獏良×海馬

 しつこい教師との面談に気が滅入りつつ早くこんな場所からは退散しようと、海馬は建て付けの悪い扉を力任せに引き開ける。すると、静まり返った空間にぽつんと一人の男が存在していた。彼は何をするでもなく窓の外を眺めながら徐に学ランのポケットを探ると、男子が持つには少々相応しくない物を取り出して、手慣れた動作でゆっくりと手を動かす。

 通常男がすると至極不気味に思えるその仕草がやけに様になっていた。思わず目を瞠って凝視するとこちらの様子に気が付いたのか、彼……獏良了は振り向いてにこりと笑った。窓から入り込んでくる赤い日の光に照らされて、薄く紫がかった白銀の髪がキラキラと輝く。 ヴァニラ

「お帰りなさい。随分ゆっくりだったねぇ」
「……貴様、何をしている」
「んー。ぼーっとしてる」
「……暇な奴め。用が無いならとっとと帰ったらどうだ」
「一応用はあったんだけどね。今はぼーっとしてたって事」
「……そうか」
「うん」

 会話はそれきり継続されず、海馬は鞄が置き去りにされた自席へと真っ直ぐに向かい、獏良はその様を黙って見守る。奇妙な沈黙。教室中に満たされる少々気味が悪いと思える赤い色が余計に妙な空気を助長させる。

「なんだ」

 それに耐えられず海馬が思わず発した声に、獏良はごく普通に「別に」と応えた。

 また、彼の右手が緩やかな動きを見せる。

「その、手にしている……」
「うん?このリップの事?」
「貴様、常にしているのか?」
「してるよ。ボク、唇荒れ易いんだ。それに、匂いも味もいいんだ、これ」
「匂いと味?」
「そうだよ」

 言いながら獏良はカタリと席を立ち、どこか覚束無い足取りで教室の最後部に立つ海馬の元へとやって来る。そのふわふわとした動きは、一瞬彼が実態を持つ人間だという事を忘れてしまうほど不確かなもので、海馬はまだ認めてはいないが彼が持つというもう一人の人格が発する、鬱陶しい程の存在感とは相反している様に思えた。

 しかし、何故か『あの存在』よりも目の前の男の方に苦手意識を覚える。彼が一歩近づく度に、こちらも一歩退きたい衝動に駆られた。けれど背後には傷ついた古い壁が立ちはだかり、どうにもならない。

 ゆっくりと。本当にゆっくりと、穏やかな笑みを湛えた白い顔が目の前でピタリと止まる。。

「ほら、匂い嗅いでみて?」

 静かに近付けられた、淡いクリーム色に銀のラメ模様が施されたリップスティックはやはりどう見ても男が持つものではない。けれど、男の物とは思えない白過ぎる指には良く似合っている気がした。馬鹿馬鹿しい、そう思いつつも海馬は顔を背ける事も身体ごと逃げる事も出来ない。

 瞬間ふわりと漂う甘い芳香。

 それは濃いヴァニラの香りだった。

「……甘ったるいな」
「ボクねシュークリームが大好きなんだ。だから、この甘いヴァニラの匂いも凄く好き。手放せない。キミはどう?」
「まあ、嫌いではないが、好きでもないな」
「そっか」
「ああ」
「じゃあ、好きになってくれると嬉しいな」
「なっ……」

 リップスティックを挟んで表面上は穏やかな会話が交わされていると思ったその時、突然互いの身体が微かに動いた。同時に海馬の唇に今しがた感じていた甘い香りから連想されたそのままの味が、仄かな暖かさと共に押し付けられる。何、と思い、海馬が反射的に目の前の身体を突き飛ばす前に、それは足音一つ立てずに離れて行った。

 後に残ったのは、甘く強い香り。そして、奇妙な熱。

 思わず強く拭う為に上げた腕を掴まれた。決して強くは無い、やんわりとしたその力は不可思議な拘束力を持っていて。結局、持ち上げた手は目的を果たせずにだらりと元の位置へと戻ってしまう。

「な……にを」

 海馬の掠れた声が再び静寂に満たされた空間に木霊した。それをやはり柔らかな笑顔表情で受け止めて、獏良はくすりと笑って至極嬉しそうにこう言った。
 

「美味しかった?好きになってね、この味」
 

 ボクの用事ってこれだったんだよ?

 次いで嬉しそうに紡がれた言葉に、海馬はどう答えたら分からずに、ただその場に立ち尽くす事しか出来なかった。

ヴァニラ