消えない痕 Act6

「……なぁ、海馬」
「……何だ」
「キス、しよう」
「嫌だ」
「何で」
「貴様の血など舐めたくない」
「唇合わせるだけでいいから」
「……寝ろ」
「してくれたら寝る」
「煩い。子供か貴様」
「うん」
「甘えるな」
「いいだろ、こういう時位」
「………………」

 痛い程の静寂に空調の微かな音が響いている。あれから城之内は大事を取ってそのままで、一人入浴を済ませた海馬と二人、客間の寝台に揃って横になっていた。

 その静けさの中、特に遠慮する事も無く城之内はふとそう声を上げた。それに先程の優しさは何処へやら、おざなりに応えを返していた海馬だったが、城之内が諦めないと知った瞬間、肩を上下する程の盛大な溜息を吐き、それまでずっと背を向けていた身体を反転させた。

 洗いたての前髪がさらりと目に掛かり、少しむっとした表情を覆い隠す。それを伸ばした指先でかき上げて、城之内は現れた青の瞳をじっと見つめた。それをやはり不機嫌な顔で見返すと、海馬は何も言わずに瞳を伏ると、微かな布擦れの音と共に顔を寄せ、本当に唇に触れるだけのキスをした。

 たったそれだけでも口内の傷が痛むのか、城之内はほんの僅かに顔を歪める。それに海馬が「ほら見た事か」という風に口元を歪めた。

「満足したか。ならばもう寝ろ」
「……うーん。むしろ火がついちゃったって感じ?」
「……いい加減にしろよ」
「駄目?」
「口を閉じろ」
「なぁ、駄目?」
「しつこい。貴様、その身体で何をどうすると言うのだ」
「成せばなるって。大体お前とベッドで寝る事も初めてだから緊張すんだ。だから初めてついでに一回やってみたい」
「……本当にベッドから蹴り出すぞ」
「……駄目かぁ」
「当たり前だ!」

 いい加減我慢の限界が来たのか、海馬は折角振り向いた顔を再び身体ごと背けてしまい、肩を怒らせて黙りこんでしまう。城之内は構わずその背に手を伸ばし、まだしつこく「なぁなぁ」と繰り返す。海馬は決して振り向かない。それでも数分粘りに粘って、やがて本当に駄目だという事を知った城之内は、「ケチ」と小さく呟くと目の前の身体に腕を回した。幸い、腕には外傷らしい外傷は存在していなかった。

 城之内の言う事は本当だった。これまで幾度となく抱き合ってきた二人だったが、一般的な所…所謂寝台で関係を持った事は一度もなかった。それもその筈、まず場所が問題だったのだ。校内や社内、その他寛げる場所など一切無い外部でしかした事がなかったからだ。

 何故、と言われてもよく分からない。単に思いつかなかっただけかもしれないし、あえて避けていたのかもしれない。大体それを異常だと思う感覚が二人にはなかったのだ。だから、こうして二人並んで眠りに付こうとしているこの現状を、城之内は酷く不思議だと思ったのだ。

 少し離れていた背に密着し海馬の項に頭を擦り付ける形で身を寄せると、その感触が気になるのか捕まえた身体が僅かに身じろいだ。次いで「そんな姿勢で痛まないのか」と言う声がくぐもって聞こえて来る。それに「さっき飲んだ薬が効いてる」と答え、城之内は暖かな背に頬を寄せて目を閉じた。海馬の仄かな温もりと、穏やかな心音が聞こえてくる。
 

「なぁ、寝た?」
「……今度はなんだ?」
「お前さ、なんでそんなに優しいの」
「……何を言っている」
「だって普通こんな事してくれないじゃん。今まで付き合った女だって……夜中に電話をかければすげー不機嫌な声出して、オレを逆に怒鳴って凹ませてさ。それが原因で別れた事が何回もあるし」
「それは貴様の見る目がないだけだろう」
「……そうかもしんねぇ。でも、普通はそれが当たり前なんだよな。常識ってヤツを考えたら相手が怒るのは当たり前だ」
「……それは暗にオレに常識がないと言いたいのか」
「そうじゃねぇって。……あ、そうかも知れないけど」
「なんだと?」
「レイプ」
「は?」
「一番最初お前をレイプしたじゃん、オレ。その時も、お前は何も言わなかった」
「………………」
「おかしいだろ、そんなの。常識的に考えて。普通は絶対許さねぇよ。……自分でやっといて何だけど」
「………………」
「だから、なんだけどさ」
「……何が」
「オレが、お前を好きになったの。常識なさそうで、何があっても大丈夫ってツラしてて、やっぱり何があっても大丈夫で、優しくて」
「凡骨」
「ヤバイ、もうすげぇ好き。……好きで好きで、どうしようもない」
「………………」
 

 ……どうしようもない。

 そう繰り返し呟きながら、城之内は海馬の夜着をきつく握り締め、更に身体を摺り寄せた。新しく出来た腹部の痣が圧迫されて痛んだが、そんな痛みなど痛みの内に入らなかった。
 
 

 噎せ返るような酒の匂い、血走った瞳。正気を失った父親が振り回す硬い酒瓶をまともに受けて、小さく呻いてうずくまる。それでも暴行は止まず、彼の体力が限界を超えるまでその腕は振り上げられる。今日は足が出なくてまだマシだった。そんな事を思う自分に嫌気が差す。

 憎いと思った事がないわけではない。母親と妹がいた頃は彼女等に被害が及ぶ度に城之内は激しく父親を憎んでいた。憎くて憎くて、それでも自分はまだ子供で無力で、振り上がる腕を押さえつける事すらできずにただ目の前の光景に恐れ慄くだけだった。

 絶対に許さない。お前なんかいつか殺してやる。過ぎ行く日々の中でその事だけを思い、呪いにも似た言葉を吐き続けながら、城之内はその憎い相手と毎日顔を合わせては罵りあった。罵倒の限りを尽くし尽くされ、最後には手酷く殴られて諍いは終わる。その繰り返し。

 月日は経ち、既に身長も体力も腕力さえ父親を凌駕してしまった城之内は、今度こそやってやると、酒に酔い好き放題暴れた後畳の上に大の字になって寝ている彼に対して絞殺目的で手を伸ばしたが、寝言で「……克也」と呟かれてその腕は止まってしまった。

 その声は酷く優しかったのだ。
 遠い記憶の、まだ彼が城之内に普通の父親として接していた、あの頃のように。

 それからというもの、城之内は父親に対して抵抗らしい抵抗は出来なくなった。
 これからもずっとそうなのだろう。
 
 

 何時の間にか前に回した城之内の手の甲に触れる、暖かな指先の感触があった。考えなくてもそれは海馬のもので、力を込めない程度に包み込んでくれる。

 ああ、やっぱり優しいよな。

 そう声には出さずに呟いて、城之内は眠りに落ちる。

 酷く、穏やかな夜だった。
 する、と絹擦れの音がして抱えていた身体が大きく身動ぎ、ゆっくりと離れていく。

 途中一瞬動きを留めてベッドヘッドで秒針を刻む音を立てる置時計を眺める気配がし、再びそれは距離を取った。かなり注意して抜け出してはいるものの、捲くられた上かけの隙間から入り込む温度の低い空気にほんの僅かに寒さを覚える。しかしそれは直ぐに塞がれて、城之内は暖かな温度を失う事はなかった。

「……もう、朝?」

 上着を羽織り、ベッドから降りようとした背に寝起きの声でそう問いかける。その言葉に一瞬縫い留められた様に動きを止めた海馬は、小さな声で「ああ」と答えた。

「一度部屋に戻る。たまにモクバが朝食を食べろと言って顔を出すのでな」
「……あそっか。いねぇと不審がられるか」
「そうでもないが、念の為だ。貴様の分は後でここに持って来てやる。もう少し寝ていろ。今日は学校には行かないのだろう?」
「……うん。制服取りに行くの面倒だし」

 そういえば今日は何曜日だったのだろう。昨日は確か体育の授業でダルイ思いをしたから金曜日かもしれない。今日行かなければ明日も明後日も休みだ。それだけ休めばまた来週から元通り学校へ顔を出す事が出来るだろう。そんな事を考えながら城之内は部屋を出て行く海馬の気配を余り感じないように努めていた。

 昨夜あれだけ側にいたのにも関わらず、ほんの少しの間でも姿が見えなくなるのが、なんとなく寂しいと思ったからだ。同じ家にいて、しかも自分はまだベッドの中で微睡んでいる状態だと言うのに何を馬鹿な事を考えているのだろう。そう思い、苦い笑みが口元に浮かぶ。

 寝しなに飲んだ痛み止めはそろそろ効き目が薄れてきて、あちこちに鈍痛を感じ始めた。気分が少しずつ沈んでいく。

 溜息を一つ吐く。

 言われた通りもう一度寝直そう。そう思い海馬の背に張りついていた為に少し屈めていた体を伸ばし、枕へと深く頭を沈めてしまう。

 もう一度溜息を吐こうとして深く息を吸い込んだ瞬間、既に覚えてしまった海馬の香りを感じてしまい、またほんの少しだけ寂しくなった。
「あ、兄サマおはよう。……朝から何処に行ってたの?」
「おはようモクバ。……朝からとは?」
「だってさっき兄サマの部屋に行った時、兄サマがいなかったから。どこかに行ってたのかなって」
「……ああ。書庫の方に、少し」
「ふーん。仕事は置いてきたんじゃなかったっけ?」
「一つだけ忘れていた事があってな。……ところで、お前はもう朝食は取ったのか?」
「うん。ちょっと早く学校に行くから。明後日に学芸会があるんだぜぃ。オレのクラスは合唱だから練習しなきゃならないんだ」
「そうか」
「兄サマは今日は学校?」
「いや、今日はいかない。仕事だ」
「そっか。じゃ、オレもう行くよ。友達と待ち合わせしてるし」
「気を付けてな」

 うん、兄サマも頑張ってね。そう言ってモクバは少し早足で瀬人の横を通り過ぎて去っていく。その軽快な足音を背にしながら、瀬人は内心少し安堵していた。やはりタイミングが悪い時は重なるもので、毎日など来ないモクバが今日に限って部屋に来ていたのだ。暖房はつけたままだったろうか。寝室まで覗かなかったろうか。そんな些細な事が酷く気になり、わけも無く不安になる。

 特に後ろめたい事をしているという意識はないが、なんとなくモクバには城之内の事を話す気にはなれなかった。モクバがこの事を知ったからと言って何か非難をするとは思えないし、自分への見方が変わるとも思えない。それでもやはり隠せる内は隠しておきたいと、そう思った。いつか、然るべき時に自らきちんと伝えるのが筋だろう。瀬人はまるで自分にそう言い聞かせるように胸中で呟いた。

 何時の間にか握り締めていた指先は、冷や汗で少し湿っていた。
「凡骨」
「……んあ?」
「朝食を持って来た。食べろ」
「……あぁ、サンキュー。……お前は?」
「とっくに食べて来た。起きられるか」
「大丈夫大丈夫」

 よいしょ、というかけ声と共に起き上がった城之内は今度は海馬の手を一切借りずにベッドから食事が置いてあるテーブルまで歩き、朝食に手を伸ばす。その様子を黙って見守っていた海馬は、彼が普段と変わらない調子に戻っている事を見て取ってやや安心したように一息つくと、持っていたスーツの上着を羽織り、ネクタイを締めた。

「お前、これから会社?」
「ああ。貴様はどうする」
「……どうするって?」
「ここにいても構わないが。帰るか?」
「……ああ、うん。帰る。これ以上迷惑かけらんねぇし」
「帰れるのか」
「一晩もすりゃー大人しくなってるだろ。それか、どっか消えてるか」
「そうか」

 ま、いつもの事だからよ。

 そう軽く言い放ち、止めていた手と口の動きを再開する城之内を一瞥し、海馬はそれ以上特に言及する事もなく頷いた。本当は、何か言う事があったのかもしれない。一瞬伏せられた瞳が意味あり気に瞬いて、視線を逸らす。しかし、やはり何も言わずに彼は城之内に背を向けた。

「ここから出る時はその電話を使って磯野に言え。直通になっているから他人が出る心配はない。後はヤツの指示に従えばいい」
「もう行くのかよ」
「オレは忙しい」
「……そっか。そうだよな。……突然押しかけて悪かった。マジ助かったぜ。ありがと」

 音を立てず外に出る扉に向かって歩くその背を余り良く見る事もせずに城之内はそう言った。本当は、本当の事を言えばこの居心地のいい場所から離れたくなんかない。海馬にもう少しだけ傍にいて欲しい。

 けれど、そんな我侭が言える立場でも柄でもない事は自分が一番よく分かっていたし、それを無理に通す程強く思ってはいなかった。だから何も言わず頷いてみせる。つい口を突いて出そうな言葉を苦労して喉奥に押し込める。

 こんな時ばかり海馬の足取りは緩やかだった。いっその事さっさと姿を消してくれたらいい。そんな身勝手な事を思う自分がまた嫌になる。堪えるように、手にした大きなパンの欠片を口の中に押し込んだ。そうすれば、話す事などできないから。

「凡骨」
「………………」
「電話はいつでも構わない。真夜中だろうが、早朝だろうが、いつでも」
「………………」
「その代わり、必ず呼べ。余計な事に気を回すな。元より勝手ばかりしている貴様には常識など必要ない」
「海……!」

 その言葉に慌てて含んだパンを飲み込むと、城之内は扉の向こうに消え去ろうとするその身体に向かって、海馬、と言おうとした。しかし、海馬は己の名を呼ぶその声を封じるように一瞬振り向き、城之内の口が開く前に、酷く静かな声で一言、こう言った。
 

「父親に殺されるなど、このオレが許さない」
 

 パタン、と小さく扉が閉まる。次いで遠ざかる靴の音。迷いなく足早に消えていくその音を耳にしながら城之内は、漸く「海馬」とその名を口にした。手にした銀色のスプーンが音を立ててスープの中へと落ちていく。暖かでとても美味だったそれの味を一瞬で忘れてしまった。今パンと共に飲み込んだはずのジャムの味でさえ思い出せない。

 衝撃に、息が詰まりそうだった。
 

「……だから、どうして。……そんな事を簡単に言えるんだよ」
 

 ややあって、城之内の唇から苦い言葉が吐き出された。凄く嬉しい事を言われた筈なのに、彼の言葉は酷く重く心に響いた。いっその事「もう二度目はないと思え」と、切り捨てられた方がマシだった。さっきまであんなに寂しいと寄りかかりたいと思っていた筈なのに、いざ手を差し伸べられると、その手を取る事が怖くなる。

 散々勝手をしたからこそ、許されない事をしたと自覚しているからこそ怖いのだ。本当に勝手で、最低で、どうしようもない男だ、自分なんて。

 城之内は、落ちたスプーンを拾う事すら思いつかず、何時の間にか顔を覆った掌で己の前髪を強く掴んだ。頭皮が引き攣れて酷く痛んでも、力を抜く事は出来なかった。

 辛かった。何が辛いかなど分からない程、辛いと思った。
 それでも、逃げ出す事など出来ないのだ。
 

 ── その方法が、見つからないから。