沈黙は愛なり

 城之内克也は今、酷く落ち込んでいた。

 いつもはその場にじっとしている事が無いほど元気よく動き回り、一部の人間からは迷惑だと煙たがられているのだが、今日は自分の机に顔を突っ伏したきり、ピクリとも動かない。朝から買い占める勢いで購入した購買のパンも、手つかずのまま放置されていた。

 尤も、彼がこの状態になったのはほんの数分前からだ。それまでは常の同じく教室中に響く様な大声で下らない会話に勤しみ、待ちに待った昼食時間を存分に楽しもうと笑顔でパンの山に手を伸ばしているはずだったのだ。その彼が、海よりも深く沈んでいる。

「城之内くん、そんなに落ち込まなくたって。知らなくてもしょうがないって」
「でもよー……オレ以外皆知ってたじゃねぇか。お前等友達甲斐がなさすぎんだろ……どうして教えてくれなかったんだよ」
「当然知ってると思ったもの。教えてあげる方が失礼でしょ。ねぇ、本田?」
「おうよ。常識以前の問題だぜ。しかもお前付き合って初めてのイベントだろ?スルーとかないわ。ま、これを機に逆玉計画は諦めて、健全で真っ当な恋愛にシフトチェンジするこったな」
「もう、二人とも。追い打ちをかける様な事言わないでよ」
「だって」
「なぁ?」
「でも、恋人とかクラスメイトとか関係なく、普通にテレビや新聞を見てるなら必ず知ってる事を知らないっておかしいわよ」
「チラシも入ってたぜ?お前、新聞配達してんだろ?なんで気付かないんだよ」
「あーもーうるせぇっ!!……んなもん中身なんて一々見ねーよ!!テレビもここんとこ見てねぇし、配達はしてっけど新聞なんて取ってねぇっつーの!」
「でも、それは言い訳よね」
「言い訳だな。みっともねぇ。問題なのはそこじゃねぇだろ」

 完全に机につっぷしている城之内を取り囲む様に、遊戯、杏子、本田といういつもの面子は、のんびりと昼食を頬張りつつ、城之内克也今世紀最大の失敗(本人曰く)に対するコメントを述べている。それらを集約すると「城之内が悪い」との結論にしか達しなかった為、槍玉に上がった本人はますます深く落ち込んでいた。

 何だよちくしょう、他人事だと思って!

 と闇雲に吐き捨てても、やはり「他人事だもん」の一言に一蹴されてしまう。
 

「ね、今日の帰り、海馬ランドに寄って行こうよ。もしかしたら海馬くんがいるかもしれないよ?おめでとうって直接言いたいな」
 

 事件は昼食開始早々弁当のおかずにハンバーグを発見し、交換と称して杏子のから揚げを二つほど抓んでいた遊戯が発した何気ない一言から始まった。外見も中身も幼い彼のこの提案に、周囲は微笑ましさを滲ませながら直ぐに同意し、今日の放課後の予定はその場であっさり決まってしまった。

「遊戯なら絶対言い出すと思ってた。今日はレッスンもバイトもないし、付き合うわよ?確かフードコートも半額だったよね?」
「マジか!ミホちゃんも誘ってみるかなー」
「残念。ミホは部活の先輩とラブラブよ。あんたなんか入る隙は一ミリもないわよ」
「くっそー!何時の間にィ!」
「あちこち目移りしてるから悪いのよ。サイテーね」
「海馬くんへの誕生日プレゼント、何にしようかなぁ」
「遊戯の場合、デュエルしてあげるのが一番のプレゼントでしょ?今度付き合ってあげなさいよ」
「そうだね。デッキを調整しておかなくちゃ。あ、そう言えば今度また新しいパックが出るんだけど……」

 和気藹藹とそんな事を言い合いながら、話題は滞りなく次へと移る筈だったのだが、四人の中で一人だけこの流れに乗れなかった城之内が手にしたパンの袋を破りつつやや大げさに首を傾げる。その仕草はやけに目立ち、三人は一斉に口を閉ざして彼の方を凝視した。そんな周囲の雰囲気などお構いなしに注目を集めた当人は素直に己の疑問を口にする。

「……?なんで今日わざわざ海馬ランドになんか行くんだよ。平日じゃねぇか。お前等暇なのか?オレ、バイトだから無理なんだけど」
「……はぁ?」
「えっ?城之内くん、今日バイト入れてるの?!」
「ちょっと、今月そんなにピンチなの?昨日は休んでた癖に、わざわざ今日シフト入れる事ないじゃない!」
「へ?な、なんだよお前等スゲー顔して。別にオレが行かなくても関係ねーだろ?」

 城之内のいかにも不思議だと言わんばかりの表情に比例した何とも怪訝そうなその声に、三人は一斉に彼の方に顔を寄せる。それまでの和やかさから一転してやけに張りつめてしまったその空気に、城之内は開封したパンを齧る事も忘れてただ呆然と迫りくる三人の顔を眺めていた。

「関係ないって……関係無いわけないでしょ?」
「あ、もしかしたら城之内くん、夜に約束してるのかな。まぁすっごい人がいる所にわざわざ会いに行くより、二人でゆっくりした方がいいよね」
「違うだろ遊戯、二人でゆっくりシたいだろ」
「もう、そういう事ばっかり言わないでよ!」
「城之内の考えてる事なんてそんなもんだって。な?城之内?」
「いや……な?って言われても……お前等一体何の話をしてるんだ?」
「なんのって、だから今日の話だろ?今日は海馬の誕生日だから、海馬ランドが入園無料になるじゃん。だから遊戯が行こうっつってんの。んで、お前は夜に別個でちゃんと約束してんだろイヤラシイっ!って……オイ、こんな事説明させんなよ面倒臭ぇ」

 城之内の余りの察しの悪さに、本田が呆れてそう言ったその時だった。ボトリ、と机の上に袋の破れたパンが落ちる音がする。それを落とした張本人は今までの呆けた様な顔から一気に青褪めた顔に変化して、思いっきり固まっていた。

「……たんじょうび?かいばの?」
「台詞がひらがなになってんぞ。大丈夫か?つかお前、もしかして知らなかったとかいうオチじゃないだろうな?」
「まっさかぁ!他でもない海馬くんの誕生日よ?ちょっとインターネットで検索かければファンサイトがこれでもかって出てくる程の有名人よ?それなのに知らないってあり得ないじゃない!それに、海馬ランドが10月の頭からすっごい宣伝してたし!今週末は人で溢れ返るわねって話も良くしてたし……」
「そんなん全っっ然知らねぇよ!!え?つか皆知ってたのかよ?!今日海馬が誕生日だって知ってた人ー!!」

 城之内のほぼ悲鳴とも言える叫び声に、教室中の人間が振り返る。そして漏れなく全員が「知ってる」と答え、挙手までして見せた。それを見た城之内は、絶句して項垂れる。

 そして彼は、深い絶望の底へと転がり落ちて行ったのだ。
 

 
 

「海馬くんから聞いてなかったの?」
「聞いてねぇ」
「勿論誕生日プレゼントなんて……」
「用意してる訳がねぇ」
「今からでも間に合うんじゃないの?」
「会う予定がねぇし、予算なんかもっとねぇよ」
「駄目だ。終わったな、城之内」
「終わったとか言うな!」
「で、でもさ。何かあげるだけがプレゼントじゃないし……おめでとうだけでも言いに行けばいいんじゃないかな?」
「そういうのは普通一番に言うもんじゃないの?恋人なら」
「だよな、電話じゃアレな相手なら日付変わったと同時にメールだろ。ダチにだってそうするわ」
「速さの問題じゃないよ、気持ちの問題でしょ」
「でも、気持ちを見せる為には速さも重要よ。ま、今議論したってしょうがないでしょ。『知らなかった』んだから」
「………………」

 はぁ、と全員が大きな溜息を吐く。そう、今更そんな事を言っても仕方がない事なのだ。10月25日は既に半日が経過していて、後半日で現状を打開する術なんて見当たらない。

(大体アイツも何で言わねぇんだよ……)

 つい三日前も城之内はバイトが引けてから海馬の所に遊びに行き、そのまま泊まり込んで翌日は彼と一緒に学校へと登校したのだ。その日は海馬が午後から会議があると言って昼で別れたのだが、彼を見送る為に昇降口まで付いて行き次の約束をする時に、週末までは忙しいという話は聞いたものの、三日後の今日が自分の誕生日である事など匂わせる事さえしなかった。

 海馬が忙しいと敢えて口にする時は大抵物理的に拘束される時間が多いという意味で、城之内が訪ねて行っても敢え無く門前払いを食らわされるのがオチである。故に今回も週末までは単純に会えないだろうと思い、バイトを入れてしまったのだ。

 そういえばバイト先の店長に10月25日にシフトに入る事を了承した時、大層喜ばれた事を思い出す。彼が「この日は殆どのバイトが休みを取って、出てくれる人間が少なくて」とぼやいていた意味が良く分からなかったのだが、今思えば皆遊戯達と同じ様に無料で開放される海馬ランドに行こうとしていたのだろう。

 なんつー間抜けなんだオレは。

 そう頭を押さえて呻いても、慰めてくれる人間は遊戯だけだ。

 とりあえずメールを、と思い携帯を取り出してみたものの、今更何を打っても白々しく思えてしまい、埒が開かない。やはりここは直接会いに行っておめでとうの言葉を告げるべきなのだ。けれど、情けない事この上ない。まさかこの時期に恋人の誕生日という大イベントが待ち受けているとは思わずに、有り金の殆どを冬支度につぎ込んだ今、プレゼントの一つも買えやしない。

 ああでも、今日アイツに会いに行けるのは何時になってしまうだろう。運が悪いと日をまたいでしまうかもしれない。祝い事の一つも言えないまま恋人の誕生日をスルーするなんてもってのほかだ。けれどバイトのシフトも金欠も容易に回避出来るものではない。

「あーもーどうすりゃいいんだよー!」
「とりあえず、僕達は海馬くんに会っても城之内くんの事は触れないで置くね……」
「というか、その前にちゃんとフォロー考えなさいよ」
「ま、海馬は女じゃねーし、彼氏から誕生日を忘れられた位で拗ねないだろ。気にすんな!」

 三人三様のアドバイスだか茶々入れだか分からない言葉を背中で受けながら、城之内は仕方なく海馬本人ではなくモクバの方に事情説明とお伺いのメールを送ってみる。

 数分後、呆れ顔のアイコンと共に返って来た返信メールは、至って簡素なものだった。
 

『そんなの、大した事ないと思うけど……気になるのなら、家に来れば?』
「と言っても……まさか手ぶらでとは行かないよなぁ……」
「なーにぶつぶつ言ってんだ、城之内。良かったなー今日人手足りなかったけど、超暇で。皆やっぱり海馬ランドでデートとかしてんのかなー。あーくそー!一人身には辛い夜だぜ。そう思うだろ?!同士よ!」
「あ?なんか言ったか?」
「なんか言ったかじゃねぇよ。どした?なんか悩みごとか?恋の悩み?」
「恋の悩みっつーか。なんつーか……」
「よし、お兄さんに話してみなさい!」
「きめぇ……何がお兄さんだよ」

 まぁでもいいや。どうせ暇だし、誰かに相談したかったし。

 そう心の中で呟くと、城之内は誰もいないファーストフード店の片隅でカウンターに寄り掛かりつつ興味深げにこちらを見ている同僚に、斯々然々と己の失敗談を話して聞かせた。それを聞いた同僚は話の内容よりも先に城之内に恋人がいた事を嘆き悲しみ、散々恨み節を口にした後、漸く耳を傾け始めた。

 もうお前の事は同士なんて言わねぇ、裏切り者と呼んでやる。そんな事を言いながらも真剣に城之内の話を聞くこの男は、お人良し以外の何者でもない。

「全然関係ないけど、今日誕生日ってスゲーな。海馬社長と一緒じゃん。ツッコんだら自慢とかするんじゃね、その彼女。妬くなよ?」
「妬かねーよ。つか、誕生日が一緒ってなんの自慢になるんだよ?……あーもう話はそこじゃねぇんだって!お前ならどうするよ?」
「オレ?オレはそんな間抜けな事しねぇから良く分かんねーけど、そうだなぁ。正直に話して仕切り直すかな。だって嘘吐いたってしょうがないじゃん。何も悪い事はしてねーんだし」
「うーん、でもさぁ……」
「大体、相手だってお前にそれっぽい事なんも言わなかったんだろ?フィフティフィフティって奴じゃん」
「敢えて言わなかったって可能性もあるだろ」
「敢えて?……ああ、試されてるかもって事か。そういう捻くれた性格の女なの?その子」
「んにゃ、確かに捻くれてる所はあるけど、こういう意地悪はしないかなぁ……。もしかして、オレ期待されてないのかも」
「下手に大期待されるよりはいいんじゃね?男なら、素直に行けよ」
「うぁープレゼント〜……」
「ケーキとか花とかなんでもあるだろ。今日給料日じゃん。駅前の飲み屋街の近くなら夜中までやってる店あるし。寄って帰れば?」
「ケーキや花かぁ……」

 確かに城之内の相手が同僚の思う様な可愛らしい女の子ならそれでいいかもしれない。しかし『彼女』は本当は男であり、更に言えばあの『海馬瀬人』で。まさに海馬ランドをこの街に作り上げ、今日と言う日にあらゆる人々から祝福されている張本人なのだ。城之内が買える様な安っぽい花やケーキで喜ぶとは到底思えない。そもそもそんなものはとっくに他の誰かから山の様に送りつけられているだろう。

 つい昨日まで特になんとも思わなかった相手との格差に今更ながらに気付いて呆然とする。

 けれど、だからと言って気分が落ち込んでしまった訳ではなかった。城之内が悔しく思うのはただ一つ。年に一度の誕生日にきちんと祝う事が出来ないという事実だけだった。

 考えれば考えるほど、上手いアイデアは浮かばず、時間ばかりが過ぎて行く。
 スタートから躓いてしまった一日は、多分最後まで躓くのだ。

 大して長くも無い人生を振り返り、城之内は深く大きな溜息を吐いた。
 城之内が海馬邸に辿り着いたのは、夜の10時を少し過ぎ辺りだった。

 遠慮がちに押した、インターフォンと言うにはかなり大げさなモニターにひょっこりと姿を現したのは、既に寛いだ格好をしているモクバだった。彼の了承を得ると直ぐに巨大な門が開き、城之内を邸内へと迎え入れる。いつの間にか迎えに来ていた黒服の男の後をついて行くと、玄関に笑顔のモクバが待っていた。

「悪い、遅くなった」
「全然遅くなんか無いぜぃ。兄サマ、まだ帰って来てないし」
「え?まだ?もうこんな時間じゃん」
「海馬ランドの閉園時間が10時だからさ。今日は最後までいるんじゃないかな」
「なんかイベントとかしてるのか?」
「まぁね。今日から三日間はずっとだよ。オレも本当は兄サマと一緒に居たかったけど、子供は早く帰れって追い出されたんだ。折角の兄サマの誕生日なのにさ、個人的なお祝いもまだしてないんだぜ?おめでとうは言ったけどさ」
「あぁ、うん。……えっと、あのさぁモクバ。オレ、メールでも言ったんだけど……」
「その話は部屋で聞くよ。兄サマの所で待ってようぜぃ」

 そう言うとモクバは城之内の腕を掴んでさっさと足を進めてしまう。それにつられて後に続くと、最近漸く一人で行ける様になった海馬の私室へと足を踏み入れた。

 巨大な扉が音も無く閉ざされた瞬間明るい照明に少しだけ目を細めると、いつもは余計な物が無く殺風景な部屋の中央に小さな小箱があった。それを包んでいた包装紙やリボンは几帳面に折りたたまれ、箱の傍に置かれている。よくよく見てみれば箱の中身は既に空だった。開封された後らしい。

「それ?オレが兄サマにあげたプレゼントの空箱だよ」

 興味を持って近づくと、内線でメイドに何か指示をしていたモクバが少しだけ誇らしげな声でそう言った。中身を尋ねると芸能人が良く自慢気に身につけている高級時計の最新モデルらしい。

「そんなに高いものじゃないよ。値段が高い奴は下品でさぁ。オレは兄サマに着けて貰いたい奴を選んだんだ」

 ターコイズブルーの文字盤にホワイトゴールドで数字があしらってあってさ。ブルーアイズみたいなんだぜぃ。兄サマも気に入ってくれて、今日早速して出かけてくれたんだ。

 目をキラキラさせながらそんな事を言うモクバの顔を眺めながら、城之内はまた溜息を吐く。ああやっぱり今日は来るんじゃなかった。身の置き場がない。そう思い、ソファーの端に腰かけると小さく足を折り曲げて顔を伏せた。

「何やってんだよ」
「なんか物凄い自己嫌悪に陥っちゃって。海馬の誕生日を知らなかったの、クラスでオレだけなんだぜ?」
「あー……」
「お前もこんなに凄いプレゼント用意してさ、お前だけじゃなくて、皆がちゃんとアイツの誕生日を祝ったのに。オレなんかおめでとうすら言い損ねて」
「あの後、メール送らなかったんだ?」
「ここまで来たら直接言うしかねぇなって……」
「それはそうだね」
「海馬、何か言ってなかったか?」
「別に。言っただろ、兄サマそういうの気にしないって。お前にこの事言ってなかったのがいい証拠じゃん」
「そこなんだよなー!なんでアイツオレに今日誕生日だって言わなかったんだよ!そんっなにオレ信用されてないのか?」
「信用とかじゃなくてさぁ……なんて言うのかなぁ、興味がない?」
「酷ぇ!」
「あ、そういう意味じゃなくて!!兄サマは元々自分の誕生日に興味がないんだよ」
「でも、海馬ランドで……!」
「それは、海馬ランドがプレオープンしたのが、一年前の今日だったからだよ。だから一周年イベントとして派手にやったんだ。兄サマの誕生日ってのはついでで、企画部の奴らが勝手に付け足したものなんだ。だから別に兄サマが誕生日に拘った訳じゃない。大体テーマパークの経営者が自分の誕生日にかこつけて何かすると思う?誕生日イベントって言うのは『海馬ランド』の誕生日イベントだよ!」

 そう興奮して言い切ったモクバは、余りにも必死に喋っていた自分に恥ずかしくなったのか、小さな咳払いをすると大人しく城之内の隣に腰かける。

「……そういう訳だから、そんなに気にしなくていいと思うぜぃ。宣伝部には兄サマが猛抗議してたよ。余計な仕事を増やすなってね。煩わしい事、嫌いなんだよ」
「まあ、オレは気付かなかったけどあれだけ派手に宣伝しまくったらそりゃー大変だろうなぁ……皆が皆、誤解してたぜ?」
「皆って言えば、海馬ランドで遊戯達に会ったぜぃ。あいつら嫌がらせでハッピーバースディを歌ってさ、兄サマがキレてたけど」
「いやーそれは嫌がらせじゃないと思うぜ……」
「お前はむしろ兄サマを喜ばせたかもな。沈黙は金なりっていうけど、この場合沈黙は愛だぜぃ!」
「なんだそりゃ」
「ま、それは本人に直接聞いたら分かると思うけど。オレはとっとと席を外すぜぃ」

 賑やかな声が響いていた室内に微かな振動音が聞こえた瞬間、モクバはポケットから音の原因だった携帯を取り出して、口の端を吊りあげる。そして立ち上がるのもそこそこに、小走りで閉めたばかりの扉に辿り着き、城之内を振り返った。そしてわざとらしい大声で笑いながら言葉を紡ぐ。

「兄サマは明日も早いんだからな!困らせんなよ!」
「はぁ?んな事分かってるよ!」
「分かってるならいいんだけど。じゃ、また明日な!兄サマも、お休みなさい!」

 聞き慣れた「おやすみ」の声と小さな足音が消えて行くのと入れ違いに、中途半端に開かれた扉の向こうから不思議そうな顔をした海馬が姿を現した。手ぶらでいつもと同じ白いスーツにアイボリー色のコートを羽織ったその姿は、普段の彼と全く同じで。少しだけ想像していた抱えきれない花束やプレゼントの山は何処にも見当たらなかった。

「……随分と騒がしかったが、何かあったのか?」
「何かあったっつーか……この場合なんて言えばいいんだ?」
「?良く分からんが……貴様、来たのか。今日はバイトだと言っていただろう」
「うん。でもまぁいいじゃん。会いたかったからさ」
「そうか」
「遅くまでお疲れさま!ま、入れよ」
「ここはオレの部屋だ」
「そうでした」

 じゃあお邪魔しますって言うのはオレの方か。

 少しおどけてそう言うと、海馬は「馬鹿か」と小さく呟き、勝手に伸びて来た城之内の手に引かれるままに、室内へと入って行く。
 

 おめでとうの言葉は……まだ、届かない。
 海馬が疲れた様子でコートとジャケットを脱ぎ棄て、シャツのボタンを二つ程外すのを眺めながら、城之内は誕生日の事に触れるタイミングを計っていた。この期に及んで海馬は今日自分が誕生日だと言う事を口にせず、また、出すつもりも無い様だった。何故今夜遅くなったのか、明日は朝が早いのか、その理由すらも聞かなければ言う事もないだろう。

(こいつ、あくまでもオレをスルーするつもりかよ……)

 海馬の左手首を飾る見慣れない腕時計が照明を受けてキラリと光る。

「なぁ、海馬」
「なんだ」
「オレ、今日お前に言ってない事あるよな?」
「今日……?貴様が、オレに?」
「うん」
「さぁ……心当たりがないが。貴様、何かしでかしたのか?報連相は可及的速やかに行えといつも言っているだろうが」
「なんでそういう方向に行くんだよ。ちげーよ。つかそれはお前が社員に言ってる言葉だろうが!……っそういう事じゃなくて、マジで心当たり無いのかよ?」
「ないな」

 海馬がそう言い切った時小さなノックの音が響き、既に馴染みとなった小柄なメイドがワゴンを押して入ってきた。彼女が押すにはやや大きめのラタン製のワゴンにはいつも紅茶やコーヒーの入ったセットが置かれているのだが、今夜はもう一つ銀製でドーム型のカバーがかけられた大皿が一枚乗っていた。

 脇に添えてある小皿とフォーク、そして見慣れないナイフが置いてある事から、カバーの下は間違いなくケーキだろう。それにつっこんでやろうと城之内が口を開く前に、海馬は素っ気なく後は自分がやるからいい、と彼女を下がらせてしまった。

 またタイミングを逃してしまった。やはり今日は運が悪い。しかし、だからと言ってここで引き下がる訳にはいかないのだ。日付が変わるまで、まだ大分時間はあるのだから。

「な、それ、オレにやらせて?」

 海馬が当然の様にワゴンに近づき、温められた茶器に触れようとしたその時だった。いつもは大人しくソファーに座ってモノが出るのを待っている城之内が、邪魔をするように海馬の腕を掴み強く後ろに引っぱった。不意をつかれた形となった海馬はその場で小さく踏鞴を踏み、ワゴンから遠く離れてしまう。

「貴様何をしている!」
「いいから。今日はオレがやる」
「は?」
「お前は大人しく座ってりゃーいいんだよ」
「なんだ急に。どういう風の吹き回しだ?」
「だってそうだろ。今日はお前が主役じゃねぇか」

 振り向き様に驚く海馬の両肩を掴み、強引にソファーへと座らせる。事態が把握出来ずに困惑の表情でこちらを見あげる海馬に、城之内は心の中で舌打ちし、ワゴンに置かれた例のカバーを勢い良く取り上げた。

 そこには彼の想像通り普段よりも少し凝ったデザインのケーキが二つ並んでいる。海馬側と思われる方には『Happy birthay』の飾り文字が踊った楕円形のチョコレートプレートが付いていた。

 それをじっと見下ろして、城之内は小さな小さな溜息を吐く。
 

「今日、誕生日なんだろ?だったら、オレがやらなきゃおかしいじゃねぇか」
 

 ここまで言ってもつまらない反応を示す様なら今度は文句を言ってやる。そう思いながら眼下の海馬を見下ろすと、彼は暫し無言で瞬きを繰り返していたが、やがて静かに「……そうだが」と呟いた。

 その声には「何故貴様が知っているのだ」という驚きも、「敢えて貴様には隠していたのに」という気まずさも全く感じられず、「今日は何が食べたい?」と尋ねて「なんでもいい」と適当な言葉が返ってくる、あの反応と同じだった。

「そうだがって……何でオレに教えてくれなかったんだよ」
「貴様に教える必要性を感じなかったからだ」
「はぁ?必要性がないって……オレをなんだと思ってるんだよ?!」
「凡骨は凡骨だろう?」
「そういう意味じゃなくってさ!!あーもうー分かんねぇなぁ!」
「貴様が何を言いたいのかさっぱり分からない」
「オレだってこう言うのなんて言ったらいいか分かんねぇよ!……えぇっと、だからさ、オレとお前って恋人同士じゃん?普通はさ、誕生日とかクリスマスって一大イベントな訳よ。そんで、今日はお前の誕生日だっただろ?オレがもしその事をちゃんと分かってたら、モクバと一緒に祝う事も出来たし……それが出来なかったのがなんて言うか、凄く残念でさ……。そりゃ全然知らなかったオレも悪いんだけど……でも……」

 城之内が幾ら必死にそう言い募っても、眼前の海馬の表情は変わる事がなく、ますます不思議そうな顔で見つめてくる。しまいには興味なさげに視線を逸らされ、こっそりと欠伸までされてしまった。……なんだこの状況、不毛すぎる。今日一日のドタバタを思い出し、城之内が疲れを感じたその時だった。

 漸く『眠い、面倒臭い』という気持ちをひっこめたらしい海馬が、幾分真面目な顔をして頭をあげる。そして真っ直ぐに城之内の目を見ると、穏やかな声でこう言った。

「要するに、貴様はオレの誕生日を祝いたかった、という事か?だから聞かされなかった事に怒りを感じている、と」
「そ、そうだよ!お前話聞いてんじゃねぇか!……って、別に怒っちゃいねーよ!まぁちょっとは悔しいなって思ってるけど……」
「何が悔しいのだ」
「色々。一番におめでとうも言えなかったし、プレゼントも買えなかったし……一緒に……」
「特に興味は無いな。オレには必要のないものだ」
「………………。……うわー、モクバの言った通りかよ」
「何がだ」
「お前ってホント自分の誕生日に興味ねぇのな……」

 海馬の事だからあからさまに喜ぶ事はないだろうが、少なくても好意位は示してくれると思っていた。しかし彼はあくまで淡々と城之内に言い放つ。余計な御世話だとまでは行かないだろうが、城之内にそう言われる事自体が鬱陶しい、位は思っているだろう。

 なんだか力が抜けてしまう。焦りに焦った今日一日は何だったのだろうかと。

「………………」

 それ以上海馬を言いくるめるのも無駄な気がして、城之内は海馬と対峙するのをやめてしまった。これも彼と付き合ってから何千回も経験してきた見解の相違の一事例なのだろう。別の意味で自分はリサーチが足りなかった。どちらにしても、失敗だ。

 城之内は肩を落として嘆息すると海馬と議論するのは諦めて、放置されていたケーキと飲み物に手を伸ばす。小さな小さなバースディケーキ。これすらも海馬にとってはなんの興味も無い物なのだろうか。モクバに貰った腕時計も、遊戯達のハッピーバースディも何もかも、ただの好意の押し付けにしかならないのだろうか。それは余りにも悲しすぎる。

「何故不満そうな顔をしている」
「お前が嬉しそうな顔をしねぇから。こういうの、全部迷惑なのか?おめでとうって皆から言われる事とか、プレゼントを貰う事は逆にうざったい事なのか?」

 音を立てて海馬の前にカップを置く。加減が分からずなみなみと注がれた紅茶は思い切りソーサーへと零れ落ちた。「不器用だな」と即座に放られた感想はスルーする。城之内は自分のカップにも同じだけの紅茶を注ぎ込み、黙って一気に飲み干した。

 ふうっ、と自然に声が出る。紅茶は立ったままでも飲む事ができたが、ケーキまでは無理だった。仕方なく海馬の横に腰を下ろした城之内はプレートのないケーキの方に手を伸ばす。瞬間、海馬も同時に手を伸ばし、自身のケーキに載っていたプレートを城之内のケーキへと突き刺した。そして何食わぬ顔で己の分に手を付ける。

 埋もれたハッピーバースディ。それすらも邪魔なのかと城之内は思わず眉を吊りあげる。

「お前なぁ!」
「貴様はそれが好きだろうが。モクバは喜ぶぞ」
「だからそうじゃねぇって言ってんだろ!少しは人の気持ちも……!」
「嬉しいぞ」
「え?」
「別に、嬉しくないとは言っていないだろうが」

 一々騒ぐな。貴様の『それ』は純粋に鬱陶しいわ。

 そう一言口にして、以降熱心にケーキを食べ始めた海馬の態度に、今度は城之内が呆気にとられた。あの……えっと……意味が分からないんですけど。彼は心の中で呟いて、自分も仕方なくケーキを食べる。そうして二人で黙々とケーキを食べていると、早く手をつけた分先に食べ終えた海馬が紅茶を飲みながら口を開いた。

「オレが貴様に何も言わなかったのは、敢えて言う必要もないと思ったからだ。言っておくが、オレは誰にも自分の誕生日など吹聴した覚えはないぞ。貴様も聞かなかっただろうが」
「それは、そうなんだけど……」
「大体貴様、先程からプレゼントだなんだと煩いが、何を寄こすつもりだったのだ」
「へっ?何って……」
「考えがあるからこそ口走るのだろう?」

 優雅な仕草でカップを傾けながらそんな事を言う海馬を凝視して、城之内はフォークを口に銜えたまま絶句する。まさか、今この場でプレゼントの無心が来るとは思わなかったからだ。話の流れが意味不明じゃないですか?海馬さん?……声には出さず胸の内でそう突っ込みながら、城之内は言われた事を懸命に考える。

 その実海馬にそう問われても、城之内にはきちんとした考えがまるでなかった。この事実を知った今日の昼から日付が変わる間際のこの時までそれなりに時間はあったものの、「これだ!」と思うものを考え付く事が出来なかったのがいい証拠だ。

 結局、バイト先の同僚にアドバイスを貰ったケーキや花は買わずに来た。それは金銭的な問題ではなく、気持ちの問題だった。要らないものを贈られても嬉しくはないだろう。そんな言い訳ともとれる言葉を正当化して、手ぶらでここにやって来ている。

 『海馬の喜ぶもの』が何なのか、今でもよく分からない。

「それが……まだ決めてねぇんだ。突然だったし」

 視線を空に泳がしながら、城之内は素直にそう告白する。最後の一言はあまり関係無かったが、付けないよりは付けた方が心象がいいだろうと彼なりに考えた結果だった。しかし、伊達に恋人を名乗っていない海馬には、そんな事はお見通しで。

「突然じゃなくても大したアイデアが浮かぶとは思わんがな」
「……うっ」
「そう言う意味も含めて貴様には教える価値がないと思ったのだ」

 言葉とは裏腹に実に楽しそうな笑みを見せるその顔を城之内はやや驚いた体で見遣っていた。なんだか、今日の海馬は機嫌がいい。いつもなら直ぐに不機嫌になって黙りこむ様なやりとりも、大らかにこなしてくれる。

「えーっと……一つ確認させて欲しいんだけど、それはオレに期待してないから、っていう意味?どうせ大したプレゼントも送れないし、煩いし……」
「誰がそんな事を言った」
「お前」
「概ね合っているが、根本的な所は違っているな」
「と、言いますと?」
「オレが欲しかったのは形式ばった祝いの言葉や、なけなしの金をつぎ込んだプレゼントではなく、ごく普通の日常だ」
「………………?」
「だから、プライベートでまで誕生日を意識して過ごしたくはなかった、という事だ。仕事で散々祝いの言葉や贈り物の品などに囲まれて、やれパーティだなんだのと付き合わされるのだぞ。家で位解放されたいだろうが」
「……ああ、うん」
「今日の勢いで良く分かったが、貴様に誕生日が事前に知れていたら、カウントダウンから始まる事は目に見えていた。モクバや家の者と結託してそれこそ盛大なパーティを遣りかねない。気持ちは有り難いが、正直疲れるのだ、だから」
「敢えて黙っていた訳ですね」
「その通りだ」
「何だよそれ〜!やっぱり迷惑なんじゃん!」
「だから迷惑とは言ってないだろうが。強いて言えば何もしてくれない事がオレにとっての最高のプレゼントなのだ。故に、オレは欲しいものを貰った。結果的には望みが叶ったと言えるだろう」

 尤も、少々騒がれてはしまったがな。この位は許容範囲だ。

 そんな上から目線で頂戴したコメントに、城之内は身体の芯から脱力した。そして「やっぱりコイツは捻くれ者だ」と心の中で断言する。

(何もしない事がプレゼントって一体なんだよ。聞いた事ねぇよ。オレってそんなに煩いか?!まぁ、煩いけど。なんだコイツ事良く分かってるじゃん!可愛いな!っつーか、それじゃあオレは祝う事も許されない訳?そんなのって有りか?!)

「……なんか、全然理解出来ないけど、結果オーライって事は良く分かった」
「そうか、良かったな」
「で、オレはお前におめでとうすら言えない訳?」
「言いたければ言えばいいだろうが」
「……投げやり〜」
「祝いの言葉位なら、大した問題ではないからな」

 あくまでもその路線を貫き通すらしい海馬に城之内はもう溜息を吐く事すら諦めて、小さな声で「おめでとう」と口にした。しかし言葉だけでは少々物足りなかったので、口付けも追加した。ケーキを食べたばかりでチョコレートと生クリームの味がそのままの、甘いキス。

 粘度の高い唾液の糸が海馬の口の端を濡らすのを指で拭って、城之内は密かに残しておいた祝いの言葉が書かれたチョコレートプレートを差し出した。

「やっぱりこれはお前が食えよ。皆の気持ちだし」
「もう胸やけがしているのだが……」
「そう言わずに。食べ過ぎたんなら運動に付き合うけど?結局オレの意思でお前の欲しいもんをあげられなかったから、せめて心地いい眠りを提供するぜ!それも『日常』の一つだろ?お前の望みだろ?」
「疲れるから嫌だ」
「そう言わずに。今日はサービスしてやるよ。誕生日だし!」

 な?と笑顔で言いながら既に半分溶けているチョコレートを突き付けてくる城之内に、海馬は僅かに肩を竦めると汚れた指ごと手にとって舌で全て舐めとった。

 甘い、と文句を言う唇に、城之内はもう何も言わずにキスをする。

 モクバと約束をしたから日付が変わる前には眠りに就こう。そう思いながら城之内は目の前の身体を抱き締めた。そして耳元に口を寄せてもう一度おめでとうと囁きかけて、口を噤む。代わりに首筋にキスをすると、漸く背に海馬の細い腕が回った。言葉とは裏腹に、しっかりとしがみ付いて来る。

 何も要らないなんて嘘じゃん、矛盾してる。でも、喜ばれるのなら幸いだ。

 一番に気持ちを伝える事ができず、形あるプレゼントも送れなかったけれど。
 海馬が、本当に幸せそうな顔で笑うから。
 

 城之内は何も言わずにただ、最愛の恋人を抱く腕に力を込めた。