Act1 海馬邸の優雅な朝

「おはようございます、瀬人様」

 まだ夜も明けきらない午前5時半。固く閉ざされた寝室の扉を音を立てずに開けるとオレは誰も聞いていない事を知りつつもそう声をかける。

 以前(と言ってもこの屋敷で勤める様になってからまだ半年程度しか経ってないが)どうせ入室して起こすのだからわざわざここで一礼する必要はないだろうとコイツ……もとい、瀬人様に提案し実行した所、そんな時ばかり目が覚めていたヤツに相当な剣幕で怒鳴られたので、それ以降律儀にこんな真似をしている。心底馬鹿馬鹿しい。

 尤も今日はまだお目覚めになっていない様で、静かすぎる室内に勝手に許可を取ったオレはさっさと入室し、豪奢なベッドの中央に眠っている瀬人様を優しく起こしにかかった。ただし、優しいのは呼びかけが一桁台の時だけで、その数が10を超えるとオレは身分の差を超越してしまう。元々育ちが良くない上に短気で乱雑なオレが執事なんて下らない真似をしている事が不満なので仕方が無い。

 誰だオレをこんな職に就けた奴は。あ、瀬人様か。

「瀬人様〜朝ですよー」

 ……徐々にベッドに近寄りながら同じ言葉を繰り返す。が、寝付きは物凄くいいのに寝起きが頗る悪いオレのご主人様は、元々上かけに埋もれているのにますますソレに頭を突っ込んで煩い声を回避しようとする。ほんとこいつは態度と図体ばっかりデカいガキだな!まだ弟の方がマシだっつーの!

「瀬人様……瀬人!!オマエいい加減に起きろよ!!自分が5時半に起こせって言ったんだろうが!!絶対ぐずらないって約束したよな?!早く起きないと水風呂に放り込むぞ!!」
「……煩い」
「煩いじゃないっての!だから昨日早く寝ろって言ったじゃないか。人の言う事を聞かないからこうなるんだぞ!」
「………………」
「あの、寝ないで頂けます?ほんとマジで放り込みますよ?」
「……そんな真似をしてみろ。速攻クビにしてやる」
「それだけは勘弁して下さい。じゃあ優しく姫抱っこで浴室までお運び致しますか?なんなら、お背中も流しますが。オプション付きで」
「……いい。気色悪い」
「じゃあとっとと起きて下さいね。はい、かけ布団没収〜」

 言いながら、オレは一般家庭の母親さながらに一見して最高級と分かる肌触りのいい軽すぎる羽根布団を掴むと一気に瀬人様から引き剥がす。室温は元々適温に保たれている為に然程ダメージもないんだろうけど、やっぱり身を包む温かな温度が失われると起きざるを得ないらしい。そこで漸く瀬人様は物凄く眠そうな目を擦りながら起き上がる。

「お は よ う ご ざ い ま す」

 少し俯き加減のその横顔に、わざとらしく一字一字区切りながら挨拶をする。それに心底不快だ!と言わんばかりの視線を投げつけると、瀬人様は大きな欠伸を一つしながら物凄く緩慢な動きでベッド際ににじり寄ると、ゆっくりと床に足を下ろそうとした。が、それをオレが慌てて引きとめて、昨日寝る時点で反対側に脱いだらしいスリッパを取りに行く。……毎日毎日左から入って右から出るなと言ってるのに聞きやしない。ほんとに駄目だ、このご主人様は。

「シャワー浴びます?」
「……ああ」
「敢えて浴槽にお湯を張っていないんですけど、宜しいですか?」
「……ああ」
「それで、オレの介添えはいります?」
「いらない」

 最後だけ即答かよ!まぁこれは毎朝の儀式の様なものでお決まりのパターンなんだけど、いつか一回位は入浴の介添えって奴をやってみたいと密かに思う。秘書兼ボディーガード兼執事長も兼ねてる磯野さんならその辺り詳しいんだろうか。でもあの人はおカタイからなー。オレと違って。

「では、6時がリミットですよ。時間になったら乱入しますから」
「死にたいのか?」
「あ、オレに銃は利きませんのでご心配なく」
「……そう言えば新しい防弾スーツを開発したと言っていたな。それがそうか?」
「一昨日全員で新調しました」
「フン、今度性能を試してやる」
「普通の銃でお願いしますね。ライフルとかナシですから」
「やかましい」

 ベッドから浴室まで歩く間に身体が冷えると悪いと思って肩にガウンをかけようとすると速攻拒否られる。それに肩を竦めて応えると、オレはもぬけの空になったベッドのシーツとカバーを手に取った。ベッドメイクをするのはメイドの仕事だけど、後始末をするのは執事であるオレの仕事だ。女にはちょっと刺激が強い『痕跡』が残ってる場合もあるし。まぁ、オレの主人に限っては寝室に他人を入り込ませる事が皆無だし、そんな事はまず万が一にも有り得ないけどな。何事も下らないルールって奴なんで。

「シン」
「はい」
「貴様、いい加減口調を一定にせんか。気色悪い」
「慣れ慣れしくするな!ってお怒りになったのは瀬人様でしょ?オレとしてはフランクな言葉遣いの方が好きなんですけど」
「貴様は外でもその調子で喋りかけるから問題なのだ」
「TPOはわきまえてます。一応」
「信用できん」
「あーそんな事より、リミット迫ってますから早く行って来て下さい。乱入されたいんですか?」

 何浴室前でどーでもいい事を言ってんだよ。行動のろい癖に、ちゃっちゃと動けっての。そう思いながらオレは使用人が主人に一番してはいけない事……所謂手を振って追い払う真似をして見せた。普通の人間がこれをやろうもんなら短気な瀬人様は其処の窓から放り投げそうだけど(ここは二階だ)、オレがやる分にはもう『慣れた事』なので若干眉間の皺を深くした程度でスルーされる。パタン、と扉が閉まると同時に、オレは深い溜息と共に手に持っていたシーツを丁寧に折り畳んだ。
 オレの名前は浜崎神。小さい頃はこの名前の所為で散々周囲からからかわれたもんだけど(だって神だぜ神。オレだって他人がこんな名前だったらからかうわ)、この名前が縁となってこの海馬家に呼ばれたんだから不幸というよりもラッキーと思わなくちゃいけない。なんでも、ここの当主の海馬瀬人……通称瀬人様は「神」と名のつくものに目が無いおこちゃまで、それはモノがカードだろうが人間だろうが関係無いらしく、ダイレクトにその名前がついたオレに白羽の矢を立てて下さったと、そういう訳だ。

 全ての始まりは数年に一回行われる瀬人様の孤児院訪問の際、多くのガキに紛れて『お出迎え』した事から始まった。海馬瀬人って言えば日本中どころか世界中からも注目を集める高校生社長で、毎日テレビや新聞を賑わせている超有名人だ。

 そんな有名人がなんでこんな場末の孤児院に顔を出してんだ、と疑問に思っていたけど、後から海馬兄弟は実はここに世話になった事があるらしく、その縁でたまに顔を出しにくるんだと先生が教えてくれた。尤も、KCとしても幾つもそうした施設を設立しているからその御縁も何時まで続くのか状態だったらしいけど。

 まぁ、それはともかくとして、その時高校卒業後金も行くあてもないオレの処遇を気にしてくれたらしいヤツが(勿論一番の理由は何度も言うが名前だ。オレが違う名前だったら見向きもしなかっただろうと思う)『執事に欠員が出たからコイツを貰い受ける』とかなんとか言って、オレは強引に何故かオランダの執事養成学校へと通わされ、約二ヶ月のカリキュラムを卒業したのち、海馬家へやって来たという訳だ。勿論全費用は瀬人様持ち。奴こそ神かと思ったね。実際は全く持ってそんなタマじゃなかったけどな。

 やーしかし、人間には向き不向きという事がありましてですね、オレは大変苦労したわけですよ。大体この性格だろ?どう考えても人様にかしづくとか有り得ない。礼儀作法なんて誰も教えてくれなかったし、一生涯必要ないとも思ってた。まぁ、頭の方はそこそこ良かったし、不器用でもなかったからなんとか養成学校も卒業できたんだけど。持って生まれたもんはなかなか矯正出来ないから結構やらかす。その度に怒鳴られたりするけどもう慣れた。つか、元々あんまり怖くなかった。なんでかな。

 そんなこんなで最初の三ヶ月間はそれなりに緊張して、粛々と務めを果たしていた訳だけれども、ある日余りにも理不尽な事で責められて、ついに堪忍袋の緒をブチ切ったオレは、思いっきり瀬人様にタメ口……というか暴言を吐きまくってしまった。

 その瞬間、あーこりゃクビだな。オレの人生早くも終了か、と心の中で絶望していたら、何故か瀬人様の弟のモクバ様が拍手喝采で褒めてくれて(なんでだよ)、「それでこそ兄サマの執事だよ!」なーんて認められてしまいましたとさ。意味がわからん。本当にわからん。

 なんでも、今までの執事はどれもこれも初老のベテランで、瀬人様を蝶よ花よと(それは男に対して使うものか?)大切にお守りする様なタイプで、瀬人様はかなりお気に召さなかったらしい。んで、オレの前の執事が年齢を理由に退職した時、「次はもっと若い、今までと全然違ったタイプにしよう」という事になったんだそうで……違うタイプっつーか……真逆じゃないか?!オレ、初日から瀬人様の事生意気なガキ位の認識しかなかったし!表面上はちゃんと取り繕っていたけどさ。

 んでも気に入ってくれたなら何よりって事で(本人からは何も言われて無いけど)、オレは結局お咎めもなしで今日もこうして瀬人様の面倒を見ている訳だ。あ、でもあの事件がきっかけでオレは瀬人様に一切遠慮をしなくなったし、瀬人様の方も以前よりも親しげにしてくれるようになった。年も近いからそこそこ話も合うし、何よりオレとモクバ様は仲がいい。主人と執事、というよりも兄と弟達、みたいな感じかなー今は。

 勿論、どれだけ気心が知れたって所詮は雇主と使用人。そこを完璧に飛び越える事は出来ない。だからオレは未だに普段は敬称で呼び、敬語を使う(良く忘れるけど)。やる事はしっかりやる。たまに遊びに来る学校の友達……瀬人様は違うと言い張るけど……にも一線を引いてお付き合いをする。……ように徹底していた。

 はずだった。つい一ヶ月前までは。
「シン、着替えだ」
「……あのさぁ、瀬人様。頼むから素っ裸で出て来るのやめて頂けます?バスローブちゃんと用意してあったでしょ?きちんと温めてもおいたんですけど!」
「どうせ脱ぐだろうが、めんどくさい」
「いやいやいや、そういう問題じゃなくてですね」
「ぐだぐだ言ってないで仕事をしろ。朝食に遅れるだろうが」

 丁度6時になる頃。バスタオルを頭に被った状態で堂々と浴室を出て下さった瀬人様は、未だ足元に水が滴り落ちる状態のまま、モーニングコーヒーの用意をしていたオレを呼び付ける。また裸だよ、オマエは風呂上りに部屋を駆け回る幼児ですか。一体なんなんだこの無防備さは本当に有り得ない。

 当たり前だけど、最初の頃はこんな事はなかった。オレが寝室に入るのさえ嫌がったし、身支度を手伝わせるなんて以ての外だった。呼びに行かなくても時間になればちゃんとした格好をして起きて来たし、なんていうかこう……もっとちゃんと主人面していた。なのにこれは……なんですか?ただの甘ったれですか?!

 返してオレの海馬瀬人のイメージ!!

「……では、失礼致します」

 ここで何を言っても無駄な事は分かってるので、オレは大人しく指示された事を忠実にこなす事にする。とりあえず身体を拭いて下着を身に付けさせると、濡れた髪を乾かして、今日は登校日らしいのでパリッと糊の利いたカッターシャツを羽織らせる。勿論自分でボタンなんか留めやしないから丁寧に一つ一つボタンを嵌める。学ランも同様に。最後に学ランと同色のスラックスを穿かせて髪をきちっとセットすると、見慣れた海馬瀬人の出来上がりだ。

 不思議な事に格好をきちんとすると、奴の態度もビシっとする。少しだけ目に掛っていた前髪を指先で避けてやるとさりげなくその指を掴まれた。ここで、なんだ?と問うと怒られるので、オレは黙ったまま顔を近づけて、薄い唇にキスをした。

 これで、朝の支度は終了だ。

 え?最後がおかしいって?至って普通だと思いますけど。

「目が覚めましたか?」
「まぁ、それなりに」
「あちらに珈琲の用意がしてありますからどうぞ」
「時間きっかりだな」
「仕事ですから」

 言いながら極自然に左手を差し出すと、それだけはまるで女みたいな細い指先が遠慮なしに乗せられた。ごくたまに、オレは使える相手の性別を間違えたんじゃないかと錯覚するけれど、勿論ただの錯覚に過ぎない。立ち上がると瀬人様はオレよりも大分大きいからな。

 その手を軽く握り締めて、オレは恭しく頭を下げながら「参りましょうか」と口にした。そんなオレの事を胡散臭そうに見つめながら、瀬人様……ああもう、なんかめんどくさいから正直に言うか!今はオレの恋人の瀬人は、やけに嬉しそうな顔で「貴様も付き合え」と言って微笑んだ。
 

 ── 海馬邸の優雅な一日が、今始まる。