消えない痕 Act4

「海馬。お前、授業中なのになんでこんなところに来たんだよ。折角学校に来てサボりとか?」

 ジリジリと焼けつく太陽が普段日に当たらない肌を刺す。
 太陽に近い位置にあるこの場所は文字通り灼熱の暑さだった。

 その日、何故自分がここを訪れたのかは分からない。ただ、久しぶりに受けた授業がつまらなくて窮屈で、息が詰まりそうだったから、それから抜け出すようにここに逃れてきたのだ。

 熱射の煽りを受けて取っ手まで熱くなっていた重い鉄の扉を押し開けると、そこには先客が存在していた。一つ前の時限から忽然と姿を消していた城之内。彼は何を考えているのかこの暑い中、ずっとこの灼熱の屋上を占拠していたらしい。日陰となっている電力室の扉の前に置かれた、コンビニの袋に入った数本のペットボトルが水浸しになっている。

「貴様こそ何をしている?」
「オレ?勿論サボりだけど?かったるくてやってらんないだろ授業なんて。暑いし」
「ここも十分暑いじゃないか」
「中と外は違うぜ。結構いい風吹くから、暑くても気持ち悪くねぇんだ」
「そうか」
「人の事よりお前はどうなんだよ。サボるくらいなら帰ればいいだろ」
「……迎えは昼に来いと言ってあるからな。まだ時間がある」
「へぇ」
「邪魔なら帰るが」
「いや、別に。この屋上はオレのもんじゃねぇし。好きにしろよ。ただ……」
「ただ、なんだ」
「……いいや。なんでもねぇ」
「………………」

 痛いほどの日差しの中、グラウンド側のフェンスに身をもたせ下の光景を眺めている様で眺めていない城之内は、どことなく思いつめた様な顔をしていた。勿論それは海馬が見てそう感じただけで、実際はどうなのかは分からなかったが。

 立っているだけで汗が滲む熱気。頬を撫でる生温い風。一歩太陽の下に踏み出れば肌を焼く強い光。一面の青い空。夏特有の入道雲。

 そう、全ては、あの暑い夏の日がきっかけだったのだ。今思えば、それは運命だったのかもしれない。幸か不幸か誰にも分からない、目に見えない強い力。

 それきり何も言わなくなった城之内に、海馬もそれ以上話しかける気も起きず、近間にあった彼のペットボトルが置かれている日陰へと座り込んだ。首元までしっかりとしめた白いシャツが汗で張りつく。それでも第一ボタンを外す気にさえなれなかった。息苦しいのに、それから解放されたいとは思わない。この暑さも、不愉快には感じなかった。

 昨日までは目まぐるしい毎日だった。来月行われるM&Wヨーロッパ大会に向けての準備。新デュエルディスクの微調整。既存の商品の不具合の修正、その他数え切れない程の仕事を抱え、寝食を忘れて取り組んだ。けれど、それが大変だとか辛いとかは思わなかった。むしろ何もしない事の方が恐ろしい。何かをしていれば胸中に抱える正体不明の重苦しい不快感を忘れられる。

 海馬剛三郎がこの世を去ってから、一年。

 その一年間、海馬はずっと色々なものから耐えて来たのだ。余りに耐えすぎて、耐えている事すら忘れてしまうぐらいに、ずっと。

 遠くで蝉の鳴く声が聞こえる。耳障りなその音が酷く鬱陶しいと思った。既に季節は秋に差し掛かろうとしているのに、逝きたくないと喘いでいるようなその声。煩い。煩いけれど、耳を塞ぐ気はなかった。その騒々しさにただ耐えるだけだ。

 不意に足元まで照らしていた強い日の光が遮られるのを感じた。同時に髪を僅かに揺らしていた風の流れすらも止まってしまう。海馬の前には広いコンクリートの地面が広がるばかりで何もない筈なのに。おかしい、そう思い何時の間にか深く項垂れていた顔をゆるりと持ち上げた。すると、そこには何時の間にか城之内の姿があった。無表情で自分を見下ろし、立ち尽くしている。

「……城之内?」
「なぁ、海馬」
「なんだ」
「いい?」
「……何が?」
「いいから。いいって言ってくれ。……でなければ、逃げろ」
「何を言って……っ!」

 それは、本当に突然の出来事だった。自分を見下ろす城之内の顔が苦しげに歪み、訳の分からない事を口にした瞬間、両肩を掴まれた。痛みすら感じる程の強い、力で。何が起こったかを把握する事も、肩の痛みを気にする暇さえなく、唇が塞がれる。渇いて少し皮膚が捲れたそれにまた痛みを感じたがそれすらもよく分からない。分からないまま口内を蹂躙される。

 強引に入り込んで来た舌が驚いて引く海馬の舌を捕らえ、押さえつけ、絡みついて離れない。息を継ぐ暇を与える事もせずに繰り返し、苦しさに何時の間にか細い筋肉質の腕に縋りついた海馬の指先が徐々に力を失っていく頃、漸くその唇は離された。ぽたりと城之内の額から流れ落ちた汗が海馬の頬を流れていった。真っ直ぐに眼下の顔を見据える城之内の琥珀の瞳は、逆光で光を失い、酷く暗い印象を与えてくる。

「逃げ、ないのか?」

 苦しげに肩で息をし、まるでそれを望むかのような言葉が吐き出される。お願いだ、逃げて欲しい。声には出ない城之内の叫びが聞こえてくる。……一体この男は何を言っているのか、何をしようとしているのか、何故、自分に対してこんな真似をしているのか。何もかもが分からないまま、海馬はただ瞬きを繰り返した。

 逃げるつもりはなかった。

 元より、海馬の頭には逃げるという三文字は存在しない。痛みも辛さも苦しみも、胸に抱く不快感も、煩いほどに耳に届く蝉の声にも何もかも、ただ、耐えるだけだ。

 これから城之内が自分に何かを与えるというのなら、それがどんなものであれ甘受する。否、それ以外に術は思いつかなかったのだ。

「──── っ!」

 海馬がそれ以上反応を示さない事に苛立ちを覚えたのか、はたまた恐怖を覚えたのか、城之内はそれきり海馬の瞳を見る事はせず、何故か唇を噛み締めてその体をかき抱いた。汗に濡れた手でこれまでの行動とは打って変わって丁寧な手つきで海馬が纏う白いシャツのボタンを外し、中のアンダーを捲り上げて白い肌を露にする。途端に緊張の走る皮膚に舌を這わせ、その感触を確かめるように滲み出る僅かな塩分と共に味わった。胸に色づく小さな突起を唇で挟んで舌で転がし、淫らな音を立てて吸いあげる。

「……っん!……う!」

 思わぬ感覚に、海馬は己の口を手で塞ぎ、きつく瞳を閉じて身を固めた。思えば、あの緩やかさは彼の最後の警告だったのかもしれない。今のうちに逃げろ。何も起きない内に、この身体の下から逃げてくれ。そう何度も言外に囁かれるのを聞いていた筈なのに、震える海馬の手は城之内の腕を掴むばかりで、払おうとはしなかった。

 何時の間にかコンクリートに膝をついた城之内の両足の間に身を置かされ、背後の壁に凭れて座るその姿勢のまま攻められる。身じろぐと、ずる、という音と共にコンクリートに後頭部が擦りつく。髪が引き攣れ僅かに痛んだが、そんな事はどうでも良かった。それよりももっと強い、刺すような痛みが城之内の唇がある左胸に襲ったからだ。多分、歯を立てたのだろう、じわりと感じる余韻の様な痺れは何時までも後を引いた。一気にそこが熱を孕む。

 シャツは殆ど肌蹴られ、ズボンのベルトすら少し離れた場所に飛んでいた。胸に執着していた間、僅かにも逃げる素振りのなかった海馬に苛立ちを露にして、もはや猶予は与えないとばかりに、それまで緩やかだった動きを急に早めると、城之内は殆ど強引に緩めた制服に出来た隙間から手を突っ込み、海馬自身を握り締めた。

「── うぁっ!……く!」
「なんで逃げないんだよ。オレ、今からお前を……」
「あっ……んッ!」
「なんとか言えよ、海馬!」

 ……何を言っている?訳が分からないまま人の身体を蹂躙しておいて、一体この男は自分に何を言えというのだろうか。ふざけるのはやめろと制止するには既に引けないところまで来ているし、かと言って叫ぶ気力すらない。否、叫んでしまえば第三者に気づかれる恐れがある。

 今は夏だ。どの教室も窓を開け放し外の音は良く聞こえる。屋上に続く階段だとて例外ではなく、見かけばかり頑丈な鉄の扉は音までは防いでくれない。今何時か把握することが出来ないが、もし授業時間が終わってしまえば誰か来るという可能性だってある。そんな不安を抱く位なら出来るだけ早くこの半ば狂気じみた行為を終わらせて欲しかった。そこにどんな思いが込められているなど自分には分からない。分からないうちは、狂気と捉えるしか術は無いのだ。

「── いっ、あっ…!」
「うわ……きつ……!」

 不意に前を申し訳程度に弄っていた城之内の指先が、その奥、多分今の彼が尤も求めているだろう場所に触れる。突然の行為に心の準備などまるで出来ない……否、例え心の準備があったとしても本来生殖器でないそこは受け入れるためになど開かない。なのに僅かな先走りの液を絡めた指は海馬の無意識の抵抗などもろともせずに、強引に突き入って来た。肉を抉じ開けられる感覚に鋭い痛みと、全身の血が引くような恐怖に襲われる。

 びくりと海馬の身体が強張り、汗が吹き出る。激しく歪んだ顔にも既に気を回す余裕はないのか、城之内は何も言わずに更に強引に奥を探った。断続的に悲鳴が上がる。けれど、それは煩い程の蝉の声に紛れて余り響かない。喉が渇いて声が掠れる。鉄分を含んだ血生臭い息が気持ち悪い。

 しかし、そんな事すら考える余裕がなくなる程の衝撃が直ぐに訪れる。

 海馬は硬い壁に頭と背を強く打ち付けられ、摩擦で首の皮膚が強くひりつくと同時に両足を抱えられる。無理な姿勢で強く固定されたそれに圧迫感と股関節の軋む音に苦痛を感じる前に、最奥に熱を感じた。否、それは熱ではなく激しい痛みだったのかもしれない。けれど、その瞬間は確かに熱だと思ったのだ。赤く燃える鉄の棒を突きこまれたような、そんなおぞましい感覚だった。

「うあっ!!……ぁっ……い、ぐうっ!」

 余裕も手加減もなにもかも忘れたように力任せに突き入って来る城之内は、抵抗しているはずの粘膜をも引き裂いて強引に奥まで達した。苦痛に塗れ既に喘ぎ声ではない海馬の声は耳に入っている筈なのに、引き抜くどころか更に煽られたかのように動き出す。その動きを補助すべく太股を掴んだ城之内の日に焼けた手首を隠す白いシャツの袖口には、結合部から滲み出たのだろう色鮮やかな赤い血が付着し、じわりと染みを広げていく。

 快感などない。あるのは、激しい痛みと内臓を抉られる不快感のみ。

 それでも、海馬は甘受した。── 全てを。
 

「やっ……あぁっ……はっ、あっ!……あ!!」
「──── っ!も、イクッ!」
「……くっ……ああぁッ!!」
 

 痛みも苦しみも最後に感じた身を捩る様な不可思議な感覚も何もかもがない交ぜになって弾けていく。抱きしめた汗まみれのシャツに爪先が食い込み音を立てた。身体の全てが痙攣し、汗や涙や精液が吐き出されて散っていく。

 熱い。熱くて熱くて、このまま熱さに溶けてしまいそうだった。
 
 
 

 全てが終わった後、その実よく廻らない頭の中で、海馬はこの行為の意味を考えていた。
 好きだから。好きだから抱いたのだと、そう言われて。

 けれど、この時点では余りよく分からなかった。
 分からなかったけれど、嫌でもなかったから、後に自分から彼に口付けたのだ。
 

『それは、順番が逆ではないのか凡骨。……待ても出来ない貴様は犬以下だ』
 

 好きとか嫌いとか、そんな事は後回しで、ただこの行為を許す……という意味で。
『ごめんな』

『好きだぜ。お前の事が好きだから、抱いたんだ』

『生きるって、楽しい?』

『ヤバイ、もうすげぇ好き。好きで好きで、どうしようもない』

『ごめん、やっぱり、オレ、お前とは付き合えない。付き合う資格なんかない』

『ごめん……無理』

『本当に勝手ばっかりやって、ごめん、な?』
 

 
 

 聞こえてくる城之内の声。全て現実で、この耳で聞いた、その台詞。

 いつもいつも自分勝手で、人の意思を全て無視して。好き放題やって、好きな時に謝って、勝手に自己完結して終わりにする。そんな事が許されると思っているのか。貴様だから許した勝手も、キスも、セックスも、全てごめんの一言で終わりにするというのか。そんな事は許さない。絶対に許さない。

 何もかもを曝け出したのに。全て見せたのに。共になら何でも乗り越えて幸せになれると笑っていたのに。今更怯えて逃げていくのか。オレの前から。
 

 ── 逃げるのか、城之内!!
 

 意識下で、その名を叫ぶ。届かないと知っていて、幾度も叫ぶ。

 冷たい雨が降り注いだあの夜のように、血を吐くような思いで必死に叫ぶ。

 分かっている。誰が悪いわけでもない。ましてや貴様が悪いわけでもない。むしろあの時動いてしまったこのオレが悪いんだ。だから、泣くな。謝るな。オレの前から姿を消すなんて言うな。

 ……消えるなんて、言わないでくれ。
 

 
 

 何時の間にか、長い間存在していた白い世界。何もなく、音もないその世界にいるのは自分一人で、どこを見回しても誰もいない。時折、遠くから自分の名を呼ぶ誰かの声が聞こえるだけで、それが誰なのか、ここはどこなのか、分からない。
 

『兄サマ』
 

 今日もまた聞こえてくるその声。
 酷く聞き慣れているような、懐かしくて涙が出てくるようなその声は、今日も変わらずその言葉を紡ぐ。
 

『兄サマ!』
 

 ああ、でも今度はいつもより少し近いかもしれない。まるで耳元で囁かれているような感じがする。オレを兄と呼ぶお前は誰だ?兄と呼ぶ、お前は。
 

『兄サマ!!』
 

 ── 思い出した。お前は、……だ。オレの、たった一人の……。

 ── 光が、溢れる。
 

 
 

「先生!兄サマが、兄サマが目を開いたよ!」
「……モク、バ……」
「うん、オレだよ!オレが分かる?兄サマ!」

 緩やかに開かれた視界に移りこんで来たのは奇妙な色合いをした何かだった。

 ぽたりと、大きな瞳から溢れた涙がきつく握り締められていた己の指先に零れ落ちる。暖かな液体は緩やかに手の甲を伝い、流れ落ちていく。片目しか開いていないその視界は距離感が掴めず、彼の顔が今どのくらいの位置にいるのか把握が出来なかったが、酷く近い事だけは見て取れた。

 徐々に輪郭が見えるようになり、ぼんやりとだが分かってきた黒と肌色のコントラスト。……モクバだ。そう思いもっと良く見ようと凝視するが、長い間使われなかった瞳はなかなか焦点を結ぶ事が出来ずにいた。

 見慣れたはずの弟の顔が、何か違ったもののように見えて瀬人は思わず息を飲む。

「良かった……本当に良かった。遊戯にも教えてあげなくちゃ……!」

 涙を拭い、緩やかに瀬人の指を解放したモクバは、言葉通り即座に携帯を取り出してどこかへかけているようだった。程なくして弾んだ声が断続的な機械音に塗れた病室中に大きく響く。

 その様子を耳で聞く事によって把握していた瀬人は、ふとある事を思いついて、携帯を片手にはしゃぐモクバの方を苦労して見遣る。確かにあれは愛しい弟だ。けれど、自分が会いたいのは彼よりももっと遠くて近いあの男。弾かれるように別れてしまった彼に会わなければ。どうしても。

「……モクバ」
「あ、兄サマが呼んでる。うん、じゃあまたかけるから。うん……っと、これでよし。なに、兄サマ、どうかした?」

 その衝動に突き動かされ、瀬人は未だ電話を握り締めているモクバの名を呼ぶ。その声を耳にした瞬間、即座に会話を打ち切りこちらを向いたモクバの顔を瀬人は暫く見つめていたが、やがて、至極はっきりとした口調で口を開いた。

「……城之内は、どこにいる?」
「えっ」

 モクバが、何故か息を飲む。驚愕したように、その表情が固まった。
 けれどそんな事に構ってなどいられない。会って話をしなければ。直ぐに。一分一秒でも早く。

「ここに、呼んでくれ」
「に、兄サマ……」

 カツン、と小さな衝撃音が響き渡る。
 モクバの震える手が取り落してしまった青い携帯が床に落ちて、衝撃で開いてしまったディスプレイが明滅した。

 それを僅かにも気にする素振りも見せず、瀬人はもう一度ゆっくりと繰り返す。
 

「……呼んでくれ。── 今、直ぐに」