Act1 ホワイト(モク瀬人)

 白は、彼が好んで身に纏う色だった。けれど、彼は自身の白を嫌っていた。

 いつからそう思ったのか、よくは分からない。けれど……。
 

 

 静かな部屋にサラサラと微かな音が響いていた。

 数分前から突如発生したその音は、断続的に且つ不規則に響いては消えていく。その音の正体……画板に貼り付けたクリーム色の画用紙を片手に口を真一文字に結んで一心不乱に手を動かしているモクバは、広い室内の一角に腰を据え、その正面にある対象物をじっと見据えながら目に見える光景を懸命に写し取っている最中だ。先程から響いていたのは、彼が握り締める絵画用の鉛筆が走る音である。

 不意に手が止まり、その視線が更に正面を凝視する。きしり、という小さな音と共にスケッチの対象物である瀬人が僅かに身動きしたからだ。けれど、瀬人は少しだけ顔の位置を変えただけで、それきりまた動かなくなった。モクバはほっと息をつき、スケッチを再開する。彼が起きる前になんとしても仕上げてしまいたい。そうでないと、取り上げられるに決まっているからだ。

 白いカーテン越しに差し込む光が、淡い色彩で統一された室内を眩しく照らす。その中央のやはり白い大きなソファーの上で、白の服に身を包んだ瀬人が転寝をしているのを見つけたのが数分前。それを見た瞬間、モクバは心の中で一人盛大に喜びつつ脇に抱えていたスケッチ用品一式を広げると、早速その姿を描き始めた。

 勿論モクバの趣味は絵画などではない。彼がそんなものを所持していたのは、ちゃんと訳があるのだ。
 

『今週と来週は先生の都合で美術は全て自習、その期間の課題だそうよ。油彩か水彩で一枚絵を描く事。対象物は何でもOK。ただし、ヌードはダメよヌードは』
 

 高校で提示された、美術の課題。美術教師の不在により空白となる時間を有効に使わせる為に突如出されたそれが、モクバの小脇に画板を抱えさせる切欠となったのだ。
 

 
「なんだよ向井の奴!新婚旅行の癖に課題とかふざけんなよ。……あ、でもそうすると、美術の時間はまるっと遊べるって事か。それはうめぇな」
「お前は授業中だって遊んでるだろ」
「そりゃそうだけどよ。だって美術なんてかったるいだろ。オレ、立体や彫刻なら好きなんだけどなー絵はつまんねぇよ」
「オレは絵は好きだぜ。上手いし」
「ほんっとお前は絵ぇ上手いよな。流石KC副社長様!今度のデュエルディスクのデザイン、お前がやったんだって?」
「そうだよ。兄……じゃなくて、瀬人が任せてくれたから」
「へー。すげぇな。そういやお前の兄ちゃん、この間なんかの雑誌の表紙になってたぜ?……なんていうか、めちゃくちゃキレーだよな、社長やってねーでモデルやればいいのに」
「それ、経済誌だろ。この間取材受けたって言ってたから。それにしても綺麗ってなんだよ。瀬人は男だぜ」
「男でも女でも綺麗な奴は綺麗だろうが。白いスーツとかマジ似合うのな。海馬瀬人って昔から良くみてたけど……吃驚したぜ。いいなぁ、オレもああいう兄貴か姉貴がいれば目の保養になんのに。ブスな妹しかいねぇ」
「何言ってんだよ。可愛いじゃん」
「そういやあいつお前に惚れてんだぜ。彼女はいるの?とか探り入れてきてやんの。てめぇの顔見てモノを言いやがれっての。……ちなみに、お前彼女いる?」
「いない。興味ない」
「学校一モテる癖に興味ないとか贅沢言ってるなよ。イケメンモクバくん?……あーでもあれかぁ。あんな兄貴がいたら、ちょっと……色々複雑だよなぁ。どうしたって比べられたりすんだろ?まぁお前と兄貴じゃータイプ全然違うからそうでもないだろうけどさ」
「別に。瀬人がオレよりも全てにおいて上をいってるのなんて当たり前だし。オレは、瀬人が高評価を受けるのは嬉しいばっかりだよ。……まぁ、ちょっと困る事もあるけどさ」
「そっかぁ。って、そんな事より課題だよ課題。何描くかなー一番手っ取り早くこっから見える風景とかにすっか。なるべく面倒な建物とか植物がないとこ」
「ズルするなよ。オレは家でなんか探すよ」
「あ、今話題に出た兄貴は?いいじゃん、人物画。モデルがいいとすげぇいい絵描けそう」
「……描かせてくれるわけないよ。そういうの嫌いなんだ、瀬人は」
「雑誌の表紙飾ってんのに何言ってんだか。勿体ねぇ」
 

 

 その課題を出された折に、側にいたクラスメイトと交わした会話。一年からの腐れ縁である彼とは長い付き合いで、かなり突っ込んだ話まで大っぴらにする事が出来る数少ない友人の一人だった。

 その彼にすら言えない事が、モクバには一つある。
 彼にも、誰にも言えない事が、一つだけ。

 彼の手前ああは言ったものの、モクバはほんの少しだけ、瀬人を描きたいと思っていた。だからこそ邪魔なスケッチ用品を持ち帰り、休日の今日、それを抱えて邸内をうろついていた。瀬人がダメなら広大な庭の風景画でも仕方がないと思いつつ、それでも諦めきれずに瀬人の部屋を覗いたら、運命の神が味方をしてくれたのだ。
 

 サラサラと、鉛筆が紙を走る。淡いクリーム色の画面が少しずつ埋まっていく。何もない場所にソファーが置かれ、その上に横たわる瀬人を置く。柔らかな髪の質感や余り皺にならない上質なシャツの素材まで分かる様に丁寧に描きあげる。

 見る間に眼前の光景がそのまま紙に取り込まれる。我ながら、上出来な一枚だった。

 

 ── 勿体無い、か。本当に、あの表紙は勿体無いと思ったよ。
 

『そういやお前の兄ちゃん、この間なんかの雑誌の表紙になってたぜ?……なんていうか、めちゃくちゃキレーだよな、社長やってねーでモデルやればいいのに』
 

 経済に興味などない人間にまで、あんな風に認識されてしまう事。成人をむかえ、メディアへの露出も前以上に増えた瀬人は、起業家や経済人として以外の評価も高く受けて今や彼が何を本職としているのか分からない状態になりつつあった。結果、家にいる時間も減少し、こうして向かい合う事など一週間に数回あるかないかになってしまった。

 仕方がない事なのかもしれない。けれど、モクバには酷く不満だった。

 世間に無駄にその姿を露呈させる事。その事により、瀬人に興味を持つ人間が増える事。そして、いつしか誰かに奪われてしまうのではないかという不安。馬鹿馬鹿しいとは思っていても、それを考えずにはいられなかった。
 

 出来上がった線画に色を乗せる。既存の肌色では色が強すぎる為、白を多めに混ぜて調整する。目に痛い程白ばかりの色彩に、もう一本白絵の具を買って置くべきだっただろうかと思いながら、筆で色をかき混ぜる。

 肌の白。瞳の青。栗色の髪、細い手足。

 昔は、その全てに酷く憧れた。同じ兄弟なのに、形作る要素が何もかも違う事に不満を持ち、どうしてオレは兄サマに似なかったんだろう、と理不尽な怒りを向けた事もある。そんな弟のどうしようもない我侭に、瀬人は緩やかに首を振り、オレはお前が羨ましい、と言い切った。冗談かと思ったが、その瞳は真剣だった。
 

『羨ましくないよ。こんなの嫌だ。兄サマと違うなんて』
『オレに似たっていい事など一つもないぞ。気味悪がられるだけだ』
『なんで、兄サマ凄くカッコいいもん。皆も言ってるよ、お前の兄さんは綺麗だねって』
『他人の評価なんてどうでもいい。オレは嫌だ』
『兄サマ』
『こんな容姿を持たなければ、あんな苦労もしなくて済んだのかもしれないから』
『……どういう意味?』
『だからオレは、こんな顔も身体もいらない』
 

 未だ物事の分別が曖昧な時期に自分が純粋な気持ちを持って口にしたその言葉。それに、まるで吐き捨てるようにそう言った瀬人のあの顔は一生忘れる事ができないだろう。

 海馬姓を名乗り、あの男の養子になってから瀬人が辛い仕打ちを受けた事は知っている。けれど、それがどんなものなのかまでは知る事が出来なかった。瀬人もその時代を知っているはずの家人も、その事に関しては今も固く口を閉ざし、まるで触れる事が罪であるかのように、頑なに無言を貫き続けている。その不自然さに苛立ちを感じた事もある。だが、モクバにはどうする事も出来なかった。
 

 白く白い、透き通るような肌の色。鏡を見る度に、気味が悪いと眉を顰める瀬人のその白が何よりも好きだった。

 クリーム色の画用紙故に、服を、ソファーを真っ白に染め上げながら、モクバは思う。この白で何もかもを塗りつぶしてしまえればいいのに。辛い過去も悲しい記憶も全部真っ白に染め上げて、何も無かった事に出来れば、瀬人がもう鏡を見て顔を歪める事もなくなるのだ。

 髪を塗り、影を作り、背景をざっと描く。製作時間3時間。その全てが終わって、モクバが満足気にそれを眺めつつ、道具全てをきちんと片してしまっても、瀬人は起きる気配がまるでなかった。

「………………」

 音を立てずに立ち上がり、モクバは瀬人の側へと歩んでいく。二次性徴を迎え、彼とさほど変わらない高さから見下ろして、大きさも違わない手をゆるりと伸ばす。そして、じっと見つめていたその頬にそっと触れる。柔らかな感触に、綺麗な肌の白にやっぱり好きだと思わずにはいられない。
 

 ── そう、彼が好きなのだ。兄弟の情とは明らかに違う「好き」がモクバの中に存在していた。あのクラスメイトである親友にも、ましてや瀬人本人にも言えないその感情。何時からか……既に記憶にすら存在しない遠い昔から、確かにそう思っていた。
 

「……好き、だよ。兄サマ」
 

 眠っている今だからこそ言える言葉。白い光の溢れる静寂の世界でぽつりと呟いたその言葉は、彼が目を覚ます頃にはモクバ自身の手で白く塗りつぶされてしまうだろう。否、塗りつぶさなくてはいけないのだ。

 けれど、白絵の具は瀬人の所為で空っぽになってしまった。買いに行かなければどうする事も出来ない。だからそれまでは。……もう、少し。

 彼が目を覚まして、青いその瞳が自身の顔を見あげるまで、モクバは暫しその場に立ち尽くしてその寝顔を見つめていた。何よりも愛しく思う、その白を。
 

『貴方が、好きなんだ』
 

 ── 決して、その言葉を口には出来ないけれど。