海馬兄弟の憂鬱 Act1(Side.瀬人)

 こんなに長く真剣に自分の姿を見つめるのは生まれて初めてだ。

 オレは自室の浴室に備え付けてある、呆れるほど大きな鏡を凝視しながら不意にそんな事を強く思った。いや、自分の姿を見つめている、と言う言葉には少々語弊がある。やけに腫れぼったいオレの目がじっと見つめているのは姿そのものではなく、その中に映るとある部分だからだ。

 一箇所ならまだしも随所に転々と複数存在するそれは、明らかに『昨夜』の名残である鬱血の痕。俗語で言うキスマークという奴だ。意識的にか無意識か、ワイシャツや少々長めの後ろ髪でなんとか隠せる位置にしか刻まれていないその鮮やかな赤紫の一つをそっと指で辿ると、微かな熱が伝わって来る。

 その時は夢中で感覚など全て一緒くたになってしまい、何をどうされたのかなど余り良く覚えてはいないが、熱心に耳元から首筋、胸元などを往復していたモクバの熱い吐息や、少し硬い髪が齎す何とも言えないこそばゆい感覚が急に思い出され、オレは思わず首筋についた一際目立つそれを強く手で押さえ付けてしまう。

 その所為で余計意識してしまった自分の姿に、その惨状に、鏡の中のオレの頬が見た目にも分かる程はっきりと朱に染まる。誰が見ている訳でもなく、傍観者は自分一人の筈なのに何故か酷く居たたまれない気分になり、オレは早々に鏡の前から移動した。

 脱ぎかけたまま腕に中途半端に絡まっていた白い夜着がぱさりと音を立てて下に落ちる。その足元にも見たくも無い痕跡が残っている事に驚愕する。何時の間にか動く度に気になる程の疼痛を齎す、口にはしたくない部分から溢れ出た白い残滓が、内股を伝い、立ち尽くすその床に落ちていたのだ。見て初めて気づいた滑るようなその感触に、ぞっと背に怖気が走る気がする。

 その時、オレは漸くはっきりと自覚して、そして酷く動揺した。そう、今更だ。

 慌ててその場から目を背け、逃げるように浴室内へと入り込む。温度を確認せずシャワーを勢いよく頭から被り、じわりと皮膚が焼けるような熱さに身を委ねる。 全身を濡らす湯の流れに混じって、またアレが流れ落ちる気がする。本当は後処理として中の物を出さなければならないのだろうが、そんな事をする勇気も気力もオレには無かった。

 後ろに伸ばしかけた手を慌てて引っ込め、行き場を無くしたそれは冷たい壁に押し付けられる。頭上にあるシャワーヘッドを中心に、左右に軽く手を広げた形で壁に手をつき、頭を下げたオレの晒された肩や背に水圧の高い湯が降り注いだ。
 

 ── モクバと、弟と、ヤってしまった。 
 

 正直、昨夜から今に至るまでの記憶は未だ曖昧だった。だがしっかり意識もあり、全て己の意思の元で行動したのだから、その出来事自体はきっちりと把握している。しかし、今この瞬間までは疲れて寝ぼけていた所為もあるが、どこか夢見心地で現実味が薄かったそれが、この生々しい痕跡と共にオレにやけにはっきりとそれを自覚させてしまったのだ。

 よくよく考えてみれば……いや、よく考えなどしなくてもこれは異常事態だ。何をどう考えてもおかしい。モラルがどうとか年齢がどうとか以前にとにかく……とにかくマズイと思ったのだ。全部終わってしまった後で慌てふためくのもどうかと思うが、オレは今まさに人生最大の過ちを犯してしまった気分に陥った。

 最初は最近態度がおかしかったモクバにその理由を問い質すつもりだった。通常の会話の中でさり気なくその話を持ちかけてみてもはぐらかされ、業を煮やしたオレはとにかく真剣に話をしようと、ただそれだけのつもりであの部屋に行ったのだ。

 それがまさかこんな事になるとは、全く持って有り得ない。当たり前だろう、完全に予想外の出来事だったのだから。

 オレの話を聞きながら妙に真剣な顔つきになっていくモクバに突然、「迂闊なんだよ」との言葉と共に迫られた。そして、何が起きたのか分からないまま、何時の間にか流される様に事に及んでしまった。

 最初は跳ね除けるつもりだったのに、相手がモクバである故にどうしても渾身の力で抵抗する事など出来なかったのだ。……勿論そんなものはただの言い訳にしか過ぎない。現に余り思い出したくは無いが、最後の方はどう考えても自分から強請る形になっていた気がする。馬鹿だ。考え無しにも程がある。ヤってから後悔しても、もう遅過ぎるというのに。

 しかし、マズイと思っているのはその事実に対してだけで、行為自体は嫌ではなかった。問題はあるとは思うが、確かに嫌ではなかったのだ。当然だ、相手は命よりも大切にしている弟だ。何をされても嫌だと思う筈がない。けれど。

 相手はまだ十三歳で、身長もオレよりも大分低くて、経験も当然ない筈なのに……翻弄された。何も考える事が出来ないほど、翻弄されたのだ。オレを散々見上げ、そして見下げて来た見慣れたあの可愛らしい筈の弟の顔は、その瞬間だけはやけに大人びて見え、紡がれる変声期只中の微妙な声色は知らない誰かのようだった。

 熱っぽく囁かれた「兄サマ」の声を思い出すだけで身体が熱くなる気がする。それと同時に、どことなく怖さを感じた。今朝、光の下でオレに見せたまるで何事もなかったかのような、普段通りのにこやかな笑顔にはない、そこはかとない迫力を見て取ったのだ。シャワーの所為で大分熱くなった身体を感じながらも、背に冷たいものが走る気がする。

 ……これからオレは今まで通りモクバと接する事が出来るのだろうか。『あの』顔を知り、一度関係を持ってしまった今、過去の日々の様に気軽に手を繋いだり、入浴や睡眠を共になど出来るのだろうか。

 いや、多分無理だろう。それらの行為の延長線上には多分、セックスが来てしまうのだ。一度してしまえば二度目も三度目もない。当たり前だ。許したと言う事はそういう事なのだ。絶対に一度きりだと念を押した訳でもなし、そう言われた訳でもない。

 だから、きっと。

 今朝方見たモクバのとろけそうな程幸せな笑顔と、優しく自分に触れてきた柔らかなあの手の感触を思い出し、オレは深い深い溜息を一つ吐いた。モクバにとってのゴールだろうその行為はオレにとっては始まりだった。しかも、予想だにしない方向への。

 シャワーの音が響き渡る。いつまでもこうしてなどいられない。この後直ぐに朝食を共に取る約束をしているのだ。ぐずぐずしているとモクバが様子を見に来てしまうだろう。裸で鉢合う事だけは絶対に避けたい。特に今は。

 オレは、緩やかに頭を振ると、コックを捻って水流を止め、ボディーソープを手に取った。少し甘い香りのする乳白色のとろりとしたそれを掌に受けた瞬間、似て全く非なるものを連想し、直ぐに手の中で泡立てた。

 ……重症だ。心の底から、そう思った。
「兄サマ随分遅かったね。お風呂の中で倒れてるんじゃないかって心配しちゃったよ」
「……そんなに長く入っていたつもりはないが」
「えー?兄サマがオレの部屋を出て行ってからもう一時間経ってるよ?ほら、見てよ時計」
「……本当だ。それは待たせてしまったな」
「別にいいけど。とにかく、ご飯食べよ?今暖め直して貰ってるから。……大丈夫?」
「何がだ。オレは別に……」
「なんかちょっと顔が赤いみたいだけど。お風呂上りだからかな。手、繋ごうか」
「い、いい。お前は先に行け。直ぐに行く」
「そう?じゃあ、先に行ってるけど。無理しないでね」  

 そう言うとモクバは未だバスタオルを手に立ち尽くすオレの左手を何時の間にか握り締め、不意に軽く持ち上げて丁度小指の辺りに小さなキスを一つ落とす。それは本当に一瞬の出来事で、オレすらも何が起きたのか分からなかった。故にモクバと共にこの部屋を訪ねて来たオレ付きのメイドにも、多分見られる事はなかったと思う。

 熱い唇に触れられた小指がじわりと熱い。モクバが手を離し、いつもの通り元気良く部屋の外へと向かうその後姿を眺めながら、オレは無意識の内にその左手を右手で強く握り込んだ。

 浴室から出て部屋に戻ってから数分後。時間の感覚などすっかり無くなっていたオレ自身は全く気付かなかったが、余りにも帰って来るのが遅いオレの事を心配したモクバは、同じ様に気にしていたメイドと共に部屋に様子を見に来たらしい。

 幸い、モクバも彼女もノックも無しに無遠慮に部屋に入り込んで来るような事は無かった為未だどこか呆然としてのろのろと着替えをしていたオレは、部屋中に響いた大きなノックの音に慌ててシャツを羽織り、全開だったボタンを首元まできっちり締めて身仕舞いをした。

 第一ボタンまで嵌めた刹那私服でこの窮屈さは有り得ないが、先程見てしまった喉元の痕跡が万一人の目に触れたらと思うと気が気ではなく、多少不自然かもしれないとは思ったがそのまま外さずに入室して来た二人を何気なく出迎えた。

 すると案の定モクバが何か意味有り気な顔をしながら、オレの顔とボタンを嵌めていた所為で手が掛かったままの喉元をちらりと見て、にこりと笑った。その笑顔の意味は……余り考えたくはない。

 そして冒頭のやりとりの後、彼等は直ぐに部屋を出て行く。

 モクバの後に続く形で退出したメイドが扉を閉める瞬間、「瀬人様はどこかお体の具合でも悪いのですか?」と尋ねる声が聞こえた。それにモクバはあっさりと「うん。ちょっとね」と答えていた。それにオレは思わずその名を呼んで余計な事は言うなと制したかったが、それよりも早く二人の足音は遠ざかって消えてしまう。  

 冷や汗が背を伝う。露骨だ。余りにも露骨過ぎる。  

 勿論モクバに取っては今のやりとりなど極自然に出てきたもので、何もわざとやっている訳ではないのだろう。実際昨夜の事が無ければこんな事など特に珍しいものじゃない。オレの身体を気遣う事も、手を繋ぐ事も、軽いキスなども今までだってしていた。けれどそれまでの事と今のこれとでは行為の軽さが違う。違う、気がする。

 何の変哲も無いモクバの言葉一つ一つに全て性的な匂いがするような気がして、オレはそんなものを感じてしまう自分に既に嫌気が差していた。幾ら何でも意識しすぎだろう。分かっている。分かってはいるが、こればかりは自分の意思でどうなるものでもない。

 たったこれだけのやりとりでさえこんなにも疲弊するのだ。これから先、オレはどうやって心の平穏を保てばいいのだろう。モクバの言葉に過剰反応し、その一挙手一投足全てに妙に構えてしまうこの状況ではとても普通になど振舞えない。冷静になればなんて事は無い筈なのに、冷静になりきれないのだ。

 何も疚しい事をした訳でもあるまいし……そう自分に言い聞かせようとしても、即座に自分自身がその言葉を否定する。  

(何がした訳でもあるまいし、だ。疚しい事をしたという自覚があるからこそ焦ってるんだろうお前は。雰囲気に流されたとは言え弟とセックスをするなど馬鹿のやる事だ。しかも最後は自分から縋りついていただろうが。周囲の人間に感づかれたらどう言い訳するのだ。本当に、浅はかな事をしたものだ。自業自得だ)  

 ……自分が自分を責める素っ気無いその声が、頭の中に浮かんでは消えていく。

 くそっ、何でこんな事に。

 一人小さな声で吐き捨てて、持っていたバスタオルをソファーに投げつけても何の解決にもならない。何時の間にか乱れた呼吸が肩を揺らし、未だ湿ったままの髪が頬に張りついて鬱陶しい。ちらりと見た時計の針は既に五分程進んでいた。これ以上遅くなれば、またモクバが様子を見に来てしまうだろう。

「………………」

 オレは深い深い溜息を一つ吐くと、身を起こし乱れた髪をおざなりに直して背を正す。どの道こうなってしまった以上どうしようもない事なのだ。逃げていたって始まらない。そう思っても、やはり心の奥底では萎えていて、どうしても最初の一歩が踏み出せない。弟と二人で朝食を食べに行く、ただそれだけの事なのに。

 誰でも皆、『初めての朝』というのはこういうものなのだろうか。不意にそんな下らない事を思い、オレは小さく投げやりに笑った。

 そして、意を決して扉へ向かって歩き出した。
「兄サマ、今日は会社に行くの?」
「あぁ、そのつもりだが」
「えー折角の日曜日なのに。もっと一緒にいようぜぃ」
「昨日早めに仕事を切り上げたのでな、少し残っている」
「ちぇ。じゃあ、いいよ。オレも一緒に会社に行くから」
「……お前も?」
「うん。だって今日は友達との約束も無いし、取り立ててする事もないし……兄サマの傍にいたいかなーって」
「…………!!」

 ね?いいでしょ?ミルクたっぷりのカフェオレを口にしながら可愛らしく笑いかけて来るモクバの顔を、オレは思わず凝視して、手にしたカップの中身を一気に煽ってしまう。

 未だ出されたばかりで湯気がはっきりと漂っていたブラックコーヒー。熱い物が苦手な舌にかなりのダメージを齎して思わず吐き出しそうになったが、何とか堪えて思い切りよく飲み込んだ。熱い熱の塊が口内にひりひりとした余韻を残して喉奥へと流れていく。

 胸が焼けそうだ。そう思い顔を顰めると、モクバが慌てたように「大丈夫?!」と水の入ったグラスを目の前に突き出して来る。それを奪う様に受け取ってごくりと飲み干したオレの視界には薄い膜が出来ていた。どうやら、涙が出るほど熱かったらしい。  

 食堂に着いてから約三十分後。

 最初は緊張気味に目の前に座るモクバの相手をしていたオレだったが、何時もと変わらない和やかな空気に少しずつ警戒を解いていき、漸く何も無かった時と同じ雰囲気を取り戻したと感じた頃には自然に笑顔も出る様になっていた。

 先程のアレは思い過ごしだったのだろうか。やはり一日や二日で……例えナニをしてしまった間柄であっても早々態度など変わるべくも無い。にこにこと笑いながら他愛のない世間話を口にするモクバの顔を見ながら、オレがふっと肩の力を抜いたその時だった。

 食後のコーヒーを滞りなくテーブルの上に置き、使用済みの食器を片付ける為に部屋を出る使用人の後ろ姿が消えた途端、突然モクバが変わらない笑顔のまま今まで口にしなかったような台詞をさらりと言ってのけたのだ。じっとオレの顔を見て少し身を乗り出すような形で僅かに距離を縮めてくるその姿に、オレは即座に脱ぎ捨てた筈の緊張を纏う事となる。

 やはり、今朝のアレはオレの思い過ごしじゃなかったのか!?

 内心そう絶叫するオレの元に手にしたカップを空にしたモクバが席を立って近づいて来る。そして常と同じ行動を心がけ、経済誌を広げていたオレの手を掴むと邪魔とばかりにそれを奪い去って横に置いた。バサリと紙が落ちる音がやけに大きく響き渡る。

「兄サマ」
「っ、なんだ?」
「キスしていい?」
「は?」
「オレ、なんか……兄サマの事を思って悶々としてた時よりも、今の方がずっと兄サマに触りたいって思うんだ。ちょっとの間でも離れたくないよ」
「モ、モクバ?」
「駄目?」

 口ではそう尋ねるフリをしても身体はやる気満々だ。何時の間にか椅子に座っているオレの膝に手をついて、下から顔を見あげる形で距離を詰めて来る。既に声と共に吐息を感じるまでになりどうしたらいいか分からないオレがいいとも嫌とも言えずに戸惑っていると、焦れたモクバは勝手に身を伸ばしてキスをして来た。

「……んっ、うっ?!」

 柔らかく暖かいそれがオレの唇に軽く触れ、ちゅ、と小さな音がする。驚いて止せばいいのに僅かに開いてしまったその間から舌まで差し込まれ、未だ先程のコーヒーでひりつく口内を嘗め回された。その決して不快ではない感触に思考は酩酊し、身体の力ががくりと抜ける。持っていた紙を抜き取られて手持ち無沙汰になっていた指先は、何時の間にか肩に捕まる様に促された手によってモクバの長袖のシャツをきつく掴み締めていた。

 ── こ、これではまるでオレがして欲しいと言っているようなものではないか!

 事の最中に思う事では決して無いが、そんな見当違いの突っ込みを入れつつなかなか解放してくれないキスに酔わされる。  

 ……なんだこれは。昨夜も思った事だが、これは本当にモクバなのか?  

 どう見てもモクバにしか見えない目の前の身体を視覚で捕らえながら、オレはされるがままにその行為に没頭した。というか、余計な事を考える余裕すら根こそぎ奪われたのだ。

「……っは、あ…っ、は……」
「ごめん、苦しかった?兄サマとのキス、すっごく気持ちいいんだぜぃ」
「……い、いきなりは、ない」
「いきなりじゃないよ。していいって聞いたよ?」

 いや、そういう問題ではなく、だな。……そう反論しようと思ったものの、呼吸が大分妨げられてしまったオレは空気を確保するだけで精一杯で、ついでとばかりに抱き締めて来たその身体を押しのける事すら出来なかった。こんな調子で四六時中傍にいられた日にはどうなるか分かったものではない。

 少し増えた身長体重をすっかり忘れて人の膝に勝手に居座るモクバの重みを全身で感じながら、オレはやはり油断はするべきではないと心の奥底で固く誓った。が、相手はこのモクバだ。それだけで、気持ちのどこかに隙は出る。それをモクバも狙っている。どうしたらいいか分からない。

「じゃあ早く支度して、会社に行こう?兄サマ」

 まるで立場が逆転したかの様にオレの頭を撫でながらそんな事を言うモクバの言葉に、オレはもう何を言う気力も持てず、ただ黙って頷いた。

 

2


 
「兄サマ、海馬ランドのアトラクションコントロール端末のセキュリティの事なんだけど、この間ハッキング未遂があったって。ギリギリのところで防いだらしいけど、あそこのプログラム自体少し古いし、全部を書き換えた方がいいと思うんだ」
「その件は報告を受けている。近いうちにシステム全体の見直しと共にプログラムの方も更新をかけるだろう」
「最近のハッカーって子供が多いからさ。殆どゲーム感覚でやってんだぜ。ちょっとネットを探索すれば有名企業の重要機密が裏サイトで続々流出してる」
「そんな事を知っているという事はお前もそこを見ていると言う事か」
「まぁ、一応ね。だって海馬コーポレーションの情報が漏れたら困るから、監視してるんだ」
「どうだか。お前はそういう分野に関してはオレよりも詳しいからな」
「あー。兄サマオレの事なんか誤解してるー!悪い事なんてしてないぜぃ」

 オレのデスクから少し離れたソファーの上で、モクバは膝の上に載せた小型のラップトップに指を滑らせ軽快なタッチ音を間断なく響かせながら軽口に頬を膨らませる。その様はオレが良く見知ったモクバそのもので、そんな所にオレは簡単に警戒を解いてしまう。

 何が面白いのか微妙ににやけた顔で画面に見入っているその様をディスプレイ越しに眺めながら、何時の間にか少々強張っていた肩の力を抜いた。

 海馬邸で長いようで短かった朝を過ごした一時間後、オレ達は予定通りKC本社の社長室へと身を移し、オレは中途半端に放り投げていた仕事の後処理を、そしてモクバは特に何をするでもなくPCを弄っていた。

 今朝から立て続けに起こった不測の事態の連続に、オレは外見には余り出さないようにしていたが既に疲労困憊だった。当たり前だろう。朝からああも動揺させられてはいかな神経の太い人間でも参ってしまう。

 今とて広い社長室とは言え誰もいない空間で二人きり、というシチュエーションに正直落ち着かない気分だった。現在はまた可愛らしい顔に戻ってはいるものの、また妙なスイッチが入って真面目な顔で近づいて来ないとも限らないからだ。

 先程までは自分の思い過ごしで済んだかもしれないそれが、あのキスで一瞬にして覆されてしまったのだ。油断大敵。オレには尤も縁遠いと思っていたその四文字熟語が頭の片隅に常に過ぎる。

 お陰でモクバの行動全てに妙に不自然で過敏な反応を示す様になってしまった。必死に平常心を取り戻そうと努力はするものの、それは決して思い通りには行かなくて、見るものが見れば至極ぎこちない態度に見えるだろう。それを元に戻そうと意識すればするほど逆効果になり、余計可笑しくなる始末だ。

 しかし、幸か不幸かモクバにはオレのこの微妙な変化が伝わってはいないようだった。否、分かっていて敢えて気付かないフリをしているのかも知れないが。

 前者ならばオレが昨日のアレを許容したと取られ、調子に乗る可能性が高くなるし、後者ならばこちらの意思をまるきり無視する形となっているのだから性質が悪い。どちらにしてもオレに取っては良くない事だった。けれどもう、どうしようもない。

 完璧な空調故に暑さや寒さを感じる訳も無いのに、何故か酷く喉が渇く。

 キーボードを操る指を止め、ごくりと僅かに口内に残っていた唾液を飲み込むと、先程珈琲で火傷をしてしまった舌が微かに痛んだ。じわりと痺れるようなその痛みを散らす様にもう一度同じ事を繰り返すと今度は別の感覚が蘇る。

 唇を割って、入り込んできた温かな舌。まるで当然の様に口内を嘗め回し、全てを舌先で感じるかの様になぞり、探り、怯えて奥に引いたオレの舌にも触れて、何時の間にか絡め取られた。頭の中がホワイトアウトし、体中の力が抜けるようなキス。

 ……オレよりも五歳も年下の、今春中等部に上がったばかりで未だ学生服の袖が僅かに余る様な体格の癖に。一体、モクバはどこでこんなものを覚えてきたのだろう。無意識に唇に手をやり、殆ど呆然としてそんなどうでもいい事に思いを巡らせていたオレだったが、そんな時間は余り長くは続かなかった。

 視線を感じる。

 その事にはっと気づいた時にはもう遅かった。男にしては少し大きな、黒目がちの瞳がまるでオレを射抜く様に真っ直ぐこちらに向けられていたからだ。明らかにオレの様子を伺っている様な、先程と同じ真剣な顔。

「……なんだ?」

 その視線にじわじわと感じる焦りと不安にオレは思わず警戒を露わにした声を上げてしまう。常の調子から比べればそれは少し刺々しいものだったのかも知れない。酷く素っ気無いその響きにもモクバの表情は変わらず、向けられた眼差しも反らされる事は無かった。それにますますオレの根拠の無い焦りは募って行く。その余りの居心地の悪さに思わず「理由をつけて部屋を出てしまおう」と、そんな馬鹿な事まで思い始めたその矢先の事だった。

 モクバはふっとこちらを見る瞳を和らげると、何時もの明るい声で口を開く。

「兄サマ、喉渇いたの?」
「いや、別に」
「そう?そう言えば今日の朝珈琲を飲んだだけで、あんまり水分取ってないよね?身体に悪いよ?大体昨日……」
「いつもは定時で何らかの飲み物が勝手に出て来る。問題はない」
「あ、そっか。今日は日曜だもんね。もう十時過ぎてるし、やっぱり何か飲んだ方がいいよ。オレ、持って来てあげる。オレも喉渇いたし。何がいい?」
「………………」
「珈琲がいいかな。余り熱くない奴。ちょっと待っててね」

 人の返答を待ちもしないで勝手にそう決めてしまうと、モクバは勢い良く席を立ってさっさと社長室を後にしてしまう。その際あれ程じっと見つめていたオレからすぐ視線を外しそっぽを向いた事から、もしかしたらモクバもオレと同じ事を考えていたのかもしれない、という余り宜しくない憶測に辿り着いた。

 ……同じ事を考えていてもその方向性はまるで逆だ。オレは何とかして『ソレ』を回避しようと身構え、モクバは『ソレ』をいかにして実行するかを考えている。まるで膠着状態だ。何が悲しくて弟と食うか食われるかの争いをしなければならないのだろう。

 モクバが飲み物を手にこの部屋に戻ってきた瞬間から、中断された『争い』は再開される。

 今度は先程の様に遅れはとるまい。そうそうモクバのいい様にされてばかりはいられない。そう一人密かに決意したオレは、来るべき時に備えて何が起きても直ぐ対処出来る様に、良く考えればとても馬鹿馬鹿しい応戦体勢を整えた。

 再び、喉の渇きを覚える。

 どう考えても不自然なそれにもう気付かないフリをして、オレは今は静かに閉ざされている正面扉を睨み据えた。
「日曜日にもお仕事大変ですねー社長さん」
「……何だ貴様、何故ここにいる」
「あらご挨拶ですこと。今週からオレ、ここの担当になったんだぜ。宜しくお願いしまーす」
「貴様の様なバイトを採用する様では碌な企業じゃあるまい。契約を考えなければならないな」
「人の仕事振りも見ないでそういう事言わないでくれます?オレ、金が絡むと凄いんだぜ。この仕事二年目で超ベテランだし。お前よか何だって出来る自信あるし」
「ほう、ではその腕前の程を見せて貰おうか。完璧にするまで帰さんぞ」
「よーし見てろよー床が鏡になる位に磨いてやっからな!」
「というか、貴様以外の清掃員はどうした」
「言っただろ?オレベテランなんだって。一部屋位なら余裕で一人で全部やるんだぜ。なーモクバ?」
「うん。兄サマ、城之内凄いんだよ。オレの部屋ももうピッカピカ!」

 モクバが珈琲を持って来ると言って部屋を出てから一時間後。何処へ行ったのかそれきり戻って来ない事に、オレが多少の疑問を覚え始めた頃だった。漸く開いた自動扉からひょっこり姿を現したのは、珈琲を手にしたモクバではなく、何故か見覚えのあるユニフォームを着た城之内だった。

 奴は今にも鼻歌を歌い出しそうな様子で、見知ってはいるが名称がよく分からない清掃用品をぎっしりと詰め込んだ大きなワゴンを押しながら入室し、オレの顔を見ていつもの調子でヘラヘラと笑いかけて来る。

 見慣れた格好だと思っていた服装は、よくよく考えてみれば数年契約を結んでいる清掃会社のもので、帽子に入ったラインの色からアルバイトにも関わらず生意気にもマネージャーレベルまで昇格しているらしい。これではベテランだと胸を張るのもある程度は許してやらなければならないだろう。

 先にモクバの部屋の清掃をして来たのか、モクバはしきりに奴の腕前を褒めている。大方珈琲を取りに行った時にでも出くわしたのだろう。だからなかなか部屋に帰って来なかったのだ。理由が分かれば単純なものだ。

 しかしこの場に城之内が来てくれて良かったと思う。一時間前のあの無駄に緊迫した空気が今はすっかり和んで何時もの雰囲気を取り戻し、モクバも常より二割り増しではしゃいで城之内に纏わりついている。犬に救われるというのも癪な話だが、実際そうなのだから仕方あるまい。そう思った瞬間、なんだかどっと疲れが押し寄せて来る。

「あれっ、海馬。なんかお疲れ?」
「……いや、別に。掃除をするならさっさとしろ」
「何だよもう態度悪ぃの。モクバを見習ってもう少し朗らかになろうとか思わないのかね。社長のイメージは会社のイメージだぜ」
「煩いな。余計な事をごちゃごちゃ抜かすと契約会社に貴様をクビにする様に言ってやるぞ」
「あ、酷ぇ。……ま、一応時間決まってるんでね。さくさくやっちゃいますかねー」
「あ!兄サマの珈琲、城之内にあげちゃったんだ!オレ、もう一回取ってくる!」

 最初にデスク周りを掃除しようとでも言うのか、ワゴンの中から幾つか取り出した道具を手に近寄ってきた城之内とオレがそんな会話を交わしていると、それを後方で何となく見ていたモクバが急に声を上げて再び部屋を出て行った。

 城之内がオレの様子を指摘した際興味深げにこちらの表情を伺っていた事から色々と思惑があるのだろうが、この際余計な事は考えない事にした。考えてしまうと想像は悪い方向へしか行かないからだ。

「………………」
「お前、やっぱ疲れてんじゃね?何その大きな溜息」

 モクバが部屋を後にした後、思わず吐き出してしまった自分でも深いと思える溜息を吐いたオレに、机上を手際良く拭いていた城之内は再び同じ言葉をかけて来た。その声にオレは今度は誰もいない事をいい事に、僅かに顔をあげると意外に真面目に仕事に取り組む奴を眺めながら、ぽつりと自分でも全く想像しなかった台詞を吐いてしまう。

「凡骨。貴様、今日のシフトは何時までだ」
「へっ、何?お前今日会社に来てる癖に暇してんのか?バイトは三時頃までだけど、その後別のバイトも入れてんだ」
「……そう、か」
「急に言われるとどうしてもな。また今度にしてくれよ。しっかし、お前がオレの予定を急に聞くとか珍しいじゃん。何かあるわけ?」
「いや、別に」
「怪しいなー。お前は悩み事抱えるってタイプにゃ見えねぇけど。明らかに変だぜ」
「………………」
「あっ、自分から話しかけておいて今度は無視とか!酷すぎるんだけど!」

 城之内のこんな時ばかり良く働く勘に、オレはそれ以上余計な詮索をされる事を防ぐ為に、会話が途中なのも承知の上ですぐさまディスプレイに向き合った。

 今の台詞に一番驚いたのはこのオレだ。この後確実に訪れるだろうモクバとの二人の時間をなんとか回避すべく、目の前に現れた奴に……思わず、本当に思わず声をかけてしまったのだ。これまでも遊戯に都合が付かない場合、デュエルの相手として幾度か家に招いた事がある相手だったから特に不自然ではなかったが、こんな持ちかけ方は初めてだった。

 やはり奴もどこかおかしいと思っているのだろう。あからさまに好奇心丸出しの目でオレを眺めてくる。それを手を動かし始める事で回避すると、オレは流れるデータを凝視しながら、自分のやろうとした事がいかに無駄なものか、今更ながらに気がついた。

 例えその場は回避したとしてもそれは一時凌ぎにしかならず、根本的な解決にはならないからだ。一番重要なのは未だ混乱の一途を辿る自身のこの状態を落ち着かせ、今後の傾向と対策を考えるという事だ。しかし、そうは思ってもやはり衝撃から立ち直ってすらいない現状で何をどう足掻こうが理性的になれる筈も無く、それが結果的に目先の逃げに繋がっている。

 凡骨に助けを求める様では世も末だ。そう思いながらも、オレはまた無意識に今度は応接セットに向かった奴の姿を眺めながらこんな下らない質問を胸に抱いた。
 

『貴様がもし、妹から本気で好きだ、抱いて欲しいと言われたら、どうする?』
 

 ……オレの場合は逆だから、これは妹の方に質問すべきなのだろうか。そんな事まで考えてしまい、余りの馬鹿馬鹿しさに頭が痛くなった。  
「ね?城之内って凄いだろ?社長室、凄い綺麗になったね!」
「あぁ、そうだな」
「兄サマ後どれ位で仕事終わるの?」
「どうだろうな。一応夜までは……」
「え?そうなの?だって兄サマ、さっき城之内に予定聞いてたじゃん。家に呼ぶつもりだったんでしょ」
「えっ?」
「あいつとデュエルする時間が取れる位なら、そんなに急ぐ仕事じゃないのかなぁって思ったんだけど」
「………………」
「でも、別にいいよ。オレも兄サマに合わせて仕事してるし。ゆっくりしてても」

 こんな時の為に課題も持って来たんだぜ?と、常日頃の用意周到さをここでも如何なく発揮しながら、モクバはにこりと笑ってオレの側を離れていく。いつもはこんな問題温過ぎてつまらない等と文句を言いながらするのに、その後ろ姿は本当に楽しそうで、鼻歌まで聞こえてきそうな勢いだ。

 それにしても、城之内との会話を聞かれていたのには驚いた。

 確かにモクバが珈琲を取ってくると言って出て行ってから帰ってくるまで今度はさほど間も空かなかったが、まさかあの時点で近くにいたとは想像出来なかった。

 オレにその事を突っ込んで来たという事は、多分オレが城之内に声をかけた意味をしっかりと分かっていて(家に誘うつもりだった、と指摘した時点でそれは既に明白だが)、更に勘が鋭ければオレが現時点でモクバとプライベート空間で二人きりになる事を避けようとしている、という事も分かったかも知れない。後者はまだ確定的ではなかったが、声に多少の不機嫌さが混ざっていた事から余り快くは思っていないのだろう。それ位はオレにも分かる。

 もうすっかり『オレのもの』気取りか。
 たった一回寝た位で。

 否、その一回が初めてという時点で既にかなり特別なもので……特別であればある程それを大事に思うのは仕方のない事なのかもしれないが。

 どちらにしても、もう取り返しが付かない事は明白で。席に着き、ペンを手にしながらこちらをちらりと見遣るその視線に、オレは応える表情を持てずにいた。そんなオレにモクバは何を思ったのか、ぽつりとこんな事を言ってきた。
  

「兄サマってさぁ……可愛いね」
  

 ── 一体どういう意味だそれは?!
  

 そう心の中で絶叫した台詞を結局声には出せずに、オレは知らず赤くなる頬を自覚して顔を背けた。

 ……こういう態度が悪いのだろうと、どことなくそう思いながら。