消えない痕 Act2

 知らない、とは言えなかった。

 知っている。僕は確かに知っている。知っているけれど、何をどう彼に伝えればいいのだろう。

 君のお兄さんは城之内くんと付き合ってて、なんて言える訳が無い。未だ小学生とは言え、「付き合う」という事のその意味を知らない筈がないのだ。それ以上に、そんな相手が今忽然と姿を消していて、なんてもっと言えない。ただでさえ不安を抱えてそこにいるモクバの感情をこれ以上揺さぶりたくはなかった。では、どうしたらいいのだろう。どうしたら。

 答えを欲し再度同じ事を言うモクバの感情の余り篭らないその音声に、遊戯は携帯を握る指先に力を込めて強張った身体を震わせた。

『遊戯!』
「……あ」
『なんで黙んの?何か知ってるの?知ってるから、黙ってんの?』
「ぼ、僕は……」
『知ってるなら、ちゃんと教えて。約束したじゃん、さっき。兄サマが……城之内の名前を呼んだのはなんでだよ?お前の名前を呼ぶなら分かるけど。なんで……どうして城之内が出てくるの?』
「それは」
『言いたくないなら別にいいぜ。その代わり、城之内の番号を教えてくれる?直接聞くから。関係があってもなくても、名前が出たんなら何かある筈だし』

 携帯の向こうでそう捲くし立てるモクバの声は僅かながらも苛立ちを帯び、遊戯を責めるように何度もその名を口にする。遊戯が口篭れば篭る程モクバの疑念は膨れ上がり、城之内の立場は悪くなる。これでは、言おうが言うまいが同じ事だ。

 仮にモクバが城之内に連絡を取ろうとしても、彼はきっと自分の時と同じように一切を拒絶するかの如く無反応を貫くだろう。そもそも、携帯自体所持しているかどうか怪しい。あれから幾度かけても、電源が落とされているとの機械音声が繰り返されるばかりで一向に繋がる気配がないからだ。

 遊戯は再び訪れた沈黙にごくりと生唾を飲み込んだ。もう後には引けない、かと言って不用意なことは口に出来ない。緊張と混乱に頭の芯が鈍く痛み出すのを感じたその時だった。ドクン、と心臓が高鳴る音がして、急速に意識が遠のくのを感じる。まるで突き飛ばされるような衝撃と共に遊戯は一瞬自我を失った。
 

「お前、知らなかったのか。海馬と城之内くんは付き合ってるんだぜ」
 

(……も、もう一人の僕!!)

 何時の間にか前面に飛び出した闇遊戯に無理矢理意識を乗っ取られ、遊戯は自身の胸のうちでその言葉を呆然と聞いていた。彼は遊戯が手放しかけた携帯をきつく握り直し、まるで怒鳴るように声を発した。電話の向こうが沈黙する。モクバは酷く驚いたようだった。

『……え、お前は「あの」遊戯の方?……一体何を言って……城之内と、兄サマが……付き合ってる?』
「それで、城之内くんは海馬が事故にあった日以来行方不明だ。誰もどこにいるのか分からない。オレも相棒も今必死で行方を探してる。オレが知っているのはこれ位だ」
『………………』
「でも勘違いするなよ。オレは海馬と城之内くんが付き合っていた事と、城之内くんが事故の日以来姿が見えないという事実を言ったまでで、事故と城之内くんが関係しているかどうかまでは知らないぜ。真実は本人達しか分からないんだからな。お前が教えろというから、教えてやったんだ。相棒は優しいから言わずにいるつもりだったんだろうけどな」

 フン、と小さく毒ついて、闇遊戯は再び奥へと引っ込んだ。ずるり、と携帯が掌から滑り落ちる。それを何とか食い止めて、遊戯は電話の向こうに聞こえないよう、そっと大きな溜息を吐いた。闇遊戯はきっと助け舟を出してくれたのだろうが、これではまるっきり逆効果で台無しだ。一番繊細に扱わなければならない事柄をこうも堂々と叩きつけてしまって、これからどうしろと言うのだろう。

 遊戯は息を飲んでモクバの反応を伺った。今の言葉に、多分衝撃を受けているに違いない。微かだが、小さな呼吸音が聞こえてくる。こんな時に酷い事をした……そう遊戯が激しく落ち込もうとしたその時だった。

『……そっか』
「モクバく……」
『兄サマの相手は、城之内だったんだね。オレ、全然わからなかった。確かに、最近の兄サマはちょっとだけ違うなって思ってた。なんか、優しくなったっていうか、元気だったっていうか。……誰か好きな人でも出来たのかなって』
「……え?」
『勿論、女の子だと思ってたけどさ。……そうなんだ』

 そうなんだ、と何度も自分に言い聞かせるように呟くモクバに、遊戯はそれ以上どう声をかけていいか分からなかった。慰めようにもこれが慰めていい事柄なのか分からないし、大丈夫と言えるような事態でもない。自分はモクバではないからその心中は計り知れない。どうしよう、何か言わなければ。そう思えば思う程口は堅く閉ざされ、言葉は奥深くに飲み込まれてしまう。

 また、重苦しい沈黙が訪れる。これ以上何も進展しない話なら、一旦切ってしまった方がいいのかも知れない。そう思いまたかけるから、と言おうとする。しかしその刹那、モクバが先に口を開いて、途切れた会話は繋がった。

『……どっちにしても、城之内と話をしないと駄目って事だね』
「……うん」
『でも、遊戯でも連絡が付かないとなると、どうすれば……仕事の関係上兄サマの携帯は履歴を残さないようになってるんだ。しかも事故で壊れてしまって、データも取り出せない』

 どうしよう。そう途方に暮れるモクバの声が揺らいだ気がした。それに胸が締め付けられる。どうにかしたい、どうにかしなければ……僕が。遊戯の閉ざされた口が、少しずつ緊張を解いていく。

「大丈夫、僕がなんとかするから」
『え?』
「城之内くんの事は僕に任せて。だからモクバくんは海馬くんの事をお願い」
『……遊戯』
「明日放課後また行くから。ね?」

 自分でも驚くほど優しくしっかりとした声が出た。一度こうと決めてしまえば後はやるだけだ。戸惑っている暇なんかない。遊戯はそう心で反駁すると一人静かに頷いた。座っていたベンチから立ち上がり、歩き出す。

『うん、わかった。頼むぜ遊戯』

 少しだけトーンの戻ったモクバの声にほっと胸を撫で下ろす。これなら、少しは安心できる。後はなるべく早く城之内を捕まえて本当の意味で安堵させてやりたかった。じゃあ、また明日。そう言って遊戯はモクバに別れを告げようとして、ふと先程聞けなかった事を聞きたいと思った。少し落ち着いた今なら聞ける気がする。そう思ったから。

「あのさ。モクバくん」
『何?』
「こんな事を聞くのは変だけど、モクバくんはどう思った?」
『何が?』
「その……さっき「僕」が言った事を聞いて……」
『………………』
「ごめん。こんな形で、知りたくなかったよね……本当に、ごめん。海馬くんにも、謝らないと……」

 携帯の向こう側の折角元気を取り戻しかけた声が急に消えてしまった事に、遊戯は直ぐに言わなければ良かったと後悔した。常識的に考えて自分の兄が知り合いの、しかも男と付き合っているという事実を聞いて、不快に思わない訳がないのだ。

 それだけでも十分驚愕するだろうに、その相手が何も言わず姿を消してしまった。親友である遊戯ですら、一瞬何かあると思ってしまったのだ。それよりもまだ遠いモクバはきっと城之内を責めるだろう。それを考えるだけで、心が痛んだ。

 しかし。

 数秒の間の後、沈黙していたモクバが発した言葉は至極意外なものだった。

『オレは……兄サマを信じてるから。兄サマがそれでいいと決めたんなら、それでいい』
「でも、城之内くんは」
『あいつは馬鹿だけど、理由もなく人を傷つけたりなんてしないだろ。オレだって、そんなに短い付き合いじゃないんだぜ。それに……それに、本当に酷い奴だったら、あの兄サマが好きになるかよ。馬鹿にすんな』
「モクバくん」
『じゃ、オレはもう病室に戻るから。また明日な』

 最後の方は殆ど早口でそう言い切って、モクバとの会話はそこで途切れた。遊戯に話しているようで、その台詞はもしかしたら自分に言い聞かせていたのかもしれない。

『心配すんなって、モクバは案外心の広い奴だぜ』

 遊戯の心を読み取ったのか、もう一人の自分の声が何気なくそう声をかけてくる。その言葉に分かってるよ、と軽く頷いて、遊戯は携帯をポケットにしまいこんだ。辺りはもうすっかり暗くなり、ぽつぽつと灯り始めた街灯が闇をぼんやりと照らしている。

「城之内くん……」

 ぽつりと、遊戯の口からその名前が零れ落ちた。
 彼は、本当に何処へ行ってしまったのだろう。あの日、彼らに一体何があったのだろう。
 人にこんなに心配をかけて、不安を呼んで……今何をしているというのか。

 遊戯は全てを振り切るように、再び夜道を駆け出した。
 何時の間にか姿を見せた欠け月が、その後ろ姿を頼りなく照らし出していた。
 その日は久しぶりの真夏日で、雲一つない青空だった。屋上でサボりを決め込むには最高の日。昼食のパンとペットボトル二本を持ち込んで、城之内は放課後までの時間をそこで過ごそうと決めていた。

 そこに海馬がやってきたのは、まさに偶然で……何もかもが予想外だったのだ。
 

 
 

 ちゃぷん、と小さな音を立てて、ペットボトルの中の液体が大きく揺らいだ。この暑い気温とそれ以上に熱い掌に温んでしまったそれは、口を付けて飲んでも美味しいとは言い難い。それでも、水分を欲した身体はそれを一気に飲み干した。容量以上の量を流し込んで、口の端から零れ落ちても気にせず最初から最後まで休みなく煽る。ごくごくと喉が鳴り、瞬く間に中身は空になった。思わず大きな溜息が零れ落ちる。

 身体全体が酷く暑い。ただでさえ熱気に塗れたこの場所で、更に熱くなる事をしたのだから当然だ。そう思い城之内は空のペットボトルをその場に放り、共に購入してきたこちらはまだ封を切ってないもう一つのそれを手に取り、キャップを捻る。カチ、と音がして少し緩んだそれを開ける事はせずに、目の前に……否、正確には足元に身体を投げ出して座り込む海馬の頬に当てた。

 いきなりだったからだろうか、ひやりと冷たい感触にびくりと震えた彼は、酷く億劫そうに顔をあげる。

「……何をする」
「水分取れよ。喉渇いたろ。はい、ポカリスエット」
「……いらん」
「駄目だって。この暑さで熱中症にでもなったらどうすんの?多分今のでお前の水分全部外に出ちまったぜ?絶対身体は欲しがってるって」
「………………」

 力のない掌にそっけなく押し返されたそれを、ほら、ともう一度鼻先につきつけてやる。それでも全く手を出す気配のない相手に城之内は嘆息する。実際彼の水分は底を尽きているはずなのだ。汗とか涙とか唾液とかそれ以外の外に出される水分は全て、それこそ嫌という程出してしまって、今ではこの暑さで汗すら流れない状況だ。浅く繰り返される呼吸にも熱を感じる。このままでは、本当に危ないのだ。

「仕方ねぇなぁ」

 余り仕方なくない声で、城之内は呟いた。自力で飲む気がないのなら、飲ませるしかない。そう思った城之内は、既に視線すら上げなくなった海馬の様子を伺う間もなく彼の膝を跨ぐ様に膝を付き、持っていたペットボトルの蓋を片手で開けた。そして勢い良く中身を煽り、そのままほぼ無理矢理眼前で俯く海馬の顎を捕らえて口付けた。嫌がり引こうとする動きを許さず、口に含んだそれを流し込んだ。

「………う…っ」

 唇を合わせた隙間から飲みきれなかった分が零れ落ち、既に汗を吸い込んで肌に張りついたシャツを濡らして行く。息継ぎの合間を与えただけで数回繰り返し、瞬く間にボトルの中は空になった。カラン、という音と共に下に落ちたそれは、僅かな距離を転がって留まった。

 最後に水分を介さない普通のキスを一つして、城之内の顔が離れていく。

「はい、水分補給完了」
「……ぬるくて不味い」
「文句言うなよ」
「言うに決まっている。……暑いし重い、どけ」
「はいはい」

 未だ頬に触れている指先を鬱陶しげに払いのけ、心底忌々しいと言わんばかりにそう言い放った海馬に、城之内は肩を竦めつつ素直にそこから立ち上がる。コンクリートの熱が流れる風すら暖めて、生温い空気が身体に纏わりつく様で気持ち悪い。この分だとまた焼けるかな、そう思いつつ既に小麦色の肌を日差しから隠すように日陰へと身を寄せた。

 遥か下のグラウンドでは体育の授業でも始まっているのか、教師の怒鳴り声とけたたましく響くホイッスルが木霊する。それを遠目で眺めながら、城之内は背後に座る海馬の名を呼ぶ。

「なぁ、海馬」
「……煩い。今話しかけるな」
「痛い?」
「…………別に」
「嘘吐けよ。血ぃ出てたじゃん」
「だからどうした」
「いや、悪かったなーと思って。……ごめんな」
「謝るくらいなら最初からするな、馬鹿が」
「何だよ。嫌なら逃げりゃよかったろ。人の所為にすんな」

 けれど海馬のいう事はいちいち尤もで、謝るくらいならやるべきではなかったのだ。やっぱオレって馬鹿だよな。そう一人ごち、城之内は身体ごと海馬へと向き直る。

 立ち尽くす自分に反して地べたに長い足を投げ出したその格好は、普段見下ろされてばかりいるせいかとても不自然なものとして目に映る。勿論数分前まではもっとありえない光景を目にしていたのだが、元通り制服を身に付け乱れた髪を撫で付けると、その少し前の出来事がまるで夢のように感じられた。

 城之内の袖口に僅かについてしまった海馬のものと思しき血の跡と、自分の話に答えを返す少し掠れ気味の声だけが、その「事実」を証明している。……ごめんな。再度心の中で呟いて、城之内は俯いた。どうして、こんな事になったのだろう。

「凡骨」
「今オレに話しかけんな」
「人の真似をするな。貴様、何を考えている」
「何って」
「態度が悪い」
「あぁ?なんだよ態度って」
「阿呆が。オレは、まだ貴様がこの行為をオレとした理由を聞いてはいない」

 憤然と吐き出されたその言葉に城之内ははっとして目線を眼下の海馬に向けた。するとそれを受け止めるが如く真っ直ぐに向けられた青の視線とかち合う。いつもと殆ど変わらず鋭く細められたその眼差しは、今しがた彼が発した言葉そのままに疑問を露わに睨みつけてくる。

 そう……そうなのだ。屋上に海馬が来てからこの状況に陥るまで、城之内は海馬にこの行為の理由を一言も口にしてはいなかった。海馬もまた何故、と聞く前に逃げる事も避ける事もせず城之内の意のままに従った。そこに言葉は存在していない。

 全てが終わってから会話を始めると言うのもおかしな話だが、そもそも最初からそれが必要だとは思えなかったのだ。どうして、そう思ったかなど分からない。けれど、実際何もかもが終わっていた。今更、なかった事になどできないのだ。
 

 (……何を言えばいいんだっけ?)
 

 城之内は視線を海馬に落としたまま自分にそう問いかける。その問いに、自分の心は即座に答えた。
 

 (簡単だろ、こう言えばいいんだ)
 

「好きだぜ。お前の事が好きだから、抱いたんだ」
 

 何時からとか、どの位とか、そんな事は自分でも分からなかった。ただ、好きだった。おぼろげに抱いたその感情を持て余しながら、暑い夏を通り越し秋との狭間に立っていた。今年はもう見る事は出来ないかもしれない綺麗な夏の空を目にして、名残を惜しむために屋上へとやってきたのだ。そこに何故か海馬が現れて、よく分からないうちにキスをした。逃げる気配がなかったから抱きしめた。

 それらは全て、好きという感情からくるものだったのだ。

「………………」

 暫くの間、その場には穏やかな静寂が満ちていた。こちらを見る海馬の視線は相変わらずで、今の台詞に赤面もしなければ、嫌悪もしなかった。まるで普通の話を聞いているように静かに耳を傾けている。……何か言ってくれよ。気まずいじゃねぇか。そう思わず口にしそうになったその時、彼の口から盛大な溜息が零れ落ちたのだ。
 

「それは、順番が逆ではないのか凡骨。……待ても出来ない貴様は犬以下だ」
 

 そんなんお互い様じゃねーか。大体お前待てって言ったかよ。

 城之内がそう言おうとした途端、遙か下方にあった海馬の手が伸びてきて、胸倉を掴まれた。殴られる、そう思い身を強張らせると、ぐいと力任せに引き寄せられた。バランスを崩し、殆ど倒れこむような形でコンクリートに膝をつくと、即座に唇が塞がれる。

 それがどういう意味のキスなのか、言われなくてもわかった気がした。
 

 
 

「克也、手続きはこっちで済ませてやるから、ここに記入してくれ。印鑑は持っとるか」
「あ、持ってねぇや。家に置いてきちまった」
「じゃあサインでいい。……なんだ、汚い字だな」
「ほっとけよ。……なぁ、いつもの事なんだけど、金は……」
「ああ、いいいい。払える時払ってくれれば。気にするな。後はこっちに任せて、お前は早く家に帰れ。友達が心配してるんじゃないのか」
「まだ三日だろ。いなくなった事にすら気付かねぇよ。あいつら結構薄情なんだ」
「そういうのは日頃の行いがモノを言うんだぞ。ま、せいぜい見捨てられないようにするんだな。友達は、宝だからな」
「分かってるよ」

 ったくうるせージジイだな。そう軽く毒づいて、城之内は机の向こうに座る老医師へ背を向けた。彼は未だ何事かを口にしているようだったが、耳に入りはするものの内容が理解できない。ここに来てからというものずっとそうだ。聞こえてくるものと言えば、繰り返しテレビから流れてくる海馬瀬人の名前と、その様子だけ。

 意識不明の重体。今日もまだ目を覚ます気配はない。海馬コーポレーションの株は大幅に下落し、新規プロジェクトは即時凍結、このままでは立ち消えになるかもしれない。しつこく繰り返される事故現場の映像、海馬の映像、モクバの声。それら全てが城之内の感覚を支配する。

「………くそっ!」

 思わず、後ろに医師がいるにも関わらず、そう吐き捨てた。握り締めた指先は痛いほど掌に食い込んで、既にその場所は不自然に変色していた。湧き上がる怒りの矛先をどこに向けたらいいのか分からず、視界に入り込む白い壁に拳を叩き込みたくなる。その感情が赴くまま右手を高く振り上げた途端、それは大きな掌に掴み取られた。それは机の向こう側にいたはずの、医師の手だった。

「モノに当たっても何も解決せんぞ。何があったのかはしらんが、これ以上生傷を増やすのはやめてやれ。身体が可哀想だ」
「……ほっとけよ!」
「じゃあ壁を殴るのはやめろ。そうしたら儂は何も言わん」

 語気荒くそう叫んでも医師は眉一つ動かさず、右手を掴む指先に力を込めた。深い皺が刻まれた節くれだった老医師の手中にある城之内の握り締めた拳は赤黒く変色し、殆どの皮膚が擦り切れていた。

 その拳だけではなく、彼の顔にも身体にもどうみても治療が必要な傷跡が無数に存在していた。けれど彼はその傷に触れる事を頑なに拒んだ。痛みもあるだろうに、決してそれを口にする事もなかった。何があったのか、幾ら聞いても返って来るのは無言の拒絶だけだった。

「わかったから離せよ!」
「克也」
「親父を頼んだぜ」
「家に帰るのか」
「…………ああ」

 その「ああ」は嘘だと医師は思った。しかし、それを嘘だと詰る権利を持つわけでもなく、行動を阻止する事も出来なかった。この手を離してしまえば、彼はどこかに消えてしまう。そう漠然と感じてはいるものの、医師にはどうする事も出来なかった。

「また、来るから」

 それまでと打って変わった静かな口調で城之内はそう言うと、するりと医師の手を抜け出した。そしてそのまま、振り向かずに部屋を出てしまう。遠ざかる不規則な足音に、医師は血塗れた右膝を思い、大きく深い溜息を一つ吐いた。
 

 
 

 ズキズキと痛む足を引きずって、城之内は薄暗い病院内をひたすら外へ向かって歩いていた。着替えたばかりのジーンズにじわりと滲む血の赤に軽く舌打ちをするものの、特にどうとも思わなかった。

 この位なんでもない。痛みのうちに入らない。自分よりも、ずっと痛みに苦しんでいるだろう彼の事を思うと、感覚など麻痺したも同然だった。これ位では償えない。まだ足りない。そんなどす黒い思いに囚われて、城之内は常に見せる明るい笑顔の片鱗すら失った。

 胸中を締めるのは深い後悔と、苦しみのみ。
 三日前のあの夜から、何もかもが変わったのだ。
 

「……海馬、ごめんな」
 

 無意識に呟いたその言葉は夏が終わるあの日と同じ響きを持っているのに、闇に吸い込まれ、彼の元には届かない。多分、二度と届く事はないだろう。

 自分はもう彼に会う権利はない。一生、その顔を見る事すら許されないのだ。

 何時の間にか頬に熱い涙が伝っていた。

 傍には誰もいない小さな病院の片隅で、溢れる涙を拭いながら、城之内はそれでも足を止めずに歩き続けた。