消えない痕 Act1

「ね、今日の新聞見た?」
「見た見た。本当にびっくりしちゃった」
「海馬くん、大丈夫かな」
「さっきの速報だと、命に別状はないとか言ってたけど……」
「あ、じゃあ良かった」
「でも、交通事故って……信じられないよね」
 
 

 それは短い秋に別れを告げる直前の肌寒い朝の事だった。地元の童実野町のみならず、世界の経済界を揺るがす衝撃的なニュースが入った。
 

 ── 海馬コーポレーション社長・海馬瀬人、交通事故で意識不明の重体。
 

 事故直後の同日深夜、速報で流されたそのニュースは時間が経つにつれて大々的に報道され、日本全国において朝の話題はこの事故の事で持ちきりだった。

 テレビ画面に映る都心から少し外れた、それでもかなり交通量の多い主要道路の片隅に映る赤黒く変色した大量の血の跡。そして、海馬瀬人といえば誰でも即座に連想するだろう、既に身体の一部のようなデュエルディスク。無残にも粉々に砕け散り、血濡れの破片が四方に飛んで原型すら留めないそれを目にした者は誰もがその事故の凄惨さに息を飲み、眉を潜めた。

 事故自体は事件性もなく、至って単純なものだった。少し小雨がぱらついていた深夜の童実野町駅前で、横断不可な場所に佇んでいた海馬が、飲酒をし無灯火で、尚且つ法定速度100キロオーバーの無法車に跳ね飛ばされた。ただ、それだけの事だった。

 時間帯が深夜であり、降雨だった事からその場に人通りは全くなく、目撃者は皆無。ただ直前に誰か男の悲鳴のようなものが聞こえた、との証言があり、それが海馬本人のものかどうかは特定されてはいないという。

 午前10時。海馬コーポレーション副社長であり、瀬人の弟でもある海馬モクバが急遽会見を行い、現状を説明した。記者団の矢継ぎ早な質問に、努めて冷静に未だ意識不明ではあるが命には別状がなく、後遺症が残るような事も現時点ではないだろう、と答えた。

 震える声を涙を必死で堪え、蒼白な顔色で言葉を紡ぐその様を見た多くの視聴者は皆一様に可哀想に、気の毒だ、と呟き、KC本社には大量の見舞いの品や回復を願うメッセージ等が送り届けられた。無人の社長室はそれらの品で埋め尽くされ主が帰ろうにも居場所がなくなり、社用のメールボックスは仕事以外のメールでパンクした。

 後日それらを全てを一人で黙々と処理をしながら、モクバは会見では堪えていた発作にも似た嗚咽を漏らさずにはいられなかった。その胸を満たすのは、悲しみではなく後悔だった。

 どうしてあの時無理にでも引き止めなかったのだろう。見送ってしまったのだろう、と。

 あの日、事故直前に家を出る兄と廊下ですれ違った。彼は酷く慌てた様子で少し出てくる、と短く口にするとモクバの横を通り抜けた。こんな雨の日に何処に行くの?もう夜中だし、明日じゃ駄目なの?半分寝ぼけつつそう言った自分に振り返った彼は曖昧な笑みを見せて、すぐに戻るから気にするな、と吐き捨てるように言い残して駆け出した。

 それが、モクバが普通の状態の兄を見た最後だった。

 ……まさかその数時間後、病室で人工呼吸器をつけた彼に再会するとは思わずに。
「どういう事なのか、オレにもわかんないんだ。でもあの日、夜中まで兄サマはいつもの兄サマだった。オレと一緒に夕食も取って、少しだけゲームも教えてくれて。デュエルディスクをつけてたのは、オレとゲームをしたからだよ。……後は寝る時間だったし、オレは部屋に帰ったけど。そこまでは何の変わりもなかったんだ」
「海馬くんは、これまでも夜中に突然出て行くような事ってあったの?」
「仕事以外ではそんな事なかったぜ。だから、スーツも着ないで出かけようとしていたのを変だな、って思ったんだ」
「一人でいた時間は?」
「三時間位かな。オレも寝ちゃってたから何をしてたのかとか、全然……」
「そっか……」
「兄サマに限って交通事故なんて考えられないんだ。きっと何かあるに決まってる」
「でも、それを突き止めたところでどうするの?」
「それは……分からないけど」
 

 あの凄惨な事故から五日後。小さな電子音が断続的に響く特別室で、遊戯は背後にある他の部屋より少し大きな寝台に横たわる海馬の姿を見つめていた。顔の大半を白い包帯に覆われて、機械に囲まれたその姿は普段の彼の姿と余りにもかけ離れていて、本当にこれがあの海馬なのかとにわかに信じ難くなる。

 モクバの話では未だ意識は戻る事はなかったが、時たま声にならない声を漏らしたり、僅かに身動きをする事から心配はないと医師に言われたという。怪我の程度は数箇所の骨折と全身打撲。これは事故の際、コンクリートに叩きつけられた所為だという事は直ぐに知れたが、一箇所だけ……左腕に不自然な創傷があった。彼はこれが酷く不審に思えるという。

「誰かが兄サマの命の狙っているとか……よくある話だけど。でもこんなやり方って始めてだぜ。大抵は銃撃だし」

 命を狙われるのがよくある話。それを少年がさらりと口にする異常さに遊戯は一瞬背筋に冷たいものが走った気がした。華やかな外見に誤魔化されがちだが、彼等の生活は決して安穏としたものではなかった。

 複数の事件報道に紛れて、時たま海馬が狙撃されたという話も耳に届く。けれどそれはいつも未遂に終わる為、報道的には事件としての扱いも酷く軽く、なんでもない事の様にさらりと終わる。聞いているこちらも、「またか」な思いを抱くだけで受け流す。よく考えればこれ程恐ろしい事はないだろう。何かが、歪んでしまっているような気がした。

「もし、そうだとしたら、ここの警備も厳重にしなきゃならないんじゃないかな」
「うん。一応手配はしてある。でも、ここに兄サマがいる事はオレ達位しか知らないし、情報が漏れなければ、多分大丈夫」
「そう…だね」
「オレはお前だから教えたんだぜ。他の仲間には悪いけど、一応黙ってて欲しいんだ」
「うん、分かってる」
「何かあったら携帯に電話するから。そっちも、何か少しでも知ってることがあれば教えて欲しいんだ。なんでもいいから」
「……わかったよ、モクバくん。元気出してね。僕、力になるから」
「サンキュ」

 オレは大丈夫!そう言っていつもの様に笑ってみせたであろうその顔は、決して笑ってはいなかった。遊戯は小柄な自身よりまだ小さなモクバの肩を優しく叩きながら、彼が今しがた口にした台詞を反駁し、何かを堪えるように目を閉じた。
 

 『何か知っていることがあれば教えて欲しいんだ』
 

 ── そう、僕は一つだけ知っている。あの日から変わった事。多分、今回の事の手がかりになりそうな事。知ってはいるけれど、今ここで口にしていいかどうか分からない。気づいていない君に気づかせてしまっていいのか、僕には分からないんだ。
 

「………………」

 遊戯には、一つだけ心当たりがあった。

 海馬が事故にあったあの日の夕方、遊戯の携帯に数回の着信があったのだ。その日は放課後から杏子に付き合って買い物やら映画やらを楽しんでいた為、その着信に気づいたのは寝る直前で、夜中に折り返すのも悪いと思ってそのまま寝てしまった。今思えば、どうしてあの時、電話に気づかなかったのだろう。夜中でも構わず電話をかけなかったのだろう。…どうして。

 遊戯は無意識にポケットに手を入れて、携帯を握り締めた。
 着信履歴に残っていたのは城之内克也の名前。

 そして彼はあの日以来、学校に来ず、家にもいなかった。

 行方不明……なのだ。
「そういえば。オレさー、昨日告白したんだよね」
「へー。誰に?」
「海馬」
「ふーん。……って、えぇ?!」
「まあ、血迷うなとか変態とか死ねとか言われる事覚悟してたんだけどさ、意外にあっさりとOK貰った。ついでに最後までいった」
「うわ。ちょ、ちょっと待ってよ城之内くん。淡々と話進めないで!」
「あ?」
「あ?じゃないよ。なにそれ」
「なにそれって。トモダチに自分の恋愛報告してるだけだけど?こんなに困難がないと気持ち悪いよな。すげぇ幸せな事なんだけど」
「困難があったはずなのに二人で綺麗に無視しちゃってるだけじゃ……凄いぜ、城之内くん」
「人間勢いが大事だよな。うだうだ考えててもなんも始まらねーし。とりあえず当たって砕けろみたいな?今回の場合は当たって向こうが砕けたみたいな感じだったけど」
「海馬くん、可哀想に……まさか無理矢理なんて事無いよね?」
「まぁ、ちょっとは……んでもさ、可哀想じゃねぇだろ。嫌なら逃げりゃーいいんだ。逃げねぇって事は嫌じゃねぇって取るぜ普通。そうだろ?」
 

 あれは何時の事だっただろう。
 夏も終わりに近い、それでも気温が30度を超えた暑い日の放課後だった気がする。
 

 クラブ活動で遅くなる杏子を待つ為城之内と二人、西日が強く蒸し暑い教室を抜け出して屋上で涼んでいた時だった。ごく普通の下らない話の延長線上にさらりと出てきたその一言に、遊戯は思わず持っていたコーラを落としてしまった。コンクリートの上をじわじわと流れて行く黒に近い褐色の液体を名残惜しげに眺めた後、遊戯は一段高い場所にあるフェンスに凭れて夕空を眺める城之内を見つめていた。

 少し温度の下がった初秋らしい風が、彼の金の髪を揺らし、吹き抜けていく。真正面から照り付けてくるオレンジ色の光に目を細めるその表情は、とても己の恋愛が成就して幸せ一杯の顔、とは思えなかった。それでも根が正直で何事にも素直で優しい彼が、偽りや一時的な感情で他人を弄ぶような真似をするはずもなく、その相手である海馬も意に沿わない事をするはずもさせるはずもない。しかも相手は海馬が凡骨などと称して心底小馬鹿にしていた男なのだ。

 彼らの恋愛自体が一般的かどうかは置いておいて、城之内の言う通り上手くいって幸せな事ではあるのだろう。何故か、それが表にはでないだけで。そう遊戯が思おうとしたその時だった。

「恋愛ってさ。普通すげー楽しいもんだよな。色んなこと二人でやりたいとか、あれこれと考えてさ、考えるだけで胸がトキメクっていうか。まぁ、勝手な憧れだけど」

 遊戯の視線に気づいているのかいないのか、そのままの姿勢で城之内は言葉を続ける。その内容とは裏腹に、表情はますます硬く沈んでいくようだった。おかしい。彼は酷く幸せで、嬉しい報告をしているはずなのに、どうしてそんな顔をするのだろう。

「でも、おかしいよな。オレ、今全然そうは思えねぇんだ。すげぇ嬉しいのに、それと同じ位悲しいし、辛い気がする。ヤバかったかな、って思い始めてる。昨日の今日で」
「どうして」
「分かんねぇ。……いや、なんとなく分かってたけど、止められなかった」
「変なこと聞くけど、城之内くんって、恋愛……初めてなの?」
「ああ。『恋愛』は始めてかもしんねぇ。今まで色んな女とは付き合ったけど、そもそもガキだったし好きとか嫌いとかそういう感情ってあんまりなかった。楽しけりゃいいや、みたいな。重さ的に言えば全部軽かったんだよな。ひでぇ話だけど執着とか全然なかったし。なくなったら次探せばよかったし」
「でも、今回は違うんだ?」
「違う、と思う。まだ分かんねぇけど。こんな気持ちになったのが初めてだから違うんだろ」
「それは、海馬くんが男だからじゃないの?」
「うーん、そうなのかなー。ヤる分には一緒だったしなぁ。特に変わりはなかったぜ」
「……そっちの話じゃない、話を反らさないでよ」
「何にしても、もう後には引けねぇし、引きたくもねぇ。未来を見据えて生きるぜオレは!」

 そう一人で勝手に結論付けると、城之内は勢いを付けるようにガシャ、とフェンスを蹴飛ばして飛び降りた。運悪く遊戯が零したコーラの上に着地してしまい、多少大げさに騒いだ所為でその場に漂っていた重苦しい雰囲気は払拭されてうやむやになってしまった。

 けれど、あの時の城之内の事はこんな風に今でも鮮明に覚えている。

 その後三ヶ月間、二人がどんな形で関係を続けていったのか、事後報告がまるでなかった遊戯には知る事が出来なかった。海馬は殆ど学校には来なかったし、城之内に聞くのもなんとなく躊躇われた。城之内もまた、積極的にその手の話を持ち出す事がなかったから、特に言う事はなかったのだろう。それとも、言えない何かがあったのだろうか。

 ── 苦しいし、悲しい。

 その言葉が、遊戯の胸に重くのしかかる。その苦しみ、悲しみの根源は一体なんだったのだろう。幸せよりも先に彼の心を占めた感情の正体を知りたかった。そして、そうなる事をおぼろげに知りながら手を伸ばしてしまったその訳を。

 経緯がどうあろうと、結果が良ければ特にどうとも思わなかった。しかし、現に海馬は意識不明で横たわり、城之内は忽然と姿を消した。これほど最悪な結果もないだろう。

 あの日の着信は、きっとこの事に何か関係した話だったのだ。絶対にそうだとも言い切れないが、遊戯はそう確信している。大体普段は面倒くさがってこちらからかける電話すら取る事をしない彼が、短時間に何度も電話をかけて来たのだ。よほど逼迫した事態だったに違いない。タイミングが悪い時はとことん重なってしまうもので。それすらも、運だと言えばそれまでなのだ。
 
 

『そんなに落ち込むなよ相棒。運が悪いだけだぜ』

 病院からの帰り道、人気の無い道を足取りも重く歩いていると、心の中の住人がそう話しかけてきた。身体を共有している関係上、彼も遊戯と共に同じ物を見聞きして全て知っている。相談相手としてこれ程頼りになる相手はいないのだ。

 遊戯は何時の間にか隣に立った彼を見上げ、小さな溜息を吐く。改めて回りを見回すと、遠くに人影すら見えなかった。これなら、彼と会話をしても大丈夫だろう。そう思い、遊戯は体の向きを変えて、隣に佇むもう一人の遊戯を見た。そして、幾分押えた声でこう吐き出した。

「……でも、僕があの電話を取っていれば何かが変わったかもしれない。城之内くんを説得できたのかも」
『説得って。何も分からないうちに何を説得するって言うんだ。先走りは良くないぜ』
「だって、海馬くんが……」
『海馬の事故には、確かに城之内くんが絡んでると見て間違いない。それはオレも認めるぜ。だけどどんな形で絡んだのか、それによって大分変わってくるんじゃないか』
「形って?」
『相棒は、まさか「城之内くんが海馬を殺そうとしたんじゃないか」なんては思ってないよな?』
「思うわけないじゃないか!ありえないよ!もしかして、君はそう思ってるの?!もう一人の僕!」
『オレはそうは思ってない。でも、相棒は城之内くんが消えた所為で、可能性を全く否定は出来ないだろ?』
「…………っ!」
『なんにしても鍵は城之内くんが握っている。探さないことには、どうにもならないと思うぜ』

 な?と透明な手が遊戯の肩を叩き、消えていく。ゆっくりと闇に沈んでいく街中で暫し佇んだままだった遊戯は、意を決したように顔を上げた。そうだ、何もかもを知っている僕が動かないと駄目なんだ。取り返しのつかない事にならない前に。なんとしても。

 取り返しのつかない事。

 不意に浮かんだその言葉に、遊戯はびくりと背を震わせた。……何を思ってるんだ、僕は。取り返しのつかない事って、どんな事だよ。そんな事あるはずがないじゃないか。城之内くんに限って。あの二人に、限って。

 思いを振り切る様に、遊戯はその場を駆け出した。周りの景色がブレて見え、上がる息と激しく高鳴る鼓動が苦しかった。何よりも大事な親友のために、自分が今しなければならない事。遊戯は走りながらポケットに手を入れて、携帯を取り出した。そして、画面を見ずに操作して、通話ボタンに手をかけた。

 上下する耳に上手く受話口をあわせるのに苦労しつつ、彼は走るのをやめなかった。
 
 

 一方、病室に残されたままだったモクバは持ち込んだノートPCを前に、未だ大量に送られてくるメールの処理に追われていた。大半が瀬人を気遣う心優しい内容だったが、その中には悪辣な一言や瀬人本人ではなくKCへの不安を誇張して告げてくるものも混じっていた。

 怒りと悲しみ、所詮世の中なんてこんなものだ、そう思いつつなるべく事務的に処理を続けていると、不意にすぐ傍に眠る瀬人が動く気配がした。慌てて見ると、しっかりと付けていたはずの呼吸器が僅かにずれて、外れかかっている。

「……兄サマ!」

 慌ててPCを脇にどけると、モクバは直ぐに外れたそれを直そうと、瀬人の頬へ手を伸ばした。呼吸器の扱いは医師のやる様子を見ていてすっかり頭に入っていた。緩んだバンドを付け直し、唇の直ぐ下にずれていたそれを、元の位置へと戻そうとする。……その時だった。

 僅かに震えた瀬人の唇が、思わぬ言葉を呟いたのだ。

「……じょ……の……う…ち」
「……城之内?」
「………………」
「兄サマ!!」
「………………」

 それっきり、彼が言葉を呟くこともなく、唇は閉ざされた。色味の良くないそれの上に元通り呼吸器をつけなおしたモクバは酷く動揺して、眠る兄の顔を見遣った。

「一体、どういう事?兄サマ……」

 その呟きに、答える声はなかった。兄の生命を繋ぐ規則的な電子音のみが響くその部屋で、モクバは暫しそこに佇んだまま動く事が出来なかった。
『城之内ぃ〜?しらねぇなぁ。まーた全部フケてどっか旅にでも出ちまってるんじゃねぇのか?ほっとけほっとけ』
『何も聞いてないけど……大体あたしが遊戯よりも詳しいわけないでしょ。何かあったの?』
『城之内くん?え〜何も知らない。今日たまたま最近のバイト先の前通ったけど、姿は見えなかったなぁ』

 次から次へ知り合い全部に連絡を取って城之内の事、彼が行きそうな所を訪ねてみたが、誰一人その安否や行方を知る者は居なかった。そもそも城之内がいない、という事を気づいていた者の方が少ないという始末だ。

 それも当然だ。一週間位ぱったりと顔を見せなくなる事など今まで何度もあったからだ。友人達にしたら、それこそ「また始まった」位の感覚しかないのだろう。今日はまだ5日目だ。心配するだけの日数が足りず、まさかそこに重苦しい事件の真相が絡んでいるなど思いもしない。遊戯本人も三ヶ月前に聞いた城之内からの告白がなければ、彼らと同じような感覚でいるかもしれない。

「万事休すだよ……どうしよう」

 既に温かいを通り越して熱くなってしまった携帯を握り締め、遊戯は途方に暮れてたまたま近くにあったベンチへと座り込んだ。気温は大分下がり、吐く息は白く空気に溶けて行く。

「よく考えたら僕、城之内くんの事って全然知らないんだ。あんなに長く一緒にいるのに、何を考えているんだろうとか、こういう時何処にいるんだろうとか、全然……」

 ぎゅっ、と携帯を握り締め、溜息と共にそう呟く。そう、本当に分からないのだ。遊戯が知っているのはいつも元気にふざけた事を言いながら笑顔を見せる姿だけで、その裏に何があるかなど考えた事すらなかった。

 クラスメイトになってから大分経つが、それまで友達と言うものが居なかった遊戯にとって、他人との距離の縮め方など分かる筈もなかったのだ。何でも話し合える友達。確かに自分と城之内はそうだったのだろう。けれど、その「何でも」の範囲は酷く狭い。心の深部までは到底到達出来てはいなかったのだ。

 それを証明するのが今回の事件だ。城之内は自分が海馬に告白して成功した事までは知らせてくれたが、その時に口にしていた「辛い、苦しい」の意味を教えてはくれなかった。一番重要だったその部分を隠されてしまった事、それが、親友と称する相手と自分との距離なのだろう。

 けれど、よく考えればそれは少し間違いで、彼はもしかしたらその部分を話そうとしたかも知れないのだ。それまでも、遊戯が水を向けさえすればさらりと教えてくれたのかもしれない。そうでなくても、あの複数回の着信のどれかを取れば、分かったのかもしれない。

 ぐるぐると思考がループする。あの時ああしていれば、と結局は元に戻ってしまう。

『また最初に戻ってる。そんなに簡単に心の奥底まで打ち明けられる「他人」なんて存在しないぜ、相棒』
(うん、分かってるよ。でも、僕はどうしたらいいんだろう)
『他人を当てにするのはやめて、自力でなんとかするしかないだろうな。……大体、それで全部なのか?』
(全部って?)
『オレにはまだ連絡が取れる人間がいると思うがな。尤も城之内くんに近い、確実な』
(確実……あ!)
『だろ?電話してみたらどうだ。やらないよりマシだろ』
(でも……いいのかな。余計な心配かけたら……城之内くんも静香ちゃんには迷惑かけたくないだろうしさ)
『そこは相棒の判断に任せるぜ。オレはアドバイスしただけだ。じゃ』
(あっ、ちょっと酷いよ!そこで消える?ねぇ!)
『……言わないで、後から取り返しのつかない事になって迷惑をかけるのと、言って今迷惑をかけるのは、変わらないと思うぜ』

「………………」

 最後は殆ど溜息交じりでもう一人の遊戯はそう言うと、今度こそ奥に引っ込んでしまったようだった。「取り返しのつかない」をわざと強調して見せたのも、人の心を何気に盗み見でもしたのだろう。遊戯自身いかに自分の身体だろうと、他人の心を見るという事は出来ないし、したくない。もう一人の僕も悪趣味な事しないで欲しいよ、そうぶつぶつと文句を言いながら手の中の携帯に改めて視線を落とす。

 闇遊戯の言う通り、静香に連絡を取った方がいいのだろうか。もしかしたら、彼女の元にいるのかもしれない。けれど、電話をしてなんと言ったらいいのだろう。たださらりと、城之内くんがそっちに行ってない?と聞けばいいのだろうか。不審がられないだろうか。そこでいると言われればしめたものだが、いないと言われて「何かあったんですか?」と切り返されたら、何でもないよ、と軽く躱せる自信はない。

 大人しくしとやかな物腰の静香だがその芯はとても強い。さすが城之内の妹といえばそれまでだが、杏子を代表とする押しの強い女性に弱い遊戯は、彼女に真正面からぶつかられるのが怖いのだ。

 それをずっと考え続けて早10分。すっかり身体も冷え切った頃、遊戯は至極情けない溜息を一つ吐くと、縋る様に心の中でこう言った。

(ねぇ。もう一人の僕が電話してよ……)
『………………』
(もう、ズルイんだから)
『相棒の友情が試される時だぜ。大丈夫だって、もしもの時は切っちまえばいい』
(途中で電話を切ったら不審がられるじゃん……もういいよ)

 こうしている間にもどこかで何かが動いているのだ。躊躇などしていられない。そう意を決した遊戯は漸くアドレス帳を開いて静香の名前を呼び出した。後は通話ボタンを押すだけ、そう思い恐る恐るそこへ指を伸ばした、その時だった。

 小さなディプレイが賑やかなメロディと共に、着信を知らせる画面に切り替わる。表示された名はモクバだった。

「うわっ、モクバくんからだ。はいはいっ」
『あ、遊戯?』
「う、うん。僕だよ。どうかした?海馬くんが目を覚ましたとか」
『兄サマは変わんないし、どうかしたって訳じゃないんだけど……ちょっと聞きたい事があって』
「うん、何?」

 携帯を通して聞こえるモクバの声は先程直に会った時よりも小さく、頼りなげに聞こえてくる。あの広い病室に物言わぬ兄と共に残されて、酷く不安なのだろうか。自分なら多分耐えられないだろう。そういう意味では彼は強い少年だと思った。あの海馬の弟であるのだから、当然なのかもしれないが。

 遊戯がそんな事を考えている間、相手も何か思う所があるようだった。数十秒沈黙が続く携帯は通話中の証であるカラフルなランプの明滅がなければ、繋がっている事すら忘れそうな程静かで、重ささえ感じられた。

 よく考えればつい先程別れたばかりなのに、モクバが何の進展もないままに連絡を取ってくること自体ありえないのだ。多分、何かあったのだろう。直ぐに口に出すことができない、何かが。

「モクバくん……?」
『遊戯』

 長い無言の時に終止符を打つように遊戯がモクバの名を呼び、会話の続きを促そうとした時。不意にモクバは強い口調で遊戯の名を再度呼び、大きく息を吸う音が聞こえる。なんだろう、そう遊戯が改めて携帯を耳に当て直したその直後だった。彼が口にしたのは、遊戯にとってかなり衝撃的な一言だったのだ。

『城之内』
「えっ?」
『城之内って、兄サマが呟いてた。お前、何か知らないか?』