Act1 恋桜

 はらはらと、薄紅の花弁が舞い落ちる。

 柔らかな月光に照らされて、まるで光の粒の様に振り落ちてくるその花弁を一枚掌で受け止めて、彼は小さく微笑んだ後、優しい声で何かを告げた。

 至極嬉しそうに、愛おしそうに、紡がれたその言葉。
 

 ── けれどその声は、もう……聞こえない。
 

 
 

「もう高校生活も終わりかーあっと言う間だったよな」
「お前が卒業できたのは奇跡だけどな」
「うっせぇ!オレだってやればできるっつーの。城之内様の実力を見たか!」
「先生に泣きながら土下座したくせによ」
「え?城之内くん泣き落とし作戦使ったの?!」
「うるせえうるせえ!!結果オーライだろ!?ごちゃごちゃ言うんじゃねぇ!!」
「あーもう最後まで煩いわねぇ。いいから写真撮りましょうよ。どこで撮る?御伽くんと獏良くんは何処に行ったのかしら?」
「あ、そうだね。教室で一枚と、紅桜で一枚って言うのはどう?」
「あの桜はすげぇ人が一杯いたぜ。絶好の撮影場所だからよ。ほれ今も……って、んん?」
「?……どうしたの城之内くん」
「おい、アレ海馬じゃねぇか?女といる」
「えぇ?……あ、本当だ。海馬くん、姿が見えないなぁと思ったら、あんなとこにいたんだ」

 そう遊戯が口にした途端、その場にいた全員の視線が窓の向こうの……グラウンドの奥隅にある、運動部棟横の巨大な桜の木へと向けられる。

 童実野高校名物、紅桜。

 『桜の花が咲いている間、好きな人と二人きりである場所に佇んで告白をすると恋が叶う』というジンクスがあるその木の下で、数多の卒業生が賑やかに写真を撮ったり、仲間と泣きながら別れを惜しむ中、普段と同じ冷めた無表情で佇んでいる海馬の姿があった。

 その目の前には、顔の知らない女生徒が立っている。卒業証書を手にしていることから、きっと他クラスの卒業生なのだろう。彼女は海馬を上目遣いに見つめながら、何事かを口にしようと賢明に努力している最中だった。そんな相手を海馬はただじっと見つめている。

 ……否、見つめているようでその視線は、背後にある桜の木に注がれていた。
 

 童実野高校最後の日。
 

 学年一出席日数が少なかった海馬瀬人は、学年一の成績を三年通して収め続け、代表挨拶を行った入学式と同様に、卒業生代表として答辞を読んだ。普段の雰囲気とはまるで違う、優等生そのものの姿で、新品同様の学生服に身を包み、毅然とした態度で壇上で言葉を発するその姿を、遊戯は眼下の席からじっと眺めていた。
 

「なんであいつが答辞を読むんだよ。学校に来もしねぇ癖によ」
 

 その名が式次第へ掲示された時、即座にそう悪態をついていた城之内も、いざ式が始まり壇上に立つ海馬に視線を送った瞬間、まるで魅入られたようにその姿を見つめていた。その事に対して彼は「学生服が珍しかった」とか、「普段のあの馬鹿丸出しな態度と違ってたからつい見ちまった」とか、色々ととって付けた様な言い訳をしていたけれど、その実彼も見とれてしまったんだと遊戯は思った。
 

 城之内だけではない。あの場にいた人間全てが、海馬に魅入られていたのだ。
 

「お、女の方は告白でもしやがったか?第二ボタン下さいとか、古典的な事言ってんじゃねぇだろうな?」
「ちょっとやめなさいよ城之内。人の事を盗み見するのは!」
「誰からも声をかけられなかった城之内くんの僻みですか?」
「黙れ本田!てめぇも同じだろうが!!ほっとけよ!!……って、あ、女行っちまったぞ。振りやがったか」
「やめなさいってば!!」
 

 城之内の言葉を右から左に聞き流しながら、遊戯はじっと視線を海馬から外さずにいた。海馬は女生徒から紡がれたらしい台詞に、即座に小さく首を振って何事かを返しているようだった。多分、告白を受けて、その返事をしたのだろう。海馬の口が閉ざされた瞬間、彼女は悲しそうに顔を歪め、少しの間俯いた後、最後に綺麗な笑顔を見せて海馬へと背を向けた。そして、即座に走り去ってしまう。

 その姿を視線で追うことすらせず、海馬はまたあの桜を眺めていた。

 ここからではその横顔しか見る事は出来ないが、僅かに俯いたその表情は酷く悲しげで、今にもその場に屑折れてしまいそうだった。

 その理由を、遊戯は知っていた。遊戯だけが、知っていた。
 

『オレはお前の事が好きだぜ、海馬』
 

 あの桜の下で、海馬にそう言ったのは……紛れもなく『遊戯自身』だったのだから。
 

 
 

「桜の下で告白すると、成功する?」
「そうそう、結構有名な話だぜ。ま、本当か嘘かは分かんねぇけどよ。今日もわんさか集うんじゃねぇの。卒業の思い出に大告白大会でよ」
「でもあれって二人きりじゃなきゃいけねぇんだろ?難しいよなー。とりあえず、お前が実験台になってみろよ、城之内」
「好きな奴いねぇもん。無理」
「高二のみそらで寂しい事言うなよな」
「てめぇこそミホちゃんにでもやってみろよ」
「……ミホちゃんにはもう彼氏がいんだよ」
「ぎゃははははは!マジで?!そりゃー気の毒にな?!」
「うるせぇ!人の不幸を笑いやがって!!」

 『彼』がその話を聞いたのは、一年前の卒業式の日だった。この日もやはり在校生代表として送辞を読まされる嵌めになった海馬は学校に登校していて、その打ち合わせの為に教室を空けていたその時に、城之内が持ち出した話題が、あの紅桜の事だったのだ。

 その日は、卒業式など自分達が卒業するわけでもなくただ座っていなければならない退屈な行事、という認識しかなかった為、遊戯は前の晩購入したばかりの新作ゲームに夢中になってしまい、殆ど徹夜状態で学校へとやって来た。

 結果襲い来る眠気に勝つ事はできず、別にいいと言ってくれた闇遊戯に表に出て貰い、心の深部で休息を取っていた。その間の出来事だったらしい。

「サクラか」
「お、なんだ遊戯。お前桜は見た事ねぇのか?」
「ああ、ないな。あんな風に散り際まで綺麗なものを、オレは見た事がない」
「そういう意味では桜って特別よね。ロマンチックで好きだなぁ、私」
「死体が埋まってるとかいうけどな!」
「もう!!そういう事言わないでよ馬鹿!!」

 ほんっとにデリカシーがない男よね!最低よ!!

 そう叫んで拳を振りあげる杏子を何とは無しに眺めながら、『彼』は興味深げにあの桜を眺めていた。そんな『彼』を遊戯もまた心の中から見つめていた。
 

 『彼』が消えてしまった今、何故か『彼』の記憶が遊戯のものとして、時折呼び覚まされる事がある。この桜のエピソードも、その中の一つだった。
 

 あの後『彼』は、共に帰ろうという仲間の言葉を断って、日が暮れるまで教室に居残り、同じ様に休んだ期間に溜め込んだ用事をこなしていた海馬の事を待っていた。それは特に珍しい事ではなく、稀に存在する時間だった。

 当時彼等はまだ友達以上恋人未満の関係で、時折共に時間を過ごしたりする程度の、ごく普通の間柄だった。『彼』は海馬に好意を抱いていたし、海馬も『彼』の事を嫌いではなかった。そんな曖昧な関係がずっと続いていた矢先、『彼』は城之内からあの桜の話を聞いた。『彼』が何を思ってあの日ずっと海馬を待ち続けていたのか、遊戯には分かっていた。

 分かっていたからこそ、目覚めた後も『彼』に意識を譲ったのだ。
 

 
 

『オレは海馬の事が好きだぜ、相棒』
「もう一人の僕?」
『でも、あいつはオレの事をどう思ってるかな』
「……嫌いでは、ないと思うけど」
『そうかな』
「うん、そうだよ。だから……言ってみたら、いいんじゃないかな?」
『何を?』
「きみの事が好きだよって。海馬くん、ああ見えて自分の見たもの聞いたものしか信用しないから、言わなくちゃ絶対分からないよ」
『………………』
「もしかしたら、待っているかもしれないしさ」
『待っている?』
「そう。……きみからの、言葉をね」
 

 そう、海馬くんはきみからの言葉を待ってるんだ。
 たまに僕を見る視線、向かい合って話す言葉。
 それは僕を通してきみにも伝えようとしてる。僕には分かる。

 分かるから……凄く切ないんだ。
 

 好きになったのは紛れもなく自分が先だった。童実野高校の入学式の時に、始めて見たあの姿に一瞬で魅入られたのだ。滅多に学校にも姿を現さなくて、クラスメイトになってからも敵意丸出しで散々酷い事もされたけれど、それでも最初に覚えた淡い恋心は消える事はなかった。

 けれど途中、己の前に姿を現した『彼』によって、海馬の意識は自分に向けられる事はなくなった。確かに自分を見てはいるけれど、彼が思いを向けるのは自分の中に存在する『彼』のほうで、言葉を交わすのも『彼』とばかり。感覚的に遠ざかっていくその距離を埋める術など遊戯には持ち得なかったのだ。

 だから『彼』の口からその言葉を告げられた時、例えようもないショックを受けた。

 けれど、それを否定する事も阻止する事も遊戯には出来なかった。出来るはずもなかったのだ。
 

 
 

「……話とはなんだ?こんな場所に連れて来て、貴様何を考えている」
「まあいいじゃないか。綺麗だろ、この桜とか言う花」
「フン、こんなもの春になれば何処にでも咲いているだろうが。今更珍しいとも思わん」
「オレは今日始めて見たんだ。この世界には色んなものが溢れているが、これは本当に綺麗だな」
「綺麗?」
「ああ、綺麗だろ?上から降ってくる花びらが……ほら、月明かりを受けて光ってるみたいだ」
「……貴様にしては詩的な物言いだな。気色悪い」
 

 あの日。海馬が教室に帰ってきたのは既に日が落ちた夕暮れで、『彼』は疲れた顔で席に着き、帰り支度を始めた海馬をあの紅桜へと誘い出した。最初はかなり渋っていた海馬だったが、しつこく行こうと繰り返す『彼』に根負けする形で結局この場所まで来てしまった。

 辺りはもうすっかり暗くなり、満月に近い大きな月が雲間から顔を覗かせ、吹き付ける風はまだ大分冷たかった。その為か、周囲には人影などまるでなく、本当に二人きりだった。……あのジンクスを成功させるには、最高の好機。『彼』の目論みは100パーセント成功したも同じだった。
 

 はらはらと、桜が舞う。

 その花弁を一枚掌に受け止めて、『彼』は緩やかに海馬を振り向き、その桜よりも美しい笑みを見せて、こう言ったのだ。
 

『オレはお前の事が好きだぜ、海馬。……ずっと一緒にいて欲しい』
 

 強い風が吹き抜ける。海馬の瞳が、酷く大きく見開いた。
 

 
 

「ごめん、皆。先に帰ってて。僕ちょっと寄り道するから」
「えぇー。今日は杏子の家で卒業パーティーするっていったじゃん!」
「それまでには多分帰ると思うから。ね?」
「別にいいわよ。私達は先に帰って準備しましょ。ほら、城之内!!あんたの好きなもの作ってあげるから!!」
「マジで?!……じゃーしょうがねぇけどよ。あんまり遅くなんなよ」
「うん、ごめんね」

 あれから皆と一緒に騒ぎながら無事に記念撮影も終わり、もう何もする事がなくなった仲間達は、兼ねてから予定していた手作りの卒業パーティーをするために、帰宅しようと口にした。それをやんわりと断って一人教室に残る事に成功した遊戯は、もう誰もいなくなった室内を一瞥し、名残を惜しむように自らの机を緩やかに撫でると、徐に駆け出した。
 

 目的は、あの紅桜。

 海馬がずっと佇んでいたあの場所に、遊戯もまた、逸る心を抑えて走ったのだ。
 

 
 

「海馬くん!!」
 

 ザッ、と草を擦る音と共に開口一番その名を叫んだ遊戯の声に、そこに力なく座り込んでいた長身は、びくりと肩を震わせて振り向いた。その瞳が一瞬大きく見開いて……そして絶望に伏せられる。

 その仕草の意味を即座に知った遊戯の胸が、ちくりと痛んだ。
 そして彼は胸中で小さく謝罪の言葉を口にする。
 

 ── もう一人の僕じゃなくて、ごめんね……と。
 

「……遊戯?」
「やっぱりまだここに居たんだね。もう皆帰っちゃったよ?」
「……知っている。オレの事より、貴様は何故帰らない」
「僕は、海馬くんに話があったから」
「オレに話?」
「そう」
 

 貴様と話す事なんか何もない。

 言外にそういいながら、海馬は遊戯を見ていた眼差しを、桜へと戻してしまう。
 

 
 

 あの日。

 『彼』から告白を受けた海馬は、酷く驚いた顔をして……それでも拒絶の言葉を吐くこともせずに、ただ黙って差し出される手を握り締めた。二つの掌の間には『彼』が悪戯に受け止めていた花弁が落ちる事無く存在していて、『桜の花弁を二人で握り締めるとより効果が高くなる』というもう一つのジンクスをそのまま自然にクリアしてしまった。

 そのまま、どちらともなく唇を触れ合わせ、『彼』と海馬の恋は成就した。
 

 けれど。
 

 その彼は、もう……いない。
 

 
 

「この桜にはさ、ジンクスがあるんだけど、海馬くん、知ってる?」

 不意に遊戯は桜から目を話さない海馬へと近づいて、運動部棟の壁に身を凭せ前を見据えるその身体の横に座り込み、穏やかな声でそう言った。その言葉に、海馬は漸く桜から遊戯へと視線を移し、不思議そうな顔で口を開いた。

「……ジンクス?」
「そう」
「そんなものがあるのか?」
「うん。……あのね、この紅桜にはね……」

 海馬の視線を受けながら、遊戯は幾度も頭で反駁したあのジンクスの事を一つ残らず海馬に語って聞かせた。誰にも見られず、二人きりで告白をする事。一つの花弁を二人で握り締める事。そうすれば……恋が叶う事。

 その話に、徐々に強張っていくその表情に気付きながらも、遊戯は最後まで話す事をやめなかった。

「それで……」
「もういい、遊戯」
「何が?」
「もうその話はいいと言っている」
「……どうして?」
「貴様は一体何が言いたいのだ?そのジンクスとやらを実行したオレ達が……敢え無く失敗に終わった様を笑いに来たのか?」
「………………!!」

 ぞくり、と一瞬寒気が走った。それまで同じ位置から見つめられていたはずの海馬の瞳が、やや下方に下がり、遊戯を鋭く睨みあげる形に変わったからだ。ゆらりと揺れるその青は僅かに滲んで、それでも濡れる事無く遊戯の顔を映し出した。

「そんなものは下らん噂話だ。踊らされる奴が間抜けなだけだ。何が恋が成就する、だ。……ああ、確かにしただろうよ。だが、未来がなければ意味などない!」
「海馬くん……」
「奴は嘘吐きだ。どうしようもない、馬鹿男だ。そしてオレも、こうなる事を分かっていて奴の手を取った馬鹿だった!」
「海馬くん!!」
 

 悲鳴の様な声と共に、さらりと、海馬の髪が遊戯の頬に……そして肩に降りかかる。

 思わず……本当に思わず、遊戯はその身体を抱きしめていた。余りにも辛そうに、泣き叫ぶような声で、『彼』への言葉を吐き出したから。悲しくて、そして少しだけ悔しくて、遊戯はその声を封じるように己の腕の中に閉じ込めてしまおうと思ったのだ。

 抱きしめた身体は少し冷たい春の風に曝されてとても冷たかった。けれど一瞬触れた頬は酷く熱く、腕で包んだ瞬間堰を切ったようにあふれ出した涙に濡れていた。
 

 桜が散る。薄紅の花弁が、次から次へと舞い落ちる。

 震える肩を擁きながら、遊戯もまた、泣きたくなる。
 

「……ねぇ、海馬くん。僕もね、今日そのジンクスを試そうと思って、ここに来たんだ。……けどね、そのジンクスは……もう、なかった事にした方がいいのかなぁって、思うよ」
 

 ── 本当はこの場で、きみに好きだよって言うつもりだったんだ。

 『彼』が消えてしまったのをいい事に、ずっと秘めていた思いを打ち明けて……このジンクスに願いを込めて、きみに告白するつもりだったんだ。『彼』のように花弁を手にして、きみの掌を強引に重ねて……。

 けれど、きみが余りにも桜の向こうにいる『彼』の事を見つめているから、言っても無駄だって事に気づいたんだ。
 

 声には出さず、遊戯は一人、そう呟く。
 

「ジンクスなんて、嘘だよね。……叶いっこないんだよ」
 

 そう、叶うわけなどなかったのだ。たかが桜の木一つに、そんな力があるわけない。運命には誰も逆らえない。そうと知っていて、手を伸ばすほうが馬鹿なのだ。けれど、そんなに簡単に割り切れるわけもない。

 この恋心と、同じ様に。
 

「もう少し泣いたら、一緒に帰ろう?もうここにいても仕方ないから。きみも、僕も」
 

 ね?

 そう優しく囁いたその声に、腕の中の彼は、微かに頷いた。頷いて、何時の間にか縋りついていた遊戯の身体に回す手に力を込めた。
 

 
 

 はらはらと、薄紅の花弁が舞い落ちる。

 柔らかな月光に照らされて、まるで光の粒の様に振り落ちてくるその花弁を一枚掌で受け止めて、彼は小さく微笑んだ後、優しい声で何かを告げた。

 至極嬉しそうに、愛おしそうに、紡がれた嘘の言葉。
 

『ずっと一緒にいて欲しい』
 

 嘘を吐いたあの男。
 それでも、一緒にいたかった。
 この桜を、ずっと眺めていたかった。
 

 『遊戯』
 

 ── その名はもう、あの男のものではない。