「あ、海馬くんおはよう!朝から学校に来るなんて珍しいね?」
「……ああ」
「……なんか、元気ないみたいだけど、どこか体の具合でも悪いの?目の下うっすら隈が出来てるけど」
「別に。体調に問題はない」
「そう、ならいいけど。あ、でも今日は体育も移動教室もないからラッキーだったね。あ、一時限目の英語で小テストがあるって言ってたけど……海馬くんには関係ないか」
「そうか」
「やっぱり、調子悪いんじゃないの?具合が悪かったら無理しないで保健室に行った方がいいよ。そういえばさっき城之内くんも風邪引いたとかなんとかで、早速寝に行っちゃったみたい」
「凡骨が?」
「うん。後で様子見に行ってみるけどね」
じゃあ、僕はテスト勉強があるから。そう言って遊戯は早々にオレの席から離れ、自席へと向かう。その後姿を眺めながらオレは知らず大きな溜息を吐いていた。周囲のざわめきが酷く耳障りに感じる。鞄に入れていた筆記用具を取り出す為に少し身体を動かすと、頭の芯に鈍い痛みが走った。
遊戯には問題ないと素っ気無く言い捨てたものの、実際体調は最悪だった。それは何か病を患ったとかそういう事ではなく、単に精神的な事から来る不調だった。オレの頭を痛めているのは勿論モクバとのあの事だ。
世間一般で言うその『悩み事』のお陰で、正味一週間以上余り寝る事も出来ず時間を持て余し、屋敷に帰るのが苦痛で会社に留まり、特に急ぎでもないのに根を詰めて徹夜で作業を繰り返せばいかに丈夫な人間だろうと多少のガタが来る。先日はついにそのモクバと言い争いまでしてしまった。
そんな状態で何も学校になど来る必要は無いのだが、会社にいても特にする事は無くなってしまい、何時またモクバがやって来るか分からない状況で戦々恐々としているのも馬鹿馬鹿しいと思ったオレは、丁度前回登校してから一月が経とうとしていた事に気付き、ここに足が向くに至ったのだ。学校などつまらない場所には違いなかったが、少し位は気分転換が出来るだろう、そう思って。
『何度でも言うよ兄サマ。気の迷いなんかじゃない。オレは兄サマが好きなんだ。何回でも、兄サマとしたい』
『何回考えたって同じ事だよ。それこそ、時間の無駄にしかならないと思う』
数日前、モクバと口論した際に投げ付けられた数々の言葉。
あの時のモクバの顔は確かに至極真剣だった。モクバの言う事は分かっている。大真面目な気持ちだという事も、知っている。だからこそオレは頭を痛めているのだ。
これが感情論でなければもっと問題は簡単だった。どんなものでも対処法があれば多少難しくても解決は出来る。けれどこればかりはオレ一人でどうこう出来る問題ではない。その原因の大半がモクバの内面に起因するものだからだ。
身内から湧き上がる感情を気力で押し殺す事など到底できない。理屈でどうにかなるのなら、とっくに解決しているだろう。そもそも、それが出来ていたならばモクバとてオレにあんな真似はしなかっただろう。
『本当に兄サマがおかしいと思うなら、嫌だったら、どうしてあの時逃げなかったの?オレ、兄サマの事動けない様にした訳じゃないし、兄サマが本気になれば……ううん、本気にならなくてもオレの事位簡単に押しのけられた筈だよね?』
『あの時に本気の抵抗もしないでオレに抱かれておいて、今更おかしいとかさ。おかしいのは兄サマでしょ。一回だけで終わりなんて、そんなの……させてくれない方が良かったよ!』
……確かに、知らなかったとは言えモクバにそれを『させて』しまったのはオレの落ち度だ。モクバの言う通り、体格や腕力の差から言って突き飛ばして逃げ出す事は十分に可能だった。だがオレはそれが出来なかった。どうして出来なかったと問われても……オレにすらその答えは分からない。
ただ一つだけ言えるのは、本当に拒む気があったのならそうしていただろうと言う事だけだ。それをしなかったと言う事は……。
いや、問題なのはそこでもない。一番重要なのはこれからどうすればいいかだ。逃げてばかりいてもどうにもならない事など分かっている。けれど何も解決しないまま顔を合わせてもこの間の繰り返しになるだけだ。何も変わらない。
出来ればこんな事でもう無駄な争いをしたくなかった。オレが望むのは以前の何もない普通の兄弟関係に戻る事、ただそれだけだ。
しかしモクバはきっと戻れないと言うだろう、オレとて戻りたいと思っても戻れないだろうという事は分かる。だから、どうすればいいのか分からなくなる。幾ら考えても答えは出ない。
何時の間にか授業開始のチャイムが鳴り響き、ざわめきが一層大きくなっていた。不意に視線をあげると整然と言うには些か雑多に並べられた席に生徒は皆着席し、小テストとやらの勉強を今頃している様だった。
ぎっしりと教室中を埋め尽くす学ランの紺とブレザーのピンクが息苦しいと思ったその時、たった一つだけ空いた席に目が留まった。
それは、遊戯が先程口にした通り、登校早々保健室へと消えたらしい城之内の席だった。
「あれ?海馬くん、やっぱり保健室、行く事にしたの?それとも帰る?」
「いや、保健室に……」
「僕も今から城之内くんの所に行こうと思ってたから、一緒に行く?」
「授業はどうするのだ」
「次は現国だからちょっとぐらい遅れたって怒られないよ。じゃ、早く行こ?」
三時限目終了直後、少しも耳に入らなかった授業に辟易したオレは、早々に机上を片付けると教室を脱しようと考えた。どうせこの調子ではここに居たとしても単なる時間の浪費にしかならないし、同じ時間を過ごすなら保健室で寝て過ごした方が有益だからと考えたからだ。先客として城之内がいるのが少しだけ気がかりだったが、風邪を引いて寝ているのならば人の邪魔はしないだろう。
そう思いつつオレが席を立ち、後ろの扉から廊下に出たその時、丁度遊戯も前方の扉から出て来てオレの方へ身体を向けた。遊戯は直ぐにオレに目を止め、小走りで駆け寄って来る。そして保健室へ行くのか、行くのなら連れて行ってあげるよ、と言って来た。オレには遊戯の申し出を断る理由がなかったので、無遠慮に握られた手首に抗議はしたものの、それ以上は特に抵抗もせず共に保健室へと向かった。
一階の東側の一番奥に位置するその部屋は、その実入るのは初めてで、そういえば場所も曖昧だった事に気づく。遊戯がいかにもといった感じの白いスライド式の扉を押し開けると、つんと薬品の匂いが鼻についた。
室内は静かで、物音一つしない。寝台は奥に二つあり、遊戯が言うには向かって左側が男子用、右側が女子用に分かれていて、その内の一つ……左側の窓際の方の寝台が膨らんでいる事からあれが城之内なのだろう。仕切りのカーテンは何故か存在していなかった。硝子窓の向こうはどんよりとした雲空で今にも雨が降りそうな様相だ。
「……城之内くん?大丈夫」
不意に何時の間にかオレの手を離し寝台へと歩んで行った遊戯が膨らみに手をかけて小さく声をかけていた。それにうーだのあーだの聞き慣れた不明瞭な返事が返っていた事から、城之内は起きてはいるらしい。オレはそのやり取りには一切関わらず、空いている隣のベッドに腰かけた後、上着を脱いで横になろうとした。すると、遊戯が突然後ろを向いてオレの存在を城之内に伝えてしまう。
「今ね、海馬くんもちょっと調子悪いって保健室に来てるんだ。きみの隣で寝てると思うから」
「……へ?海馬?」
「うん。あ、チャイム鳴っちゃった。じゃあ僕授業に戻るから。辛かったら帰った方がいいよ」
「あー、うん。サンキュー」
「じゃ、海馬くんも。無理しないでね」
最後にそう言ってオレにもにこりと笑みを見せた遊戯は、そのまま保健室を後にした。軽い足音が徐々に遠ざかって行く。完全に取り残された形となったオレは、水を向けられた所為で視線を投げ付けられる事となった真横にいる城之内をちらりと見て、知らず大きな溜息を吐いた。そのまま無視して寝てしまおうかとも思ったが、それよりも早く城之内が口を開いてしまう。
「保健室とか珍しいじゃん。どした?お前も風邪っぴき?」
「別に。少々睡眠不足だから寝に来ただけだ」
「学校に出席日数稼ぎに来てる奴が保健室登校とか笑えないだろ。真面目にやれよ。まぁ、確かに顔色あんまし良くねぇけど。そういやこの間も疲れてるみたいだったし」
「……煩いな。貴様には関係ないだろうが。病人は黙って寝ていろ」
「人の隣陣取っておいて煩いとか。嫌なら帰ればいいだろ」
「人の勝手だろう。貴様こそ帰れ」
「オレは帰っても誰もいないから先生のいるここで寝てる方がいいんです。ほっとけ」
「………………」
「あれ、何で黙んの?」
「寝る」
「寝るなよ」
「オレは寝に来たと言ってるだろうが。黙れ」
「三時間寝たら大分スッキリしちゃって。元々熱もちょっとしかなかったし」
「ならば授業に戻れ」
「嫌だ。面倒」
「とにかく黙れ、煩い」
「ちぇ」
なんだよお前愛想ねぇな。とかなんとか背後でぶつぶつと呟く声を無視する形でオレはベッドに横になり、目を閉じた。眠気は余り無かったが、絶対安全だと感じる場所にいるとやはり少し安らぐのか、身体が自然と休息を欲していた。が、直ぐ後ろの気配はまだ諦めずにオレを見ているようだった。
「なぁ、海馬」
「……煩い」
「だから煩いなら帰れっつーの」
「帰りたくない」
「はい?」
「だから、家にも社にも居たくないからここにいるのだ。分かったら黙れ」
「はぁ?なんで?」
「………………」
「なんでだよ。仕事でトラブルでも……あーだと家は関係ねぇよな。じゃあ家でなんかあったとか?」
「………………」
「あ、分かった。モクバと喧嘩でもしたんだろお前。帰りたくないとかガキかよ。しっかりしろよお兄ちゃん」
「煩いわ!黙れと言ってるのが分からんのか!」
「なんだ図星かー分かり安っ!何々、何で喧嘩したの?オレ相談に乗ってやろうか?」
「……貴様面白がっているだけだろう」
「うん。面白がってるけど、真面目に聞いてやる気もあるぜ?兄弟喧嘩と聞いちゃあ黙っていられないからな。どーせお前の事だからこういう事話す相手もいないんだろ。一人で悩んでても、駄目はものは駄目だしさ。第三者の意見って必要だろ、やっぱ」
何時の間にかオレも城之内も身を起こし、互いの顔を眺めている形になった。
最初は風邪を引いた病人らしく少し掠れ声だった城之内の声も何時の間にか普段の調子を取り戻していて、少し頬に赤みが差している以外は元気そのものだ。オレが奴の言葉に返事を返さないでいると、身を乗り出してまで同じ事を言って来る。
そんな城之内の顔を見つめながら、オレはふと『あの日』の次の日、会社でこいつと会った事を思い出した。あの時は未だ混乱から立ち直る事が出来ず、らしくなくこの男に助けを求めてしまったが、敢え無く失敗に終わってしまった。
そして今日もある意味状況はあの時と少しも変わっていない。否、むしろ悪い方向へと傾いている。
そんな時に再びこの男と顔を合わせた事実。勿論全てが偶然の成せる技だが、今現在は精神的に疲弊している所為か、それがどうしても偶然とは思えなかった。普段のオレなら鼻で笑い飛ばしてしまいそうな考えだったが、今のオレにはそれすらも救いに思えたのだ。
例え興味半分であろうがなんだろうが、藁をも掴みたい気持ちの今、こんな男でも手を差し伸べてくれるのであれば、素直にそれに乗るのも必要なのかも知れない。どの道このまま一人で悩んだとしても、解決策など浮かびようがないのだから。
しかし、その内容が内容故に慎重にならなければならなくて、そこでやはり気持ちが躊躇してしまう。幾ら城之内でも、事実を聞いたら引くに決まっているのだ。例えどうでもいい人間にであっても、気色が悪いとか変態とか、頭がおかしいとか罵られたらダメージを受ける。……一体どうするのが得策なのだろう。
「そんなに黙るほど深刻な事なのかよ」
「……深刻、というか……」
「お前らの事だからそんじょそこらの下らない喧嘩じゃなくって、もっとスケールのデカい凄い奴やらかしたんだろ。別に何聞いても今更ビビんねぇから話してみろよ。な?」
オレが長い間、どう切り出すか悩んで黙っていると、焦れた城之内が更に距離を縮めてそう言って来た。その表情には先程までの面白がる様子は殆どなく、やけに真剣な眼差しでオレを見ている。ここまで来ると、もう何でもないと引き下がるのも不自然な気がして、オレは一瞬口を硬く閉ざして考えた後、漸く腹を決めて、奴のおせっかいレベルの親切心に縋る事にした。
「……何を聞いても驚かないと約束できるか?それと、絶対に他言無用だという事も」
「うん。オレ、こうみえても口は堅い方なんだぜ。絶対人には言わねェ、約束する」
「……絶対だぞ」
「しつこいなー大丈夫だって。早く言えよ」
「……だが、ここでは無理だ。誰が入ってくるか分からんからな」
「……そんなに警戒しなきゃなんねぇ話?」
「………………」
「そうなのね。うーん、確かにここ鍵かかんねぇしなぁ」
当たり前だ。ここはあくまで学校の保健室で、扉の向こうには常に人の気配がする。こんな場所でかなりデリケートな話をするのはさすがのオレも戸惑われた。それを素直に城之内に言うと、奴は暫し眉を寄せて一瞬考える素振りを見せた後、直ぐにぱっと顔を上げて近間に放り投げてあった自分の上着を手に取った。
「よし、じゃあさ。早退しようぜ。んで、オレん家に来い」
「は?」
「今日どうせ親父いねぇし、ついでにお前泊まってけよ。家に帰りたくないんだろ?オレも風邪引いてっから誰かに一晩位いて貰いたいし。どっちにしても今日本田に看病に来いって言うつもりだったから丁度いいや」
「………………」
「な?別になんも不都合ねぇだろ?家だとゆっくり話も出来るしさ」
城之内はオレの反応などお構いなしにそう一気に捲くし立てると、さっさとベッドから降りてオレの手を強く掴んだ。その誘いに断る言葉を持たなかったオレは、直ぐにその手に従う様に同じく脱ぎ捨てた上着を手に取って床に足をつけてしまう。
程無くしてオレ達は早退の旨を保健室の利用者ノートに書き記すと、連れ立って学校を後にした。
妙な事になったと思ったが、それでも、大分気持ちは楽になる様な気がした。