消えない痕 Act3

「なぁ。お前、オレの事好き?」
「……何故、今、それを聞く…っ」
「いや、なんかさーそう言えば聞いてなかったなーと思って」
「どうしてっ……貴様は、常に、空気が読めないのだ!」
「だってよ、こういう時に聞いておかないと、お前素直に言わないじゃん。どうよ」
「どうって……っ!誘導尋問か!」
「そんなんじゃないけど。じゃー入れてから聞くわ」
「凡……くっ……あぁっ!」

 口調の暢気さとは裏腹に、両手で捕らえるように掴み締めた細腰を、力任せに引き寄せる。その引力にそれまで擦り付けあう様に触れ合っていただけの解れた入り口と熱い楔は、相手を飲み込み埋め込んで一つの熱の塊となる。途端に抜ける両膝の力に城之内を見下していた青の瞳は訪れた衝撃と痛みに歪んで、白い顔ごと日雇い労働でやや逞しくなった肩に落ちてきた。

 汗に濡れた滑らかで秀でた額が肩口を擦り、背に回された指先が未だ纏う淡い色のTシャツを苦しげに握り締める。押し殺そうとしても唇を割って漏れ出る悲鳴を厭ってか、すぐさまそこをきつく閉ざして堪える様に、ああやっぱり入れる前じゃないと聞けないよな、と城之内は思う。

 全体重を全て預けられてもさほど重みを感じない痩身。手触りのいい肌。濡れて柔らかな唇。腹部に触れる同じ男としての証。それらを全部己のものにするかのように城之内は汗で張りつく白いシャツごと海馬の身体を抱きしめた。暫く互いに慣れる様、上昇する体温を感じながら指先をさ迷わせる。

「なぁ、好き?」
「……だから!」
「正直に言えって。別に嫌いって言われたからってここでやめねぇから」
「……そういう問題か!……貴様はいつも自分勝手過ぎるのだ!……今日もっ!」
「うん、そうだな。オレってすげぇ自分勝手だ」
「……分かっているのなら!」
「分かってるんだけど、どうしようもねぇ。お前が好きで、しょうがなくて」
「………………」
「でもお前も逃げないで付き合ってるんだから、どうしようもねぇよな。馬鹿みてぇ」

 馬鹿みてぇ。そう再び繰り返して、城之内は更に何か言い募ろうとした海馬の唇を下から封じた。柔らかなそこを舌で舐め上げ、僅かに空いた隙間から滑り込み、口内を嘗め回す。奥に引こうとする舌を許さず、追って触れて絡め合わせた。

 互いの唾液が混ざり合い、飲み込みきれずに口の端から零れ落ち、糸を引いて落ちていく。疼く半身が自然と快感を求めて動き出し、海馬の背を抱く城之内の手が殆ど力の入らないその白い足を掴んだ瞬間、吸いついていた筈の唇が逃げて喉奥から引きつった声が漏れた。

「……っ、ん!……くぅっ……!」

 ギシリと音を立てて、高価で頑丈なソファーが軋む。

 背後で電話が鳴っている。けれど勿論、出る事は叶わない。つい先程までキーボードを離れる事がなかった海馬の指先は、強引な誘いの言葉と実力行使の結果見事城之内の首に縋りつき、少し長い爪で僅かに見える褐色の皮膚を掻き毟る。喘ぎ声を堪えるために再び強く噛み締められた唇は更に防御しようと相手の身体に押し付けて、律動してぶれる視界に酔わない様に瞳もきつく閉じていた。

 粘着質な水音と、激しく繰り返される呼吸音が全ての、夕暮れの社長室。その異様な光景も、今の二人にとってはさほど珍しくないものだった。
 

 城之内が告白してから一ヶ月。
 

 まるで何かに怯えるように城之内は海馬の元へとやって来ては、その身体を抱きしめた。特に何があるという訳ではない。けれど、そうせずにはいられない何かがあったのだ。今までに感じた事がなかった焦燥感。それが自分にとっての本物の恋なのだろうとそうおぼろげに思うだけだった。

 そんな彼の態度を、海馬は特に何も言わずに受け入れた。始まりであったあの夏の日と同じ様に差し出される手に抗う事はしなかった。しかし、それと同時に己から積極的に何かを求めるという事もしなかった。あるがまま、流されるままに続いていく関係。それでも、二人の距離は少しずつ確実に近づいていた。最初は言葉すらなく始まったセックスも、近頃は言葉を交わした後に互いの意志を確認した上でするようになった。そんな当たり前の事すら、彼等にとっては当たり前ではなかったのだ。

 けれど、まだ完全ではなかった。尤も傍にあるべき心の距離。それは近づいているようで、未だ少し遠かった。しかし一月経った今、それすらも乗り越えようとしている。否、乗り越えたいと思ったのだ。乗り越えて、本気の恋がしたいと……城之内はそう、思った。

 彼等にとってその距離を測るのは簡単だった。初めから暗黙の了解でもあるかのように互いに服をつけたまま抱きあった。素肌と外気を隔てる布数枚。それがそのまま距離として立ちはだかった。幾度繰り返しても、決してそのスタンスを崩す事はない。それに何故と問う言葉も無い。かといって自分から脱ぎ捨てる覚悟も持ち合わせていなかった。最初から一線を越えてしまったにも関わらず、可笑しな事だと嘲りながらも変化をつける勇気も無い。馬鹿みてぇ、幾度そう口にしただろう。

 その距離を今日こそゼロにしようと決意して城之内はこの部屋にやって来たのだ。今日は仕事が忙しい、無理だ。そう抗う相手の言葉をいつもの通り聞き流し、手首を掴んでソファーへと引き倒した。首元を戒める鮮やかな青のネクタイと、ガードするが如くきつくはまり込んだスラックスのベルトを解いて放り投げると、海馬は溜息と共に部屋の扉をロックする。そして、いつもの時間が始まったのだ。

『なぁ。オレの事、好き?』

 そんな事を聞いたのは今日が始めてだった。それを確認したいと思ったのは人生で始めてだった。それまでは相手が自分の事をどう思おうがお構いなしで、その結果別れる事になろうとも関係なかった。無くなれば次を探せばいい、ただそれだけの事だったからだ。

 けれど、今度は違う。無くしたくなかった。次を考える事が出来なかった。だからこそ、相手の気持ちを確かめたいと思ったのだ。身体の繋がりだけではなく、心の繋がりを欲するようになったのだ。その為には今まで見せることのなかった全てを曝して、曝させて何も隔てるものが無い状態にする必要があった。それが、城之内の「本気」だったのだ。

 恋をするだけなら簡単だ。けれど、愛するのは簡単じゃない。
 互いに愛し合うのは更に難しい。
 

「……好きじゃないと言ったらっ……どう、するつもりなのだ」
「好きになって貰えるように努力する」
「……好きだと言ったら?」
「うぬぼれる」
「馬鹿め」
「分かってる。だから、教えてくれよ」
「……んっ……あっ!」
「全部、教えてくれ。お前の事」
 

 オレも全部教えるから。生まれてから今日までの事、今日からこれからの事、この胸の内全部。お前の目から隠していた事全て、何もかも脱ぎ捨てるから。

「全部、教えてくれ……!」
「……全部、とは?」

 ゆるりと顔を上げ絶頂を迎えた身体を震わせながら、未だ荒い息の最中必死に呼吸を整えながら海馬はそう問う。城之内に掴まれ抱え上げられていた両足は何時の間にかソファーに下ろされ、繋がった箇所を離す事のないまま、繋がる直前の体制へと戻っていた。

 ぽたりと、汗なのか涙なのか分からない生暖かい液体が城之内の頬に落ちる。

 熱で潤んだ瞳は、言葉同様問うように眼下の男を真っ直ぐに見つめ、返されない答えにやや苛立った色を見せる。それを同じく少しも反らさない強固な眼差しで見返しながら、城之内は痕がつくほどきつく掴み締めていた海馬の腰から両手を離し、緩やかに手前へと持ってくる。そして既にボタンは外され呼吸に合わせて緩く震える胸元には触れず、視界に入る白いシャツに触れた。その仕草に、海馬は肌に触れられるよりも過敏に反応し、身を引こうとする。しかし咄嗟に強く掴まれてしまい、その行動は無駄となった。

 反発する二つの力に海馬の身体が、髪が、揺れる。

「オレもお前も、無言を貫くのはやめようぜ」
「……どういう、意味だ?貴様、何を言っている」
「本気なんだ」
「何が」
「本気で、お前が好きなんだ。だから、全部知りたいし、知って欲しい。もう自分勝手なままのオレでいたくない」
「……散々勝手をしておいて、今更そんな事を言うのか」
「言う。これが最後の自分勝手だ。だから」
「………………」
「だから、もう、これも脱いでくれよ。オレも脱ぐから」

 それは、互いにとって最後の砦だったのかもしれない。本当の自分を見せる事。今まで全く必要のなかったその行為を実行するのは、こんなにも勇気のいる事だったとは。

 綺麗な部分だけを見せ合っていれば表面上は無難な関係を続けることが出来るのかもしれない。けれど、そんなものは長続きはしないのだ。それは誰よりもよく自分が知っていた。幾度も幾度も繰り返し、空しさだけが積もっていった。そんなのはもう嫌だ。…嫌なのだ。

「……それは、本当に必要な事か?見たくないものを見て、見せたくないものを見せてまで、こんな関係を築く事は必要なのか。貴様と、オレが」
「オレは。オレには、必要だと思ってる。また勝手だって言われるかもしんねぇけど」
「何故、オレなのだ。世の中には貴様に似合いの人間が五万といるだろう。なのに何故オレに執着する」
「お前が似合うと思ったって、オレにはそう思えないんだから仕方ねーじゃん。こういうのって理屈じゃないだろ。女だろうが男だろうが、顔がどうとか、立場がどうとか、そんなの頭ん中からふっとんじまうんだからさ」
「オレは」
「お前だって……これは何度も言うけど、こうしてオレと繋がってるだろ。それはお前の意思だろうが。オレは強要はしてないつもりだぜ。本気で嫌がられたら絶対にしねぇ。そうだろ?けどお前は嫌がらねぇ。その理由は?言ってみろよ。いっとくけどオレの所為にすんじゃねぇぞ。拒否権はお前にあるんだからな」
「………………」
「言えないんなら、オレと一緒だ。何故とかどうしてとか考えるだけ無駄。お前もオレが好きなんだ。間違いない。……だから、さ。恋愛しようぜ、オレと。楽しくて苦しい恋愛をさ。今のままじゃ、つまんないだろ?」

 城之内は始めて海馬に「好き」以外の言葉を口にした。恋愛の最終段階を最初に終えてしまった二人は、スタートに立つ事すらしていなかったのだ。言葉もなく、思いも曖昧でただ熱だけを欲して過ごした一ヶ月。残暑が厳しい秋を終え、少し冷たくなった風と共に晩秋を過ごし、そろそろ冬の入り口に入りかけた今欲しいのは、熱ではなく温もりだった。

 そしてその温もりは奪うものではなく、互いに与えるものであるべきなのだ。
 

「生きるって、楽しい?」
 

 シャツから手を離し、柔らかく頬を包んで、城之内が唐突にそんな言葉を口にする。それに突然なんだと言う事もなく、海馬はただ静かに瞳を瞬かせた。否定でも肯定でもないそれは、彼の気持ちそのままなのだろうと、城之内は素直にそう思う。

「……楽しい思いをする為に生きているわけではない。オレは、生きていなければならないだけだ」
「お前、若いくせに嫌な考え方するなぁ」
「そういう貴様はどうなのだ」
「オレ?……うーん。比率で言えば楽しいって感じじゃねぇな。けど、お前が一緒にいてくれるなら、楽しいと思えるかもしんねぇ。勿論そればっかりじゃないって事も分かってる。でも、そういうのを乗り越えていける気がする」
「何を根拠にそんな事が言える。もしかしたら、辛いばかりかもしれないのに」
「違うぜ。辛い事も、辛いって思わなくなるんだ。現に今、オレすげぇ幸せ。お前がここで頷いてくれたら、もっと幸せ」
「ただの馬鹿だと思ったら、世界一単純な馬鹿か」
「世界一幸せな単純馬鹿って言ってくれよ」
「言うか。馬鹿馬鹿しい」

 盛大な溜息と共に吐き出された言葉は、温かな室内にじんわりと響いて解けていく。その余韻が消える前に海馬は僅かに…ほんの僅かに頷いて見せた。そして自分から身に纏う白いシャツに手をかける。緩慢な動作で腕を抜き、まるで差し出すように城之内に掲げてみせた。

「これでいいのか」
「うん」
「では、貴様も脱げ」
「ああ」

 程なくして、城之内も着ていたTシャツを素早く剥ぎ取り、海馬のものと共に床に放った。ぱさりと小さく響く音に気を取られるまもなく、二人は同時に抱きあい、始めてみる相手の広い背に視線を落し、息を飲んだ。そして、おそるおそる確かめるように手を伸ばす。

 4つの掌に触れたのは、お世辞にも綺麗とはいえない、傷痕。

 それは色の濃い大きな痣であったり、真新しい切り傷であったり、過去に幾度も繰り返され既に皮膚深くに刻まれた裂傷であったり。それが持つ痛みや苦しみや重みの全てを直に触れ、漸く彼らはそれぞれが持つ業を相手の前に曝す事となった。

「……どちらから話す?言い出した貴様からか」
「そうだな。オレからでもいいけど。このままで?」
「……とりあえず、抜け」
「もう一回やってからにしようぜ。折角だし」
「時間の無駄だ」
「無駄じゃねぇだろ。「恋人」のキスをしようぜ。記念のさ。そして念願の初エッチ」
「……付き合ってられん」
「そういわずに今晩一晩付き合えよ。オレの話は長いんだからよ」

 言いながら背に添えた手を柔らかな項に移して、城之内は言葉通り海馬にいく度目かのキスをした。深く長い、酸素不足になるほどの情熱を持ったそれは、これから始まる長い道のりを共に歩んでいく相手への、宣戦布告のようなものだった。恋愛とは、戦いでもあるのだ。

 唇は離さずに城之内の手が再び海馬の腰へと下がっていく。自然と逃げようとするそこをすかさず掴んで、力任せに持ち上げた。不意打ちの行為に、海馬の口からくぐもった悲鳴が上がる。

 陽は既に落ち切って、空には青い月が姿を見せた。

 彼らの、長い夜の始まりだった。