優しい手

「兄サマ、聞いて!オレ、この間の美術コンクールで最優秀賞取ったんだぜぃ」
 

 それはとある休日の平穏な午後の事だった。

 久しぶりに丸一日何も予定がない、正真正銘の休暇を取る事が出来た瀬人は、自室のソファーでゆったりと寛ぎながら、連載ものの小説を読みふけっていた。その瀬人の元にこちらも外に出かけたりせずに自室でゲームをやっていたらしいモクバがやって来たのは、昼も大分過ぎた頃。彼はにっこりと笑顔を見せるとやや自慢げな口調で瀬人そう口にしたのだ。

 そんな可愛らしい彼の声に直ぐに視線を小説からモクバへと移した瀬人は、興味深気にその顔を見下ろして口元に笑みを刷くと、先を促すように感嘆の声を上げた。

「ほう。凄いな。何で賞を取ったのだ」
「粘土で彫刻」
「彫刻?」
「そうそう。ブロンズ粘土って言ってさ、磨くと光る粘土を使って彫刻したんだ。オレ、こう見えて凄く上手いんだぜ」
「知っている。お前はプラモデルを素材から自分で作るしな。それで、何を作ったんだ?」
「あ、今日返って来たから見せてあげる。えっとね……展示されてたからきちんと硝子ケースに入ってるんだ。よいしょっと」
「随分と厳重だな。見ていいのか?」
「うん!」

 そう言ってモクバが大きな硝子テーブルの上に載せ上げたのは、彼の頭がすっぽり入るくらいの大きさがある黒い箱だった。中にクッション素材が貼り付けられているらしいそれは瀬人の言葉通りやけに厳重で、いかにその作品が大事に取り扱われていたか分かる。その取扱い厳重注意の作品を、それこそ気軽にひょいと取りだしたモクバは、もう一段階としてケース全体を包んでいるらしい紺色の布をこれまたぞんざいに取り払った。

 瞬間、現れたのは確かにしっかりとした硝子ケース。

 大きな窓から入り込んでくる柔らかな光を受けてキラリと輝くその中に収められていたものは、確かにブロンズ独特の色をした、見るからに素晴らしいと言える手の彫刻だった。右と左、どちらか一瞬迷ったが、モクバが言うには左手になるらしい。

 丁度何か物を掴もうとする形で留まっているその『手』は、形や指の長さ、的確に表現された関節や手の甲に浮く骨の状態から、女性の手ではなく男性の手のようだった。すらりと長く伸ばされた人差し指の先には形のいい大きな爪までしっかりと刻まれ、これがブロンズ色ではなく人本来の肌色をしていたなら、触れて体温を感じるのではないかと思うほど精巧な作りだった。

 これ程の出来栄えならば例え芸術方面に全く長けていない人間が見ても確実に賞を取れるだろう。否、取れない筈がない。そう瀬人が心の中だけではなく口にも出して感動していると、その作者であるモクバは心底嬉しそうに笑みを深め、そして得意気に胸を張ると、えへん、と小さく咳払いをしてこう言った。

「あったり前だよ。モデルがいいんだもん」
「……モデル?」
「そう。こんなに綺麗で見栄えのする手を作ったんだよ?賞が取れない訳がないじゃないか」

 オレ、もうすっごく頑張ってさー、どうやったら本物に近づくかなって一生懸命に研究したんだ。皆は大体1週間位でパパッと作ってたんだけど、オレはその倍の二週間かけて丁寧に仕上げたんだぜぃ。

 そう言って自分でも満足気に自らの作品を眺めたモクバの顔を瀬人は怪訝そうに見下ろした。目の前にあるこの『手』はどうみても子供のものではない。ある程度成長し、完成した大人の手だ。と、言う事はモクバが言う『モデル』は彼と同年代の友人ではない。

 では、一体誰がこの手のモデルをしたと言うのだろうか?大人が大勢いるKC社内の誰かだろうか。そんな事を思いながら、瀬人がその手の持ち主をあれこれと模索していたその時だった。

 瀬人が本気になって頭の中で探していた答えは、至極あっさりとモクバによって与えられる事となる。

「この手のモデルは兄サマだよ。自分で気付かない?」
「何?……オレの手?」
「うん。ほら、ちょっと左手貸して。同じような形にしてみてよ。……ね?そっくりでしょ。ちなみに、これ、兄サマがオレの頭を撫でてくれる時の形だよ。本当はカードを持っているのがカッコイイかなって思ったんだけど……やっぱり、これにしたんだ」
「……本当だ。だが、何時……」
「何時って。そんなの改めて見せて貰わなくても嫌って程覚えてるし。これを作ってる時、オレ、良く兄サマのベッドに潜り込んでたでしょ。あの時にこっそり、特に兄サマが寝ちゃった後に観察してたんだ」
「……それにしても何故、オレの手など彫刻にしようと思ったのだ。もっとほかにいい題材があっただろうが」
「だって。彫刻のテーマが『自分が一番大切にしているもの』だったんだもん。先生もさ、大事にしているものや大好きなものをモデルにすれば心が籠った作品になるからって。結構いい先生なんだよ」
「………………」
「オレが一番大好きで大切にしてるのは兄サマのこの手だったから。オレ、すぐに決めたんだ」
 

 凄く綺麗で、形が良くて、大きくて、温かい。

 そして、どんなものよりも優しく自分の事を抱き締めてくれる手。
 今日、この瞬間まで、ずっと自分を導いて来てくれた、大切な手。

 モクバが何よりも大好きで、大切に思っているモノ。

 それはこの手以外にありはしないのだ。
 

 いつの間にか彫刻と同じ形にさせる為に、触れていた瀬人の手をぎゅっと強く握りしめて、モクバは心の底からそう思った。今は冷やりと冷たいその指先は、それでも優しく未だ少し頼りないモクバの手を握り返してくれる。

 そこに言葉は存在しない。言葉など必要ない。白く美しいその手はモクバが請えば何時だって与えられるものだから。

「左手にしたのはね、訳があるんだよ」
「訳?」
「うん。でも兄サマには内緒。企業秘密」
「……お前は企業ではないだろうが」
「でも、教えられないの」
「ならば最初から言うな」
「あはは、そうだね」

 言いながら、モクバはもう片方の手も瀬人に伸ばすと、彼がソファーに座しているお陰でほんの少し足の爪先を立てれば届く位置にあった両肩に触れる。すると、モクバの意図を察したのか、瀬人は呆れた様に肩を竦めると掴まれていた手を緩やかに離し、縋りつくように倒れてきたその身体を支えるように抱き締めた。

 長い腕と大きな手にすっぽりと包まれる形で落ち着いて、モクバは至極幸せな気分になる。
 

 何故、『自分の好きなもの』を『左手』にしたのか。
 それは、この瀬人の左手だけは、永遠に自分のものにしたかったからだ。

 これから先、瀬人に自分以外の大切な人が出来て、その人に何もかもを奪われてしまったとしても、この左手だけはずっと……未来永劫自分のものであって欲しいと、モクバは願う。
 

 この世に生れてから今日まで、ずっと強く握りしめてくれていたこの左手だけでいいから。

 ただそれだけでいいから。
 

 ── 兄サマ、どうかこの手を離さないで。
 

「自分で言うのもなんだけど、これ、最高傑作だからさ。部屋に飾ろうと思って返して貰ったんだ」
「そうか」
「でもやっぱり、本物が一番好きだぜぃ。今日は賞を取ったご褒美に一緒に寝てくれる?」
「……それだけでいいのか」
「うん!」
「欲がないなお前は」

 そう言って笑う瀬人の顔を仰ぎ見ながら、モクバは本の少しだけ口元の笑みを潜めて、欲深な自分をほんのわずかに嘲った。……それでも、内なる願いは変わる事はない。これまでも、そしてこれからも。

 優しい手。

 硝子ケースに収められた、自らの願いの象徴に、モクバはそんなタイトルを付けた。

 そして、自分を温かく包んでくれるそれを更に感じようと、彼は小さな声で「兄サマ大好き」と囁いた。
 

 その答えの代わりに、もっと強く抱きしめて欲しいと……そう、思いながら。