Rainy Birthday

 その日は朝から酷い雨だった。振り落ちてくる雨粒の一つ一つがまるで鋭い針の様に頬に突き刺さり、冷たさよりも痛みを感じるような、そんな週明け。瀬人は少し憂鬱な気分で校門よりも大分離れた位置に止めた車から降り、見送る運転手を振り返りもせず傘を片手にゆっくりと歩き出した。時刻はもう午後に近いというのに、空は夕方の様に暗い。

 不愉快な天気だ。そう一人ごちた所でどうにかなる訳でもない。

 大昔に舗装されたきり放置されている古い道路はガタガタで、あちこちに水溜まりが出来ていた。少しでも気を抜けば溜まった泥水の中に足を踏み入れて汚しかねない。瀬人が他の学校と同じ暗色系統の学ランを着ていればさほどの問題はなかったが、彼が纏っているのは目にも眩しい純白の学生服。諸事情でここ童実野高校に転校して間もない為、未だ制服が出来ていなかったからだ。

 彼が普通の体型であればそんな事はなかったが、少しばかり高すぎる身長とその上背に見合わない細身の身体に合うサイズは無かった。故に、仕方なく前の学園の制服をそのまま着続けている。お陰ですれ違う人間に悉く奇異の目で見られたが、余り気にはしていなかった。瀬人にとって他人の視線などどのようなものであれ、空気の様なものでしかない。

 少し後方に控える、身内である筈の運転手すらそうだ。誰もが瀬人にとってはただの他人に過ぎなかった。利用できるか否か。そこに信頼や愛情など持てる筈がない。彼が生きて来た短い人生の中で心の奥底にまで染み込んでしまったのは、余りにも残酷で、そして冷たい感情だった。

 ざあざあと、強い雨が大地を叩く。横殴りのそれは垂直に差している傘の防護範囲を嘲笑うように通り抜け、既に瀬人を濡れ鼠にしていた。こうなると、傘などまるで無意味だ。大体何故自分がこんなものを差して歩かなければならないのだろう。馬鹿馬鹿しい。そんな下らない感情をいとも簡単に燻らせた彼は、持っていた傘の柄を手放そうと、既に悴んで動かない右手を軽く翻した。

 バシャリと、泥水の中に多分高級であろう傘が落ちて沈む。高校生が差すにしては少しだけ大人っぽい、しかし彼にはよく似合う濃い藍色のそれは投げ捨てられても尚綺麗だった。泥に染まる事はなく、この薄暗がりの中でも鮮やかな色彩を保っている。

 その事に、何故か酷く腹が立った。憎しみすら抱く程に。

「瀬人様!」

 遠くで、その行為を見ていたのだろう運転手の叫び声が聞こえる。雨音に紛れて殆ど聞き取れないが確実に咎める言葉も吐き出された。同時に響く鈍い足音。この雨の中、叫んだ彼もまたずぶ濡れになっているのだろう。勿論、そんな事はどうでもいい事だったが。

 捨てられた、真新しい藍色の傘。
 その柄には、実は小さな彫刻が施されていた。
 

 ── Happy birthday my dear brother 1025.
 

『兄サマ、誕生日おめでとう』
 

 小さな声と共に朝一番に弟から手渡されたプレゼント。今日は雨が降るから、兄サマも一本位は自分の傘を持っていた方がいいよ。そう言って手を出そうともしない瀬人に、モクバはこの傘を押し付ける様に掌に握らせた。その後直ぐに部屋を出て行くその小さな後ろ姿を、瀬人は声をかける事もせずに見送った。そして、改めて今日が自分にとって意味のある日だと言う事に気付いたのだ。

 ……こんな憂鬱で、不愉快な日が。

 最近話す事は愚か目を合わせる事もしなかった弟からの思いがけない贈り物。祝いの言葉とは裏腹にその顔は酷く強張り、差し出す手は震えていた。その事に心が冷えた。かつては命に替えても守りたいと思っていた、唯一無二の存在。今もその気持ちには変わりない。しかし、それを口にして言う事は愚か表だって思う事すら出来なくなった。どうしてこんな事になってしまったのだろうと後悔する。

 けれど、どうする事も出来なかった。今更優しい言葉や笑顔など見せられる筈がない。例え見せたとしても、昔の様な笑みは見せてはくれないのだろう。当たり前だ。

 だから、捨てるしか術がなかった。こんなものを貰う資格など、ある筈もない。

「瀬人様」

 気が付くと薄暗がりの中にいつの間にか黒いスーツを纏った、折り目正しい男が立っていた。瀬人をここまで送り届けた運転手でもあるその男は、即座に身を屈めて泥に沈んだ傘をまるで宝物を扱う様な丁寧さで拾い上げ、内ポケットから取り出したハンカチで拭って見せた。即座に元の美しさを取り戻した贈り物。しかし瀬人は、それを手にする気には到底なれない。……手にしてはいけないと、強く思った。
 

「……それを捨てろ、磯野」
「いいえ」
「オレには必要ない」
「例えそうであったとしても、貴方は決してこれを捨てる事など出来ない」
「煩い!捨てろと言ってるんだ!」
「それが貴方の本心ならお聞きしましょう」
「…………本心だと?!っ、オレは!!」
「モクバ様がこれをどんな思いで贈られたのか、貴方が一番良く分かっている筈です」
「……分からない。っ分かるものか!!知った風な口をきくな!!」
「申し訳ありません。ですが、これだけは言わせて頂きたいのです」
 

 冷たい。身を切るような冷たさが人気のない場所に佇む二人を苛んでいた。どちらも一歩も譲らず、まるで敵同士の様に睨み合う。尤も、磯野と呼ばれた男の方は厚いサングラスをかけている為、その眼差しを見る事は敵わなかったが。

 暫くの間、二人は黙ってその場に立っていた。どちらも既にどうにもならないほどずぶ濡れで、この後どこかに顔を出せる状態ではなかった。常にきっちりと撫でつけられた髪も服も、もう見る影も無くなっている。

 一体何をやっているのだろう。何が、したいのだろう。

 知らず空いた手をきつく握りしめながら、瀬人が目の前の視線から逃れるように身を翻そうとしたその時だった。
 

「実は、私も朝からずっと口にしたいと思っていた事がありました」
 

 不意にまるで彫像の様に表情も姿勢も崩さず瀬人の前に存在していた磯野が、この雨音にも負けない程はっきりとした声をあげる。そう、この男の声は常に良く通るのだ。いい事も悪い事も、まるで心に直接話しかける様に瀬人の奥底にまで届いて響く。

 瞬間、瀬人は僅かに動いた身体を留め、何を、と言葉にする前に、彼は驚くほど優しい声で、たった一行こう言った。
 

「16歳、おめでとうございます、瀬人様。私からの贈り物は貴方への永遠の忠誠と、愛情です。無論、来年はモクバ様にも同じ物を送らせて頂くつもりです。貴方がたはたった二人の血を分けたご兄弟。これからもそれは代わりない筈です。そうでしょう?だから貴方がこの傘を捨てられる筈がない。私にはそれが分かっています。」
「………………」
「剛三郎様もお亡くなりになった今、モクバ様を遠ざける理由などどこにもない筈。……今の喧噪が落ち着いたら、声をかけて上げて下さい。少しずつでいいんです」
「……そんな事はもう出来ない」
「出来ますよ。貴方なら、きっと出来る」
「モクバは、もう、オレの事など……」
「ならば何故、この傘を貴方に手渡したのです?屋敷の者はモクバ様付きの使用人以外誰も知らなかった。これは全てあの方が瀬人様の為にと、ご自分で用意した贈り物です」
「………………」
「モクバ様の信頼と愛情は、少しも失われてはいないのです、瀬人様」
 

 その言葉と共に差し出された藍色の傘。大きな手に握り締められたそれは、勿論震えてなどいなかった。無意識に手を差し伸べると、仄かな温かさと共に戻ってくる。その温もりはたった今まで柄を握り締めていた磯野のものだと分かっていたが、瀬人にはモクバの温かさに感じられた。その事が、何故か酷く苦しかった。顔を上げて居られないほどに。
 

 未だ雨は降り続く。この世界の元へ、瀬人の心の中へ。
 

 瀬人はじっと口を噤んだまま手にした傘を再び広げ、踵を返した。
 その方向は、予定していた高校ではなく。
 

「帰るぞ、磯野」
「はい」
「………………」
「モクバ様は後数時間もすれば帰られますよ」
「……そんな事は聞いていない」
「そうですね、失礼しました。風邪をひかれると大変です。急ぎましょう」
「もう遅い」
「帰宅されたら温かい飲み物でも用意致します」
「余計な世話だ。だが」
 

 少しだけ、感謝してやってもいい。
 

 一瞬立ち止まり、ただそれだけを囁く様に口にすると、瀬人はもう振り返らずに少し早足で先を急ぐ。その背を眺めながら、磯野は口元に仄かな笑みを浮かべて後を追った。
 

 ── 雨は、もうすぐ止むだろう。やがて見る事ができる、幼い笑顔と共に。