Act6 迷桜(Side.城之内)

 カラン、と小さく氷の解ける音がして、グラスの外に滲んでいた水滴が流れて下に落ちる。その中に残る薄い琥珀を眺めながら、オレは何処までも深い溜息を吐いた。その向こう側、昔はその口を閉ざす事を知らないのかと思う程雄弁だった男は、先程から一言も話さない。ただじっと、今オレが見ていたグラスを睨んでいた。

 なんの変哲もない。安い、硝子のグラスを。

「……オレはさ、確かにお前とは特に係わり合いもなかったし、今だって偶然会ったってだけで、何にもわからねぇよ」
「………………」
「けど、さ。お前を全然知らない訳でもねぇから、これだけは言える。お前、絶対変わったよ。前はそんなんじゃなかっただろ。少なくても、こんな風に黙り込む事なんかなかったじゃねぇか」

 オレの声が、狭い室内に木霊する。切れかけた蛍光灯が時たま明滅を繰り返し、目の前にある顔を弱弱しく照らし出す。外は酷い雨が降っていて、壁や天井の薄いこの部屋に煩い程雨音が響いていた。その音に紛れるような小さな声が、オレの言葉に反論する。

「……貴様には関係のない事だろう」
「ああ、確かにオレには関係ねぇ。けどな、気にして欲しくなかったらそういう様子を見せるなっつってんだよ。こんな嵐の中ふらふら歩くとかよ」
「それは……ただ傘を忘れただけだ。それを言うなら貴様もだろうが」
「嘘吐け。お前なら電話一本で何でも手に入るじゃねぇか。それに、外歩きなんて必要ねぇだろ。何時でも何処までもお供してくれる連中や、お出迎えの車が有る癖に。そんな手段が何もないオレと一緒にすんなよ」
「……オレは、オレだって……」
「オレ達とお前は違うだろ。なあ、マジで。何かあったのかよ」

 オレの容赦ない台詞に殆ど必死に次の言葉を探している眼前の顔色は滑稽なほど蒼白で。少し前にあの料亭の前で偶然出会った時よりもまだ酷い有様だった。あの時も、即座に気持ちが悪いと思ったけれど、今は更に強くそう思う。

 そして特に深く考えずに、この状況を何とかしてやりたいと思った。オレに何が出来るって訳でもないけれど……なんとかしてやらなければ、と。強くそう思ったんだ。

 オレの言葉に再び俯いてしまった奴の前髪から、ぽたりと雫が下に落ちる。ジャケットを脱いで、白く薄いシャツ一枚の姿。そのシャツさえ濡れて肌に張りついている。寒いだろうに渡したタオルを取り上げもしないでそのまま床においてしまったその様子に少しだけ苛立って、オレは無言のまま立ち上がると奴の側に行き、タオルを拾い上げてその頭に手を伸ばした。
 

 海馬は身動き一つ、声一つ、上げなかった。
 

 
 

 日もすっかり落ちた夕暮れの街中で、オレは今目の前にいる男……海馬と再び偶然出会ってしまった。

 昼過ぎから降り出した雨は時間が経つごとに風交じりの嵐になり、オレはこの天候の為に早く切り上げた仕事の帰りで、海馬は……本人が言うにはどこぞのホテルでやった会談からの帰りだったらしい。きっちり着込んだ常とは違う暗色系のスーツにコートという出で立ちで、人混みに紛れて……オレから見れば弱弱しい足取りで歩いていた。

 大体こいつが人混みに紛れるなんて事はこれまでにはありえなかった。そのセンスに少々疑問を持つような一際目立つ格好もさることながら、その存在感と言ったら鬱陶しいくらいで、奴が何処に潜んでいようと直ぐに分かるほど悪目立ちしていたもんだった。

 けれど今日は、オレがすれ違いざまに目を凝らさなければ、海馬という事が分からない位周囲に溶け込んじまってて、変な表現だけどそのまま消えちまうんじゃないかってくらい存在感がまるでなかった。

 だから、思わず声もかけずにその腕を掴んでしまった。海馬がはっとしてオレの顔を睨んで、「何をする!」と鋭く叫ぶまで、オレは奴の事を捕まえた事にすら気付かなかった。

 それから雑踏の中で小さな争いをした挙句、オレはそのまま海馬を自宅まで連れ帰った。最初は早く迎えを呼んで屋敷に帰すべきなんじゃないかと思ったけれど、こんな所を一人で歩いているという事は、海馬には初めからそのつもりはないのだろうと勝手に思って。

 現に海馬の携帯は移動中も移動後もずっと鳴りっ放しで、それなのに奴は手を伸ばす素振りすらみせなかった。最後には煩げに電源を切って、乱暴な仕草でコートのポケットに突っ込んだきり無視しやがった。

 大事な用があるんじゃねぇの?とか、お前もしかして探されてたりする?とか、一応気遣っては見たんだけど、奴は頑として口を割らなかった。多分、図星なんだろうな。

 オレも元々傘なんて持ってなくて、家に着いた頃には二人とも頭の先から爪先まで全身ずぶ濡れで、余りにも酷い惨状にオレは即座に風呂を沸かして風邪ひかねぇように温まれ、って言ったんだけどここでもやっぱり海馬は頑固で動こうとすらしねぇから、オレはとりあえず濡れたジャケットとコートを取りあげると、奴にバスタオルを渡したまま放置して、一人シャワーを浴びてしまった。

 そして風呂上りの飲み物を持って、海馬には親切にもホットコーヒーを淹れてやって、そして漸く向かいあった。

 オレが口を開くまでじっと奴は黙り込んでいたから、狭い空間なのにそこはどこまでも静かだった。
 

 
 

 ゆっくりと、湿ったタオルを海馬の頬から離し、その顔を覗き込む。表情一つ変わらない強張ったその顔は、オレに桜が嫌いだと言ったあの時を鮮やかに思い出させる。

 最後に一瞥するように満開の桜の木を見上げたその顔は酷く歪んで、今にも泣いてしまいそうだった。……いや、多分泣いていたんだろう。背を向けて駆け出そうとするその一瞬、瞳が揺れたのを見ちまったから。

 たかが桜に何をそこまで思いつめる事があるんだろう。あの後、色々と考えを廻らせてみたけれどやっぱりオレには何も分からなかった。けれどそれ以来、それまでは思い出しもしなかったこいつの事を常に頭の片隅に置くようになり、今日も何気なくその姿を探してたんだ。だからこそ、見つける事が出来たんだろう。そうじゃなければ、とてもあの人混みの中に紛れたこの姿を目に留める事なんて出来ない。

 この間は偶然だったけど、今日は必然だったんだ。奴の横顔を眺めながら根拠も何もないそんな事を考えて、オレはほんの少しだけ嬉しくなる。

 けれど。

 そんな軽い気持ちを吹き飛ばすほど目の前の海馬は深刻で。原因も解決法も分からないオレは、ただ黙ってこの顔を見つめることしか出来ない。言葉なんて、先程のやりとりでまるで意味がないと分かってしまった。もう、成す術はない。

 ガタッ、と大きく窓が揺れ、叩きつけるような風が一層強く吹き付ける。思わず窓辺に目線を向けると、窓枠の際に一枚の花弁を見つけた。既に干からびて薄茶色に変化しつつあったけれど、それは間違いなく桜だった。

 そういえばここ数日ですっかり桜は散ってしまった。あれだけ華やかだった街の桜街道は今はすっかり新緑に覆われてなんの変哲もない並木道になっている。オレの部屋から見えた近所の豪邸の巨大な桜の古木もあの雨で一枚残らず花は地面に落ちてしまった。その名残の、最後の一片。それ以外に、もう何処にも薄紅の花はない。
 

 オレは話題の糸口を、一つだけ見つけた気がした。
 

「桜、全部散っちまったな。これでお前も、少しは安心できるんじゃねぇの」
「……桜?」
「ああ。前にあった時、オレに嫌いだって言ってじゃねぇか。どういう意味があるのか知らねぇけど。……あん時聞きそびれたけど、なんでお前あんな事言ったんだよ?」
「……それこそ、貴様には関係のない話だ。人の好き嫌いの理由などどうでもいいだろう」
「またそうやってつっぱねんのか。お前ね、前から思ってたけど少しは人に……」
「煩い、黙れ!」
「海馬」
「頼むから、オレに構わないでくれ!貴様も遊戯も……もう沢山だ!」
 

 オレが何の気なしに出した話題をやっぱり鋭く遮って、海馬は前と同じ悲鳴の様な声を上げてオレを睨んだ。その後、ニ三度強く首を振って、項垂れた奴を見つめながら、オレはあの時と同じく唖然とした。やっぱり、意味が分からない。何がお前をそうさせているのか、オレにはさっぱり分かんねぇよ。
 

 過去に何があったのか。今、何を思っているのか。どうしてお前が変わっちまったのか……何一つ、分からない。だけど。

 そんな姿でいる限り、見過ごす事なんか、できないんだ。
 

「なぁ、海馬。何があったのかはしらねぇけど、そうやって生きてて楽しいのか?死にそうな面しやがって。お前の目の前には誰もいねぇのかよ。違うだろ?ここに、オレだっているじゃねぇか。何かあるんなら言えよ。どうにもなんねぇかも知れないけど、少しは力になってやれっかもしんねぇし」
 

 オレの言葉に、奴は強く首を振る。それがどういう意味なのかすら、オレには分からない。もしかしたら奴には手を差し伸べて欲しい人が別にいて、それ以外の人間は全て用無しなのかもしれない。何も分からないけれど、なんとなく、そう感じた。けれどそれを裏付ける材料がオレには何一つないから。

 桜。その単語一つで、そんなにも取り乱すその訳を、改めて知りたいと強く思った。

 雨音が酷く耳障りで、それきり無言のオレ達の静寂をかき乱す。オレは、目の前で苦しみに顔を歪めるその身体をただ抱きしめてやりたいと思ったけれど、そうする勇気が持てなかった。そんな資格も感情も、この時点では持てなかった。

 その代わり、前よりもずっと……こいつの事を気にするようになった。
 

 それが恋と呼べるかは、まだ全然、分からないけれど。