X-day

「もうっ、兄サマ煩い!オレを幾つだと思ってるんだよ?!」
 

 そう言って、モクバがオレの言葉を撥ね退けたのは、とある平日の夕方の事だった。

 その日は学校で何か行事があるとかで、昨夜から徹夜で何かをしていたモクバが、登校時間ギリギリに慌しく食堂に入って来て、用意されていたサラダとパンを両方いっぺんに口に放り込み、スープには手を付けずにそのままくるりと出て行こうとしていた。勿論おはようも行って来ますも何もない。

 その背にオレが一言声をかけたのが始まりだった。
 

 
 

「お前、ここの所ずっとそんな様子だが、朝食ぐらいまともに食べられる時間に起きてこれないのか」
「寝坊したんじゃないよ。徹夜したの」
「一週間もか」
「違う、三日だけ。どうしても学校の課題が終わらなくて。ってああもうこんな時間だ。じゃあね、兄サマ!」
「おいモクバ!」
 

 オレの声を煩そうに振り払い、さっさと外に飛び出して行ってしまうその姿を目で追う暇もなく、足音を耳で聞きながらオレは大きな溜息を吐いた。

 そういえばモクバはここ最近ずっとこんな調子で、ともすれば意図的にオレを避けているのでは?と疑ってしまう言動が多かった。勿論オレにはモクバの機嫌を損ねるような事をした覚えは無い。だからこそ余計に不可解だった。

 今夜は差し迫った仕事もないし、モクバも例の行事が終了する日なので早く帰ってくるだろう。思い立ったら吉日と言うし、少し話してみるのもいいかもしれない。そう思って、オレは久しぶりに大分早めに社を後にし、家でモクバを待っていた。

 そして、予想通り少し早めに帰宅したモクバを捕まえてリビングへと呼び出した。最初は少し渋る様子を見せたが、オレが少し強めの口調で名を呼ぶと、渋々といった感じで帰宅したそのままの格好で留まった。
 

「話って何、兄サマ。オレ、徹夜続きで眠いから簡潔にお願いね」
 

 ちなみに現在モクバは15歳。声変わりが終わって、大分低くなってしまったその声でそんな台詞を口にしながら、どこか尊大な態度でソファーに座したオレを見下ろすその姿は何時の間にか大分大きくなっていた。

 さすがは兄弟。同じ遺伝子で構成されている彼の目線は既にほぼ同じで、後少しで身長が抜かれてしまうだろう。外見的には既にオレを超越していると言っても過言ではない。何故なら運動部に入っていると言うモクバの方が体格がいいからだ。

 オレの方はといえば、今年成人を迎えたものの、年齢と体格は比例せず特に変わりがなかった。故に周囲から見れば、とっくにオレが負けているという事になっている。……まあ年齢を考えれば15の時点で180を越えてしまったモクバの方が成長の度合いがいいのは明白だ。その事に関しては嬉しい限りで特に悔しいとは思わない。

 だから問題なのはそこではない。……そこではなく、背が伸びると同時に徐々に大きくなってきたその態度にある。今迄はそんな事を露ほども思わなかったのに、近頃は時たま生意気だと感じる事がある。今朝の態度もまた然り。だからこそオレは、一度でも釘を刺しておこうと思ったのだ。

 別にオレの意のままにしようとかそういう意味ではなく、単純にもう少し柔らかい物腰で接する事が出来ないのかとやんわりと言い聞かせる、そんな程度の話のつもりだった。
 

 けれど、それは見事に失敗に終わった事を知る。
 

「兄サマはオレに色々言うけどさ、兄サマだってオレの年には御飯も食べなければ寝もしない、すっごい不規則な生活してたじゃん。義父さんには食って掛かっていってたし、オレにだって素っ気無かったよね。なのにオレには規則正しい生活をしろとか、自分に優しくしろとか、そういう事言うわけ?」
「……いや、だから……」
「兄サマにだけは言われたくないね。それにもうオレは兄サマに一々心配して貰う様な子供じゃないから!」
「モクバ」
「それ以上煩く言うと、その口、塞いじゃうよ?」
「?!」
 

 そういうが早いが、モクバは突然見下ろすだけだったオレに手を伸ばし、両肩を思い切り掴んで力を込めた。薄いシャツ一枚しか着ていなかったオレは力強いその指先にギリギリと掴み締められ、結構な痛みを感じていた。……しかしそれに気を取られる間もなく、何時の間にか目の前に迫ってきたその顔を凝視してしまう。パサリと頬にモクバの髪が掛かる。まさか本当に口を塞ぐつもりなのか?!そうオレが身構えたその時だった。
 

「なーんてね。兄サマって結構こういうのに弱いよね。もういい大人なんだから、隙を見せたら襲われるよ?」
「襲っ……モクバ!!」
「オレにあれこれ言う前に、とりあえず兄サマはもっと食べた方がいいよ。何この肩?肉ついてるの?」
「オレの事はどうでもいいだろうが!」
「じゃあオレの事だってどうでもいいよね。じゃ、そういう事で。人にモノを言う時はまず自分を省みてからってね。学校の先生が言ってたよ?」
 

 そう言うとモクバは口の端に嫌な笑みを浮かべて(その笑みはオレによく似ていると磯野は言う)部屋を出て行ってしまう。……なんなんだ今のは。背に伝う嫌な汗を感じながら、オレはその日を境にモクバにあれこれ言うのはやめにした。

 反撃が、怖いからだ。情けないだと?何とでも言え。

 後にその事を城之内にそれとなく言ってみたら「そりゃお前ただの反抗期だろ。お前もあった……あー!万年反抗期だから分かんねぇか!」と言われた。腹が立ったので一発殴っておいた。

 反抗期……本当にただの反抗期なのだろうか。時折ジッとオレを見つめるモクバの視線を見ていると、どうもそれとは違う気がしてならない。けれど、その事を突っ込んでしまうのは何故か危険な気がしてオレは知らぬ存ぜぬを通す事にした。
 

「兄サマ」
 

 オレを呼ぶその声と名称が、ただの「瀬人」呼びになったのは、それからすぐの事だった。
 

 ……エックスデーは、すぐそこに迫っていた。