Top Secret! Act1

「あれ、兄サマ?今から学校?」
「ああ……半日だけだが。午後の授業で出席必須の物があるからな。最近はペーパーテストよりも出席を重視する教師が増えて面倒臭い限りだな」
「あはは。その点義務教育は楽だぜぃ!テストで百点取ってれば文句言われないし!」
「それはそうだが。なるべくサボりは少なくしろよ。お前の担任に呼びだされるのも面倒臭いからな」
「はぁい。明日はちゃんと行くよ。課外授業だしね。工場見学だって!楽しみだぜぃ!」
「そうか。羨ましい限りだ」

 言いながら彼は纏っていたビジネススーツとシャツを脱ぎ捨て、手首を飾っていた如何にも高価な腕時計ともどもソファーへと放り投げる。そしてそれを待たずに差し出された学校指定のカッターシャツと学ランを無造作に羽織ると、机上に置いていた草臥れた革ベルトが目立つ安い腕時計を口に咥え、シャツのボタンを嵌めながら鏡の中に映る自分の姿を眺めていた。

 その仕草を面白く眺めながらまるでじゃれる様に纏わり付いて来る弟と軽い会話を交わしつつ着衣を整えると、真横に静かに控えていた使用人がとある容器を手に、鏡に映る主に座る様にと促して来る。素直にそれに従い、軽く目を閉じると軽い刺激臭と共に頭髪をかき交ぜられる。何時まで経っても慣れない感触に彼が微妙に眉を寄せていると、手早く乱した髪を整えた使用人から「お待たせいたしました」の声が掛かる。

 それにゆっくりと目を開けると見事に鏡の中の男の姿が変わっていた。ただし、酷く印象的な青い瞳はそのままで、変えた髪色とのアンバランスさが些か滑稽に目に映る。それを解消する為、ポケットから取り出したレンズケースの蓋を開け、中身を慣れた仕草で装着する。仕上げに弟から渡された眼鏡を掛けるともはや彼は別人だった。

 漆黒の髪に漆黒の目。如何にも野暮ったい黒縁眼鏡。

 重たい前髪に隠れた眉は未だ元の色のままだったが、多分誰にも気づかれないだろう。

「毎回思うけど、兄サマってちょっと小細工すると印象がまるで違うよね」
「お陰でオレは安穏とした学生生活を送れるというものだ」
「そうまでして高校生でいる価値ってなに?勉強はつまんないでしょ」
「そうだな、強いて言えば……」
 

 ── 社会勉強とでも言うべきか。
 

 そう言って微笑んだ彼の名は、如月瀬人。世間一般では『海馬瀬人』と呼ばれている少年だった。

 『海馬瀬人』は世界に名だたるアミューズメント企業海馬コーポレーションの総帥であり、世紀の発明と言われたソリットヴィジョンシステムの開発者でもある。更にれっきとした日本人でありながら海外の血を思わせる印象的な青い瞳と栗色の髪、そしてモデルの様な高身長と長い手足を武器に自社の広告塔も務めている有名人だ。

 芸能人顔負けの知名度を誇る彼だったが、その『正体』を知る者は余りいない。私生活は勿論の事、生い立ちも家族構成も年齢さえも不詳。だが、その実在だけは確かなものとして認識されている不可思議な存在だ。

 そんな彼が己の立場を窮屈に思った事が『如月瀬人』誕生へと繋がったのだが、そこに特に深い理由はないので説明は割愛する。要は俗に言う『王が下々の世界にあこがれて変装して街へと繰り出した』というどこにでも良くある話を実践している。そういう訳なのだ。

 ちなみに如月というのは偽名ではない。海馬瀬人は元々海馬家に引き取られた養子だという事を付記しておく。

「では、学校に行って来る」
「あんまり調子に乗って羽目外さないでね、『如月くん』」
「ああ、分かっている」

 ワザとらしく眼鏡のフレームを押し上げて、彼は薄い革の鞄を手に完璧なセキュリティが施されたKCビルの最上階を後にする。

 その足音が心なしか楽しそうで、それを見送る彼の弟……『海馬モクバ』は肩を竦めて嘆息した。
 『如月瀬人』が通う童実野高校は海馬コーポレーションから車で20分の場所にある。都内でもひと際レベルが低く、高校ランキングでも最下位を争うそこを進学場所に選んだ理由は、一等地に当たるオフィス街から一番近い事とレベルが低い公立校であるが故にある程度の自由が利くという事からだった。

 幾ら『如月瀬人』に扮してはいても『海馬瀬人』としての仕事が減る訳ではなく、通常の社長業務も勿論こなさなければならない。平社員と違って午前8時から午後5時までデスクワークをしなければならないという事はなかったが、社長と言う役職に付随する様々な会議やあらゆる事柄への最終決定と各部署への指揮監督、他社との会談、そして彼の場合は更に優秀なプログラマー兼エンジニアとして、商品の研究開発にも携わっていた。その殆ど分単位のスケジュールをやりくりし、こうして学校にも通っている。

 彼の超人的能力を発揮しても週五日、きっちりと授業を受ける事は不可能なので、出席を重視する所には通えない。だから何もかもが緩い童実野校を選んだのだ。そのレベルの低さ故、生徒の柄も悪く、進学率は一桁だったがその点に関しては余り気に留めてはいなかった。

 瀬人は『海馬瀬人』として世界最高峰の大学を既に卒業していたので、『如月瀬人』が底辺校に籍を置いていても関係なかった。

 尤も、ある意味架空の人物であったのでその在籍証明も将来的には無かった事になるのだが。
 
 
 

「あ、瀬人くん、おはよう!」

 瀬人が教室に辿りついたのは、丁度昼休みの真っ最中だった。今日は気温がやや高い所為かどの教室も窓という窓を全開にし、前後の扉も大きく開け放たれている。教室のあちこちで弁当開きをする面々を横目で見ながら瀬人は静かに自分の席へと着席し、鞄の中身を机にしまうと最後に取り出した文庫本を開いた。それと同時に遠くから飛んでくる明るい声に顔を上げる。

「おはようじゃないでしょ、遊戯。もうお昼よ」
「でも瀬人くんとは初めて挨拶するからおはようでいいんだよ」

 すかさず呆れたように突っ込まれる幼馴染の声をさらりとかわして、最初に瀬人の名を呼んだ男子生徒は満面の笑みを浮かべて席を立ち、瀬人の方へと駆けて来た。その口元には多分今しがた食べていたであろう白米が一粒ついている。

「今日は学校に来れたんだね。会えて嬉しいよ」
「久しぶりだな、遊戯。わざわざ挨拶に来てくれて有難いが、口元に弁当がついてるぞ」
「えっ?!」
「昼ご飯の時ぐらいゆっくり食べたらどうなんだ?まだ時間は一杯あるだろう」

 気ぜわし気にこちらを覗き込む確か同い年であろう男の方に手を伸ばし、まるでえくぼの様に唇の横についていたご飯粒を指先でとってやりながら、瀬人は殆ど呆れた体でそう口にする。それに照れたように頭を掻き、持っていた箸をさり気なく後ろに隠しながら、彼は極素直に「だって、瀬人くんと会うの久しぶりだから」と笑みを深めた。

 このどこからどう見ても学年を間違えているとしか思えない程幼い顔をした男の名は武藤遊戯。『如月瀬人』がこのクラスに転校してきた直後からやけに懐かれてしまったクラスメイトの一人である。瀬人が教室に姿を現すと決まって嬉しそうに声を掛けて来て、一緒に行動しようと腕を引き、常に彼が群れている仲間達の元へ強引に引き摺りこもうと躍起になっているのだ。別にその事自体に害はないので好きにさせている。

「……えっとぉ……あ、そうだ!体調はどう?」
「悪かったら学校になど来ていない」
「そうだよね。でも、今日は特に暑いからさ、具合が悪くなったら早めに言ってね」
「お前はいつもおせっかいだな」
「良く言われる。でも、好きでしてる事だから」
「他人の迷惑は考えないでか」
「迷惑に思われてる人にはやらないよ。瀬人くんは僕の事迷惑に思ってないでしょ?」
「迷惑だ」
「嘘ばっかり」
「どうでもいいが、とにかく昼飯を片付けて来い」
「うん。御飯食べたらお喋りに来てもいい?」
「許可をしなくても勝手に来るだろうが」

 フン、と少し嫌味交じりにそう言ってやると、遊戯は何が嬉しいのか弾んだ声で「勿論!」と言うと来た時と同様の性急さで自席へと戻って行き、中断された食事を再開する。ゆっくり食べろと助言した筈なのに、持ち上げた弁当を無理矢理かきこみ、盛大に咽ていた。全く、落ち着きが無い事この上ない。

 瀬人は呆れて肩を竦めると、当初の予定通り開いたまま止まっていた文庫本に目を落として読み始めた。少し長い間遊戯を観ていた所為で目が乾く気がする。軽く瞬くと、瞳に装着したレンズがズレる気がした。慌てて目を閉じて調整する。万が一にも落とすわけにはいかなかった。

「よお瀬人!お前まーた重役出勤かぁ?季節の変わり目で死んでたんじゃないのかよ」
「なんか具合悪そうだけど大丈夫?」

 瀬人が密かにコンタクトレンズと格闘していると、今度は別方向から間抜けな声が投げつけられた。目を隠す様に翳していた右手を避け、視線を送るとそこには如何にもガラの悪い金髪の不良少年と、彼とつるむには少々似合わない大人しめの少年の姿があった。

 彼等は皆武藤遊戯の友人であり、それ故なにかと瀬人に絡んで来る面子でもある。名は金髪の方が城之内克也、大人しめの方が獏良了だ。他にも先程遊戯のあいさつに突っ込みを入れていた彼の幼馴染の少女真崎杏子と今ここにはいないが城之内の仲間である本田、そしてたまに顔を突っ込んで来る御伽龍児がいる。この五人が所謂遊戯を中心とした仲良しグループのメンバーである。ちなみに本田の下の名前は未だにわからない。

「煩いな。寄ってたかって構うな。鬱陶しい」
「だって……ねぇ?」
「珍しい奴がいたら構いたくなるだろフツー。なぁ、後でデュエルやろうぜ」
「断る。興味無いと言っただろう」
「んな事言って、この間オレと遊戯のデュエル、めっちゃ興味持って見てた癖によ。デッキはオレの貸してやっから」
「結構だ」
「城之内くん、あんまり絡んじゃ可哀想だよ。また保健室行きになったらどうするの?」
「チェッ、つまんねぇ。お前もうちょっと体鍛えろよな。病弱男子なんて今時はやんないぜ」
「瀬人くんは好きで学校休んでるんじゃないんだから大目にみてあげようよ」
「はいはい。んでもデュエルは諦めねーからな!」
「城之内くんもしつこいなぁ」

 もう、ごめんね瀬人くん。そう言って未だ未練たらたらの城之内の背を押しながら困ったように笑みを見せる獏良の声を聞きながら、瀬人は知らずに小さな溜息を吐いた。そして同時に文庫本を持つ自らの手を凝視する。

(……そんなに不健康に見えるのだろうか、こんなに健康そのものなのに?)

 そう内心一人ごち、次いで少し笑みをこぼす。彼等が執拗に瀬人の体調に言及するのには訳があった。『如月瀬人』が学校をちょくちょく休む理由を「病欠」にしていたからだ。そもそもこの学校に転入する大義名分もそうだった。『病弱でまともに通う事が出来ないからそれまで所属していた私立校から転校してきた』、登校初日にクラスメイトの前で担任にそう説明させ、彼等はまともにそれを信じている。

 元々瀬人は人よりも色白で、体躯もかなり細かった。仕事に熱中する余り睡眠時間が極端に少ない為、年中目の下にうっすらと隈も出来ている。その姿はぱっと見病弱に見えなくもない。あくまで見た目だけの話だったが。

 勿論『海馬瀬人』は体力もバイタリティも人一倍ある、立派な健康優良児だ。その辺の若者よりもよっぽど精力に溢れている。だが、それと印象を重ねない為にも病弱設定は必須だった。お陰で色々と鬱陶しくもあるが、利点を考えたらマイナス要素にもならなかった。なにより、これのお陰で学校は休み放題、急な連絡が入れば保健室へと逃げ込めて、面倒な事もスルーできる。こんなに便利な事は無い。

 ちなみに、瀬人が『海馬瀬人』である事を知っている人間はこの学校にはたった一人……彼の転入を許可した童実野校長のみである。

「瀬人くん、御飯終わったよ!」

 何時の間にか昼食を綺麗に片づけた遊戯がにこにこと笑みを見せて目の前に立っていた。それに仕方なく本を閉じ、目の前の席へ座るように指し示す。小さな体がすとんとそこに収まるや否や始まるマシンガントークを何気なく聞きながら、瀬人はこみ上げる欠伸をそっと噛み殺した。
『オレのターン!いでよ青眼!滅びの爆裂疾風弾!!』

 時は少し遡り、瀬人が童実野校へと現れる少し前の事。

 小さなスマホ画面一杯に映り込む迫力のある長身と繰り出される美しいとしか表現出来ないキレのある動き。ソリッドビジョンで現れる青眼の迫力も相まって、それは一種の芸術の様だと遊戯は思った。

(やっぱりカッコいいなぁ……海馬社長)

 ほぅ、と小さな溜息を吐いて、蒸し暑い所為で額に浮いた汗を拭い、握り締めていたスマホを持ちかえる。休み時間一杯を使ってそればかり眺めていた所為で持っていた左手が痺れてしまったのだ。それでも懲りずに繰り返し再生されるそれを再び見つめる。つい一週間前にアップロードされた5分弱の短い動画だったが、再生回数は既に世界人口を軽く超越し100億回を超えていた。

 現在彼が利用している動画サイトの再生数ランキングではブッチギリの1位である。そのサイトのみならず、あらゆる場所へと転載されたその動画は何処へ行っても大人気だった。無論テレビでも嫌と言う程流されている。お陰で海馬の名前を知らない人間は最早地球上に存在しないとまで言われていた(尤もテレビもパソコンも観ない人達にとってはその限りではないが)。

 こうして画面の向こうにいる海馬に熱い視線を向けている人間はどれだけいるのだろう。それを思うだに遊戯は落胆せずにはいられない。余りにもライバルが多すぎる。

 でも、と遊戯は少しだけ顔を上げて空を睨む。

(僕はあの海馬社長とデュエルしたんだ。名前を呼んで貰った!)

 ぎゅ、と握り締めたスマホの中では海馬の不敵な笑みがドアップで映し出されていた。未だ鮮明に脳裏に焼き付いて離れないその微笑み。この全世界の人間を魅了してやまない微笑みを遊戯は直接この身に受けたのだ。動画では全く、存在すら匂わせてはいなかったが、この時海馬に対峙していたのは遊戯だった。

 これはまさに一週間前実際に参加したデュエル大会の映像だったのだ。
 

『後一歩というところか。フン、貴様なかなかやるではないか。このオレにここまで盾付いた奴を初めてみたぞ。次は決勝の場で闘りたいものだな』

『武藤遊戯か。覚えておこう』
 

 あの時は僅差で海馬に敗れ予選敗退となってしまったが、そんな事はどうでも良かった。初めて生で観た海馬に心底圧倒されてしまった。そして、幸か不幸か完全に魅了されてしまったのだ。

(だって、あんなに凄い人だとは思わなかったんだもん)

 勿論海馬コーポレーションも海馬社長も存在は知っていた。デュエルをするようになってからまだ日が浅いが、優秀なデュエリストだという事やデュエルディスクを開発した張本人という事は知っていたし、彼が経営する海馬ランドへも何十回と遊びに行った。何より毎日テレビや雑誌やインターネットでこれでもかと顔と名前が出てくるのだから知らない方がおかしい。だが、所詮そのレベルだった。実際に対面するその日まで海馬は遊戯にとっては何処にでもいる有名人の一人であり、画面の向こう側で喋って動いているだけの別世界の人間だったのだ。

 けれど彼が現実に目の前に立ち、鋭い眼差しで自分を見据え、生の声で名をはっきりと呼んでくれた。その瞬間、違っていた筈の世界が同じになり、遊戯の心を完璧に捕えてしまったのだ。

 それ以来、遊戯は常に彼の事を考える様になった。年齢不詳の世界有数の有名人で最強のデュエリスト。

 丁度動画が途切れた所でチャイムが鳴って、ガタガタと周囲の生徒が席に着く。それに遊戯も慌ててスマホをポケットにしまいこむと、次の教科である数学の教科書を取り出した。そういえば宿題があった筈だが、最初からやる気がないのでどの頁すらも分からない。それは周囲の人間も同じだったらしく、隣の席の城之内も然程焦ってない様子で声を掛けて来た。

「やっべ、宿題やってきてねーや。なぁ遊戯、ちょっと見せてくれよ」
「僕が数学なんて持って帰る訳ないでしょ」
「だよなー。おーい杏子!」
「絶対見せないわよ。二人で仲良く居残りすれば?」
「ひでぇ!それでもダチかよ!」
「友達だからこそ甘やかさないの」
「ケチ。あーあ。くそっ、持つべきものは宿題写させてくれる頭がいいダチだよなぁ。オレ等どうもそっち方面には弱いからよ。御伽とか獏良はちっとはマシだけど……」
「人に頼っちゃいけないのは分かってるんだけどねー」

 あはは、と笑いながら遊戯は空白が多いノートを広げつつ、教科書に手を掛けていると、すっかりやる気を削がれた城之内は行儀悪く教科書の上に肘をのせてシャープペンを弄びながら意外な事を口にした。

「あ、そういえばさ。さっき学食の帰りに職員室の前通ったんだけどよ、なんか近々転校生が来るらしいぜ」
「えっ、転校生?うちのクラスに?」
「おう。校長がウチの担任に話してたからマジだぜ。あんま良く聞こえなかったけど、なんか曰くあり気な感じだった」
「なにそれ?」
「まーこんな時期に転校してくるんだからなんかあるんだろうけどよ。女子だといいなー。出来れば可愛い子。な、そう思うだろ?」
「えっ?……ああ、うん。そうだね」
「なんだよ反応うっすいなー。お前この間からなんか変だぞ?夏休み疲れか?休み明けずっとテストだったもんなぁ」
「そんな事ないんだけど……あ、先生来たよ、城之内くん」
「数学だりぃー。寝てよっと」

 ガラッとスライド式の扉が開き、教科書を小脇に抱えた数学教師が颯爽と登場する。すると途端に教室中が静かになった。起立!礼!と何時もの挨拶をした後早速回収されたノートに頓着する事無く、遊戯はたった今城之内から齎された転校生の事を考えていた。

 高校一年も三分の一を過ぎたこの時期にわざわざ『この』学校に転校してくるなんてどんな事情があるのだろう。生徒の退学、留年は日常茶飯事だが、転入生などというものは始めてだ。そもそも童実野校には転入してまで入る価値は余りない。

 まぁ、でも。と遊戯は直ぐにその事に対して考えるのをやめてしまう。どうせ余り自分には関係のない事なのだ。男でも女でも興味なんて多分持てない。ポケットの中に忍ばせたスマホの中にいる彼にしか今は気持ちが向かないのだから。

 そう思い、それ以降転校生の事はすっかり忘れていた。
 一週間後『彼』が目の前に現れるまでは。
 

「如月瀬人です。宜しくお願いします」
 

 教師と共に教壇の上に立ち、黒板に綺麗な字で名前を書いた彼は、そう言って丁寧な仕草で一礼した。一見して分かるほどの長身と細い体躯、男なのに不健康なまでの色白の肌に漆黒の髪、そして同じく黒い瞳。そしてその端正な顔立ちには少々不釣り合いなフレームの太い眼鏡を掛けてこちらを見下ろす彼を観た瞬間、遊戯は思い切り瞠目した。どこかで見た事がある、と思ったからだ。勿論如月瀬人と言う名前には覚えが無い。乏しい記憶をフルに思い返してみても彼に繋がる様なものなど何もなかった。

 けれど、何故か知っている気がする。否、絶対に知っている筈なのだ。

「あー如月は元々尾瀬呂学院にいたんだが、体調の関係でこちらに通う事になった。度々休む事もあるだろうが、その辺は理解してやって欲しい。まぁ、宜しく頼むよ。じゃ、如月、お前の席は取り敢えずあそこだ。おい、本田と真崎。近所のよしみで色々教えてやれ」
「はーい。宜しくね、如月くん!」
「オメー背ぇデッカイな。オレよりあるんじゃね?」
「あ、ほんとだ。ちょっと並んでみなさいよ」
「後にしろ後に。そろそろHR始めるぞ!」

 そんなやりとりが交わされる様子を遠目に眺めながら、遊戯は未だ必死に考えていた。しかし、幾ら頭をひねってもついぞ如月瀬人に関する情報は出て来なかった。

 それが遊戯と如月瀬人の出会いだった。
 その後一ヶ月ほど経ってから、漸く遊戯は如月瀬人があの海馬に似ている事に気付いたのだが、まさか同一人物であるとは夢にも思わなかった。普通名前で気付いても良さそうなものだが、遊戯は海馬の下の名前を良く記憶していなかったのだ。メディアには常に海馬社長と呼ばれていた彼の本名を『覚えている者』は存外に少なかったのである。

 そして、遊戯の事を勿論知っていた瀬人に早々に手を打たれていた事も、海馬と如月が同一人物であるという事に遊戯が気が付かない一端を担っていた。

「あのさ、瀬人くんって、誰かに似てるって言われない?」
「全く言われた事がないが。誰に似ているのだ?」
「えーっと、例えば……海馬社長とか」
「誰だそいつは」
「えっ、知らないの?海馬コーポレーションの社長さんで、現デュエルキングの事だよ!」
「……デュエルとはなんだ?」
「あ、そっか。瀬人くんデュエル知らないんだもんね。テレビもあんまり見ない?インターネットは?」
「全然。興味が無い」
「そっかぁ。じゃあ分かんないよね。でも凄く似てるんだよ。あ、画像見せてあげようか?」
「いい。オレには関係無い」

 こんな調子で知らぬ存ぜぬを通された結果、遊戯は素直に自分の勘違いを認めたのだが、その姿をみて瀬人がこっそりと笑っている事には気付かなかった。

 その後特にその手の追及はされる事がなく、今日まで来ている。ただ、遊戯の疑問が完全に払拭された事はなく、今でも時折探るような視線を向けてくる事がある。その時瀬人はわざと眼鏡を弄って彼の意識を反らすように努力はしていた。

 それから約一年、『如月瀬人』は比較的安穏とした学生生活を送っていた。仕事と学業の両立も特に問題はなく、身バレの方も遊戯を除いては特に気づかれた様子もなく、またその危惧さえもなかった。視覚の印象はかなり重要なのである。

 その陰で(この場合は光が当たる方なのだろうが)彼の本当の姿である海馬瀬人、および海馬コーポレーションは隆盛を極め、その露出は日に日に多くなっていった。スケジュールも多忙を極め、世界で一番忙しい会社社長とまで揶揄され、その勢いは留まる事を知らなかった。それでも瀬人はこの二重生活をやめる事はせず、むしろ楽しんでいる様だった。

「いい息抜きになっている」と鼻歌でも歌いそうな調子で弟にそう言った彼は、今日も喜々として学生服に身を包み、高校へと足を向けるのだった。