Act5 涙桜(Side.遊戯)

 空から、優しい雨が降ってくる。
 

 昨夜から降り出したこの雨は、徐々に緑の葉に変わりつつあるあの忌まわしい桜の花をほぼ散らせてしまった。町のあらゆる場所を薄紅に染めていたあの木は、もう他の木に紛れてしまってひっそりと佇むだけ。

 けれど彼は、目を逸らさずにじっと見ている。今はもう痛みしか感じない思い出に縋りながら。そして多分、泣いている。
 

 ── それは、彼の頬を濡らす雨に紛れて……よくは分からないけれど。
 

 

「そろそろ一週間だけど、まだ帰らないの?」
「あぁ、こちらでの仕事が予想以上に立て込んでいる。向こうでの休みはまだ一月あるから、全て終わらせて行こうと思ってな」
「そっか。海馬くんが長居してくれた方が僕は嬉しいけどね」
「ふん、貴様と遊んでいる暇などない。……それよりも、今日は何をしに来た」
「何をしにって言われると困るけど……海馬くんの顔を見に……かな?」
「下らん。仕事の邪魔だ。帰れ」
「いいじゃん、別に。煩くしないから、ここにいていいでしょ?」
「……駄目だと言っても居座るんだろう?勝手にしろ。オレに話しかけなければそのテレビを観ていても構わん。飲み物が欲しければそこの電話で勝手に頼め」
「うん、ありがとう。あ、後でちょっとだけ時間くれる?息抜きにさ、出かけようよ。今日は特に予定はないってモクバくんから聞いてるよ?仕事以外でさ、外に出ないなんて身体に悪いよ」
「………………」
「ちょっとだけでいいから。ね?」
「……ああ、分かった」
 

 

 僕の春休みも終わりに近づいた、三月末の月曜日。

 その日はバイトも何も入っていなくて一日時間が空いた僕はお昼近くの午前11時、KC本社に顔を出した。

 もう一人の僕……今はアテムという名のついた『彼』の訪問回数も含めれば、既に数え切れない程ここに訪れている僕の顔はすっかりお馴染みになっていて、受付の人も僕の顔を見るなりにっこりと微笑んで、社長室への取次ぎをしてくれる。

 勝手知ったる他人の会社、とばかりに案内もなしに一人で最上階近くの普通の社員は余り近寄れない区域に遠慮も無しに入って行き、重厚な扉横についた精巧な……僕には単なるインターフォンにしか見えない機械に顔を近づけて名前を名乗ると、直ぐにそこは開かれた。
 

 そして、余り機嫌の良くない顔をした彼に出迎えられる事になる。
 

 彼と会うのは一週間ぶりで、あの桜の話をした日が最後だった。あれから僕には時間も暇もあったけれど、なんとなく彼には会い辛くて気持ちだけを焦らせつつ、毎日を過ごしていた。

 彼が日本にいる間に、僕は今回こそは彼に本当の気持ちを伝えようと思っていた。卒業の時に諦めた筈のあの思いは、一年経っても消える気配はまるでなくて、それ所か彼の顔を見た瞬間、ますます大きく膨れ上がってしまう。

 けれど彼もまた、消えてしまった『彼』への思いを捨てる事が出来なくて、悩んで苦しんで……疲れ果ててしまった姿がそこにはあった。それをどうにかしてあげたくても、彼は僕の顔を見てまた苦い思いを抱く。『彼』と瓜二つの姿を持つ僕は、ただ存在するだけで……彼を酷く傷つけるんだ。

 理不尽な話だけど、どうしようもない。

 それでも彼はその事を決して口にはしない。僕が会いに来ても拒絶しないで、きちんと顔を合わせてくれる。でも、その眼差しは時折痛みに伏せられる。僕の顔を直視できなくて、俯いてしまう。

 今日もそう。

 最初に顔を合わせた途端、形のいい眉が僅かに寄って、会話をしている合間も時折視線が反らされる。それでも僕は、今日は引かないと決めていた。何時までもこのままではいられないから。そう思う確かな理由が出来てしまったから。

 僕が、今日と言う日にこの部屋を訪れたのにはその『理由』の為。

 昨夜、モクバくんから一通のメールが飛び込んできた。彼が帰ってくる前は、ごくたまに近況を伝え合う程度で、そんなに熱心なやり取りをする間柄ではなかったけど、最近は比較的マメに短いメールのやり取りをしている。そんな中で、昨日のメールは少しだけ変わっていた。長さがいつもの倍というのもあったけれど、その内容が、彼……海馬くんの事だったから。
 

── 兄サマの様子がちょっと変なんだ。遊戯、お前何か知らないか?
 

 メールの最後にPSと銘打って打たれたその一文に、僕は密かに目を瞠って、思わずモクバくんに電話をかけてしまった。その会話の中で僕は、海馬くんが昨夜夢を見て涙を流していたという事を知り、今朝のニュースで、何時の間にか降ったらしい深夜の雨で葉桜になりかけた桜の花が全て散ってしまった事を知る。……単なる偶然かもしれない、けれど僕にはどうしてもそうは思えなかった。

 だから今日、彼に会いに来てしまった。来なければ、ならない様な気がした。
 

 

 軽快なキーボードのタッチ音と、時折捲られる書類を擦る小さな音。そして何かを書き綴るペンの動き。それらを全て聴覚と、時折送る視線で捉えながら、僕は目の前に流れるテレビに集中しようとして、出来ないでいた。かなり大きな画面の中に流れるのは、特に興味もない海外を中心とした経済ニュースで、時間の区切りで時折流れる天気予報以外、良く分からなかった。

 でも僕はその時間をつまらないとは思わなかった。側に彼がいるだけで、退屈な時間もそうじゃなくなるらしい。会話も、目線すら合わせないけれど、それでも僕は満足だった。ただ時折、ほんの少しだけ寂しいとは思うけれど。

(ねぇ、海馬くん)

 話しかけない、と約束したから、僕はこっそり心の中だけで彼の名を呼ぶ。未だ真剣にディスプレイを睨んでいるその顔は、一週間前に見た時よりももっと不健康な色をしていて、痛々しい位だった。それでも、彼はただひたすらに口を閉ざす。多分これからも言わないんだと思う。

 けれど、それがいい事とは到底思えなかった。確かに、僕の姿に彼の影を重ねられる事、その度に辛い思いをしている事を直接的に言われてしまったら傷つかないと言ったら嘘になる。でも、言わない事が苦しみを深めているのだとしたら、その方がもっと辛い。

 じゃあ僕は、どうしたらいいんだろう。……答えは、見つからない。

「遊戯」

 僕がぼうっとテレビを観ながらそんな事を考えていると、不意に彼が声をかけてきた。慌ててデスクの方を見ると、何時の間にかディスプレイの明滅は消え、散らかしていた書類も綺麗に片付けて、彼は席を立っていた。驚いてその顔を見あげると、彼は「なんだ、外に出るんじゃないのか」と相変わらず不機嫌そうな顔のまま口にした。

「仕事は?途中なら全部終わってから……」
「貴様が言う『全部』を待っていたら、多分日付が変わると思うが。それに、息抜きだと言っただろう」
「……う、うん。でも、いいの?」
「自分から誘っておいて何を言う。行かないのならオレは仕事に戻る」
「あ、ごめん!じゃあ行こう!」

 外は寒いから一枚薄いコートを羽織っていった方がいいよ、と言う僕の声に、彼は素直に傍にかけてあった薄いベージュのコートを手に取った。今日の彼のスーツはいつも着ている目立つ白ではなく普通の社会人と同じ、ダークブルー。白とは違ってよりシルエットがはっきり見えるその姿を僕は思わず凝視してしまい、凄い顔で睨まれてしまう。

 コートを羽織ってゆっくりと下に降りた白い指先を握り締めたいなぁと思いつつ、僕はそっと手を伸ばす。彼はそんな僕の仕種の意図を知っているのかいないのか解らない顔で、じっと僕の姿を見下ろしていた。程なくして、僕の両手が彼の手を捕らえても、特に何も言わなかった。
 

 凄く大きい癖に、細くて……冷たい指先。繋がる先を失った手。

 僕がぎゅっと握り締めても、握り返してくれる気配はない。
 

「……なんだ?」
「海馬くんの手、凄く冷たいね」
「そんな事はない」
「そうかな。もう春なのに……冷たさに凍えてるみたいだ」
 

 そんな僕の声に、「何を馬鹿な事を」という台詞と共に、ふうっと大きな溜息が落ちてくる。暖かな室内で吐き出されたその空気の流れでさえも、冬の只中のように白く曇って解けてゆくみたいで。彼にはまだ春の訪れが来ない事を知る。
 

 もうすぐ、春も終わる。桜は、皆散ってしまったのに。

 きみだけが、一人季節から取り残される。
 

「もうニュースで知ってると思うけど、桜、昨日の雨で全部散ってしまったんだ。だから、もう見かける事もないと思う」
「……そうか」
「何処へ行こうか?行きたいとこある?」
「今更この町で何処へ行こうというんだ」
「海馬ランドとか」
「息抜きにならんわ。それでは仕事だ」
「うーん。変装して普通に楽しむとか」
「貴様一人で行って来い」
「それじゃあ意味がないよ」
 

 そんな会話を交わした後、僕達は結局徒歩で、KCからそれほど距離がない中心街を歩いて、新緑が綺麗な中央公園へとやって来た。それは本当に単なる息抜きの散歩には相応しい穏やかさで、雨上がりの湿った空気や、平日ゆえの緩やかな人波を感じながら歩くのもなかなかいいと思った。

 彼もそれは同じみたいで、社長室にいた時の不機嫌そうな顔は綺麗に消えて、いつもの……決して元気ではないけれど、普通の表情に戻っていた。時折話しかける僕の声にも、ちゃんと顔を見て答えてくれる。
 

 握った手はそのままで、僕達は歩き続ける。

 仮に彼が、繋いでいる手を『彼』の手だと錯覚していても。僕はそれでも嬉しかった。
 

 けれど、そんな幸せな時間は、そう長くは続かなかった。
 

 公園へ辿りついて、屋根のあるベンチに座って自動販売機で買ったコーヒーを飲みながら、何気ない会話を交わしていたその時だった。ぽつり、ぽつりとすっかり止んでいたはずの雨が降って来て、傘も持たずに来てしまった僕等は、慌てて帰ろうとベンチを立った。

 霧雨が降り始めた空の下、来た時よりも少し早足で歩き出し、公園を抜けようとする。その時だった。
 

 ── 彼が、地面に散った桜の花弁に目をつけてしまったのは。
 

 上を見上げても緑の葉ばかりで何もない桜の木。けれど、下には確かにそこに薄紅の花が咲いていたという名残がしっかりと残っていた。泥に塗れて、お世辞にも綺麗とは言えないけれど、それが反ってマイナスの意味で印象付けてしまったみたいで、その場で足を止めた彼は縫い止められた様に動かなくなってしまった。
 

 霧雨が彼の頭を、頬を、濡らす。
 

 髪や顎から雫が滴り落ちるようになっても、彼はそこから動こうとはしなかった。地面を睨むように見つめていた眼差しはゆっくりと上へ向けられ、もう何もない桜の木へと移される。そこには何もないと知っているのに。それでも、諦められないと、必死に目を凝らしている。
 

 その瞳は、その頬は……僅かに、赤い。
 

 春の雨でも冷たいよ。風邪を引くと悪いから、早く行こう?

 そう言おうとしても、なかなか上手く言えなかった。僕は繋いだ手を強く握り締めて、折角暖かな体温を取り戻したはずのそれが、また徐々に冷えて行くのをただ呆然と感じているだけだった。
 

「海馬くん」
 

 呼びかける声に、ゆっくりと……本当にゆっくりと、彼の顔が僕を見る。
 その瞳は一瞬酷く大きく瞠って、直ぐに痛みに歪んで伏せられた。
 

 優しい雨の中、二人きりで佇みながら、なんだか僕も泣きたくなった。

 しっかりと指先は繋がっている筈なのに。
 

 ── 僕達は、未だ遠く離れたままだった。