海馬兄弟の憂鬱 Act2(Side.モクバ)

「……はぁ」
「何だよモクバ。また溜息かぁ?最近鬱陶しいぞ。何かあったのかよ」
「んー。オレさぁ。この間オトナになったんだけど」
「……はい!?オトナって……オトナ?!ちょ、お前、いつの間にッ!声変わりしてちょっとしか経ってねぇのに生意気なッ!」
「まあそれはいいんだけど」
「良くねぇよ。そこを聞かせろよ!つーかお前この間恋煩いじゃねぇって言ってたじゃんか!何物凄い抜け駆けしてやがんだ!相手誰だよ!」
「だから問題はそこじゃないんだって」
「いやだからそこなんだって!」
「しつっこいなー。お前、オレの話聞く気あんのかよ?」
「聞いてやるから肝心なとこ話せっつってんだよ」
「そこはスルーしないと教えてやんない」
「なんだそりゃ?!ずりぃ!……くっそー。じゃあ詳細はいいからアバウトに」
「めちゃめちゃ背が高くて美人で頭とスタイルが物凄くいい年上の恥ずかしがりや」
「はー……お前どっからそんなん見つけて来たんだ。しかも年上を押し倒したってか!勇者だな、おい」
「うん、まぁ、押し倒したまでは比較的簡単だったんだけどね。問題はその後でさ」
「その後?」
「なんか、避けられちゃって」
「……その女に?会いに行っても拒否られるとか?」
「生活環境上毎日顔は合わせるんだけど……凄くぎこちないっていうか、ビクついてるっていうかー」
「……お前がいきなり押し倒したりしたからじゃね?フツービビるわ。まさか無理矢理ヤッたとかじゃないだろうな」
「オレ的には無理矢理じゃない」
「いやいや。お前的にじゃなくって、向こうの感覚的にさ。AVじゃねんだから女は皆男といたら押し倒されたい願望があるとかってありえねぇから」
「でも!本当に嫌だったらフツー逃げるだろ?あっちはさ、オレよりもかなり大きくて腕力も上なんだぜ?けど、逃げなかった。と言う事はやじゃなかったって事じゃん」
「まぁ、そうだけど。そんな簡単なもんかね。もしかしたらビビッちゃって、抵抗出来たのに出来なかったのかもしれないじゃん」
「そうかなぁ」
「……お前、見かけによらずスゲェのな」
「ありがと」
「褒めてねぇよ。……まぁ、その、なんだ。失敗は誰にでもあんだから、大事なのはフォローじゃねぇの。相手ビビッてるって分かってんなら、ビビらせない様にするとか。その調子だとがっついてんだろ、お前」
「そんな事ないけど。別にフツーだよ。でもやっぱ年頃だからさぁ」

 最後の言葉に被せる形でオレがはあっ、ともう何度目か知れない溜息を吐き出した頃、頭上で授業開始のチャイムが鳴り響いた。それにオレの机の上に腰をかけて真面目に話を聞いてくれたクラスメイトの浜田は、オレよりも複雑な顔をしてつられて小さな溜息を吐いた後、斜め前の自席へと帰って行く。

 がやがやと教室中が騒がしくなり、廊下の外から慌てて駆け込んで来た生徒が椅子に座る音が派手に響く。そんな煩い位の雑音もオレの耳には余りよく聞こえなかった。オレは机の上に腕を組んで突っ伏すと、目を閉じて再び息を吐き出した。授業が始まり、先生が教壇の上に立つ音が聞こえても構わずにそうしていた。もう授業なんてどうでも良かった。

 オレがKCの副社長をしている事や、成績優秀なのは誰もが知っている事実だから、先生もオレが多少不真面目に授業を受けていても何も言わない。こういう時優等生って楽だよな、と思う。少し位サボっても「忙しいんだろう?」と労って貰えるから。勿論、忙しくなんて全然ないんだけど。
 

『……今夜は遅くなる。もしかしたら暫く社に泊り込む事になるかもしれない。新企画の進行が予定より大分遅れていて……』
 

 目も耳も閉ざして暗闇に包まれていると、オレの頭の中に響くのはそんな兄サマの声だった。前はその姿もしっかりと浮かんできて、完璧な形でオレの思考を独り占めしていたんだけど、最近は兄サマの顔を見ていないから、どうしても携帯越しに聞こえた声ばかりが蘇ってしまう。

 兄サマに避けられてる。

 そうオレがはっきりと自覚したのはつい一週間前の事だった。いつもは必ず朝食の時間に顔を合わせる筈の兄サマがその日に限って食堂に顔を出さなくて、どうしたの?と磯野に聞いたら、その日兄サマは朝早くに会社に行ってしまったと聞かされた。

 オレの記憶の中では兄サマが早朝出勤をしなきゃならない程切羽詰った仕事が入っていた訳でもないし、○○商戦と銘打って販売に力を入れなければならない時期でもない。 KCの株価が落ち込んでるなんて事も当然ない。今朝見た新聞ではむしろ順調過ぎる程順調だった。だから、どう考えても兄サマが忙しがる理由なんて何処にも無いのに、兄サマはその日以来ぷっつりとオレの前に姿を見せなくなった。

 メイドが兄サマの部屋からシーツを抱えて出てきたのを目撃しているから一応家には帰って来てるんだろうけど、深夜や早朝ばかりでオレの起きている時間帯にはまずいない。最初は単なる偶然かと思ったけれど、こうも続いてしまうとこれは意図的なものなんだと思わざるを得なかった。兄サマは、わざとオレと顔を合わせない様にしている。そうとしか思えなかった。

 オレが即座にそう思ったのには当然訳がある。兄サマのオレに対する態度があからさまに違ってきたからだ。前はオレの顔を見て驚いたり強張ったりすることなんか無かったのに、今ではオレと視線を合わせるだけで、ドキッとした顔をして酷い時には慌てて視線を反らしたりまでしてしまう。

 本人は一生懸命普通に振舞おうとしているんだろうけど、兄サマは案外演技が下手で、そして素直だからなかなか『普通』に出来ない。そして、そうしようとすればするほど不自然な感じになって行った。 それを兄サマも分かったのか、もう取り繕う事はやめて逃げる事にしたらしい。
 ……何なんだよもう。逃げる事ないじゃないか。

 兄サマのオレに対する態度が激変したのはもちろん『あの日』からだった。

 オレが兄サマを抱いた日。
 初めて二人でセックスをしてしまった日。

 オレにとってはずっと胸に抱いていた願望が達成出来た最高の日だったんだけど、兄サマにとってはかなり予想外の出来事で……多分、多分だけど凄いショックを受けたんだと思う。

 だってあの時は殆ど流される様に抵抗も余りしないでオレに抱かれた癖に、次の日の朝……初めての朝って普通はもっと甘くて優しくて気持ちいいものなのに……兄サマはまるで悪い事でもしてしまったとでも言いたげにオレの顔を見て落ち込んでて、身体に触れてもキスをしてもただ固まるばかりで全然駄目だった。 そして、今日までその様子は改善されるどころか酷くなるばかりで。

 あいつの言う通り、本当は兄サマ、凄く嫌だったのかな。あんな事をしてしまったから、オレの事を嫌いになってしまったんだろうか。一回だけ抱けたとしても、その後逃げられたんじゃ意味が無い。オレは、一時の気の迷いとかじゃなくて、本当に兄サマが好きだから。兄サマとしても大好きだけど、恋人と同じ意味で好きだから。けれど、普通の男女と同じで、相手が嫌がってるのに押し付けても意味が無い。上手く行くはずが無い。だから。

 兄サマの本当の気持ちが知りたいと思った。そうじゃないとオレも身動きが取れないから。兄サマに対してどうしたらいいか分からなくなる。ああいう事をしてしまったからこそ、真剣に向き合わなくちゃいけないって思うんだ。

 もう少しだけ待って、兄サマがずっと逃げ続けている様なら兄サマの所に行ってみよう。また逃げられるかも知れないけど、手を掴んでしまえば兄サマは諦めると知ってるから。兄サマのそういう所を利用したと言っても過言じゃないから、本当は……してはいけないんだろうけど。

 そこまで考えて、オレは漸く顔を上げて姿勢を正した。何の授業かすら分からなかったけれど、黒板に書かれた数式で数学の教科書を取り出した。

 ……こんな風に数式に当て嵌めて何でも簡単に解決出来ればいいのに。

 オレは最後に兄サマと交わしたつまらない仕事の話を思い出しながら、ペンケースの中からシャープペンを取り出して、ノートを開いた。
「あ、磯野。兄サマいる?」
「モクバ様、お帰りなさいませ。瀬人様は先程ラボの方に向かわれましたが……」
「最近兄サマ忙しそうだけど、何かあるの?」
「いえ、別に。特別トラブルも聞いておりません。が、確かに瀬人様は最近社に泊まる事が多いようですね」
「……やっぱり、磯野も理由を知らないんだ?」
「?……何か?」
「あ、ううん。何でもない。ラボの方だね?じゃあ、オレちょっと行って来る」

 学校で友達と色々な話をしたその日の夕方。家に帰らずに直接KCに向かったオレは社長室前で出会った磯野とそんな会話を交わした後、不思議そうな顔をして首を傾げる磯野の横をすり抜けると、兄サマがいるという研究棟へと向かった。

 平日の夕方だから当然まだ社員は沢山いて、皆オレの顔を見ると直ぐに兄サマがいる場所を教えてくれる。オレがこうして社内をうろうろする時は大抵兄サマを探してる時だって皆知っているからだ。

「瀬人様ですか?あちらでデュエルシステムの更新プログラムについて最終調整をして……あ、ほら、あの白衣がそうです」
「兄サマがこの中にまで入ってやるなんて珍しいね」
「今週はずっとそうですよ。海馬ランドの新アトラクションについても自らプランを立てていたようですし」
「徹夜で?」
「いえ、夜はお帰りになりますが」
「……そうなんだ」
「お呼びしましょうか?」
「忙しくないんならそうして貰えるかな。ちょっと話があるんだ」
「かしこまりました」

 ラボに着いて直ぐ、他の社員と同じ様にオレの事を見て直ぐ兄サマの事を口にした研究員にオレは兄サマを呼び出してくれる様に頼んだ。部屋を一つ挟んでガラス張りの奥の部屋に見えるのは確かに白衣を着た兄サマの後姿で、数人の研究員と顔を付き合わせて何か難しい顔で話をしている。けれどその表情は困ったり苛立ったりしてる時に見せるそれじゃなくて、兄サマがその物事に特に熱中していてしかも余裕がある時の顔だった。

 その様子から見るにやっぱり兄サマが根を詰めて何かをしているという事は無いと分かる。そんな兄サマに、今しがたオレと話した研究員が後ろから声をかけ、オレの方を指さして頭を下げた。それにくるりと振り向いてこっちを見た兄サマの顔は、何時の間にか少し戸惑った様な表情に変わっていた。

 ……多分オレがここにまで出向いて来て会いたいと言ったからなんだろう。オレと会うのすらそんなに嫌な事なんだろうか。大きく溜息を吐いて手にしていた書類を下に置いた兄サマは、仕方なく……本当に嫌々ながらって言葉がぴったり合う様な表情でこちらに向かって歩き出す。そして部屋を出てここにいるオレの姿を認めると、やっぱり一瞬立ち止まって微妙な顔をした。こういうのを跋の悪い顔って言うんだろうな。

「兄サマ」
「どうしたモクバ。……珍しいな、こんな時間に社に来るなんて。学校から真っ直ぐに来たのか?」
「うん」
「何か、用なのか?」
「スゴイ特別な用って訳じゃないけど……兄サマと最近顔を合わせてなかったから、どうしてるのかなぁと思って」
「……別に、一週間やそこら顔を合わせない事等ザラにあるだろう?」
「それはそうだけどさ。とにかく、二人で話そうよ。ここだと他の研究員もいるし、ちょっと話しにくいよ」
「他人がいたら言いにくい話でもするつもりなのか」
「そういうんじゃないけどさ。……兄サマこそ、オレと二人きりになりたくない理由でもあるの?」
「別に、そんな事は……!」
「じゃあ決まりだね。喉も渇いたし、休憩室に行って話そ。あ、兄サマちょっと借りていくねー!」
「……!モクバ、引っ張るな!」

 やっぱり何だかんだ言って二人きりになる事を渋る兄サマに、オレはちょっとだけ強引に自分の意見を押し通すと、すかさず兄サマの手を強く掴んでその身体を殆ど引き摺る様に歩き出した。その場にいた研究員達はオレの声に笑顔で頷いて「どうぞごゆっくり」なんて声をかけてくる。それに兄サマの腕がほんの少しだけ強張った気がした。

 ……皆は兄サマがオレの事を避けてるなんて事想像もしないんだろうな。仲良し兄弟の認識ってこういう時役に立つよね。

 兄サマの手を引いたそのままの形で研究室を出たオレは、言葉通りすぐ傍にあった個室型の休憩室へと入り込んだ。研究棟にはこうした個人用の休憩室や大型の食堂も兼ねている部屋、そしてホテル並の設備が整った仮眠室が幾つかあって、長期間篭りきりになってもそんなに悪くは無い環境になっている。

 兄サマも昔はよく泊り込んで色んな研究に没頭していたりしていたけど、オレはまだこうして兄サマに会いに来る以外にここに長時間滞在した事は無い。まぁ、今はそんな事はどうでもいいんだけど。

「兄サマ、何飲む?コーヒー?」

 休憩室に入ったオレはとりあえず兄サマをソファーの上に落ち着かせて、備え付けのドリンクシステムからコーヒーとオレンジジュースを取り出すとテーブルの上に静かに置いた。その間も兄サマは気まずそうな顔で黙り込んだままで、オレの方を余り見ようともしない。どこか落ち着かないその様子にオレの予想は確信に変わるばかりで、昼間抱いた不安が更に大きくなってしまう。

 フォローって言っても、どうフォローしたらいいかなんて分かんないよ……。そんな事を内心ぶつぶつと呟きながらオレはただ兄サマがコーヒーに手を伸ばすのをじっと見ていた。その視線に兄サマがまたドキリとする。

「……話とはなんだ?」

 数秒後。コーヒーを一口飲んだ兄サマが、いつもの半分の声量でそう話しかけて来た。相変わらず目線はオレを微妙に外して、背後のなんの変哲も無い扉に向かってはいたけれど、オレは強引にその視界の中に自分の顔を割り込ませて単刀直入にこう切り出した。

「兄サマ。最近、オレを避けてない?」
「何?」
「避けてるでしょ。わざとオレが寝てる時間に家に帰ってきたり、必要も無いのに会社に泊り込んだりしてさ」
「そんな事はないが……」
「嘘。じゃあ何でオレが来た時嫌そうな顔をしたの?二人きりになるのを嫌がるの?」
「……別に」
「別にじゃないでしょ。ほら、今も身体に力入ってる。隙があったら何か言い訳して逃げ出そうとしてるでしょ」
「………………」
「あ、図星。兄サマって凄く分り安い」

 オレの容赦ない言葉攻めに、兄サマはすっかり反論する気も無くなったのか、ただ黙ってオレを見るだけになった。黙るって言う事は、オレの言っている事は全て当てはまっていると言う事で。兄サマは間違いなくオレの事を嫌がってるんだと確信する。

 ……そんなに警戒しなくても、オレは何も兄サマを今ここでどうこうしようとかそんな事全然思ってないのに、兄サマはオレが近づいて手を伸ばせば、取って食われる位の勢いで怖がってるみたいだった。
 

 そう、怖がってる。兄サマは、一体オレの何に怖がってるんだろう?
 

「オレが怖い?」
「……っ」
「オレが兄サマにしちゃった事、そんなに酷い事だったのかな」
「………………」
「もうオレの顔も見たくなくなる程、嫌だった?辛かった?そんなに、オレとセッ……」
「言うな!モクバ!」
「え?」
「あれは……お前の気の迷いだった。勘違いだった、そうだろう?」
「?!いきなり何を言い出すの兄サマ、違うよ!オレ、ちゃんと言ったよね?兄サマが好きだって。終わった後も幸せだよって言ったよね?!気の迷いなんかじゃないよ、オレは真剣に!」
「真剣になってどうするのだ。男同士で、しかも、兄弟で!」
「ど、どうするって。どうもしないよ!」
「おかしいだろう、どう考えても。オレは、おかしいと思う」
「おかしくなんか……!」
「二度目は無い。否、二度とない。……オレが言いたいのはそれだけだ。だが、オレが理屈を通した所でお前の感情まではどうする事も出来ない。だから、オレは」

 オレを避けてるって、そう言いたいんだ?

 ……何それ。兄サマ、本気でそんな事思ってるの?オレが気の迷いで兄サマに手を出して?それはオレにとっても、防げなかった兄サマにとっても失敗で?二度と同じ失敗を繰り返さない為に、兄サマが予防線張ってくれてるんだ?

 本当は兄サマだって違うって分かってるのに、オレにそんな事をしたって無駄だって分かってるのに、敢えて口に出して言っちゃってさ。こんな事言いたくないけど、馬鹿だよ兄サマは。

 オレは言いたい事を口に出来て少しだけほっとしたのか、さっきよりは身体の強張りも取れて来た兄サマを睨んで大きな溜息を一つ吐いた。そして、兄サマの言葉に結構傷ついてしまった胸をぎゅっと掴み、その痛みにちょっとだけ苛立ちを感じて……凄く理不尽だとは思ったけれど、その苛立ちを兄サマに向けてしまう。

「兄サマ」

 ゆっくりと立ち上がり、オレを睨む兄サマの顔を見返しながら、オレは静かに兄サマの元に歩んでいく。オレの声が狭い室内に大きく響く。

 声変わりが終わって大分低くなってしまったその響きはその実結構な迫力だった。自分でもちょっとドスが効き過ぎたかな、なんて思う位だったから元からオレに対して恐怖感に近いものを抱いているらしい兄サマには効果てきめんだった。

 オレが急に低い声を出してつかつかと近づいて来たもんだから、兄サマは驚いた様な顔をして一瞬立ち上がろうとする。けど、それより早くオレは両手を伸ばして兄サマの頬に触れ、少しだけ強い力で抑え込んだ。

 そして、思い切り顔を近づけて……そのまま唇にキスをした。
 「…………っ!!」

 兄サマのくぐもった悲鳴が喉奥から聞こえたけれど、全部無視して唇を深く重ね合わせる。頬を押さえていた指を少しずらして兄サマの唇をこじ開けて隙間を作ると、そこから舌を差し入れて暖かな口内を嘗め回し、驚いて逃げる兄サマの舌も捕まえて、強引に絡め合わせた。

 くちゅ、と二人の間からいやらしい音がして、兄サマの顔がきつく歪む。それでもオレは自分が満足するまでそのキスをやめなかった。気の迷いだなんて言われた事に対する仕返しも含めて、思う存分兄サマを味わってやる。

「……っう……は、ぁっ……!」

 兄サマの呼吸の事なんかまるで無視して没頭して、オレが唇を離した瞬間兄サマは急に咳き込んだ。よっぽど苦しかったのか目に涙まで溜めて、肩で息をつきながら。そんな兄サマをオレは緩やかに抱きしめて、さっきと変わらない声で震えるその耳元にはっきりとこう言ってやる。

「何度でも言うよ兄サマ。気の迷いなんかじゃない。オレは兄サマが好きなんだ。何回でも、兄サマとしたい」
「……モク、バ」
「本当に兄サマがおかしいと思うなら、嫌だったら、どうしてあの時逃げなかったの?オレ、兄サマの事動けない様にした訳じゃないし、兄サマが本気になれば……ううん、本気にならなくてもオレの事位簡単に押しのけられた筈だよね?」
「………………」
「あの時に本気の抵抗もしないでオレに抱かれておいて、今更おかしいとかさ。おかしいのは兄サマでしょ。一回だけで終わりなんて、そんなの……させてくれない方が良かったよ!」

 一度貰った飴を取り上げられた子供みたいな言い分だけど、オレは間違った事は言ってないと思う。今更そんな事を言うのなら、一番最初に止めてくれれば良かったんだ。オレのその言葉に兄サマはもう何も言わずに、ただ黙って俯いてしまう。

 オレは兄サマを追い詰めたい訳でも何でもないけど、余りにも兄サマが勝手な事を言うから、つい思った事を全部言ってしまった。オレの言う事だって大概自分勝手な我侭だけれど兄サマはそこは何も言わなかった。言う気力も今は無いのかもしれない。

 あぁ、でも兄サマ。オレが一番聞きたいのはそんな事じゃないんだ。

 おかしいとかおかしくないとかそういう事じゃなくて、兄サマがオレとのセックスをどう思ったのか、それが知りたい。

 兄サマは単純にモラルの問題から嫌だと言ったのか、セックス自体が嫌だったからもうしないって言ったのか。後者だったらオレもさすがに諦めるけど、そうじゃなければオレは諦める事なんて出来ない。

 ……出来ないよ、きっと。

 オレ達は暫くそのままの姿勢でじっと黙っていた。兄サマは身を硬くして、オレも兄サマの身体から手を離すタイミングを失って、腕で肩を柔らかく包み込んだそのままで。けれどその時間は余り長くは続かなかった。先に少しだけ身じろいだ兄サマが、殆ど力の篭らない手でオレの身体を押しのける様に軽く押したからだ。それにオレは素直に応えて、兄サマの身体から手を離して少しだけ距離を置いた。

 俯いた顔は、まだ上がらない。

「兄サマ」
「今日はもう帰れ、モクバ。今何を話しても多分、無駄だ」
「……無駄って……無駄なんかじゃ……!」
「お前は冷静さを失ってる。少し一人になって真剣に考えてみろ。……オレも考える」
「何回考えたって同じ事だよ。それこそ、時間の無駄にしか……!」
「それでも、時間は必要だ。……オレはお前と距離を置きたい」
「今日も帰って来ないつもりなの?オレがいるから?」
「……ああ」
「じゃあいつ帰ってくるの?兄サマはオレが兄サマの欲しい答えを出さない限り、帰って来ないつもりでしょ。そんなのズルイよ!フェアじゃない!」
「そんな事はしない」
「するよ。兄サマは絶対そうするんだ。……でも、確かに今はもう駄目だね。兄サマ、オレの話を聞いてくれるつもり、ないもんね」
「………………」
「……分かった。今日はもう帰るよ。でもオレは兄サマの思い通りになんかならない。自分に嘘を吐いてまでいい弟でいるつもりないから!」
「モクバ!」
「好きだよ兄サマ。本当に……好きなんだ!」

 最後に叩き付ける様に何度も同じ言葉を繰り返して、オレは直ぐに兄サマに背を向けて休憩室を飛び出した。扉が閉まる瞬間、兄サマが何か叫んだみたいだけど、それを遮る様に勢い良く扉を閉めて全速力で駆け出してしまう。すれ違う社員が驚いた顔をしてオレの名前を呼ぶけれど、そんなものに構ってる余裕なんかなかった。

 長い廊下を脇目も振らずに走って研究員用の小さな出入り口から外に出る。外はもう既に真っ暗で、雲一つない空には星が転々と光っていた。それを一瞬だけ見上げたオレは再び走って敷地内を駆け抜けると、人通りの少ない公園へ続く裏道へと向かった。歩いて家に帰る時にいつも利用するその道はもう時間も時間だったから犬の散歩をする人がぽつぽつといるだけで本当に静かだった。

 そこで漸くオレは走る事を止めて立ち止まる。

「…………っ」

 暗闇の中一人でぽつんと立ち尽くしていると、なんだか急に悲しくなって目の奥が熱くなる。悲しいというより、悔しかった。

……こんな筈じゃなかったのに。どうして兄サマはオレの気持ちを分かってくれないんだろう。そう思えば思うほど色んな後悔が沸いて出てきて止まらなくなってしまった。

 分かってる。悪いのは兄サマじゃない。兄サマに勝手にそういう気持ちを持ってしまったオレの方が悪いんだ。

 けれど、そんなオレの気持ちも知らずに無防備な格好で部屋に来て、オレを抱き締めたのは兄サマだ。兄サマがあんな事をしなければ、オレはまだ自分を抑えている事が出来た。それこそ兄サマが言う様に一時の気の迷いだったと自分に思い込ませてこの気持ちをどこかに流す事も出来たのかもしれない。

 ……それが本当に出来たかどうかは、今となっては分からないけれど。

 ああもう、本当に馬鹿なのはオレの方だ。もう何を言ったって幾ら後悔をしたってどうにもならない事なんて知っているのに。

 気付かなければ良かった、こんな気持ちに。知らなければ良かった、兄サマの身体の心地よさを。けれど、気付いてしまったら見ないフリは出来ないし、覚えてしまったら忘れる事なんて出来ない。欲しい物を一つ手に入れるともっと欲しくなるのは人間の悪い癖だと先生が何かの授業で言っていた気がする。本当に、その通りだ。

 じわりと溢れそうな涙を堪える為に、オレはきつく奥歯を噛み締める。けれど身体はいう事を聞かなくて結局溢れてしまったそれは頬を伝って落ちていく。

 暖かなそれを握り締めた拳で拭いながら、オレはこんな時にまで『あの日』兄サマが流した今のオレとは全く違う意味の暖かな涙を思い出して、酷く胸が痛くなった。