Lost child


 それは、余りにも唐突に齎された宣言だった。

 いつもの様に長い一日を二人で過ごし、広くはないが温かなベッドの中で飽きる事無く口付けを交わしながら、跡が付くほどきつく抱きしめあった。長年愛用していた所為でスプリングのききが悪くなったとオレが愚痴を零すと、それでも行為には支障がないとやけにぞんざいな台詞でそれを跳ねのけた海馬が、徐にオレの上へと跨り起立した熱を迎え入れた。

 重みを余り感じない軽い身体。少し伸びて肌に細い傷を付ける長い爪先。掠れるような喘ぎ声、滴り落ちる汗、無意識に流れる涙。その至極当たり前の全てを歓喜と共に受け止めて、オレは口元に笑みさえ浮かべながら気が済むまで奴との戯れに没頭した。時間など、気にする事もなく。
 

 何も特別な事はない、普段通りの時の流れ。幸福な時間。

 それが、たった一言で壊れるなんて、誰が想像しただろう。
 

「結婚、する事になった。挙式は半年後だ」
 

 互いに何度目かの絶頂を迎え、オレの腹の上も海馬の中も生温かな精液に塗れ、多少の不快さを覚えて来たその時だった。力尽きる様にオレの上に倒れ込み耳元で荒い息を逃していた海馬が、普段と同じ調子でそんな一言を口にした。呼吸と共に激しく上下する熱を持った軽い筈の身体が妙に重く感じる。
 

 けっこん……?ぼんやりと霞む頭の中でその一言が幾重にも木霊する。
 

 一瞬、何を言われたのか分らなかった。誰が、誰と結婚するんだって?それってオレ達の知ってる奴?そうだったら速攻で祝ってやらないと。どいつもこいつもそんな素振りすら見せねぇから、情けねぇって発破を掛けている所だったんだ。すげー嬉しい、最高だ。

 そう直ぐに口をついて出る筈の言葉は、何故か喉の奥に絡まって声にならない。あ…とか、う…とか意味の無い音が呼吸と共に漏れ出るのをもどかしく思う内に、身体の上の重みと熱がすっと引いた。海馬がオレの上から退けて、顔の両側に手を付いて見下げて来たからだ。
 

「先日の見合い相手だ。モクバとも仲が良い」
 

 身体はまだ繋がったままなのに、その瞬間パチンと何かが弾ける音がした。
 

「……な、んだよ、それ……」
 

 この数ヶ月、ロクに顔を合わせても居なかった。オレもお前も仕事がとても忙しくて、電話もメールも疎かにしていた。けれど、そんなのはいつもの事だ。繰り返された日常だ。今までもこれからもずっと続いて行く筈だったそれを、お前は。

 見合いをしたなんて聞いてない。結婚するつもりだったとも聞いてない。そもそもお前が、そういう人並みの願望を持っていた事すら分からなかった。知らなかった。無いと思っていたから聞く事すらしなかった。なのに、こんなに突然に。

「黙っていて悪かった。直ぐに言うつもりだったのだが」

 そう悪びれもせずに言うその顔は、声とは裏腹に少し苦しそうだった。それは何に対しての苦しみなのかは分からないが、そんな事を思いやる余裕もオレにはない。なんで、どうして。渦巻く疑問は声にはならず、ただ驚愕の眼差しを海馬に向ける事しか出来ない。悔しいとか悲しいと思う事すらままならなかった。

「……どんな人」
「小柄でしとやか、性格は貴様とは正反対だ」
「へぇ」
「細部にまで気遣いが行き届いて、常に笑みを絶やさない、聖母の様な女だな」
「すげぇじゃん」
「オレには、到底似合わない人間だがな」
「なら、なんで結婚するんだよ?」
「子供が欲しいからだ」
「……え?」
「そして、いい加減大人になりたい」
「……どういう……」
「貴様と居ると、オレは大人になりきれないのだ」

 いつまで経っても我が儘で、自分勝手で、どうしようもない。何をしても、されても許される。そんな生き方のまま年を取りたくは無い。

 そう言って、海馬は僅かに微笑む様に口元を歪めて見せた。けれど、それは笑みの形をしていなかった。

「オレとじゃ大人になれないって?」
「そうだ」
「大人だろ?今だって。現にお前は立派にやってるじゃねぇか。オレだって」
「自分達の眼にはそう見えても、周りにはそうは見えない。……そういう事だ」
「……そんな事!」
「現にこんな秘密基地で、誰にも言えない事をしているだろうが」

 確かにオレ等の事は友達にも、家族にさえ、言う事はしなかった。言ってしまったら大事な何かを無くしてしまう様な気がして言えなかった。オレも、海馬も。けれどいつかは……そう、いつか胸を張って言える時が来たら、二人で堂々と笑顔で宣言すればいいと思っていた。

 ……その『いつか』が何時なのかは、未だ見えずにいたけれど。

「今言えない事は、多分、一生言えないものだ。だから、オレはもう……」
「やめるのか」
「ああ」
「オレに相談もしないで、一人で勝手に決めて逃げるのか」
「……ああ」
「卑怯だろ?!そんなの!!」
「分かっている」
「だったら……!」
「だが貴様とて、今この瞬間も迷うだろう?口にする事を」
 

 実はオレ、男と、海馬と付き合ってるんだと。言えないだろう?他の誰にも。
 

 余りに静かな声で紡がれるその言葉に、オレは自分の意に反して息を飲む事しか出来なかった。そうだ。オレは言えない。言うのが怖い。言って、何かを無くすのが怖い。今までだって、これからだって、多分きっと。

「その恐怖と、オレと離れる事への恐怖。どちらがより強いか、考えてみればいい」

 そう呟く海馬の唇は微かに震えていた。

 ……ああ、そうか。お前は前者が勝ったんだな。何よりもそれが怖くて、苦しくて。だからオレにそんな顔を見せるんだ。勝手に見合いなんかして、女探して、それを口実にオレから離れようとしてるんだ。怖い者など何もないと大口を叩く癖にとんだ臆病者だ。呆れるぜ。

 けれど、多分それが一番の理由じゃないから、オレはなにも言う事は出来ないんだ。
 

 ── 否、違う。一番の卑怯者は、このオレだ。
 

「……臆病者」
「そうだな」
「……もううぜぇから、いっその事オレの事が嫌いになったって言えよ」
「言って貴様の気が収まるならな」
「……最低だ。結婚とかざけんじゃねーよ。散々男とヤリまくった癖にどの面下げて女抱こうとしてんだこの変態」
「………………」
「オレは……っ!」
「すまない、城之内」
 

 違う。違うんだ。謝らなければならないのはこのオレだ。卑怯者はオレの方だ。
 お前より……お前の何倍も、あの恐怖に怯えていたのはオレの方だからだ。
 

 もうちょっと大人になってから、少しずつ理解して貰わなきゃ。そんな言葉を盾にして現実から逃げていたのは明らかにオレだけで。何時まで経っても真っ直ぐに前を向く事が出来ないから、海馬は自分の方から手を離してくれたんだろう。オレを大人にする為に。
 

 ……大人になりきれなかったのは、オレだけなんだ。
 

「結婚するまではここに来る」
「馬鹿じゃねぇの。浮気するなんて最低だぞ」
「一人で生きられるか?」
「ふざけんな。心配する位なら捨てんじゃねぇ」
「オレはただ、貴様の幸せを願っている」
「……幸せって……!」

 たった一言で人の幸せを奪っておいて、良くもそんな口がきけたもんだ。最悪だ。そう最後に口にしようとしたけれど、せり上がる何かに邪魔をされて上手く言葉にならなかった。

 涙が、頬を伝う。徐々に冷えて行く身体が悲しかった。寒さに身が震えそうなのに少し距離を置いてオレを見つめるその顔は、もう近付いては来なかった。

 手を伸ばし、抱きしめる。
 けれどその身体は、もうオレのものではなくなっていた。
 

 結婚、おめでとう。
 

 おざなりに呟いた言葉は、酷く虚しく部屋に響いて、消えていった。

 

その日、子供の振りをした男が大人に戻り、一人の子供が泣きながら大人になった。

 

-- END --