Act4 夢桜(Side.海馬)

 気がつけば、あの桜の下にいた。

 満月に近い月明かりが眩しい春の夜。吹き抜ける冷たい夜風に満開の花弁が散る。まるでそれ自体が発光しているようだと、掌を上向けて呟いたあの男の声は、今でも鮮明に覚えている。

『なぁ、海馬』

 不意に、頭上から「あの」声が降って来た。驚いて顔をあげると、風とは別の原因で落ちてくる数枚の花弁が立ち尽くすオレの上に降って来た。何事かと目を凝らすと、さほど高くない枝の上に身を潜めるように存在する影があった。

 オレからはそこにいる影の姿は殆ど見えず、辛うじて見える見慣れた足先と聞き慣れた声だけが、その場所に存在する男の正体を示していた。見間違えるわけも、聞き間違えるわけも無い。けれど、不安になる。はっきりとこの目でその姿を確認しない限り、信じる事など出来ないのだ。

「遊戯」

 オレは思わず男の名を呼んだ。しかし、それに応える声はない。変わりに聞こえるのは、小さな忍び笑い。きっと、あの桜の陰で肩を揺らして笑っているのだろう。それは奴がオレをからかう時によくやる仕種だった。

『オレの姿が見えないと不安か?海馬』
「……貴様、何故そんな所にいる」
『さぁ、なんでだろうな。桜が綺麗だったから。お前も来るか?』
「いや、木登りは趣味じゃない」
『そうか。ここから見る景色はなかなか見ものだぜ?』
「なんでもいいが降りて来い。話がし辛い」
『どうしても降りなければ駄目か』
「当たり前だ」
『じゃあ、降りるから、受け止めてくれ』
「何?」
『お前の望み通り、ここからそこへ飛び降りるから、お前が受け止めてくれ』
「待て、遊戯!」

 キシリと枝が軋む音がして、少し見えていた足先が視界から消え、桜の上の影が立ち上がる気配がする。……まさか、本当にオレの上にでも飛び降りるつもりなのか。そう危惧し上を見上げたまま身構えると、遊戯の声が聞こえた。

「海馬!」

 その叫びと共に一瞬、枝がしなる。本気だ。直ぐ様それを察知したオレは、仕方なく何時オレの元へ降ってきても構わないように体制だけ整える。揺れる桜、遊戯の動きに合わせて落ちる花弁。遊戯の靴の踵がコツンと小さく枝を蹴り、未だ見えない陰から飛び降りる気配がした。
 

 ……しかし。
 

 思わず腕を広げたオレの上に降って来たのは、薄紅の花弁だけ。
 

── 遊戯の気配は、それきり消えた。
 

 
 

「兄サマ?」

 はっとして顔をあげると、そこには不安げな眼差しをしたモクバがいた。ゆるりと頭を廻らすと、そこは見慣れた寝室でオレはどうやら寝ていたらしい事を知る。しかし、オレにはどうやってこの居慣れた己の寝台に寝ついたのか、その記憶が曖昧だった。昨日休んだのは何時だったのだろう。そして、何故モクバが心配そうな顔をしてオレを覗き込んでいるのだろう。

「……モクバ?」
「あ、良かった。兄サマちゃんと起きてた」
「……?何を言っている。それに、オレはいつここに来た?」
「え、兄サマこそ何言ってるの?昨日はオレとちょっと早い時間にここに来て、久しぶりに一緒に眠ったんじゃないか。覚えてないの?本も読んでくれたし、話もしたじゃん」
「……そう、だったか?」
「そうだよ。やっぱり兄サマ、疲れてるんだよ。今日は日曜日だしもうちょっと寝てたら?」

 そういうと、確かに寝巻き姿だったモクバはオレの向かいに横になり、かつてオレがよく彼にしていたように髪をかき上げ、額に小さなキスを落すと、ぽんぽんと軽く肩を叩く。その予想外の心地よさと余りに至近距離に近づいた顔にほんの僅かに気恥ずかしさを感じたオレは、言われるがままに目を伏せる。

 そのオレに更に身体を密着させて、モクバはふっと小さな溜息を零した。

「さっきはびっくりしたぁ。兄サマ、オレの事ぎゅっと抱きしめて来るんだもん」
「…………え?」
「夢を見ていたのかな。何か呟いてたけど、よく聞こえなかった」
「………………」
「それに、兄サマ……ちょっとだけ、泣いてた」
「──── っ!」
「悲しい夢……だったのかな。だからつい、起こしちゃった。ごめんね」

 そう言いながら、何時の間にかオレを抱きしめていたモクバの指先が、頬に触れる。すると、そこに暖かさと共に冷たい空気の流れを感じた。明らかに水分が蒸発しかけ、表面温度が低下している感覚だった。それを細い指先から小さな掌に変えて、緩やかに包み込んだモクバはオレの耳元に顔を寄せ、まるで囁くように言葉を紡ぐ。

「今度はいい夢見れるといいね。おまじないしてあげたから、もう大丈夫」
「なんだそのおまじないとは」
「兄サマが昔してくれたでしょ。オレが怖い夢を見て眠れない時に。おでこにキス」
「………………」
「すると本当に次はいい夢が見れたんだぜぃ。魔法みたいだった。……だから、ね?もう目を閉じて、もう一回寝よ?」

 まるで自分が兄にでもなった様な気分なのだろうか。モクバはオレに言い聞かせる様にそう言うと、柔らかなブランケットを引き寄せて、自分が先に目を閉じてしまった。人を口実にしているが、本当は眠りたいのはお前の方だろう?と、眼前の可愛らしい顔にそう軽口を言おうとして、やめてしまう。

 変わりに漏れ出たのは深く大きな溜息一つ。

 夢。そう……今のは夢だったのだ。夢の中でさえ、姿を見る事が出来なかった。オレの元に飛び降りると、そう言っていたのに。敢え無くそのまま消えてしまった。酷い、夢だ。

「………………」

 不意に胸が熱くなり、もう一度小さな吐息をつく事でその熱をやり過ごす。腕の中のモクバの体温が暖かい。今はその暖かさが救いだった。例え一時の気休めにしかならなくても。

 もう一度、眠りに付こう。今度はモクバの言う通り、いい夢に変わるかもしれない。儚い幻だと知ってはいても、それにすら縋りたいと思う程、今のオレは疲れていた。……疲れ、果てていた。

 緩やかに瞳を閉ざし、己に腕を回すモクバに軽く腕を回しながら、眠りにつく。徐々に暗闇に落ちていく感覚に身を委ねていると、どこからか桜の香が漂ってくる気がした。

 そういえば先程見たモクバの背後には手折られた細い桜の枝が一本、華奢な作りの硝子の花瓶に生けられていた。昨夜、学校から貰ってきたのだと沢山の桜の枝をを両手に抱えて、モクバが嬉しそうにオレに差し出してきたからだ。

 彼の好意から来るその贈り物を無下にする事など出来る筈もなく、オレは仕方なくメイドに複数の花瓶に分けて生けるように指示をした。その一本がこの寝台の横に飾られていた。

 オレは嫌だと思いながらも、それに向き合う形で眠ったのだ。
 

 ……だから、あんな夢を見たのだろうか。
 オレは今更ながらあの奇妙な夢を見た理由をおぼろげに理解した。
 

 今から見る夢も……あの夢の続きだろうか。もう、桜は見たくない。

 否、桜を媒介とする悲しい記憶を引きずり出したくはない。見ないように、考えないようにして来たはずなのに、日本の土を踏んだ途端、それは倍以上の痛みを持ってオレの心を侵食した。

 遊戯も、城之内も、モクバでさえも。この国にいる全ての人間が、桜と共にオレにその痛みを思い出させる。

 全てを払拭するように感覚を閉ざそうとしても、香りは強くなるばかりだった。
 

『海馬』
 

 再び遊戯の声が聞こえる。
 けれどオレは、また桜に隠れてその姿が見えないのかと思うと……目を開ける勇気が持てなかった。
 

 腕を広げても、あの男はオレの元になど還って来ないと知っているから。