Eden Act0

 澄んだ紫色の瞳が、薄い瞼の下からゆっくりと現れる。

 軽い瞬きをしながら不思議そうに空を見遣る彼は、実に一年ぶりにその瞳に眩しい日の光を感じていた。すぐ近くにある大きな窓には柔らかな白のレースカーテンが風に揺れて、側に飾られていた名前など知らない綺麗な蒼い花弁を舞い散らせる。

 静寂が、そこにはあった。

「目覚めたのか……」

 不意に窓とは反対側の、やけに広々とした空間に佇む人の気配を感じた。その声に応えようと思い通りに動かない身体を無理矢理その方向に向けようとして留められる。頬に触れる冷たい手、突然飛び込んできた白い顔。じっと何かを探るように己の顔を見つめるその人物の肩からさらり、と金の髪が零れ落ちた。

「私が見えるか?……いや、私が誰か分かるか?」
「……………」
「なんでもいい……何か言ってくれ」

 耳に届くその声が震えているのは気の所為ではないだろう。日の光を受けてそれ自身が光を放っているような美しい金の髪。何故か苦悶に眇められた蒼い瞳がしっかりとその表情を見つめる自分の姿を映している。

 綺麗に整ってはいるが、どこか精悍さを感じるその顔つきは男のもの…しかしこの人物を、寝台に横たわる彼は知らなかった。そしてその蒼い瞳に映る自分自身の事も思い出す事が出来なかった。

 この場所も、何故眠っていたのかも、何もかも。

「……クラヴィス!」

 酷く、悲痛な声だった。人の感情を掻き乱すような、鋭い声。何か応えてやらなければ。そう思いながらも、望む言葉を自分は知らない。仕方なく唯一動く右手を、己の頬に触れたままの男の手に重ね合わせた。

 最初冷たいと感じていた白い手は今は熱を移して暖かく、男は軽く触れられた指に気づくと頬に当てた手を抜き取りそれを包むように逆に手を重ねてくる。しっとりと汗ばんだそれに自身の手は痛みを感じる程強く握り締められた。

「ジュリアス」

 不意に、眼前にいる男以外の人間がこの空間に入り込んできた事を知る。澱みなく近づいてくる硬質な足音に、男は身体を強張らせた。触れられている手を通じて、伝わってくる感情の揺れ。祈るように閉じられた瞳を眺めながら、自分はただ黙って彼等の動向を見守るしか術がなかった。

「目覚めたんだな」
「……ああ、でも……まだ、完全ではない。……彼は……」
「ジュリアス。目覚めたんだよ、クラヴィスは。これが、お前が望んだ結果じゃないのか?」
「……………」

 全く意味の分からない会話が頭上で交わされる。一体、誰の事を話しているのだろう。彼等は己が何者か知っているのだろうか。そんな事をとりとめもなく考えていた矢先、後から入室して来た男がジュリアスと呼ばれた男を押しのけるように顔を覗き込んできた。やや鈍色の金髪に太陽の色の瞳、人懐こそうな笑みを見せてはいるがどこか悲しげな顔をしている。その男が穏やかな口調でたった一言口にした。

「はじめまして。俺は医師のカティス。この男は……同じく医師のジュリアスという」
「……カティスと、ジュリアス?」
「そう。そしてお前の名前は…クラヴィスだ。今は少し混乱しているかも知れないが、じきに慣れる。一日も早く、ここから出られる様に協力しよう。お前の楽園は、ここじゃない」
「楽園?」
「……やり直そう何もかも。きっと、できるはずだ」

 その声を聞きながら、彼…クラヴィスは不意に腕に小さな痛みを感じた。同時に徐々に薄らいでいく意識。妙な浮遊感にも似たその感覚に身を任せながら、脳裏の片隅にはただ一つ、「何故」という言葉しか浮かばなかった。
「とりあえずは、成功だったようだな。検査結果は異常がない。彼さえよければ、明日にでも『楽園追放』だ」
「………………」
「お前達はこれからだ。これからはなんでもできる、我慢する事もない。今まで出来なかった全てを焦らずに経験していけばいい」

 眠りについたその横顔を眺めながら、カティスはぽつりとそう呟いた。同時に力強い手が、寝台を凝視したまま動かないジュリアスの肩に触れる。

「……記憶を失っても、クラヴィスがクラヴィスである事は代わりはない。お前はそう言ったはずだ。失われたわけじゃない、眠ってしまっただけなんだ」
「……気休めを言うな」
「気休めじゃないだろ。お前がそれを証明するんじゃなかったか?……もし失われていたとしても、また新たに作ればいい」
「新たに?」
「それが出来る自信があったから、クラヴィス本人の反対を押し切って行動した。そうじゃないのか?」

 答えが返ってこない事にやや諦めのため息をつくと、カティスはジュリアスから身を離し足早に回廊へ続く扉へと向かって歩んでいく。そして扉に手を掛け押し開くと一瞬立ち止まり、彼は後ろを振り返らないまま最後に一言口を開いた。
 

「……『EDEN』か。ホスピスには相応しくない名前だな。死を待つだけのこの場所は、楽園じゃない」