Act2 哀桜(Side.遊戯)

 彼の瞳が僕を見る。
 

 一瞬戸惑った様に眉を潜め、ほんの少しだけ眩しそうな眼差しを向けた後、悲しそうに目を伏せる。きみは気づいていないかも知れないけれど、『彼』がいなくなってから僕を目にする度に自然にそんな仕種を見せるきみに……。
 

 ── 僕は酷く傷ついていた。
 

 

「久しぶりだね。一年ぶり位かな」
「もう、そんなに経つか?」
「うん。あの卒業式の日以来、会ってなかったから」
「……そう言えば、そうか」
「相変わらず仕事、忙しいんでしょ?今度は何時まで日本にいられるの?」
「一週間位だな」
「短いね」
「オレにとっては長い方だがな」
 

 言いながら、彼の指先が書類を捲る。一枚、また一枚と捲りながら全ての内容に目を通す。僕がこの部屋に入って傍のソファーに腰かけても、彼は仕事の手を止める事はなく、ずっと手を動かしている。その視線は、僕を見ない。

 この一年で、僕の背は大分伸びた。19歳男子の平均身長にはまだ届かないけれど、かつての『彼』とほぼ同じ位に成長した。きっと立って向かい合ってみれば、その事ははっきりと彼にも分かるのだろうけど、彼は敢えてそれをしようとはしなかった。

 きっと、したくないんだと思う。
 

 
 

『卒業後の進路、聞いてなかったけど。海馬くん、大学受けたの?』
『ああ、海外の電子工学専門の私立大学に……仕事と両立出来るようにそこに支社も立ち上げた』
『日本から、いなくなるの?』
『いても仕方がないだろう、この場所に。本社にはモクバがいるしな』
『……仕方が、ないんだ?僕達が……きみの仲間がここには沢山いるのに。きみにとっては『仕方がない』事なんだね』
『………………』
 

 彼と最後に過ごした一年前の卒業式のあの日、彼はずっと僕の腕の中で泣き続けて、日もすっかり落ちて辺りが暗くなり始めた頃、漸く顔を上げてあの紅桜に背を向けた。

 僕と二人で校門を出るまで一度も振り向かずに、彼はただひたすら前を見て歩いていた。その足取りは普段と比べたら大分鈍いものだったけれど、それでも立ち止まったりはしなかった。

 それから家に帰るまでの間、僕達はぽつりぽつりと話をした。

 今までの事、これからの事、僕にとっては最初で最後かもしれない長い時間を彼と共有する事が出来た。彼も口を閉ざしてしまえば、あの桜の事を考えてしまうからだろうか、会話はずっと途切れる事はなかった。途切れないようにする為に必死だったのかもしれない。……彼も、僕も。

 それでも彼の眼差しは僕の事を一度もまともに見る事はなく、別れを告げるその時まで、僕の胸元を心もとな気に彷徨っていた。僕の方は少しでも多く彼の瞳を眺めていたいと懸命にその白い顔に視線を向けたのだけど、身長の違いでなかなか上手くいかなかった。
 

 そして、一年。

 少し目線の高くなった僕と、さらに線の細くなった彼が、一つの空間を共有している。
 

 彼がこの一年どこでどんな風に過ごしていたのか、連絡の一つも取らなかった所為で全然分からなかったけれど、その姿を見れば大体の所は聞かなくても分かってしまう。
 

 彼があの日から……まだ一歩も前に踏み出してなどいない事を。
 

 
 

「大学は、楽しい?僕はよく知らなかったけど、海馬くんの行った大学、電子工学の分野では世界一だったんだ。凄いね。その内、ソリットヴィジョンを実体化とかできちゃったりして」
「それはまた夢のような話だな」
「夢も見るよ。だって海馬くんならなんだって出来るような気がするもん」
「なんだって、か」
「そう……どんなに辛くても、苦しくても、乗り越えていけるって……思ってる」

 僕がある種の意図を持ってそう口にした言葉に、彼はその意図をきちんと汲み取ったのか、複雑な顔をして黙り込んだ。きっと、彼自身も自分が前に目を向けていない事をよく分かっていて、指摘されたくはなかったんだと思う。

 けれど、何時までもこのままではいられない事も知っていて、それ以外の事に夢中になる事で、忘れた振りをしていただけなんだ。だからこうして真正面から言葉をぶつけられると黙ってしまう。普段は饒舌な彼だからこそ、その変化に愕然とする。
 

 彼の中の『彼』が未だ色を失わずにいる事に、分かっていても、悲しくなる。
 

「……そういう貴様はどうなのだ」
「僕?僕は相変わらずだよ。毎日大学に行って、アルバイトもして……僕だけじゃなくて、皆同じ様に過ごしてる。何も変わらないよ。あ、友達は増えたかな」
「そうか」
「でも、何かが足りないんだ。凄く充実してて、楽しいのに、何処かにぽっかり穴が空いてるみたい」
 

 そう。何をしていても、涙が出るほど笑っていても、何かが足りない。その『何か』は考えなくても分かる。今までずっと一つの身体を共有していた『彼』と、いつも近くにいるはずだった目の前の彼が、いないから。気配すら感じられないほど遠くに、身を隠してしまったから。

 ふとした瞬間に僕はそれを思い出して、泣きたくなる。けれど、泣きたくなるとあの日の彼の事を思い出して、僕の涙は出る前に枯れてしまう。泣いて泣いて、体中の水分全て出てしまったのではないかと思う程泣いて、それでも何一つ吹っ切る事の出来ない彼の事を思うと、苦しくなった。
 

 会いたいと、どれ位思っただろう。
 けれど、会ってもどうしようもない事に、どれ位絶望しただろう。
 

 そんな僕の葛藤に、目の前の彼は気付かない。気付かない事に、落胆する。そして実際にこうして顔を合わせてみて、やっぱりそうだった事に愕然とする。
 

 何故、今の季節に日本に帰ってきたりしたの。
 桜の花が満開になる、この時期に。
 

 僕の言葉に再び黙ってしまったその顔に、僕はそう言ってやりたかった。けれど、もう十分打ちのめされているだろう彼に、これ以上傷つける言葉を言い出せなくて、僕はただ静かに笑った。

「遊戯」
「ごめん、こんな事を言いに来たんじゃなかったんだ。ただ、顔が見たくて。……これからはもうちょっとマメに帰ってきてくれないかな。モクバくんだって寂しいでしょ?」
「モクバはたまにこちらに遊びに来ている。問題ない」
「えー。ずるいなぁ。今度僕も便乗していい?」
「好きにしろ」

 そう言って、彼はまた一枚、書類を捲る。今の言葉は嘘だよね。分かってるよ。きみは僕の顔なんか見たくないんだ。見たくないからこそ、この国を出て行った。会いに行きたくても、行けない場所を選んで、身を潜めてしまった。そんな事、分かってる。

 だから僕は、追いかける真似はしない。追いかけても、意味がないから。彼がいつか自分の意思でここへ帰りたいと思うようになるまで、無理強いはしない。だけど、何時までもそのままにはしておかない。僕だって、そう気が長いほうじゃない。そして、気が弱い方でもないからね。

「ね。海馬くん。この一週間のうちで、いつか時間ある?一時間でいいんだ」
「……なくは、ないと思うが。何かあるのか?」
「凄く桜が綺麗だから、二人でお花見がしたいんだ。あ、モクバくんも一緒でいいから、三人で」
「………………」
「海馬くんの家には、桜の花がないみたいだから……何処かに出かけよう?」
「何故、桜なのだ」
「なんでだろうね。それは海馬くんが一番良く分かるんじゃないの?」
「………………」
 

 ほら、また黙ってしまう。
 

「海馬くんがいる所には、桜はある?」
「……ないな。そもそも四季がはっきりしていない」
「だったら、桜が恋しいでしょ?日本人なら、桜を見なくちゃ」
「どんな決め付けだ」
「ただ純粋に……桜を、見に行こう?ジンクスも、何もかも……関係なく、ね?」
 

 きみにとって、せめて桜が苦い思い出にならないように。

 僕を見て僅かに瞳を歪める様に、あの綺麗な花を嫌ってしまわないように。
 

「桜は、本来はとても優しい木なんだよ。見て涙を流すような木なんかじゃない」
 

 そう僕が彼に目を向けながらまるで言い聞かせるようにそう言うと、初めて彼は真っ直ぐに僕を見返して、指先から書類を離して小さな溜息を一つ吐く。

 そして、少しだけ諦めた表情を見せてこう言った。
 

「……まだ、そこまでの勇気は、オレには無い」
 
 

 あの舞う花弁を見るだけで、胸の奥が痛くなるのだと、そう言われて。

 ……僕はもう、それきり何も言えなかった。