Top of the world

 酷く憂鬱な気分で赤錆びた鉄扉を開けると、そこには抜けるような青空が広がっていた。今日は一日雲一つない青空だと天気予報が言っていて、幸先のいいスタートだと思ったのだから目の前に広がるこの光景は十分に想像出来たものだった。けれど、想像よりも実物の方がずっと綺麗で憎らしい。

 時折、空の青と雲の白がぼんやりと混ざり込んでしまうのは、込みあげる色んな思いが水分となって目元に滲む所為だ。元凶である携帯を強く握り締め、その場所……学校の屋上の端にある最近づけ替えたばかりの高い鉄柵に歩み寄ると、彼女……真崎杏子は深く大きな溜息を吐いた。

 遠くで、授業開始のチャイムが鳴る。次の授業は確か体育だった気がする。出席も単位も十二分に足りているから今日位サボっても問題はないだろう。大体、こんな気分で皆と楽しく騒ぐ気にはなれない。かと言って静かにしていれば妙な詮索をされてしまうだろう。今の彼女に取って他人の言葉はどんなものであれ耳に痛いものでしかない。握り締めた携帯の中にある、たった一言のメールも今は見返す事すら出来ないのだ。

「………………」

 僅かに開けた唇の間から震える白い息が零れ落ちる。いっそ大声で泣いてしまおうか。けれど大声で泣いた所で気が晴れる訳でもない。これが失恋だったらそうする事によって何処か吹っ切れるのかもしれないけれど。

 いつの間にか掴んでいた目の前の柵は酷く高かった。杏子の身長を遥かに越えているそれは、乗り越えてみろと言わんばかりに角ばった曲線を描いてコンクリートの上に濃い影を落とす。こんな所から落ちる馬鹿なんていないわよ。心の中でそう八つ当たり気味に呟いて、力を込めていた右手を解放しようとした、その時だった。

「幾ら運動神経がいいと言っても、それを登るのは至難の技だぞ」

 ぽつりとぶっきらぼうに呟かれた言葉。まさかこの場に自分以外の人間がいるとは全く思っていなかった杏子は驚いて柵から飛び退くと、声がする方向に視線を巡らせた。すると少し離れた場所に立つ給水塔の影に、常と同じ無表情で座る海馬の姿があった。そう言えば、今朝は少しだけクラス中が色めき立っていた事を思い出す。ああ、次は体育だったから抜け出したのね。なんとなくそんな事を考えながら杏子は身体ごと彼の方を向いて微笑んだ。

「そんな事しないわよ」
「そうか」
「もしかして海馬くん、私がここからダイブするとでも思ったの?」
「いや?純粋に柵越えでもしたいのかと思ってな」
「……相変わらずヘンな人ね」
「そうでないのなら何故こんな所にいる。他のお友達や授業はどうした」
「私にだって一人になりたい時や授業に出たくない時だってあるの」
「なるほど」

 少しだけ昂ぶっている感情そのままに常よりもきつい物言いで答えを返しても、海馬は元より興味がないのか、気のない返事をしたまま膝の上に乗せたパソコンを見つめている。……なんなのよ、一体。と杏子が聞こえる様にぼやいても、その真剣な眼差しはほんの僅かに逸れる事もなかった。

 途切れる事がないリズミカルなタッチ音。彼の横に積み上げられた多分仕事のものだろう資料の束、ひっきりなしに震える携帯。時折取り上げては流暢な英語で何事かを話すその姿に、杏子はいつしか瞬きも忘れて見入っていた。

 そうだ。彼は同い年にして学生の傍ら、世界的大企業の社長をしているんだった。普段は全く意識をしていない、と言うか実物を見かける事すら稀だから、そんな基本的な事すら忘れていた。16歳で企業の、そしてあらゆるトップに上りつめた彼には自分のこんな悩みなどとはまるで無縁に違いない。そう思うと少し羨ましくもあり、悔しくもあった。

 勿論なんの努力も苦労も無しにそれを獲得したとは思っていない。人並ならぬ苦難の道のりがあっただろう事は彼の弟から聞いて知っている。けれど、今は成功している。ともあれ結果が全てなのだ。

「海馬くんにとっては鼻で笑っちゃうような事かもしれないけど、私にも夢があるの。それに向かって結構毎日頑張ってるつもりなんだけど、なかなか報われなくって」
「……夢?」
「そ。今日にもその第一歩が踏める筈だったんだけど、駄目だったみたい」

 眼下の海馬からそれとなく視線を外し、杏子は空を見上げながら口を開いた。その言葉は冷たい空気を僅かに揺らし、吹き付ける微風に流されて消えて行く。

 手にした携帯の暗くなったディスプレイに表示されている「この度は残念ながら……」の素っ気無い文字。それを目にした瞬間、慣れている筈なのにやはり心臓を鷲掴みにされる様な衝撃を受けた。しかも今回はかなりの自信があって、だから余計に悲しかったのだ。今まで感じなかった絶望さえも覚える程に。

 幾ら懸命に努力をしても、実力を全て出し切っても、合格ラインを越えなければ意味がない。周囲のライバル達よりも少しばかり秀でていたって所詮はこの程度なのだ。プロになんて到底届かない。

「私、才能ないのかな」

 ぽつりと誰に言うともなく弱気な本音が零れ落ちる。他人の話なんて全く興味が無さそうな海馬相手にこんな事を呟いても仕方がないのに。分かっているのに、どうしても我慢する事が出来なかった。

 再び柵に手を伸ばし、色々な思いを堪える様に指先が白くなるほど握り締める。沈黙が少し痛い。いつの間にか海馬からタイピングの音が聞こえなくなっていた。不思議に思い視線を戻すと、思いがけず目が合った。その眼差しは意外な程真っ直ぐで、怖い位真剣だった。先程まで彼が見せていた気のない表情を杏子はもう思い出せない。

「な、何?」
「その程度か」
「え?」
「貴様の夢とやらはその程度のものなのかと聞いている。才能の有る無しで簡単に諦めてしまえるものならば、早々に努力などやめて他に目を向けた方がいい。その方が気持ち的にも楽になれるだろう。簡単な事だ」
「……何、言ってるの?」
「たかだか数回しくじった程度で弱音を吐いている様では実現など無理に決まっていると言っている。それに、己の才能を勝手に判断し、未知の可能性まで潰してしまう様ではたかが知れているしな」
「…………!!ちょっと、なんで海馬くんにそんな事を言われなきゃならない訳?」
「オレの前で下らん事を言うからだろう。耳障りだ。とっとと出ていけ」
「ここは公共の場所でしょ!何自分の場所みたいな言い方してるのよ!気に入らなかったら貴方が出て行けばいいじゃない!」
「貴様よりもオレが先に来ていた。権利はオレにある」
「何よそれ?!何様のつもり?!会社の社長だかなんだか知らないけどね、ここは学校なの!何でも自分の思い通りに行くと思ったら大間違いなんだからね!」
「煩いな。貴様らは揃いも揃って怒鳴らんと会話が出来んのか?」
「あんたにだけは言われたくないわよ!遊戯を相手にすると怒鳴りまくって馬鹿笑いする癖に!」
 

 なんなのコイツ!頭に来ちゃう!
 

 海馬の余りに余りな物言いに杏子の中から先程までの絶望感や悲しさが一瞬にして吹き飛んで、変わりにどうしようもない怒りが込みあげる。あんたに何が分かるのよ、何にも知らない癖に!そう心の中で絶叫し、その勢いのまま掴んだ柵を放して座する海馬の元まで大股で歩み寄る。そんな杏子の様子を表情一つ変えずに見詰めながら、海馬は次に彼女が何を言うかと待ち構えている様だった。

 なんだか、奇妙な光景だ。

 そもそも海馬がデュエル以外でこんな風に真っ直ぐに人の顔を見詰めて話をする事は稀だったし、その相手が自分と言うのはもっと稀だった。否、本当は始めてかも知れない。

 いつの間にか彼の正面に辿り着き、大上段から勢いよく見下ろしてやる。普段そうする事はあってもされる事は少ないだろうその状態を特に文句も言わずに受け入れると、海馬はやはり小さな瞬きを繰り返し、真っ直ぐに降りて来る視線を受け止めた。その瞳はつい先程までじっと眺めていた青空と同じ位澄んで綺麗な青だった。その事に気付いてしまった杏子は、口を開きかけたものの言う言葉を失って僅かに戸惑う。

「…………あ」

 あれ、私何を言うつもりなんだっけ?そんな事を考えている内に沸騰しかけた頭が徐々に平静になって来た。お陰で言うべき言葉を完全に失って、思わず溜息が零れ落ちる。何も知らない癖に、なんて思ったけれど、自分だって目の前の彼の事を詳しく知っている訳ではない。現にその瞳がこんなに綺麗な色をしているなんて知らなかった。そうよね、この人と見詰め合うなんて事、なかったしね。そんな事を思いながら、彼女は再び言葉を探し始める。

 そんな杏子を鷹揚に見返してこちらも小さく息を吐いた海馬は、口の端を僅かに持ち上げてやや意地悪げに声を上げた。

「なんだ?何か言いたいのではなかったか?」
「……言いたい事があったんだけど、忘れちゃったわ。怒りもどこかに行っちゃった」
「フン、怒りすら保つ事が出来ないのか。貴様は基本的に持続力がないのだな」
「煩いわね」
「知っているか?努力は才能を超える事があるんだぞ?」
「え?」
「それと、下らん弱音は失敗が三桁を超えてから吐くんだな。十や二十程度では失敗の内にも入らない。尤もオレはそんなものを吐いた事がないから分からんが」
「……海馬くんも失敗なんてする事あるの?」
「貴様はオレをなんだと思っているのだ。頭の出来以外そうは変わらん」
「ちょっと、失礼ね!頭の出来がなんですって?!」
「オレは事実を言ったまでだ」
「何よ、デュエルでは遊戯に全然勝てない癖に。あ、あれも失敗に入るわよね?そう言えば」
「何だと?」
「それこそ事実じゃない。今の言葉をそっくりそのままお返しするわ」
「口の減らない女だな」
「お互い様でしょ!」

 そう叩き付ける様に言い切って、杏子は勢いよくそっぽを向いた。反動で切り揃えた髪が頬に当たり、鼻を擽る。それに妙なおかしさを感じて、思わず笑いを漏らしてしまった。それは肩を震わせるほどの衝動となって彼女の全身を駆け巡る。

「何を笑っている」
「だって、可笑しいんだもの。なんか悩んでたのが馬鹿みたいに思えてきちゃった」
「実際馬鹿なんだろうがな」
「あんたねぇ、女の子相手なんだから言葉を選びなさいよ。城之内じゃないのよ私は!」
「似たようなものだろうが。貴様にそんな繊細さがあるとは思わなかったぞ」
「……もういいわ。海馬くんと喧嘩してると力抜けちゃう」
「それは良かったな」
「良くはないけど……ありがと」
「礼を言われるような事は何一つしていない」
「笑わせてくれたでしょ」
「それは貴様が勝手に笑ったんだ」
「……そうね。そうかも」
「もう用はないのだろう?今度こそとっとと立ち去れ。オレは忙しい」
「言われなくても帰るわよ。あ、それより、海馬くんも体育出たら?幾ら運動神経が鈍いからって、出席しないと単位が取れないわよ?」
「余計な世話だ。大体、誰の運動神経が鈍いって?」
「だって、出たくないって事はそういう事でしょ?勉強は出来るけど、運動はからっきしって人、一杯いるもんね」
「そんな無能な奴等と一緒にするな。言っておくがオレはスポーツの面でも誰にも引けなど取らんわ」
「ふふーん。口ではなんとでも言えるわよねー」

 言いながら杏子は会話の為に少しだけ屈めていた上半身を素早く起こし、まるでステップを踏むような軽やかな足取りで、元来た扉の前まで歩んで行った。そしてくるりと身を翻し、来た時とはまるで違う眩しい位の笑顔でこう言った。

「あのね、私……ダンサーになるのが夢なの。どうせ目指すなら、世界一になりたいわ」
「大きく出たな。世界一だと?」
「うん。才能はないかもしれないけど努力だけでトップになれたら、それはそれで凄い事だと思わない?」
「……そうだな」
「私、頑張るから。海馬くんも頑張って」
「貴様に言われるまでもないわ」
「あはは、そうよね。余計な事よね」

 じゃ、私。教室に帰るね。

 そう言って、扉を開けてその隙間に身を滑り込ませようとした杏子の背に向かって、海馬は先程よりも深い笑みを見せながら、たった一言だけこう言った。
 

「貴様が世界一のダンサーになった暁には、既に世界一となっているだろう海馬ランドのショーに呼んでやる。それが叶う様、精々地道な努力でも積み重ねるんだな」
 

 輝かしい未来に待ち受けるもの。それは世界一の夢の舞台。

 華やかなステージの上で満面の笑みを浮かべる自分をはっきりと想像し、それを一瞬でも夢見せてくれた、既に視線さえも寄こさない無愛想なクラスメイトに、杏子は想像の中と同じ笑顔を彼に向けると、もう一度だけ「ありがとう!」と口にした。

 そして手にした携帯を勢いよくポケットに仕舞いこみその場を後にする。
 高らかな足音を響かせて。

 その音を遠くに聞きながら、海馬はふとある言葉を胸に過ぎらせ、彼にしては長い間止めていた指先の動きを再開した。
 

 Top of the world.
 

 ── 世界の一番高いところから。