海馬兄弟の憂鬱 Act3(Side.瀬人)

「あ、海馬くんおはよう!朝から学校に来るなんて珍しいね?」
「……ああ」
「……なんか、元気ないみたいだけど、どこか体の具合でも悪いの?目の下うっすら隈が出来てるけど」
「別に。体調に問題はない」
「そう、ならいいけど。あ、でも今日は体育も移動教室もないからラッキーだったね。あ、一時限目の英語で小テストがあるって言ってたけど……海馬くんには関係ないか」
「そうか」
「やっぱり、調子悪いんじゃないの?具合が悪かったら無理しないで保健室に行った方がいいよ。そういえばさっき城之内くんも風邪引いたとかなんとかで、早速寝に行っちゃったみたい」
「凡骨が?」
「うん。後で様子見に行ってみるけどね」

 じゃあ、僕はテスト勉強があるから。そう言って遊戯は早々にオレの席から離れ、自席へと向かう。その後姿を眺めながらオレは知らず大きな溜息を吐いていた。周囲のざわめきが酷く耳障りに感じる。鞄に入れていた筆記用具を取り出す為に少し身体を動かすと、頭の芯に鈍い痛みが走った。

 遊戯には問題ないと素っ気無く言い捨てたものの、実際体調は最悪だった。それは何か病を患ったとかそういう事ではなく、単に精神的な事から来る不調だった。オレの頭を痛めているのは勿論モクバとのあの事だ。

 世間一般で言うその『悩み事』のお陰で、正味一週間以上余り寝る事も出来ず時間を持て余し、屋敷に帰るのが苦痛で会社に留まり、特に急ぎでもないのに根を詰めて徹夜で作業を繰り返せばいかに丈夫な人間だろうと多少のガタが来る。先日はついにそのモクバと言い争いまでしてしまった。

 そんな状態で何も学校になど来る必要は無いのだが、会社にいても特にする事は無くなってしまい、何時またモクバがやって来るか分からない状況で戦々恐々としているのも馬鹿馬鹿しいと思ったオレは、丁度前回登校してから一月が経とうとしていた事に気付き、ここに足が向くに至ったのだ。学校などつまらない場所には違いなかったが、少し位は気分転換が出来るだろう、そう思って。
 

『何度でも言うよ兄サマ。気の迷いなんかじゃない。オレは兄サマが好きなんだ。何回でも、兄サマとしたい』

『何回考えたって同じ事だよ。それこそ、時間の無駄にしかならないと思う』
 

 数日前、モクバと口論した際に投げ付けられた数々の言葉。

あの時のモクバの顔は確かに至極真剣だった。モクバの言う事は分かっている。大真面目な気持ちだという事も、知っている。だからこそオレは頭を痛めているのだ。

 これが感情論でなければもっと問題は簡単だった。どんなものでも対処法があれば多少難しくても解決は出来る。けれどこればかりはオレ一人でどうこう出来る問題ではない。その原因の大半がモクバの内面に起因するものだからだ。

 身内から湧き上がる感情を気力で押し殺す事など到底できない。理屈でどうにかなるのなら、とっくに解決しているだろう。そもそも、それが出来ていたならばモクバとてオレにあんな真似はしなかっただろう。
 

『本当に兄サマがおかしいと思うなら、嫌だったら、どうしてあの時逃げなかったの?オレ、兄サマの事動けない様にした訳じゃないし、兄サマが本気になれば……ううん、本気にならなくてもオレの事位簡単に押しのけられた筈だよね?』

『あの時に本気の抵抗もしないでオレに抱かれておいて、今更おかしいとかさ。おかしいのは兄サマでしょ。一回だけで終わりなんて、そんなの……させてくれない方が良かったよ!』
 

 ……確かに、知らなかったとは言えモクバにそれを『させて』しまったのはオレの落ち度だ。モクバの言う通り、体格や腕力の差から言って突き飛ばして逃げ出す事は十分に可能だった。だがオレはそれが出来なかった。どうして出来なかったと問われても……オレにすらその答えは分からない。

 ただ一つだけ言えるのは、本当に拒む気があったのならそうしていただろうと言う事だけだ。それをしなかったと言う事は……。

 いや、問題なのはそこでもない。一番重要なのはこれからどうすればいいかだ。逃げてばかりいてもどうにもならない事など分かっている。けれど何も解決しないまま顔を合わせてもこの間の繰り返しになるだけだ。何も変わらない。

 出来ればこんな事でもう無駄な争いをしたくなかった。オレが望むのは以前の何もない普通の兄弟関係に戻る事、ただそれだけだ。  

 しかしモクバはきっと戻れないと言うだろう、オレとて戻りたいと思っても戻れないだろうという事は分かる。だから、どうすればいいのか分からなくなる。幾ら考えても答えは出ない。

 何時の間にか授業開始のチャイムが鳴り響き、ざわめきが一層大きくなっていた。不意に視線をあげると整然と言うには些か雑多に並べられた席に生徒は皆着席し、小テストとやらの勉強を今頃している様だった。 ぎっしりと教室中を埋め尽くす学ランの紺とブレザーのピンクが息苦しいと思ったその時、たった一つだけ空いた席に目が留まった。

 それは、遊戯が先程口にした通り、登校早々保健室へと消えたらしい城之内の席だった。
「あれ?海馬くん、やっぱり保健室、行く事にしたの?それとも帰る?」
「いや、保健室に……」
「僕も今から城之内くんの所に行こうと思ってたから、一緒に行く?」
「授業はどうするのだ」
「次は現国だからちょっとぐらい遅れたって怒られないよ。じゃ、早く行こ?」

 三時限目終了直後、少しも耳に入らなかった授業に辟易したオレは、早々に机上を片付けると教室を脱しようと考えた。どうせこの調子ではここに居たとしても単なる時間の浪費にしかならないし、同じ時間を過ごすなら保健室で寝て過ごした方が有益だからと考えたからだ。先客として城之内がいるのが少しだけ気がかりだったが、風邪を引いて寝ているのならば人の邪魔はしないだろう。

 そう思いつつオレが席を立ち、後ろの扉から廊下に出たその時、丁度遊戯も前方の扉から出て来てオレの方へ身体を向けた。遊戯は直ぐにオレに目を止め、小走りで駆け寄って来る。そして保健室へ行くのか、行くのなら連れて行ってあげるよ、と言って来た。オレには遊戯の申し出を断る理由がなかったので、無遠慮に握られた手首に抗議はしたものの、それ以上は特に抵抗もせず共に保健室へと向かった。

 一階の東側の一番奥に位置するその部屋は、その実入るのは初めてで、そういえば場所も曖昧だった事に気づく。遊戯がいかにもといった感じの白いスライド式の扉を押し開けると、つんと薬品の匂いが鼻についた。

 室内は静かで、物音一つしない。寝台は奥に二つあり、遊戯が言うには向かって左側が男子用、右側が女子用に分かれていて、その内の一つ……左側の窓際の方の寝台が膨らんでいる事からあれが城之内なのだろう。仕切りのカーテンは何故か存在していなかった。硝子窓の向こうはどんよりとした雲空で今にも雨が降りそうな様相だ。

「……城之内くん?大丈夫」

 不意に何時の間にかオレの手を離し寝台へと歩んで行った遊戯が膨らみに手をかけて小さく声をかけていた。それにうーだのあーだの聞き慣れた不明瞭な返事が返っていた事から、城之内は起きてはいるらしい。オレはそのやり取りには一切関わらず、空いている隣のベッドに腰かけた後、上着を脱いで横になろうとした。すると、遊戯が突然後ろを向いてオレの存在を城之内に伝えてしまう。

「今ね、海馬くんもちょっと調子悪いって保健室に来てるんだ。きみの隣で寝てると思うから」
「……へ?海馬?」
「うん。あ、チャイム鳴っちゃった。じゃあ僕授業に戻るから。辛かったら帰った方がいいよ」
「あー、うん。サンキュー」
「じゃ、海馬くんも。無理しないでね」

 最後にそう言ってオレにもにこりと笑みを見せた遊戯は、そのまま保健室を後にした。軽い足音が徐々に遠ざかって行く。完全に取り残された形となったオレは、水を向けられた所為で視線を投げ付けられる事となった真横にいる城之内をちらりと見て、知らず大きな溜息を吐いた。そのまま無視して寝てしまおうかとも思ったが、それよりも早く城之内が口を開いてしまう。

「保健室とか珍しいじゃん。どした?お前も風邪っぴき?」
「別に。少々睡眠不足だから寝に来ただけだ」
「学校に出席日数稼ぎに来てる奴が保健室登校とか笑えないだろ。真面目にやれよ。まぁ、確かに顔色あんまし良くねぇけど。そういやこの間も疲れてるみたいだったし」
「……煩いな。貴様には関係ないだろうが。病人は黙って寝ていろ」
「人の隣陣取っておいて煩いとか。嫌なら帰ればいいだろ」
「人の勝手だろう。貴様こそ帰れ」
「オレは帰っても誰もいないから先生のいるここで寝てる方がいいんです。ほっとけ」
「………………」
「あれ、何で黙んの?」
「寝る」
「寝るなよ」
「オレは寝に来たと言ってるだろうが。黙れ」
「三時間寝たら大分スッキリしちゃって。元々熱もちょっとしかなかったし」
「ならば授業に戻れ」
「嫌だ。面倒」
「とにかく黙れ、煩い」
「ちぇ」

 なんだよお前愛想ねぇな。とかなんとか背後でぶつぶつと呟く声を無視する形でオレはベッドに横になり、目を閉じた。眠気は余り無かったが、絶対安全だと感じる場所にいるとやはり少し安らぐのか、身体が自然と休息を欲していた。が、直ぐ後ろの気配はまだ諦めずにオレを見ているようだった。

「なぁ、海馬」
「……煩い」
「だから煩いなら帰れっつーの」
「帰りたくない」
「はい?」
「だから、家にも社にも居たくないからここにいるのだ。分かったら黙れ」
「はぁ?なんで?」
「………………」
「なんでだよ。仕事でトラブルでも……あーだと家は関係ねぇよな。じゃあ家でなんかあったとか?」
「………………」
「あ、分かった。モクバと喧嘩でもしたんだろお前。帰りたくないとかガキかよ。しっかりしろよお兄ちゃん」
「煩いわ!黙れと言ってるのが分からんのか!」
「なんだ図星かー分かり安っ!何々、何で喧嘩したの?オレ相談に乗ってやろうか?」
「……貴様面白がっているだけだろう」
「うん。面白がってるけど、真面目に聞いてやる気もあるぜ?兄弟喧嘩と聞いちゃあ黙っていられないからな。どーせお前の事だからこういう事話す相手もいないんだろ。一人で悩んでても、駄目はものは駄目だしさ。第三者の意見って必要だろ、やっぱ」

 何時の間にかオレも城之内も身を起こし、互いの顔を眺めている形になった。

 最初は風邪を引いた病人らしく少し掠れ声だった城之内の声も何時の間にか普段の調子を取り戻していて、少し頬に赤みが差している以外は元気そのものだ。オレが奴の言葉に返事を返さないでいると、身を乗り出してまで同じ事を言って来る。

 そんな城之内の顔を見つめながら、オレはふと『あの日』の次の日、会社でこいつと会った事を思い出した。あの時は未だ混乱から立ち直る事が出来ず、らしくなくこの男に助けを求めてしまったが、敢え無く失敗に終わってしまった。

 そして今日もある意味状況はあの時と少しも変わっていない。否、むしろ悪い方向へと傾いている。

 そんな時に再びこの男と顔を合わせた事実。勿論全てが偶然の成せる技だが、今現在は精神的に疲弊している所為か、それがどうしても偶然とは思えなかった。普段のオレなら鼻で笑い飛ばしてしまいそうな考えだったが、今のオレにはそれすらも救いに思えたのだ。

 例え興味半分であろうがなんだろうが、藁をも掴みたい気持ちの今、こんな男でも手を差し伸べてくれるのであれば、素直にそれに乗るのも必要なのかも知れない。どの道このまま一人で悩んだとしても、解決策など浮かびようがないのだから。

 しかし、その内容が内容故に慎重にならなければならなくて、そこでやはり気持ちが躊躇してしまう。幾ら城之内でも、事実を聞いたら引くに決まっているのだ。例えどうでもいい人間にであっても、気色が悪いとか変態とか、頭がおかしいとか罵られたらダメージを受ける。……一体どうするのが得策なのだろう。

「そんなに黙るほど深刻な事なのかよ」
「……深刻、というか……」
「お前らの事だからそんじょそこらの下らない喧嘩じゃなくって、もっとスケールのデカい凄い奴やらかしたんだろ。別に何聞いても今更ビビんねぇから話してみろよ。な?」

 オレが長い間、どう切り出すか悩んで黙っていると、焦れた城之内が更に距離を縮めてそう言って来た。その表情には先程までの面白がる様子は殆どなく、やけに真剣な眼差しでオレを見ている。ここまで来ると、もう何でもないと引き下がるのも不自然な気がして、オレは一瞬口を硬く閉ざして考えた後、漸く腹を決めて、奴のおせっかいレベルの親切心に縋る事にした。

「……何を聞いても驚かないと約束できるか?それと、絶対に他言無用だという事も」
「うん。オレ、こうみえても口は堅い方なんだぜ。絶対人には言わねェ、約束する」
「……絶対だぞ」
「しつこいなー大丈夫だって。早く言えよ」
「……だが、ここでは無理だ。誰が入ってくるか分からんからな」
「……そんなに警戒しなきゃなんねぇ話?」
「………………」
「そうなのね。うーん、確かにここ鍵かかんねぇしなぁ」

 当たり前だ。ここはあくまで学校の保健室で、扉の向こうには常に人の気配がする。こんな場所でかなりデリケートな話をするのはさすがのオレも戸惑われた。それを素直に城之内に言うと、奴は暫し眉を寄せて一瞬考える素振りを見せた後、直ぐにぱっと顔を上げて近間に放り投げてあった自分の上着を手に取った。

「よし、じゃあさ。早退しようぜ。んで、オレん家に来い」
「は?」
「今日どうせ親父いねぇし、ついでにお前泊まってけよ。家に帰りたくないんだろ?オレも風邪引いてっから誰かに一晩位いて貰いたいし。どっちにしても今日本田に看病に来いって言うつもりだったから丁度いいや」
「………………」
「な?別になんも不都合ねぇだろ?家だとゆっくり話も出来るしさ」

 城之内はオレの反応などお構いなしにそう一気に捲くし立てると、さっさとベッドから降りてオレの手を強く掴んだ。その誘いに断る言葉を持たなかったオレは、直ぐにその手に従う様に同じく脱ぎ捨てた上着を手に取って床に足をつけてしまう。

 程無くしてオレ達は早退の旨を保健室の利用者ノートに書き記すと、連れ立って学校を後にした。

 妙な事になったと思ったが、それでも、大分気持ちは楽になる様な気がした。

 

2


 
「まあ適当にその辺に座ってろよ。何か飲む?」
「何もいらない。調子が悪いのなら動かないでじっとしていろ」
「でもよー。あ、お前その格好じゃ窮屈じゃねぇ?オレの服貸してやろうか」
「余計な世話だ」
「制服皺になると面倒だろ。いいからこれ着とけ。ちゃんと洗ってるから心配すんな」
「……丈が足りないんだが」
「うるせぇ、我慢しやがれ。お、お前意外にパーカー似合うじゃん。なーんだ結構普通の格好しても変じゃねぇんだな」
「失礼な事を言うな凡骨が」
「だって、モクバはごく一般的な格好してんのに、お前普通の服着ないじゃん」

 何時の間にかすっかり城之内に丸め込まれる形で、学校を出た後買い物だと言ってコンビニに寄り、そのままドラッグストアを経由して奴の家に着くと、時刻は既に午後を大きく回っていた。

 元からかなり降雨の気配が強かった淀んだ空は、オレ達が家に入りドアを閉めると同時にぽつりぽつりと音を立てて降り始め、居間に腰を落ち着ける頃には土砂降りになっていた。城之内曰く今日は昼から雨の予報で、今夜から明日にかけて嵐になるらしいと今朝の天気予報で言っていたのだと言う。

 早めに帰ってきて良かったよな。そう言いながら、城之内は何もいらないというオレの言葉を無視する形でコンビニで買って来たインスタントコーヒーに湯を注いでいた。香ばしい匂いが煩い位に雨の音が響き渡る室内に仄かに漂う。

 奴に言われるまま着替えた白と青の上下のスウェットスーツは、常に窮屈な服を身に纏うオレにとっては新鮮な着心地で、緩やかな首周りや余り締め付けのない腰周りに、なるほど寛ぐには楽なものだと少々関心してしまう。ふと目線の先にある、似た様な形状で色違いのものを着ている城之内の事を眺めると、不意にモクバの事を思い出した。

 モクバもまた、こんな格好で邸内をうろついているのを見た事がある。つい最近まで寝る前に良くオレの元に顔を出して、他愛のない一日の出来事を簡潔に話して、お休みと言って帰って行くのが常だった。なんとなく戻るタイミングを逸した時はそのままオレのベッドで一緒に寝る事も多かった。

 何の他意もない、極自然な兄弟としての日常の光景。共に風呂に入る事も寝る事も、小さなキスや抱きしめ合う事も、オレの中では特にどうとも思わない事だったが、モクバにとってはそれは既に兄弟のスキンシップではなくなってしまったのだ。
 

 ……本当に迂闊だった。

 それに気付いていればオレとてあの時むやみに抱きしめたりはしなかったのに。
 

「── で?お前がそんな顔して悩んでる事って、一体何なの?」
「…………!」
「膝抱えてぼーっとしてんなよ。らしくないぜ」

 不意にコトリと陶器がテーブルに置かれる音と共に、見慣れた顔のアップが視界一杯に映り込んだ。驚いて顔を上げ身体ごと大きく後ずさる素振りをすると、オレの横に膝をついて顔を覗き込んでいたらしい城之内が、軽く笑い声を上げながらすぐ傍へと座り込んだ。その手には湯気を立てているコーヒーカップ。どうやら飲み物を淹れ終わり、戻って来たらしい。

 城之内は目線でオレの前に置いたオレ用らしいコーヒーカップを指し示すと、自らのカップを両手に持って冷ます為か大きく息を吹きかけていた。その間にも雨音は煩く鳴り響き、遠くの方で雷鳴らしき音まで聞こえて来る。

 沈黙が、降りて来る。

 オレは暫し城之内の事を眺めたまま、どう話を切り出そうか悩んでいた。事が事ゆえに、言い方によっては話を聞く気すら失わせてしまうかもしれないからだ。しかし、どんなに回りくどい言い方をした所で常識を逸した、ある種異常な話だと言う事は明白だったし、それに嫌悪や拒否感を抱くなと言う権利など勿論無い。

 目の前のこの男は他の人間よりは多少はその手の事に関する懐が広そうにも見えるが、それはあくまで外見から判断したイメージに過ぎず、実際の所はどうなのか見当も付かなかった。

 黙っている時間が長ければ長くなる程口を開くタイミングを失っていく。オレは内心溜息を吐くと、今の妙な雰囲気を紛らわそうと目の前のカップを取り上げた。そして大分冷めてオレの口には丁度いい温度になったコーヒーを一口飲み、意を決して目線を上げて城之内を見た。

「なんだよ。早く言えよ。兄弟喧嘩なんだろ?原因は何だったんだ?」
「……正確に言えば……兄弟喧嘩、ではない」
「あ?喧嘩じゃねぇの?でもお前家に帰りたくないって……モクバとなんかあったからそんな事言ってんだろ?」
「……ああ」
「喧嘩じゃねぇなら何だよ。一方的にお前がモクバになんか言われたとか?」
「違う」
「じゃあ何?あーもうハッキリしねぇなぁ!いいからズバッと言えよズバッと!」

 やはり直接的な言葉を自分から言うのを躊躇われて、オレは自分でも要領が得ないと思いつつ城之内の問いに答えていた。が、元々気が長い方ではない奴はそんなオレの態度に業を煮やし、ついには苛立った表情を見せるとカップをテーブルに叩きつける様に置き、ずいっと顔を近づけて来る。

 きつく寄せられた眉間の皺が更に深まる。このまま適当にはぐらかしていたら逆ギレしそうだ。そう思ったオレはついに観念する形でそれまでよりは大分抑えた声で単刀直入にこう言った。

「……モクバに、襲われた」
「は?襲……何?」
「セックス、したのだモクバと」
「……え?!」
「だからオレは……どうしたらいいか……悩んで……」

 目の前の顔が余りにも驚いて目を見開くものだから、オレは徐々に力を失って口すらも閉ざしてしまう。ああやはり言うのでは無かった。流石の城之内もこの事実には驚愕せざるを得ないだろう。瞬時にしてオレを見る目が変わってしまったに違いない。

 最低だ、頭がおかしい、気持ち悪い、お前何考えてんだ。閉ざす事も忘れたまま反応に戸惑って緩く開閉する口からそんな言葉が投げ付けられる瞬間に備えて少しだけ身を硬くしていると、意外にも城之内は徐々に表情を戻しながら改めてオレを見つめた。その眼差しに現時点では嫌悪は全く見られなかった。

「……モクバとヤッちまった?襲われたって事は……お前が、モクバに?」
「……そう、だ」
「突っ込まれたってか」
「げ、下品な言い方をするな貴様!」
「だってそうだろ、セックスしたって事はさ。っつーかお前等兄弟で何やってんだよ。何それ、なんかの遊び?や、遊びでもちょっと度が過ぎてると思うけど……」
「遊びや気の迷い程度なら悩みはしない!」
「え。っつー事はマジか。モクバ、マジでお前の事……だから襲って来たわけ」
「……そう、らしい。モクバは本気だと言った。だからまた……その、したい、と言って来て。オレが拒絶しても余り意味が……だから今、モクバと距離を置いている状態なのだ」
「そっかぁ」

 うーん、と一人小さく唸りながら、何故か妙に神妙な顔つきで頷く城之内の顔を、今度はオレが驚愕しつつ眺める番だった。何故ならこいつはオレの突拍子もない話に引く事は一切なく、むしろ真剣に話を聞いた上で、その答えを考えているからだ。

 これはこいつの懐が本当に広かったのか、それともこいつに一般的な常識が身についていないだけなのか。……どちらにしても罵られなかった事は、オレにとっては有り難い事だった。

 だが、そんな事は今のオレには然程救いにはならない。問題は、これからどうすればいいか、ただその一点だ。それを他人に尋ねるのは何か可笑しな気もしたが、自分一人で解決が出来ない以上仕方のない事だろう。

 オレはそのまま黙り込んでしまった城之内の様子をちらちらと伺いながら、その口から再び言葉が紡がれるの待っていた。もう少し時間が掛かるかと思っていたが、意外にも早く奴の言葉は再開される事になる。

「まぁ、色々と問題がねぇ訳じゃねぇけど…。とりあえず一個ずつな。襲われたっていうけど、お前はその時どうしてたの?まさかモクバが力づくでお前をレイプしたとか、そういうんじゃねぇよな?そこまではしねぇよな?」
「オレは……抵抗は、出来なかった。……いや、本当は、しなかったのかもしれない」
「かもしれない?」
「その時の事を詳細になど覚えているか!な、何が何だか分からない内にっ」
「でも、やろうと思えば出来た?」
「出来た、と思う。特に何かされた訳ではない」
「ふーん。じゃあどうしてしなかったんだよ。今こうして悩んでる位だからヤバイって事分かってたんだろ?幾ら急に襲われてビビッたからって、最後までそれが分かんねぇって事はないだろうが」
「それは……!」
「お前が本当に嫌で、そんな事は駄目だと思ったら、モクバ位簡単に跳ね除ける事が出来た筈だろ。それをしないで最後までヤらせておいて今更どうしようとか、それはねぇよ。そりゃモクバだって、一回ヤれたら次もって思うだろ普通。お前はOK出したも同じなんだぜ」
「………………」
「実際さ、お前は何に悩んでるわけ?オレはそこが知りたいんだけど」
「どういう意味だ」
「言葉通りだけど。ヤられたって事実に悩んでるのか、兄弟でそういう事するのがヤバイって事に悩んでるのか……そーゆー事。今の話じゃーそれが全然分かんねぇよ」

 まぁオレも実際そうなったら悩むんだろうけどな。そう言って軽く頭を掻きながら天井を睨んだ奴の顔を、オレはもうまともに見る事は出来なかった。

 何に悩んでいるか……改めてそう聞かれるとオレも暫し考えてしまう。そう言えば、モクバにも似た様な事で責められた事を思い出す。あの時もオレは明確な答えを出せず、ただ逃げる事を選択した。ひたすら拒絶する事で追求を避けたのだ。実際、きちんと答えを出せと言われても出せなかったから仕方のない事だったのだ。

 おかしいだろうこんな事。常識的に考えて。

 けれど、常識というものを抜きにしたら……相手の事が凄く好きで、セックスをしたくなるという事は、本当におかしいと言えるのだろうか?訳が分からない。

「何にって……全てにだ。男同士で、ましてや兄弟で、こんな事有り得ないだろう。していい訳がないだろうが」
「だったらなんでさせたんだって言ってんだよ。お前の言ってる事おかしいよ」
「だから!」
「だからじゃねぇよ。お前は言い訳ばっか口にして、いかにもモクバが悪いみたいな言い方するけど、モクバだって普通だったら男に、ましてや兄貴に対してそういう気持ちになんねぇだろ。それ考えてみろよ。お前にだって責任はあるだろ。っつーかお前が悪い!」
「なっ……」
「環境が環境だから多少はしょうがねぇかなって思ってたけど、大体お前等昔からスキンシップが過剰過ぎたんだよ。まあある程度までは別に問題ねぇけど、モクバがデカくなってきたら流石にヤバイだろ。どーせお前の事だから何にも考えねぇで一緒に風呂入ったり寝たりしてたんだろうが」
「だ、断定で話をするな。見てもいない癖に」
「大体分かるっつーの。あのな、いつまでも頭の中がガキのお前と違って、モクバはもうちゃんとオトナに足突っ込んでんだぜ。あいつと話をしてるとオレ等よりもずっとしっかりしてんじゃねぇか。それに気付いてんだか気付いてねぇんだか知らねぇけど、いつまでも昔と同じ扱いをするのは間違ってるとオレは思うね。だからそういう事になるんだろ。反省しとけ」
「………………」
「ほら、図星じゃねぇか。オレに説教されて泣くほど悔しいなら、こん位自分で考えて解決してみろっての」

 そう言うと、城之内はどう見ても取り込んだまま放りっ放しにしてあった洗濯物の山からタオルを一枚引っ張り出して、オレの手に投げて遣した。その乱雑な態度にオレの憤りは頂点に達したが、完膚なきまで正論で打ちのめされて、何時の間にか悔し涙が溢れてしまっているこの状況では抗議する事もままならなかった。

 悔しいが奴の言い分は全て正しい。確かに、言われてみればそうだったのだ。

 モクバがああいう事をしてしまうに至ったのには、必ずそうなるプロセスがあった筈であり、その原因の一端を……いや、ほぼ全てかもしれないが……作ってしまったのは多分オレ自身なのだ。城之内に指摘されなければ、多分気付きもしなかっただろう。確かに反省すべきはオレの方だ。何も言えない。

 投げ付けられた存外肌触りのいい清潔な匂いのするタオルを頬に当てると、少し心が落ち着く気がする。それは、その柔らかな感触の所為だけではなく、何時の間にか頭に無遠慮に乗せられた城之内の掌の温度がやけに心地いいからだった。

 これが常ならば思い切り撥ね付けて気安く触るなと怒鳴ってやる所だったが、この事にかなり神経をすり減らしていた今は逆にそれが嬉しかった。

 ……こんなものを嬉しいと感じる時点で、確かにガキと呼ばれても仕方がないのかもしれないが。

「でもさ、過ぎた事をとやかく言ってもしょうがねぇよな。問題なのはこれからどうするか、だろ」
「……どうするかって、どうすればいいのだ」
「それこそオレが決める事じゃないじゃん。お前はどうしたいの?常識とかそういうの抜きにして『お前自身は』どうしたいかだよ」
「オレは」
「モクバに抱かれた事がすげぇ嫌で、今度同じ事をされたら死ぬ、とかいうんならそれこそ何を犠牲にしても拒否らなきゃいけないと思うけど。そうじゃなくて、ただモラルの問題とかなら、オレはそこまで真剣に考えなくてもいいと思うぜ」
「……は?……貴様、先程から意見が錯綜してないか?」
「してねぇよ?オレが問題にしてるのは、お前が嫌か嫌じゃないかって事。嫌じゃないなら、何も逃げる事ないんじゃね?兄弟でヤってようが誰かに迷惑かける訳でもなし、本人達がいいならそれでいいじゃん」
「だが、モクバが……」
「そのモクバがヤりてぇって言ってんだからしょうがないじゃん。今更なかった事になんてできねぇし。ヤってない内ならまだ軌道修正できたかもしんねぇけど、もう遅いし。後は間違った方向に突っ走らない様にすりゃー大丈夫だとオレは思う。中身はどうであれとりあえずまだガキだし、もっとデカくなったら落ち着いて普通に戻るかもしれないし。その辺は長い目で見てみたら」
「そ、そんな簡単に……他人事だと思って適当な事を言ってるんじゃないだろうな」
「だって簡単な話だもん。お前が難しく考え過ぎるんだよ。そんな基本的な事に頭悩ます前に、これからどうやって周囲にバレない様にするかとか、そっちの方に神経使った方がいいんじゃね。お前隠し事下手だから微妙に心配なんだけど」
「………………」
「まぁ、オレが仮に同じ様に静香とそうなりそうになったとしたら、死ぬ気で拒否るけどね。オレは妹にそういう気、全然ないし。でも、もし少しでもあったならガードが甘くなっちまうかも知れねぇ。そういうもんだ」

 男だとか、兄弟だとか、そんなものが二の次になる位好きになるって事、普通にあるし。

 そう言うと、奴はまるで小さい子供にするかの様な仕草でオレの頭の撫で回すと、それまで見せていた妙に真面目な表情を改めて、いつもの腑抜けた笑い顔を見せてこう言った。

「── で、初体験はどうだった?可愛い顔してあいつのものすごーく立派だったりして。痛かっただろうなぁ。もしかしてそれがもうしたくない原因だったりしてー」
「なっ?!ふざけるなッ!」
「あはは。ま、そんなに悩む事もないんじゃね。案外何とかなるもんだぜ、そういうの」
「貴様に相談したのがそもそもの間違いだったわ!」
「まぁそう言わないで。また何かあったら聞いてやっからよ。とりあえず、寝不足なら寝たらいいんじゃね。オレもちょっとダルいから寝るし。あ、ちなみに布団オレの一組しかないから、寝るなら一緒な」
「ちょ、なんだそれは!」
「大丈夫大丈夫。オレお前にそういう気持ちぜーんぜん無いから。一緒に風呂入ってもいーよ」
「誰が入るか!死ね!」
「まぁまぁ落ち着いて。それとも、今帰る?」
「………………」
「じゃあ決まりって事で。布団、隣の部屋にあるから勝手に寝てていーぜ。オレちょっと昼飯食ってから寝るから」
「敷きっぱなしか!」
「細かい事気にすんなー」

 そういうと、城之内は空になったカップを二つ携えて、直ぐ前にあるキッチンへと消えていく。 一人取り残される形となったオレは、少し安心した所為か確かに眠気を訴える身体の欲求に素直に従い、指し示された隣室へと入り込み、どう見ても奴が今朝起き出したままで放置されている布団へと潜り込んで目を閉じた。

 まさか城之内に肯定されてしまうとは思わなかったが、確かにここまで来てしまうとどう足掻いてもなる様にしかならないのだ。どんなに逃げ続けたところで、いつかはモクバと顔を合わせなければならないのだし、幾らオレが拒否をしてもモクバの気持ちが変わらない限りどうする事も出来ないのだ。

 そして、オレは行為自体に関しては嫌ではなかった。……と言う事はこれから取るべき行動は多分、一つだ。そんな諦めにも似た気持ちで取り留めも無い事を考えていたオレは、何時しかうとうとと微睡み、そして本格的に寝入ってしまった。

 その眠りにつく一瞬、隣の部屋で城之内が誰かと話していたようだったが、眠りの内に聞いていた所為でよく分からなかった。
 

 ── そして、数時間後。
 

「おはよう兄サマ。って、もう夜なんだけど……良く眠れた?」  

 布団の中で寝汚く転がっていたオレの視界に、随分と久しぶりにモクバの顔が映り込んだ。何事だと思い驚いて飛び起きたオレの目の前には、夢でもなんでもなく本当にモクバ本人が佇んでいた。ぐるりと当たりを見回してもやはりここは城之内の家で、オレが寝ていたのは城之内の布団だった。なのに何故、ここにモクバがいるのだろう。

「モ、モクバ……何故、ここに……!」
「城之内に兄サマを保護してるからって電話貰ってさ、オレ、迎えに来たんだ。結構前からいたんだけど、兄サマぐっすり眠ってたみたいだから起こすのも可哀想かなって思って、起きるの待ってた」
「………………」
「一緒に帰ろう、兄サマ。帰って、話をしよう。ちゃんと話をしなきゃ駄目だって、オレも城之内に怒られたんだぜ」
「何?」
「……オレ、外で待ってるから。すぐ前のコンビニ。あそこにいる」
「モクバ」
「ごめんね、兄サマ」

 直ぐ傍に立ち尽くしたまま、オレに触れもしないでそう言うと、モクバは踵を返して部屋の外へと出て行った。そこで城之内とニ三言言葉を交わしていた様だったが、その声は直ぐに消え、玄関の扉が閉まる音が聞こえる。本当に、外に出て行ってしまったらしい。

 オレは暫し呆然として少しだけ開いた扉から漏れる光を眺めていたが、やがてのろのろと身体を起こし、明るい隣室へと歩いて行く。そこには、先程と同じ様相の城之内が大分寛いだ様子でテレビを見ていて、オレが扉を閉めた瞬間くるりと振り返り、傍の柱を指差して「制服はそこ」と素っ気無く言った。目線で追うと、確かにそこにはご丁寧にも上下きちんとハンガーに通したオレの制服が掛かっていた。

 オレは小さな溜息を一つ吐くと制服を手に取り、その場で無造作に着替えだす。脱ぎ捨てたスウェットスーツがぱさりと小さな音を立てて床に落ちる。仄かな温もりが瞬時に消えて酷く肌寒く感じた。

「……貴様が呼んだのか」
「うん。お前デカいから一緒に寝るのちょっと窮屈だったし。連絡したらモクバの奴直ぐに飛んで来たから」
「………………」
「結局、幾ら時間をかけて考えたって答えなんて出ねぇから。逃げてねぇでちゃんと話し合え。それでまたトラブったら、避難所位にはなってやっから」

 ただし、説教はするけどな。

 そう言って奴は大きく欠伸をすると、もう眠いから早く行け、とオレを追い立てた。学ランのボタンをきっちりと上まで留めて脱ぎ捨てた服をきちんとその場に畳んでしまうと、オレはその背に何か言葉をかけなければならない、と一瞬動きを止める。けれど素直に礼を言うのも妙に気恥ずかしく、結局何も言えずに奴に背を向けた。

「気を付けて帰れよ。外雨降ってっから。その青い傘、モクバがお前にって持ってきた奴だから差していけ」
「……世話になったな」
「今度昼飯おごってくれたらチャラにしてやるよ。頑張れ、お兄ちゃん」

 その声を最後にオレは奴の家を後にした。外に出ると途端に湿った冷たい空気が身を包み、急に寒さを感じて立ち竦む。目の前には、モクバが待つと言っていたコンビニの明かりがぼんやりと光っていた。

 意を決して、一歩足を踏み出した。途端に頭に降りかかる雨を避ける為に傘を差す。ぱらぱらと雨を弾く軽快な音が闇夜に響いて消えていく。

 オレは深い深い溜息を一つ吐くと、漸く顔を上げて歩き出す。
 

 長い間離れていた、モクバの元へ。