消えない痕 Act5

「兄サマ……」

 落ちた携帯を拾う事さえ忘れて、モクバは呆然と瀬人を見ていた。驚愕に見開かれた瞳と急激に色味を失っていくその頬は彼がいかに今の言葉に衝撃を受けたか物語っている。瀬人はモクバが自分と城之内の関係を知っている事は知らない。だから、彼が何故こんなにも驚いて見せたのかがわからなかった。

 けれど、それすらも今の瀬人にとっては二の次の事柄だった。今はただ、城之内に会いたい。その一心で、唯一の頼みの綱であるモクバに縋るしかなかったのだ。

「……モクバ?」
「………………」
「何故、黙っている」
「………………」
「オレはお前に……そんな顔をさせるような事を言ってはいない筈だが」
「兄サマ」

 兄サマ。既に何度その言葉を口にしたのだろう。言わなければならない事があった。聞きたい事は更にあった。けれど、それをどう切り出していいのか分からない。この場で口にしていいのかどうかすらわからなかった。事故から二週間。漸く長い眠りから覚めた瀬人にいきなり問い詰める真似をしていいものかどうか、幼いモクバには判断する事が出来なかったのだ。

 けれどこちらを見る瀬人の視線は、この場を何事もなく終わらせる事を良しとする筈もなく、更にその輝きを増してじっとモクバを見据えている。逃げるわけには、行かなかった。

「……城之内は」
「── 城之内は、今は呼べない。何処にいるのか、分からないから」
「何?」
「兄サマが事故にあった日から、城之内はいなくなってしまったんだ。誰にも、その行方は分からないって、遊戯が」
「……そう、か……」
「遊戯が僕に任せてって言ってくれて。今一生懸命探してくれてる。だから、城之内の事は遊戯に全部任せてるんだ。だから……オレは、知らない。けど……」
「もういい、分かった」
「分かったって……」
「……ありがとう、モクバ」

 問い詰める語気の強さとは裏腹に、瀬人はモクバの言葉に特に過剰な反応もせずに、ごく平静な顔で受け止めていた。それが逆に酷く不自然で、モクバは軽い礼を言って今度は黙り込んでしまった瀬人の顔を、逆に強く見返した。余りにも変化のない白い顔。時折瞬く青の瞳は怖い位に澄んでいて感情の欠片すら見出す事が出来ない。
 

 ── どうして。
 

 モクバは心の中で問う。
 

 ── どうして、兄サマはそんなに平静でいられるの?城之内が……恋人が、行方不明なのに。事故直後、まるで貴方を捨てる様に消えてしまったと言うのに。
 

 モクバの疑問の眼差しをよそに瀬人は一欠片の動揺も怒りも悲しみも無しに、ゆるりと頭を枕に沈め、ただぼんやりと天井を見つめている。
 

 ── どうして……?
 

 モクバは落ちた携帯を拾い上げて握り締めた。そしてゆっくりと、更に瀬人との距離を縮めるべく歩み寄った。ゴム製の靴底が床と擦れて、キュ、と軽い音を立てる。それに瀬人の意識がこちらに向く。緩やかにモクバを捕らえたその視線を真っ直ぐに見返して、モクバは意を決して口を開いた。
 

「兄サマは、城之内と付き合ってるの?……あいつの、恋人なの?」
 

 ピ、と一際高い電子音が鳴り響く。瀬人の瞳が僅かに瞠った。

「あの夜、兄サマは夜中に出て行ったよね。そしてその後、事故にあった。家を出てから事故にあうまでの数時間、何をしていたの?誰と会っていたの?」

 モクバ、と瀬人が制するように声を上げたが、モクバの言葉は止まらなかった。むしろその事に勢いを得たかの様に声量を上げて話し続ける。

「何が、あったの?あの日……」
「………………」
「城之内と、何があったの?!」
「………………」
「オレ、今まで何にも知らなかった。兄サマと城之内が付き合ってる事も、何も。兄サマは事故にあって、城之内は消えてしまって、行方が分からない。……遊戯は何か知っていたみたいだけど、兄サマ達の事を教えてくれただけだったし。心配で不安で、どうしたらいいかわからなくて、でも何も知らないから誰かを怒る事も恨む事も出来なかった!折角兄サマが目覚めたのに、兄サマはそれを気にしている癖に知らないふりをして……もう嫌だ!」
「モク……」
「一体、何がどうなってるんだよ!」

 それは、静かな部屋の空気を切り裂くような鋭い叫び声だった。何時の間にか硬く握り締められていた小さな拳は怒りの余り見た目にもはっきり分るほど小刻みに震え、もし瀬人が健常ならば即座に振り上げられていたのかもしれない。それほどまでにモクバの憤りは激しかった。こちらをきつく睨み据える眼差しは、薄らと溜まった涙を零すまいと必死に堪えている。

 眠り続けていた瀬人は知る由もなかったが、そこまでモクバは追い詰められていたのだ。何も分らないままたった一人残されて、仕事や学校を初めとするあらゆる事をこなしながら、ずっと我慢を強いられて耐えて来た。それが、瀬人が目覚めた事により、安堵と共に一気に爆発してしまったのだ。

「何とか言ってよ、兄サマ!!」

 モクバの、先程とはまるで別種の涙が柔らかな頬を流れ落ち、白いシーツの上に吸い込まれていく。それを拭う事も出来ずにモクバはただじっと瀬人の瞳を睨み続けた。

 その燃えるようなきつい眼差しを片目だけで受け止めながら、瀬人はモクバの名前以外の言葉を紡ごうとして、出来なかった。
「…………っ」
「染みるか」
「少し」
「それはそうだろうな。派手に切れている」
「たまたま……口、開いちまったんだよ」
「殴られる時は歯を食い縛るのが基本ではないのか」
「……そうできない時だってあるだろ」
「それもそうだな」
「もう、いいよ。サンキュ」
 

 ふぅ、と互いに小さな吐息を一つ吐いて、大分近づいていた二人の距離が少し空く。足の低いソファーに深く凭れる形で腰かけていた城之内の目の前で海馬が膝をついてその顔に手を伸ばしていた。海馬の手が握り締める元は白い脱脂綿は彼の指先すら染めるほど赤く染まっていた。既に赤紫に変化した城之内の口の端からつい先程まで大量に滲んでいた血の赤だった。

 城之内を『そんな状態』にしたのは、普段からよくやり合っているらしい随所に存在する不良少年達ではなく。彼の尤も近しい存在である実の父親だった。
 

『……わりぃけど、今日家に帰れねぇから、泊めてくんない?んで、迷惑かけるついでに迎えに来てくれると嬉しいんだけど。……下手に入れないじゃん、お前んち』
 

 城之内と父親の日常における深い確執。

 ……あの日。

 初めて素肌を晒して互いの全てを話し合ったあの時に、淡々とした声で語られたその事実をいよいよ自身の目で確かめる時が来たのだと、携帯越しに掠れた声で助けを求めて来た声を聞いた瞬間に海馬は悟り、深い溜息を一つ吐いた。
 
 

 季節は既に冬になろうという日。

 所々に血がついた、まだ新しい厚いシャツにコートを無理矢理羽織った姿で、自ら指定した公園中央にあるベンチに顔を伏せた状態で座っていた城之内を海馬が無言で保護したのは、もう日付も変わろうとした真夜中だった。

 その日は割りと早く会社から帰宅できて、モクバと少し過ごす時間を持った後、自室でパソコンを操っていた海馬は、突然掛ってきたその電話にも常と同じ調子で応えを返した。携帯を取り上げた途端、前置きも何もなしにただそれだけを口にした城之内の言葉に、海馬は疑問系の台詞は一切吐かずただ一言「わかった」と答えた。

 携帯を切った瞬間、即座に内線に手を伸ばし、少し出るから車を表に回せと言い置くと、帰宅した時に脱ぎ捨てたままだったコートを羽織り、出来るだけ静かに部屋を出た。途中モクバの部屋を伺うと既に明りは消えしんと静まり返っていたので、外出には気づく筈も無い。それに少しだけ安堵して、海馬はやや早足に車の待つ場所まで歩いて行った。
 

「ちょ、ちょっと待て!このまま乗ったらシートも汚れる!」
「別に構わない。いいから乗れ」
「構わないって……染みになったらどうすんだ。落ちにくいんだぞ血って」
「煩い。怪我人はガタガタ言わずにいう事を聞け。……よし。ドアを閉めるぞ。蓮田、家に直帰しろ。エントランスの方ではなく裏門の方にな」
「……悪ぃ」
「聞き飽きた。黙ってろ」

 自然と城之内の口をついて出る謝罪の言葉にいかにも鬱陶しいといわんばかりに海馬が顔を顰めて睨んでくる。ベンチから海馬が乗ってきた車までの距離を城之内を支えつつ歩いた所為で、海馬の手や顔や纏う薄いベージュのコートは所々汚れてしまった。けれどそれに何一つ嫌な顔をせず、彼は無言で城之内を支え続けた。その優しさが、逆に胸に痛かった。

 車は海馬の命令通り、広大な海馬邸の裏門を通過し、普段は主に使用人が利用する、それでも豪奢な入り口前へと滑るように入って行った。城之内はその扉の余りの豪華さに「玄関に来ちまったぜ」と海馬を見たが、小さく鼻で笑われた。その実、城之内が海馬邸を訪れるのはこれが始めてだったのだ。

 入り口から中に入り、同じ様に海馬に支えられながらそこから一番近い部屋へ通される。近間のソファーに連れて行かれ、やや乱暴に座らされると、海馬は直ぐに部屋を出て一抱えの道具を携えて戻って来た。それは保健室でよく見るものよりも大分大きくて中身が充実している、救急箱のようなものだった。

 海馬は慣れた仕草で足元に置いた救急箱……医療キットと言うらしいが……の中から適切な道具を選びだし、表情一つ変えずに城之内の服を脱がせ、共に持って来た濡れタオルと洗面器をさらに脇に置いて、とりあえず大まかな汚れを拭ってしまうと、現れた傷や痣を素早く治療し、ガーゼや包帯で覆っていく。余りにも鮮やかなその手つきに城之内は痛みも忘れて思わず「慣れてんのな」と呟くと、海馬は一瞬だけ顔を曇らせて「……ああ」と答えた。

 城之内は余計な事を口にしなければ良かったと……後悔した。
 
 

「とりあえず応急処置はしておいた。酷いようなら明日にでも医者に診せろ」
「いや、いつもほっとく傷だし、多分大丈夫だろ」
「放っておくから痕が残るんだろう」
「別にいいじゃん、女じゃねぇし。男の勲章って感じで」
「……喧嘩等の負傷以外で出来た傷は勲章とは言わないだろう」
「なんで、喧嘩じゃないって分かるんだよ」
「抵抗した痕がないからだ」
「え?」
「暴力にひたすら耐える事は、例え合間に言い争いがあったにせよ、喧嘩とは言わない」
「……………………」

 パチンと鋭い音がして、医療キットの金具が締まる。それを邪魔にならない場所に置きに行く海馬は、城之内の方を見ようとはしなかった。発する言葉には僅かに怒気を孕み、それは静かな室内に低く響いた。その背を城之内は凝視する。

「ごめん」
「何故謝る。オレには貴様に謝られる事など一つもない」
「うんざりしたんだろ。こんなのに付き合わされて。弱くって。みっともなくてよ」
「………………」
「それでもオレ、手を出せねぇんだ。蹴られても、殴られても、手を出せない」
「凡骨」
「いつか殺されちまうんじゃないかって思う時もある。けれど、それもしょうがないよなって」
「しょうがないのか」
「しょうがないだろ。親なんだからよ」

 最後の一言に、海馬の背が目に見えて強張った。ああ、また余計な事を言ってしまった。どうしてオレは、海馬の体や顔を引きつらせるような事にしか言えないんだろう。どうして。……そう思い、城之内は項垂れるように顔を伏せる。震える溜息が零れ落ちる。

 不意にテーブルの前で立ち止まっていた海馬が、ゆっくりとした速度で城之内の元まで戻ってくる。伏せた視界の端に彼が纏う白いシャツが映りこんだ。それでも、城之内は顔をあげる事が出来ない。上げてしまったら、何時の間にか堪えていた涙が零れ落ちそうになるからだ。

 ゆるりと、怪我をしていない頬に冷たい手が触れる。余り好きではない消毒液の匂いが強く染みついた白い指先が、宥めるように包み込む。鼻の奥がつんと痛くなり、目頭が熱くなった。泣きたくない、泣くもんか、そう思い城之内は強く歯を食い縛ろうとしたが、切れた口内が痛んでままならなかった。

 瞬間目元に浮かんだ涙が、表面張力を超えて静かに流れ落ちてしまう。

 海馬の指先がその温かな涙に濡れて光る。それでも彼は何も言わなかった。慰める言葉も、抱きしめて来る事もなく、ただ、静かな瞳で城之内を見ている。

「かい、ば」
「泣きたいなら泣け。傷に触らない程度にな」
「……無理、言うなよ」
「では我慢しろ。涙などその気になれば止められる」
「……それも無理」
「ならばどうする」
「肩、貸して。泣くから」
「肩だけでいいのか」
「出来れば、身体、全部」

 その言葉に、海馬はやはり淡々と「わかった」と答えた。
 

 ── わかったから、と。
 

 そして彼は頬に添えていた手を伸ばし、ソファーにいた城之内を床へといざなうようにその項を捕らえ、強く引き寄せた。その動きに逆らわず、城之内はまるで海馬の腕の中に抱かれるように倒れ込み、その途端、堪えきれずに嗚咽を漏らした。部屋中に響くくらいの、大きな声で。

 強く抱きしめてくるその手に応える様に、城之内は自らも目の前の身体に腕を回してきつくきつく抱きしめた。

 ごめん。

 合間に繰り返されるその言葉に、海馬は何も言わなかった。

 何も言わずにただ、抱きしめる腕の力をほんの僅かに強めてやった。