夢の途中

 なんで、こんな日に限って走るのに全然向いていないミュールを履いてきてしまったのだろう。幾度も躓き、転びそうになりながら、杏子は自分自身を酷く呪った。どうしてこんな事に。荒い呼吸の合間にやっぱり呪いの言葉の様に何度もそう繰り返しながら既に重たくなって来た足を必死に動かす。

 最初はちゃんと走っていた筈だったのだが、ここまでくるともう走っているかどうかすら分からない。体力には自信があったのに、さすがにもう疲れてしまった。一体どの位こうして逃げているのだろう。そして、ここはどこなんだろう。彼女にはもうそれを把握するだけの気力が無い。

 足が痛い。息が上がる。けれど彼女は走り続けなければならなかった。舞台を終えて家に帰る為に小さな劇場の裏から一歩踏み出した時からこの恐怖の追いかけっこは始まった。捕まったら何をされるか分からない。今彼女の後ろにいる数人の内、一人だけ見覚えがあったが、他は誰か分からなかった。多分、あいつの仲間なのだろう。彼女の舞台に熱心に通い詰め、酷く怖い視線を向けていた、あの男の。

 ここは日本じゃない。アメリカだ。しかも治安が余り良くない地域だった。そんな事はここに来る前から十分分かっていた筈なのに、住み慣れて隙が出来てしまった。本当に私は馬鹿だ、学習しない。けれど今そんな事を後悔してもどうにもならない。私が出来る事は、ただひたすら逃げるだけだ。途中何人もの人とすれ違ったのに助けてくれる人は誰もいない。他人に無関心で、冷たい町。人々の視線が温かかった童実野町が懐かしい。

 そんな事を考えながら迫る恐怖と不安に、杏子が思わず嗚咽を漏らしそうになったその時だった。一瞬の気の緩みが仇となり、既に限界だった足から力が抜ける。がくん、と大きく傾いたそれは、そのまま勢い良く地べたへ倒れてしまった。勿論持ち主である本人と共に。

「……もう、駄目。……走れない……!」

 転んだ拍子に手を付いた場所にあった小石や砂を強く握り締めて、杏子は嗚咽と共にそう呻いた。震える体はもう言う事をきかない。これから何が起こるのかおぼろげに知って恐怖に喉が引き攣った。こんな場所で、あんな奴等に。そう思うと、悔しさに涙が止まらない。徐々に近づいて来る足音に身を竦めながら、杏子は硬く唇を結んで顔を伏せた。無駄な抵抗だと分かっては居てもこんな顔を見られたくはなかったからだ。

 せめて、殺されなければいい。そんな後ろ暗い事を思いながら拳を握る手に力を込めた、その刹那。事態はある男の登場で一転する。彼は、杏子が力尽きた場所からすぐ近くの小さな路地の向こうからなんの前触れも無しに現れた。

 黒いスーツに身を包み、少し大人びていたものの、驚いた様に自分を見ているその顔は記憶の中にあるそれと寸分も違わなかった。僅かに慌ててこちらへと駆けてくるその身体に、思わず手を伸ばして縋りつく。

「海馬くん!!」
「……真崎?こんな所で何をやっている!」
「どうして海馬くんがここにいるの?!」
「それはオレの台詞だ。大体ここは……」
「お願い海馬くん、助けて!!」
「何?」
「さっきからずっと追われてたの。どこをどう走ったか分からなくて、それでここに……!」
「……なるほど。で?貴様を追っていると言う酔狂なネズミはどこに居る」
「た、多分すぐそこに……!」

 そう杏子が口にした刹那、件の男達がにやついた顔で近づいて来る気配がした。杏子がここで倒れた事を知っていたのか特に急ぐ事もせず、ゆったりとした足で歩んでくる。その表情が、海馬を見た瞬間ガラリと変わった。急に変わった空気に杏子も思わず息を飲んだが、当の海馬は落ち付いたものだった。口元に不敵な笑みを浮かべ、杏子を庇う様にその前に立ち、懐に手を入れる。

 銃だ。そう杏子が思う前に、その場に高らかな銃声が一発響き渡った。
「……い、いいのかしら。こんな所で発砲事件なんて」
「お前、ここを何処だと思っている。銃大国アメリカだぞ。そして、この場所は後一歩奥に入れば有名なスラム街だ」
「えぇ?!」
「……知らなかったのか」
「……う、うん」
「お前は少し地理を覚えた方がいいようだな。日本と違って、ここは一瞬の間違いが命取りとなる。……今の経験で良く分かっただろうが」
「そうだね。ありがとう」
「ふん。今度からは気をつけるんだな」
「わかったわ。それはそうと、海馬くんはこんな所で何をしてたの?まさかスラム街で何かやろうと思ってるんじゃないわよね?」

 海馬の容赦ない発砲のお陰で窮地を救われた杏子はとりあえず立ち上がり、その場に散乱してしまったバッグの中身をかき集め、それをさり気なく手伝ってくれた海馬を見上げ、それまでとは打って変わった明るい口調で声をかけた。この元クラスメイトと顔を合わせるのはその実数年ぶりで、互いにアメリカに行った事は知っていたがまさかこんな形で会うとは思わなかったのだ。
 

『あのね、私……ダンサーになるのが夢なの。どうせ目指すなら、世界一になりたいわ』
 

『貴様が世界一のダンサーになった暁には、既に世界一となっているだろう海馬ランドのショーに呼んでやる。それが叶う様、精々地道な努力でも積み重ねるんだな』
 

 夢を追う為にやって来たアメリカで、再び相まみえる事が出来たのはちょっとした運命なのだろうか。

 そんな事を少し懐かしい気持ちで思い返していると少し付いてしまった埃を払いながら、海馬は何気ない顔で口を開いた。

「スラムにいるストリートチルドレンをどうにかしようと思ってな」
「え?」
「海馬ランドだけではなく、最近は慈善事業も始めている。オレのもう一つの夢だ」
「………………」
「そういうお前はどうなのだ?何故ここにいる」
「この近くの劇場に出演してるの。大して大きくもないけど、なかなか評判なのよ。さっきみたいな男につけ狙われる位にはね」
「そうか」
「そうよ。ちゃんと約束は覚えてるわ。私を海馬ランドのショーへ出演させてくれるって言ったじゃない。だから、頑張ってるの」

 その大きな夢が、私を支えてくれる。導いてくれる。

 そう笑顔で口にすれば海馬は少し居心地の悪い顔をしてもう一度「そうか」と事も無げに呟いた。そして少しだけ満足そうに微笑んだ。

「その調子では、順調な様だな」
「海馬くんもね」
「当然だ」
「私だって当然よ」
「相変わらず口の減らない女だな」
「お生憎様、生まれつきですから」
「そのようだな」

 いつの間にか、杏子の顔にも穏やかな笑みが浮かんでいた。先程までの恐怖や不安が嘘の様に消え失せて、再び未来へ歩む希望が沸いて来る。まるであの日の様だと彼女は思った。目の前の彼と、懐かしく思えるほど遠い日に屋上で話をした、あの日に。

 未だ道は続いている。こんな所で立ち止まってはいられない。

 そう思い、杏子は自らも軽く膝に着いた汚れを払うと、わざと背筋を伸ばして彼へと向きあう。そして少しだけ胸を張ってはっきりとこう言った。

「今日は本当にありがとう。でも次はこんな風に会うんじゃなくて、貴方が私を迎えに来てね」
「何故オレがお前などを迎えに行かなければならないのだ」
「当たり前でしょ。私に出演してくれないかって、頼む立場なんだから」
「ほう。だが、少し推測が足りないようだ。その頃はオレとて容易に近づけない人物になっているかもしれないだろうが」
「そんなの関係無いわよ」
「関係無いのか」
「そうよ。嫌でも私を呼びたくなるようにしてあげるわ」

 だから待ってて、もう少しだけ。

 そう言って、杏子は少しだけ真面目な顔をして海馬に手を差し出した。それに疑問符を張り付けた彼にほんの少しだけ頬を染めると、彼女は「道が分からないから、送ってってくれると嬉しいんだけど」と遠慮がちに呟いた。

「全く情けないな」
「煩いわね」
「まあ、その体力だけは褒めてやるか」
「ちっとも嬉しくないわ」

 でも、今日会えて良かった。そう素直に伝えた言葉は、意外なほどあっさりと掴まれた指先に握りこまれてしまう。そのまま勝手に歩きだしたその広い背を、杏子は少しだけ温かな気持ちで追いかけた。
 

 遥か遠くにある夢を、再び追う様に、ゆっくりと。