約束から始まる未来 Act9

「じゃーん!今日はハンバーグだぜー!海馬くんと食べるからって特別に作って貰ったんだー!」

 そう言って心なしか浮足立った足取りで傍までやって来た遊戯が喜色満面の笑みを浮かべて己に弁当箱を差し出して来るのを、瀬人は複雑な表情と共に見遣っていた。随分前に青春通りで遊戯に偶然にも鉢合わせ、図らずも『登校する日を教える』という事を一方的に約束させられてしまった瀬人は、今回も前日に嫌々ながら遊戯へと登校の意思がある事を伝え、その通りに朝から授業を受けに顔を出した。

 最近は年末商戦の関係で休みがちだった事と、来ても中途半端な時間からばかりだった事も相まって、クラスメイトからは随分奇異の視線を向けられたりしたのだが、単位取得の為には止むを得ないと何とか昼休みまでは持ち堪えていた。

 その間も先日行われた全国模試の順位が発表されたり(当然の事ながら瀬人は一位だった)、時間に追われて適当に描いて提出した美術のポスターが何かの賞を受賞し名指しで褒められてしまったりと、瀬人本人にとっては非常に不愉快な出来事が頻発していたのだが、その不満も傍らにやって来てにこにこと屈託のない笑みを浮かべる遊戯の前では何故か霞んでしまい、溜息と共に霧散した。

「………………」

 押し付けられた弁当は遊戯の体温が移って仄かに暖かく、またずっしりと重い気がする。不思議な事に以前は『これ』に憂鬱な気分にさせられたが、今はそんな事は無くなっていた。遊戯には幾ら抗っても無駄だという事が身を持って分かりかけていたし、何より彼の母親が作る弁当は不思議と瀬人の口に合っていた。

 今まで食事などただ億劫なだけで何を食べても一緒だし美味しさも楽しさも感じなかったが、近頃は少しだけ美味しいと感じるようになった。モクバと食べる夕食も然り、学校でこうして与えられる弁当を食べる時も、また然り。

『海馬くんってお肉好きだよね。絶対肉より魚派だと思ってたのに。今度はハンバーガーを食べてみない?きっと気に入ると思うよ!』

 何度目かの屋上で背中越しに聞こえたその声に瀬人は大いに面喰った。そんな事など考える機会も無かったからだ。その時は何を訳の分からない事を、と受け流したが、自邸に帰り夕食時にモクバに話をした所彼も同じ意見で、『兄サマは肉か魚か選ぶ場合、何時も肉を選んでるじゃない。無意識だったの?』と笑われてしまった。その時、如何に自分が食べる事に無頓着だったか気付かされたのだ。

 一歩一歩、遊戯が己のテリトリーに足を踏み入れる度に、何かが暴かれていく気がした。自分でさえも知らなかった自分自身が少しずつ見えて来る、そんな感じがして少しだけ怖かった。だが、瀬人がその感情を認める事など出来る筈もなく表面上は何事もなかったように飄々とした態度を貫き通した。その事すら、多分見抜かれてしまうのだけど。

 今日もまた遊戯は笑顔で瀬人に向かって歩んで来る。
 そして、いとも簡単に手を差し出してくるのだ。

「もうさ、屋上は寒すぎて使えないよ。どこか別の場所を探そう?誰にも見られない所、見つけたから」

 その日から彼等は背中合わせではなく、向かい合って弁当を食べる事となった。遊戯が誘うまま、狭い会議室の一角を陣取り、同じ机の上に同じ弁当を広げて目線を合わせても、瀬人が文句を言う事はなかったからだ。遊戯はその事を瀬人には気付かせない様敢えていつもよりも沢山口を動かした。「お喋りはいいから食べる事に集中しろ」と呆れた声で言われても気にしなかった。

 瀬人が自分に見られてもちゃんと食事をする様になった事、それが例えようもなく嬉しかったからだ。
「それって何かデートみたいだよね」
「は?」
「だって、普通男同士で隠れるようにして一緒にお弁当なんか食べないよ。グループになったりはするかもしんないけどさ。まぁ、兄サマの場合ちょっと特殊な事情があるから分からなくもないけどさ。でも……」

 やっぱりそれってデートだぜぃ!

 そう言って、モクバは彼が直々にオーダーしたらしいバニラアイスを持って来ると、ソファーに座る兄の横へとやって来て、その右腕に背を預け行儀悪く足を延ばすと、機嫌良くスプーンを口に放り込んだ。仄かに漂う甘いバニラの香りに瀬人が閉口していると、「兄サマも食べる?」と上目づかいに見上げて来る。それを丁重に断って瀬人は今しがた弟に放たれた言葉をもう一度反芻し、軽く眉間に皺を寄せた。まさか、遊戯と共にただ弁当を食べるだけの行為をデートと表現されるとは思ってもいなかったからだ。

「……オレの認識では、その、デートというものは恋愛関係にある男女が行う物だと思っていたが?」

 至極リズミカルにアイスを食べ続けるモクバの頭上に向かって、瀬人は非常に口籠りながらそんな反論を試みる。しかし、何をどう言おうとも弟の評価は特に変わる事はない様だった。

「そりゃ、普通はそうだけどさ。最近は女同士でも男同士でもデートっていうじゃん。オレのクラスメイトの女の子なんか、友達と遊びに行く時もデートしない?って誘ってるよ」
「オレが言いたいのは『性別』の事ではなく『恋愛関係』の方なんだが」
「分かってるよ。だから、友達関係でもデートっていうよ、って今言ったじゃん」
「そうか……じゃない、違う。そもそも奴とは友達でもなんでもない」
「えー?兄サマは友達でも何でもない奴とお弁当食べるの?それこそ変じゃない?オレだって友達以外の特に親しくない奴となんか一緒に歩く事もしないぜぃ」
「そうなのか?」
「そうだよ。普通はそうなの!だから、お弁当を一緒に食べるって言う事は少なくても兄サマと遊戯は友達って事だよ。メールだって頻繁に遣り取りしてるじゃん。なんでそういう事いうかなぁ」

 兄サマってそういうどうでもいい事凄く拘るよねー。と言いながらモクバは最後の一口を平らげてしまうと空になったデザートグラスをテーブルに放置した。そしてまた直ぐに兄に寄りかかる体制に戻ってしまう。

「でも最初は吃驚したぜぃ。外でご飯食べるのも嫌がる兄サマが学校でお弁当を食べるなんてさ。しかも遊戯の母さんの手作り弁当!」
「……オレあてにわざわざこしらえたものを捨てるわけにはいかないだろうが」
「本当に無理だったらそれこそ遊戯の夜食にでもして貰えばいいじゃない。そういう選択肢が浮かばないって事はやっぱり兄サマにとって遊戯はトクベツなんだろうなぁって思うよ」
「………………」

 言いながら少し大人ぶって頭の後ろで手を組み、ソファーに乗せ上げた足も組んでしまったモクバは、何故か一人で嬉しそうに笑っている。そんな弟の態度に困惑すると共に瀬人は昼間感じた恐怖にも似た不安を再び感じ始めていた。少しずつ近づいて来るその距離。目的がはっきりしている分、このままいい様に流されてしまえば将来的に待っているのは、今正に話題に上がった恋愛関係に発展するという事だ。

 尤も、この場合『そう』なりたいと願うのは遊戯だけで、瀬人はその点に関しては想像すらもしていない。告白はされた。ただ、それにはっきりとした答えは返していない。今もそういう意味での気持ちは数ヶ月前のあの時のままだ。なんの変化も訪れてはいなかった。

 ただ、こうして第三者からの客観的意見を述べられると、己の認識よりは周囲の、否、遊戯の認識ははっきりとしたものになっているのかもしれない。あの馬鹿が付くほどのポジティブ思考で楽観的な笑顔を見ているとそう考えずにはいられなかった。それは、瀬人にとっては好ましくない事態だった。

「オレは、確かに奴とよく話す様になったが、それだけだ。お前が言うほど特別な感情を抱いている訳では無い」
「でも、一緒に行動してるんだよね?じゃあ兄サマが何て言ったって周りは二人が仲良くしてる様に見えるよ」
「………………」
「兄サマ、やけにその事に拘るけどさぁ、遊戯の事が嫌なの?」

 瀬人のしつこい切り返しに少しだけうんざりしたのか、モクバはややぶっきらぼうにそんな事を言って来る。その言葉を聞いた瞬間、瀬人は即座に「嫌では無い」と返答しそんな自分に驚いた。まさか、即答できるとは思っていなかったからだ。

 そう言えば、告白された時も「嫌いでは無い」と返した気がする。やはり、自分の中では何の変化もなかったのだ。あったとすれば、その言葉が出て来るまでの時間が酷く短縮したという事だけだ。

 そんな兄の不可思議な言動にモクバは少しだけ肩を竦めて「なんか良く分かんないけど」と前置きした上でこう言った。

「嫌いじゃないんなら、別に今のままでもいいんじゃないかな。でも、それで何か困ってるんならアクションを起こした方が、オレはいいと思うぜぃ」
「来週から暫く学校へは来ない」

 モクバと話をした数日後、登校した日は恒例となっていた会議室の片隅で何時も通り昼食を終えた瀬人は、空の弁当箱を丁寧に包み直し遊戯へと差し出した後、淡々とした声でそう言った。

 そんな彼の宣言にこちらはまだ半分も残っている弁当を取り落としそうになった遊戯は、慌てて箸を置くと「なんで?!」と大声を上げてしまう。広さ的にはそうでもないが、構造上音が良く響く空間にその声は大きく響いた。それに僅かに顔を顰めた相手に遊戯は慌ててごめん、と呟く。

「仕事が忙しいの?」
「そろそろクリスマスだからな。それもある」
「全然、一時間も顔を出せない?」
「海外支社を立ちあげる関係でアメリカに行かなかければならないからな」
「日本にもいないんだ……どれ位?」
「さぁ、半月位か」
「は、半月も?!これからテストだってあるのに……」
「その件については担任と話をつけて来た。試験は時間が空き次第受けに来るし、足りない単位は課題の提出と冬季休暇中に補講を受ける事で合意した。問題ない」
「……そっかぁ……仕事じゃしょうがないよね」

 瀬人の淡々とした説明に遊戯の表情がみるみる内に変わって行く。乱雑に置かれてしまった箸はテーブルの上を転がって床に落ちそうになっていたが、再び手を伸ばされる事はなかった。途端に大きく吐き出される溜息。勿論遊戯の口からだ。

「寂しいなぁ……」

 ぽつりと呟かれるその言葉に、瀬人の表情が僅かに曇る。この反応をうすうす予想はしていたが、まさかここまで大々的に落ち込まれるとは思っていなかった。しかし既に全てのスケジュールは決定しており、変更等は勿論出来ない。尤も、するつもりもないのだが。

 すっかり項垂れた相手の、特徴的な頭頂部を眺めながら瀬人も内心溜息を吐く。そして長過ぎる沈黙を破る様に、持参した珈琲を飲み干すと先程から気になっていた遊戯の箸を手に取り、中身入りの弁当箱の上に置いてやった。いいから食べろ、と促すと、緩く首を振って拒絶される。

「……別に、オレが長期間欠席するなどいつもの事だ。貴様に支障が有るわけではないだろう」
「え?」
「前と同じ様にオトモダチとつるめばいいだけの話だ。違うか?」

 そうだ。今までだって瀬人が学校に来ない事など日常茶飯事だったのだ。むしろここまで頻繁に顔を見せていたのが珍しい方で、遊戯はそれを忘れている。自分等存在しなくても相手の生活にはなんの問題も無い。瀬人は真剣にそう考えていた。そして、そうなればいいとも思っていた。

 そう、今回の長期欠席は瀬人が意図的に仕組んだものだった。何もこの時期にアメリカに行く必要など余りない。けれど『こう』するのが一番手っ取り早いと思ったのだ。モクバに言われた『アクションを起こせ』への返答がこれに当たる。

 瀬人は一度離れる事を選択したのだ。これ以上テリトリーへ入りこまれない内に。

 未だ何の進展もない関係だったが、恐怖めいたものを感じるのも事実だった。一番最初の告白以降、遊戯は瀬人に「好きだ」という意思表示すらして来なかったが、こうして並んで弁当を食べる間柄になっている。客観的に見ればそれは「凄く仲がいい」という事になるらしい。それは瀬人の許容の範疇外だった。

 決して嫌な訳ではない。けれど納得がいかなかった。

「………………」

 相手が無言な事をいい事に瀬人が己の考えに沈んでいると、不意に眼下から強い視線を感じた。驚いてそこに目を向けると、そこにはやけに不満気な遊戯の顔があった。口を真一文字に結んでじっとこちらを見あげる眼差しには怒りにも似た強い感情が滲んでいる。

「……なんだ?」

 その眼差しは瀬人にとって余り好ましくないものだった。思わず発した声が僅かに上ずる。そんな相手の動揺など全く頓着せずに遊戯は表情そのままの固い声で、瀬人の恐怖の一端を担っている「あの言葉」を口にした。

「最近全然言ってなかったから海馬くんは忘れちゃったのかもしれないけど、僕は君が好きなんだよ?城之内くん達と……友達と、同じな訳ないじゃない」
「…………っ」
「君は、僕がどんなにこの時間を大切に思ってるか分からないの?」

 昼休みの30分、二人きりでただ食事をするだけの穏やかな時。何をするでもないけれど、それでも遊戯にとっては宝物の様なひと時だった。何よりも楽しい時間だった。それをどうでもいいと言わんばかりの態度で流そうとする瀬人に怒りを感じた。身勝手な感情だと分かってはいたが、自分の想いすらもあしらわれた様で悲しかったのだ。

「僕は君と一緒にいたいんだ。誰も代わりになんかなれない」

 その一言は、瀬人の胸に重く響いた。着席していなければ大きく身を引いたかもしれない。ぬるま湯のようなものだと思っていたこの関係は、やはり相手の譲歩に寄ってその温度に保たれているのだと知った。柔らかな笑顔の裏に隠された真摯な思いが、真っ直ぐに向けられた瞳に嫌と言うほど満ちていて、一切触れられていないというのにきつく手を握り締められた様な感覚に陥った。

 ただ、距離を置いて見つめ合っているだけなのに。

(言ってしまおうか)

 一瞬、瀬人の脳裏にそんな弱気な台詞が過る。嫌では無いが、居心地が悪い。貴様が徐々にオレに近づいてくる事に不安を覚える。だから少し離れたいのだと、正直に。けれどそんな事を口にしたら誤解を与えてしまうかもしれない。嫌っているのだとは思われたくない。その全てを失いたいかというと決してそうではないのだ。

 だから解決策が見いだせずに距離を置こうとしている。自分でも整合性の取れない馬鹿馬鹿しい行動だとは思っているが、今の瀬人にはそうするしか術がなかった。そもそも、こんな経験など皆無なのだから。

 何時の間にか昼休みも残す所後5分になっていた。それを無意識に確認すると、瀬人は徐に遊戯の背後を指示し「後5分だぞ」と告げてやる。その言葉に遊戯もはっとしたように振り返り、慌てて弁当の残りを口に放り込み、瞬く間に緊迫した空気は解けていった。その事に、瀬人はほっと胸を撫で下ろす。

 しかし、根本的な問題は何一つ解決せず、それどころか悪い方へと進んでしまった。下手を打ったと思った時には、もう遅い。

「……とにかく、そういう事だ。貴様の母親にも伝えておけ」
「来週って事は、明後日までは学校に来るの?」
「来るには来るが、一日はいられない」
「そっか。でもまだ会えるんだね、良かった」
「……貴様に会いに来るのではないぞ」
「そんな事は分かってるよ。でも半月かー……やっぱり寂しいよ。我慢出来るかなぁ」

 器用にも口にモノを頬張りながらそんな事を言う遊戯の声を聞きながら、瀬人はまた己の失言に気付いて口を噤んだ。来週と言わず、明日から欠席してしまえば良かったのだ。だが、一度言ってしまった言葉はもう戻らない。

 後二日、こんな思いをしなければならないと思うと憂鬱だった。

 急に鳴り響くチャイムが酷く耳障りに聞こえて、瀬人は思わず小さな舌打ちを一つして、ゆっくりと席を立った。


-- To be continued... --