秀な事だな」
「どういう事です?」
「……言葉通りだ。我が社の社員には貴様らのような下劣な輩とは一切取引をしないようにと言い聞かせてある。……貴様らが今ここでオレを殺そうが、何をしようが、KCは僅かにも揺るがない事をその目で確かめてみるがいい」
「何?」
「── 下衆が。地獄に堕ちろ!」

 瀬人の低く鋭い声が、立ち尽くす数人の男達が纏う空気を凍らせる。地に倒れ伏し、腫れた口の端から血を流しながらもその姿に一片の危機感も脆弱さも見られなかった。
 

 なんだ、こいつは。
 

 その場に集う誰もが胸にそう思い、一斉に怒りを滾らせた。ガキが舐めやがって。誰かが唾棄と共に呟いた枯れた声を合図にその場にいた全員が表情を豹変させて、それぞれの銃を構えた。新田と言う男を制していた首謀の男でさえ、その瞳に憎しみを滾らせて銃口をその白い額に押し当てた。

 その刹那、男達の背後にゆらりと動く影があった。薄暗がりに紛れて物音一つ立てず動くそれは、静かに開け放たれたままだった扉の向こうに佇み、じっと瀬人を見ている。瀬人は一瞬目を瞠り息を飲んだ。そして、元より不敵な笑みの形に歪めた口元をさらにきつくつりあげる。

 その表情が、男達の怒りを煽ろうがどうでも良かった。
 揺らめく影の正体に……瀬人だけは、気付いたからだ。

 カチリと、安全装置が外れる音がする。

「……気が変わりました。貴方には死んで貰いましょう。海馬社長。良く考えてみればKCの最重要ブレーンである貴方の死が一番我々の為になるようですから」
「………………」
「ご安心を。貴方の亡骸は多額の身代金と引き換えにきちんと社に届けさせて頂きますよ」
「死体に誰が金を出すのだ。下衆な輩が考える事はオレには分からん」
「黙れ」
「最後に忠告しておくが、余りKCを舐めない事だな。オレがいなくなったところでその技術力や能力が潰える訳もない。貴様らが思う通りになど決してなるものか!」
「死ね、海馬瀬人!」

 瀬人の挑発にも似た強い言葉に男の憤怒に満ちた声が重なり、引き金を引く音が響いたのは同時だった。ドン!と大きな銃声が複数聞こえ、そこのいた誰もが血塗れで横たわる瀬人を想像し、悪辣な笑みを浮かべた。

 しかし彼らがそこに目にしたものは、銃弾を受けた少年の死体ではなく、僅かな血痕だけが残る薄汚れたコンクリート。そしてそれが、『彼ら』が視覚で捕らえた、最後のものでもあった。

 不意にその場に響いたさらりと長い髪が揺れる音。不気味なほど静まり返った、暗闇の空間に突如現れた『それ』は、腕に抱えた瀬人をきつく抱きながら、やや呆れた笑いと共にこう言った。
 

「……お前は少し口の利き方を考えた方がいい、瀬人」  
『兄サマが誘拐されて、どこかの地下に監禁されてる。相手は誰か分からないけど、KCに恨みを持ってる連中なのには間違いないんだ。あいつら要求を飲まないと兄サマを殺すって!でも、SP達は兄サマの命令ですぐに動く事が出来なくて……けれどこのままじゃ、兄サマが!お願い、カイ、兄サマを助けて!』
 

 男が顔色を変えたモクバからそんな驚愕の懇願を受けたのは敵側から脅迫電話を受け取った数時間後の事だった。その日、たまたま外出していた男は出先でモクバからの緊急連絡を受け、人混みの中を立ち尽くして茫然とその話を聞いていた。

 ちらりと見上げた街頭時計が示す時間は午後六時。瀬人とは今朝顔を合わせたきり当然連絡など取っていなかったから、ふって湧いたその信じがたい事態に彼は一瞬携帯電話を取り落としそうになった。辛うじてそれを指先で支え、空を睨む。

 そして男はそれまでの安穏とした表情を瞬時に収め、低い声でこう言った。

「── 瀬人の捕らわれている場所は分かるのか?モクバ」
『うん、大体の所は……今、磯野がお前の所に向かってる。詳しくは磯野から聞いて!』
「そうか。分かった」
『もう!なんでお前、肝心な時に家にいないんだよ!探しただろ!馬鹿ッ!』
「すまない。退屈だったものでな。でも、悪いのはオレだけじゃないぞ。瀬人と約束をしていたのだ」
『約束?!外で?』
「ああ、今夜は外でデートするってな」
『……そっか。タイミング悪いね……』
「モクバ」
『何?』
「安心しろ。オレは約束は破らない。予定も狂わせたりしない」
『……………………』
「瀬人は必ず無事に連れて帰る。お前は心配せずに待っていろ」
『本当に?』
「ああ、本当だ」
『絶対、だよ?』
「オレが嘘を吐いた事があったか?」
『……ううん。じゃあ、頼んだぜ!』

 モクバが携帯の向こうで大きく頷いたその時、男の肩に触れる手があった。ちらりと見えた黒い袖口に見覚えのある黒いスーツ。はっとして男が振り向く前に、その手は強引に男の肩をぐいと引き、堅い声でこう言った。

「瀬人様が監禁されている場所を教える。付いて来い」
「磯野」
「車はあそこだ」
「……瀬人は無事なのか?モクバの話ではKCに恨みを持っているとか何とか……」
「確かに、奴らはKCに恨みを持つ連中だ。莫大な金額と、馬鹿な要求を同時に突き付けて来ている。だが、それと同時に瀬人様本人にも多少思う事があるらしい」
「どういう事だ?」
「お前だ」
「……オレ?」
「ああ」
「オレが今回の事に関わる何かをしたと言うのか?そんな覚えはないが」
「だろうな。私も『その事』が関係しているとは思ってはいなかった」
「なんだ、『その事』とは」

 華やかな街並にはそぐわない、一見異色な異様な雰囲気を醸し出しつつ先を行く磯野の後を追いながら、男は不意に彼の口から紡がれた聊か濁すようなその言葉に、僅かに片眉を上げて聞き返した。

 今の言葉通り、自分には瀬人がこのような事件に巻き込まれるような要因をまき散らした覚えはないし、数ヶ月前に起きた襲撃事件以降、比較的大人しくしていたつもりだった。勿論あのコートを着て外を歩く真似もしていない。それに最近の瀬人の身辺も穏やかなものだった。それなのに、何故。

 そこまで考えて、男は不意にはっとした。もしや、磯野の言う『その事』とは、今まさに自分が回想した襲撃事件の事なのではないかと。

「まさか……」
「何を想像したのかは分からないが、多分そのまさかだ。お前が『海馬瀬人』として手酷く痛めつけたあの男……奴が復讐の為に再び瀬人様を付け狙っていたという訳だ」
「何?!」
「電話越しに言われたぞ。『この間の礼をたっぷりとしてやる』とな」
「……あの時、やはり二度と立ち上がれない位に痛めつけてやるべきだったか」
「まぁ、どちらにしても相手は個人ではなく組織だ。男一人闇に葬った所でどうにもならない。お前も嫌と言うほど分かっただろうがな」
「……それで、瀬人は何処にいる」
「ここから車で小一時間程の場所にある童実野埠頭の旧倉庫地下だ。大体の場所は把握している。本当は私達が直接救出に向かいたい所だが瀬人様が……」
「分かっている。モクバから聞いた」
「……頼めるか?」
「元より一人で行くつもりだ。その方が都合がいい。瀬人もオレにならともかく、お前達に無様な姿は見せたくはないだろうからな」
「すまない」
「それより、瀬人を付け狙っているというその『組織』の正体を早く暴き、再発防止に努めるんだな。オレも常に瀬人を守ってやれるとは限らない」
「ああ、分かっている」
「では行こう。約束の時間まで、後少しだからな」
「……約束?」
「こちらの事だ」 

 そう言うと、男は磯野を押しのける形で先に車に乗り込み、堅い表情で前を見つめた。同時に反対側のドアから乗り込んだ磯野も同じ表情で、静かに待機していた運転手に向かって声をかける。例の場所へ、道順はでたらめにしろ、万一感づかれたから事だからな。そう短く発した声に、車は緩やかに走り出す。
 

 徐々に迫ってくる宵闇が、先程まで綺麗だと思っていた赤い夕空を黒く染め上げていく。
 男は、硝子の向こう側に広がるその光景を見据えながら、心の奥底で瀬人の無事を願っていた。

 

3


 
「それにしても危機一髪だったな。後一歩遅れていたらお前の死体と対面する所だったぞ、瀬人」
「……貴様、一人で来たのか、ここに」
「あぁ。SPの連中はお前の命令だからと言って動けないようだったし、モクバが……っ!」
「──っ馬鹿が!」 

 静かすぎる空間に、バシンと大きな衝撃音が一つ鳴り響く。男の手ですぐに解放された左手で、瀬人が目の前の頬を殴りつけた音だった。利き手ではない事と、長時間の拘束に常よりも大分力が衰えてはいたが、それでも受けた男の顔を僅かに揺らす位の勢いはある。

 すぐに薄紅に染まるその個所にはらりと数本の髪が落ちた。しかし男はそれに驚きも怒りもせず、ただ静かに空に留まってしまった瀬人の手を掴み、強く握り締める。

「そう怒るな。無事だったのだから良かったじゃないか」
「オレの事ではない!」
「『オレの事も』だ。よく見ろ、かすり傷一つないだろう?」
「そういう問題では……!何処の何者か分からない集団がいるアジトの中に単独で乗り込むなど、どういう神経をしているのだ?!貴様は本物の馬鹿だな!死ね!」
「生憎だがお前を残して死ぬつもりはない」
「茶化している場合か!」
「誰も茶化してなどいない。オレは本気だ」

 そう言うと男は強く握りしめていたその左手ごと、瀬人の身体を引き寄せて強く胸にかき抱いた。そして、それまでとは少し違った細く震える様な声色で「無事で良かった」と口にする。

 本当に、後数秒遅れていたら温かなこの身体を抱き締める事は出来なかったのだ。

 この薄汚れたコンクリートの上で血に塗れ事切れている瀬人の姿。そんなものを目の当たりにしてしまったら、自分はどうなるか分からない。その想像だけで、身体が震えた。その事以外の恐怖など、思いすらしなかった。

 男がこの場所に単独潜入してから小一時間。大して複雑な構造などしていなかった地下を把握するのは容易く、瀬人が捕らわれていたこの部屋に辿り着くまでにそう時間は掛らなかった。途中武器を持った連中に絡まれはしたが、瀬人と言う最大の人質を得て緊張が緩んでいた人間など男の敵ではなく、全て鮮やかな手練でその妨害を掻い潜り、無事瀬人を救い出す事に成功したのだ。

 瀬人に銃を構え、下卑た笑みを浮かべていた連中はどうやって倒したのか覚えがない。ただ、右手に鈍い衝撃痛がある事と、頑丈であろう筈の銃が少し離れた場所で見るも無残な姿になっている事から相当のダメージを与えたに違いない。怒りの余り我を失う事も多々ある男はまさにあの時が己の感情が爆発した瞬間だったのだろうとやけに冷静な感想を脳裏の隅で思うに留まった。

 腕の中の瀬人が、僅かに身じろいで「苦しい」と訴えたからだ。

「痛いわ馬鹿者!貴様オレを抱き潰す気か!」
「騒ぐな瀬人。折角伸した奴らが目を覚ましたらどうする。それよりも、立てるか?立てるのなら早くここを抜けだそう。ここにいる奴らは全て倒したつもりだが、まだどこかに潜んでいるとも限らない」
「………………」
「立てないのなら、抱いてやるが?」
「っ!余計な世話だ!一人で歩ける!」
「そうか。ならば急ごう。後の処理は磯野達に任せればいい」

 そうだ。こんな息苦しい場所に長居など無用だ。とにかくここから離れなければ。男は先に立ち上がり、眼下の瀬人に手を差し伸べながら、その少し高い視線のお陰でよく見渡せる死んだように動かない男達の姿を凝視した。本当はこんな生温い状態では己の怒りが収まらない。 

 特に瀬人に直接暴力を加えたらしい例の男……瀬人を執拗に付け狙い、己に傷を付けるよりももっと醜悪な事をしでかしたあの男にはそれなりの報復をしてやらなければ気が済まなかった。しかし、今はそれどころではない。一刻も早く瀬人の身の安全を確保しなければならないのだ。

「行こう、瀬人。辛いだろうがなるべく急げ」
「貴様、脱出ルートは覚えているんだろうな」
「大体な。よし、オレが先に行く。遅れるなよ」
「……貴様は誰に向かって物を言っているのだ」
「それは失礼した。では、走るぞ!」
「ああ。……っ!」

 そう言い、男が瀬人の手を引き、開いたままだった扉へ向かって駆け出そうとしたその時だった。不意に背後にいる瀬人から短い声が上がり、掴んだ手が男の進行を妨げるように強く引かれる。何をしている瀬人、と男が振り向きざまに発しようとした言葉は、突然視界に入りこんだ光景に喉奥へ消え失せた。

「!!………」
「そこまでだ。『海馬瀬人』。おっと、てめぇはこの間の出来損ないのクローン一号か?」
「……ぅぐっ」
「貴様、あの時の……瀬人を離せ!」
「それは出来ない相談だな。このままみすみすとこいつを逃すわけにはいかないんでね」 

 にやりと悪辣な笑みを浮かべていつの間にか瀬人の身体を羽交い絞めにしていた『それ』は、そう言って鈍く光る銃口をそのこめかみへと宛がい、勝ち誇った表情で立ち尽くす男を眺めていた。忘れもしない、その醜悪な顔。奴は以前男を襲い、彼が今最も憎んだあの人物その人だった。

 先程、この場にいた男達を倒した時、瀬人の正面に立っていたリーダー格らしい人間に気をとられて周囲の雑魚には徹底したダメージを与えられずにいたらしい。つい今しがた、目の前で笑みを浮かべる『それ』にトドメを刺すか否かを一瞬でも迷った事を、男は深く後悔した。後悔して、憤怒した。今すぐにでもその身を引き裂いてやりたいと思う程に。

「もう一度言う。瀬人を離せ」

 男の声のトーンが、一際低く重いものに変わる。今は青い布に覆われてその表情を伺い知る事は出来ないが、もし瀬人を捕らえている彼が、目の前のその表情をそして瞳を目の当たりにしたら、一瞬にして身も凍る程の恐怖を味わう事になるだろう。それほどまでに男は激しく怒っていた。その眼差しに殺意を滾らせる程に。

「離せと言っているのが聞こえないのか?」
「てめぇ、誰に向かってモノを言ってやがる!余計な真似をすると海馬の頭が吹っ飛ぶぜ?」
「やってみるがいい。そんな真似をしてみろ。お前には死よりも辛い体験をさせてやる」
「は!たかが贋物の癖に何言ってやがる!」
「贋物?」
「てめぇは海馬瀬人の身を守る為に作られた贋物だろうが。こんなものまで用意しなければ生きていけない程、こいつは人様に恨みを買ってるって事だ。親殺しで人でなしの悪魔だよこいつは!」

 ギリ、と銃口が皮膚に擦れる音がする。興奮のあまり彼が銃を瀬人に強く押し付け過ぎた所為だった。その痛みに思わず瀬人が顔をしかめた瞬間、ふっと男の姿がその場から消え失せた。そして。 

「── ガハッ!」

 この世のものとも思えない醜いうめき声が辺りに響き、鈍い衝撃音が静寂を乱した。カタリ、と彼が握りしめていた筈の銃が転がる。その姿は叩きつけられた暗灰色の壁に赤い痕を残して地に無様に伏していた。

「どちらが悪魔だ。最悪の屑め」

 低く吐き捨てたその声と、瀬人が大きく息を吸い、激しく咳き込んだのは同時だった。その背を再び強く抱き締めて、男は一瞬堅く目を閉じるとまるで祈る様にこう囁いた。

「済まなかった、瀬人」
「……何故、貴様が謝る。オレは……!」
「急ごう。またこういう輩が襲ってくるとも限らない」
「……待て!」 
 

 ── お前は、悪魔なんかじゃない。   
「兄サマ、本当に良かった!オレ、もう……っ」
「勝手に人を殺すなモクバ。このオレがお前を残してそう簡単に死んでたまるか」
「……うん、分かってる。でも、カイが居てくれなかったらどうなるか分からなかったし……ありがとう」
「オレは、約束は守ると言っただろう」
「うん、そうだね。やっぱりお前は凄いよ、兄サマにそっくりなだけあるね」
「?褒めているのかそれは」
「勿論!……あ、疲れてるのに長話しちゃ悪いよね。後の事はこっちに任せて、二人とも今日はゆっくり休みなよ。奴らの事も磯野と河豚田が大体の目星をつけたって言うし、明日にははっきりとした事が分かると思う。……面倒だけど、警察にも行かなくちゃいけないみたいだし」
「……そうだな。お前も早く休めよ」
「分かってる。無理はしないよ。じゃあ、オレは部屋に戻るね。あ、カイ、今日は兄サマにちょっかいかけちゃダメだからな!」
「分かっている。幾らオレでもそこまで無神経じゃない」
「どうかなぁ。まぁいいや。信じるよ。……おやすみなさい、二人とも」
「ああ、お休みモクバ」

 その声を最後にパタパタと小気味よく響く小さな足音は扉が閉ざされると音と共に遠くへ消えて行く。その響きをなんとはなしに聞きながら、残された二人は漸く大きな溜息を一つ吐いた。

 つんと香る消毒液の匂い。洗いたての髪の香り。瀬人がこの屋敷に帰って来て、一番初めにした事は酷い有様だった身形を整える事だった。血と泥に塗れ、いかにも満身創痍だったその姿をモクバに晒す事だけは我慢ならなかったからだ。ただでさえ散々心配をかけた上に更なる心労を与える事だけは避けたかった。

 幸い怪我の方は見かけ的には大した事はなく、隠せる部分は全て隠したお陰で、対面したモクバに顔を歪められる事もなかった。泣いているかと思ったが、彼の顔には涙の痕はなく、ただひたすら安堵と喜びに満ちた声で、無事で良かった、安心した、と繰り返すばかりで瀬人が危惧する程今回の事件に怯えても振りまわされてもいなかった。その様に幼い弟も随分と成長したものだ、と瀬人が密かに歓喜を胸に抱いていると、彼は満面の笑みを湛えてこう言ったのだ。
 

『オレ、本当は凄く怖くて不安だったけど、心のどこかで兄サマは絶対大丈夫だって信じてたんだ。だって、カイがそう言ったら。絶対に助けてくれるって、無事にオレの所に連れ帰って来てくれるって、そう言ったから』
 

 そして本当に、こうして兄サマを助け出してくれた。信じて良かった。

 そう言ってその一瞬だけ涙を滲ませたその姿を瀬人は思い切り抱きしめたのだ。すまなかった、心配をかけた、小さく繰り返すその言葉はモクバの笑みを更に深め「それはカイに言ってあげなよ」の声と共に強く抱きしめ返されたのだ。その小さな掌は微かに震えていた。

 その事に瀬人はもう一度だけ、悪かった、と口にした。

「傷の方は大丈夫か?痛むようなら薬を貰ってくるが」
「別に大した事はない。こんな事は慣れている」
「……慣れている、か」
「貴様こそ、本当に何もないのか。隠したりなどしていないだろうな」
「あぁ、なんともない。なんなら、この場で裸になって見せてやってもいい」
「……結構だ」
「なんだ、つれないな」
「言っておくが、オレはまだ怒っているのだぞ」
「まだ怒っているのか、しつこいな」
「当たり前だ!本当はモクバにも一言言ってやりたかった。だが、こうなってしまったのは全てオレのミスだ。他に当たるわけにもいかないだろう」
「瀬人」
「……悪かった。心配と、余計な手間をかけさせて」
「………………」

 深い溜息と共に僅かに顔を俯けて、瀬人は消え入りそうな声でそう言った。さらりと揺れる栗色の髪が、いつの間にか苦し気に歪んだ表情を覆い隠す。その様を少し離れた場所で見つめていた男は、再び目の前に現れた泣きそうなその顔をじっと見つめ、『あの時』と同じ想いに捕らわれていた。

 違う。そうじゃない、瀬人。オレがお前の為に危険を冒す事など何ともない。怪我をしようが例えこの身が滅びようがどうという事はない。オレがこの世界にいる限り、お前がオレの手の届く所にいる限り、オレはお前を守ると誓った。

 お前は生きる世界が違うと事あるごとに口にするが、生きる世界が違っていても通じている限りは同じ場所にいるも同然だ。ただ、それが不変ではないというそれだけの事だ。しかし、それは何も人間界と精霊界に限った事ではない。同じ場所で生を共にしたとしても、いつどこで死が訪れるとも限らない。

 特にお前は、その死に直面する瞬間が多いから。

「……そうだな。確かに心配させられたぞ、瀬人」
「………………」
「この分では、オレはそうそうあちらに帰る事も出来ない」
「……何?」
「お前はオレにずっとこちらに居座って欲しくないと事ある毎に言うが、オレをそうさせているのはお前だという事に早く気付いて欲しいものだな。危なっかしくて外にも出かけていられない。今日の予定も結局フイになってしまった」
「……予定?何を今更……」
「間近に死がある瞬間を『こんな事』などと言うな。慣れてしまうな、瀬人」
「…………っ」
「普通じゃない。分かるだろう?分かっているんだろう?」
「貴様、何を」
「お前がオレの身を案じたその何倍もオレはお前の事を心配している。お前の立場の事も置かれている状況も十分に分かったつもりだ。だが、だからと言ってお前の身が危険に晒されてもいいとは思わない」
「………………」
「本当に、息が止まりそうだったのだ、あの時」

 いつの間にか抱き締めていた温かなこの身体が、冷たく横たわるその瞬間を一瞬でも頭に過らせた、あの刹那の時。男はそれまで感じた事のない恐怖に心を捕らわれた。それは今まで己が生きてきた中で、勝ち目のない強すぎる敵と対峙した時の何倍もの絶望と驚愕だった。それ程までに目の前の存在は男にとって大切なものになっていたのだ。否、元よりそうだったのかも知れないが。

「………………」

 そんな男の余りにも真剣で強すぎる言葉と抱擁を一身に受けた瀬人は、ぎりぎりと掴み締めるような腕の力に抗議する事もなく、ただ黙って頬に触れた強く温かな身体に身を委ねた。

 ……馬鹿だな、このオレがそう簡単にやられてたまるか。何度も同じ事を言わせるな。そう呟こうとした言葉は、喉奥からこみあげる熱の塊に邪魔をされてついぞ出す事は出来なかった。

 このまま口を開けば少しでも気を緩めれば泣いてしまうかもしれない。そんな無様な真似だけは今ここで決してしまいと瀬人は強く心に誓った。散々心配をかけて尚、更に不安を呼ぶ真似をする事だけは、人よりも大分高いと自覚する自身のプライドが許さなかったからだ。
 

── 出来損ないのクローン。
 

 あの醜悪な男が、目の前のこの存在をそう言って嘲笑ったあの瞬間が忘れられない。己と同じ顔、多少の逞しさの違いはあれど、同じ体躯を持つこの存在。最初はなんと煩わしいモノだと嫌悪した事もあったが、今では全てを救われている気さえする。

 薄汚い地下に拘束され、銃を突き付けられても恐怖は感じなかった。当時はそこまで気を回すほど己の神経は脆弱でも繊細でもないからだと思っていたが、この男の顔を見た瞬間、そうではなかったと悟ったのだ。
 

 あの時、心のどこかで、きっと自分はこう思っていた。

 大丈夫だ。きっと、この男が現れてくれる筈、と。
 

(馬鹿馬鹿しいこじ付けか……)
 

 自らのその考えに一人で静かに苦笑して、瀬人はゆるりと伏せたままだった顔を上げた。その仕草にすぐに気付いた男は、こちらもまた緩やかな動作で瀬人を見つめてくる。男が顔を僅かに俯けた所為で零れ落ちた長い髪を、僅かに緩んだ拘束から抜け出した指先でさらりと静かにかきあげて、瀬人は口元に笑みを湛えながらこう言った。

「貴様の存在が、オレをより強くする」
「……何?」
「だから、余り心配するな。オレも無茶な真似はしない」
「何を言っている」
「……分からなければ、いい。そのままを受け取っておけ」
「分からないと、気になるんだが。どういう意味だ?瀬人」
「自分で考えるのだな」
「おい」
「ただ一つだけ言える事は、生きていて良かった、という事だ」

 そう。生きていて良かった。この腕の中に帰る事が出来て良かった。もし自分と言う存在があの場所で消えていたら、この男はどうなっていただろうか。そして、その逆に己を助ける為に万一目の前の存在が消える事にでもなったとしたら、自分はどうなってしまうのだろうか。

 互いの存在が互いをより強くする。けれどそれは余りにも強く、そして脆い絆。
 しかしもう、それを断ち切る事など考えられない。
 

「好きだ」
 

 全ての想いは、そのたった三文字の言葉に集約され、口づけで伝える。恋とか愛とか、そんな陳腐な単語で表現出来るような軽いものではない。この悲しみや切なさにも似た、苦しくて甘い感情はどうしたら相手に伝わるのかすら分からなかった。

 けれど、多分。相手にはきちんとした形で受け止めて貰えるのだろう。
 同じ姿形をした者同士、その想いすらもきっと、同じである筈だから。
 

 否、そうであってほしいと、瀬人は願うのだ。
 

「……お前にしては、随分と素直だな」
「たまにはいいだろう。こんな時位だ」
「そうか。……そうだな」
「今日駄目にしてしまった予定はまた後日埋め合わせをしてやる。今度は反故にするような真似はしない。……貴様もするなよ」
「何を心配しているのかは知らないが、オレがお前のようになる訳がないだろう。一緒にするな」
「フン、一度しくじった癖に良く言うわ」
「お互い様だな」
「こんな姿に生まれた事を後悔するんだな」
「それはないな」
「……何だと?」
「それは、ない。オレはこの姿を結構気に入っている」
 

 この顔で、この身体で、守れるものがあるのなら。
 オレは感謝こそすれ、厭う事など決してない。
 

 何よりも、オレは『この姿』を愛している。
 

「瀬人」
 

 低く、深い声が、その名を愛おしい響きと共に口にする。その存在が何者にも脅かされないよう、そしてそれが例え自身の事であっても決して揺るぐ事がないよう、男はもう一度だけその身体を深く強く抱き締めた。
 

 ── 言葉に出来ない、甘く切ない想いと共に。


-- End --