本田×海馬

 海馬が携帯越しに乞われるがままに庭に続く私室の硝子扉を開けた瞬間、黒い塊に襲われた。

 それが何かを確認するより早く上にのしかかってきたそれは、荒い息を吐きながら生温かいモノで頬を思い擦り上げる。それが獣の舌だ、と思った刹那少し離れた場所から慌てた様な声が聞こえた。ブランキー!!と鋭く怒鳴りつけるその響きに、多分コイツがブランキーなのだろう。容赦なく海馬にじゃれついていたソレがピクリと顔を上げる。

「わ、悪ィ海馬ッ!携帯しまおうとしたら思わずリード離しちまって!コラ、やめろってブランキー!」
「貴様の犬かッ!」
「そ、こいつオレの愛犬なんだ。一回顔合わせしとこーかなーと思って連れて来たらこれだよ」
「何でもいいがこの犬を退かせ!重い!」
「めちゃくちゃ尻尾振られてるし。お前、犬にもモテるのな」
「そんな事はどうでもいいっ!」
「あ、すまねぇ。つい感心しちまった」

 滅多に拝めない光景だからつい魅入っちまって。そんな軽々しい言葉を吐きながら、未だ海馬の上から退けようとしないブランキーを力づくで押さえつけた彼……本田は、離されて床に放置されていたリードを右手にぐるぐると巻きつけると、愛犬が苦しくない様に配慮しながらゆっくりと海馬から距離を取った。直ぐ傍に己の主人が立つというのに、ブランキーの視線は床に倒れた海馬に向けられたままで、いかにも嬉しそうに「ワン!」と元気よく吠えている。

 それを複雑な顔で眺めながら、海馬は乱されてしまった髪を手櫛で元に戻し、思い切り舐めあげられて濡れてた頬をシャツの袖で拭う。そして大きな溜息を一つ吐くと、億劫そうな様子でゆっくりを身を起こし、前に立つ形となった本田を睨み上げる。

「いきなり犬に襲われるとは思わなかったわ」
「やーブランキーは襲ったつもりはねぇと思うぜ?ほれ、見てみ、この尻尾。ちぎれそうだ」
「……元から人懐こいのか?こいつは」
「いーや、全然」
「何?」
「どっちかっていうと、番犬だからよ。滅多に他人には懐かねぇな。機嫌が悪いと家の前通る通行人に向かって吠えまくるし、散歩すりゃーそこいらじゅうの犬猫と喧嘩。結構苦労してんだ、こいつには」
「……そうなのか?」
「おうよ。城之内なんてよ、顔見ただけで吠えられるんだぜ。一回無理矢理触ろうとしてケツ噛まれてやんの。あれは傑作だったな!」
「とてもそんな犬には見えないが」
「お前が気に入ったからじゃねーの?オレが好きな奴だってのが分かるのかもな」
「………………」
「ありゃ、ちょっと直球過ぎたか?照れんな照れんなー。ま、オレは嘘は言わねぇよ。今度皆に聞いてみ。それぞれ面白い体験談を聞かせてくれると思うぜ」

 全くコイツはお構いなしだからよ。なぁ?

 そう言って本田がブランキーの頭を叩くと、ワン、とまた元気な声が返ってくる。こうして見ていても確かに種類的には大型で番犬然としているが、普通に人懐こい犬にしか見えなかった。犬好きから見れば『可愛い』部類に入るかもしれない。海馬も動物が嫌いな訳ではないので、素直にいい犬だと思った。……突然襲ってくるのは頂けないが。

 そこまで考えて、彼はふと昔の事を思い出す。目の前の男が、初めて自分とまともに視線を合わせた瞬間の事を。
 

『突然で悪ィけど、オレ、お前の事が好きなんだ。つきあってくれねぇ?』
 

 そう言えば、あの時もこんな風に飛びかかられたような気がする。日も暮れた人気の無い教室の入り口で、すれ違い様にいきなり掴まれた右腕。言葉を発する前に身体が勝手に動いたとか後に言い訳をしていたが、とにかく本田という男の名と共に最初に刻み込まれたのは、声や顔では無く力の加減無しに握り締められた腕の痛みだった。

 あの時はさすがの海馬も驚愕して「訳の分からない事を言うな!」と怒鳴り散らし、腕を振り切って逃げ出してしまったが、今現在は私邸への侵入をも許す仲になった。

 全く、人生何が起きるか分からない。

「フン。よくよく犬に好かれる男だ。それに主人も主人なら、犬も犬だな」
「あ?」
「凡骨の様な駄犬とつるんでいるだろうが。なるほど、自らも犬をペットにしているのであれば、それも頷ける。しかし癖の悪い犬だ、そっくりだぞ」
「どういう意味だよ」
「そのブランキーとやらと貴様が至極似ていると言ったのだ」
「はぁ?似てるかぁ?」
「自覚がないとはおめでたい事だな。駄犬の最たるものだ」

 言いながら立ち上がり、僅かについてしまった犬の毛を落としながら、海馬はゆっくりと大人しくその場に立ち尽くしている一人と一匹の元に歩み寄る。途端に再び飛びかかろうとするブランキーと、こちらも同じく飛びかかりたいと思っているだろう主人を交互に見て、彼は珍しく声を立てて笑った。そしてリードの所為で両手を伸ばす事が出来ない本田の変わりに、自らが緩やかに腕を上げてその身体を包み込んだ。
 

 一瞬息を飲む様に笑みが深まる。
 本当に面白い奴だと、自然と口からこぼれてしまう位に愉快な気分だった。
 

「お、おい」
「どうした、ヒロト。舐めないのか」
「ちょ……!」
「貴様よりも犬の方が積極的だな」
「何、襲われたいのかよ」
「客観的事実を述べているだけだ」
「へーえ。言っとくけどオレが手ぇ離したらこいつまた飛び付くぜ?」
「こいつだけか?」
「や、オレもだけど」
「別に構わん。どちらも嫌いではない」
「あー、オレ3Pはちょっと。しかも愛犬とは……」
「誰がそんな事をしたいと言った!」
「冗談だっつーの!させるかよ!」

 ぶっちゃけブランキーはそーいう事出来ない様にしちゃってるけど。こちらも可笑しそうに笑いながらそう口にした本田は手にしたリードを強く握り締めたまま、片手で海馬の項を抑えるとその唇を『舐める』為にゆっくりと己の顔を近付ける。

 そして、少し荒れた唇を触れ合わせる寸前、心底嬉しそうにこう言った。
 

「お前はすげぇな。だって犬どころかご主人にまで舐められるんだから」

02.A pet dog