消えない痕 Act7

 何をどう伝えればいいのか。どうすれば相手が理解出来るのか。それに惑い、瀬人は視線をモクバと合わせたまま微動だに出来なかった。

 今この状態で何を言っても彼は理解などしてくれないかも知れない。当事者である自分達ですら、心の底から分かり合えた上で関係を続けていた訳ではなかった。全ては完全に独立したそれぞれの考えと、思い込み。そして何より己がそうしたいと思ったからこそ互いに手を伸ばしたのだ。ただ、それだけだ。

 あの雨の日に、何があったのか。

 瀬人はモクバの声を反駁するように心の中でその言葉を繰り返し、記憶を探ぐる。すると鮮やかに数々の場面が感情と共に蘇った。痛い程頬を叩く雨音と、己の名を連呼する城之内の悲痛な声。息が苦しくなる程の焦燥感、咽せ返るような血の匂い。悲鳴、涙。……そして、身を切るような心の痛み。どれも痛烈な感覚を伴って海馬の脳裏に浮かびあがる。

「兄サマ」

 問う様に再度名を呼ぶモクバの声に、瀬人は静かに首を振った。言いたくない、という無言の仕草だった。

 城之内との出来事を今モクバに伝えた所で何が変わるというのだろう。単に衝撃を与えるだけだ。ただでさえ疲弊している幼い弟にこれ以上の追い打ちをかけたくはない。それに、これは一人で口にしていい話でもなかった。

事実は二人で誠意を持って、正確に伝えなければ。
 痛みと責任を、分かつ形で。

「城之内……とは、付き合ってはいた」

 あの日から話を反らすように、瀬人は先程モクバから問われたもう一つの問い……城之内との関係についてだけ、そう答えた。

 付き合っていた。その当たり前の単語が何故か酷く空虚に響く。そう、確かに付き合ってはいたのだ。あの関係に呼び名を付けるとすればそれが一番適切なものだろう。

「それは恋人、という意味で?」
「……恋人?」
「だって、付き合ってたって事は、好きだったんでしょ。好きだから……」
「キスもセックスもした」
「………………!」
「だが、恋人ではない」
「え?」
「オレは、奴に……まだ何も言ってはいない」

 モクバの言葉を遮るように少し語気を強めて吐き出されたその台詞に、モクバは驚愕の表情で息を飲んだ。何を言ってるの兄サマ。訳が分からない、おかしいよ。驚きの声を発したまま中途半端に開かれた唇から、そんな声無き声が聞こえてくる。けれど、それが真実なのだ。

 瀬人はまだ一言も城之内に自分の胸の内を伝えた事はなかった。城之内からは何度も好きかと問いかけられた。オレはお前が好き、でもお前は? ……繰り返されるその問いに、瀬人は一度たりとも答えた事はなかったのだ。

「どうして」
「…………」
「兄サマは、城之内の事を好……」
「……オレは、奴に会いたい。今はただ、それだけだ」

 本当は直ぐにでも明確な答えが出る筈だった。けれどそれを言葉として伝える前にこんな事になってしまった。頼りなく繋がっていた指先が離れてしまった。否、離されてしまったのだ、城之内から。

 その事について思い悩む事は特になかった。悲しみや苦しさ、辛さと言った感情も一切沸いて来なかった。 何故なら別れを切り出した城之内の思いも手に取る様に分かっていたからだ。 ならば何故、海馬はこんなにも城之内に会いたいと願うのか。その理由は二つある。

 一つは、純然たるこの思いを言葉にして伝える為。
 そしてもう一つは、不安を。
 ……恐怖を覚える程の、強い不安を覚えたからだ。
 
 ── ごめん。
 

 衝撃に掻き消され僅かにも聞こえず、暗転する視界の奥に消えて行った最後の言葉。悲しみに震え、恐怖に怯え切ったその身体を抱き締めても、なんの救いにもならなかった。力の限りに突き飛ばしたあの瞬間に、彼の縋るもの全てが崩壊した事は知っている。嫌という程、分かっていたから。

 あの日を最後に、城之内は消えてしまった。今はただ海馬の視界から消え失せているだけだったが、あの常識の無い男の事だ。本当の意味で消えてしまう可能性がある。今の城之内に頼れる人間など一人もいない。まさかとは思う。けれど絶対にないとも言い切れない。……だから、早く。 

「結局、兄サマはどうしたいの?」 

 先程とは一転し、酷く静かな声が耳に届いた。モクバを見ているようでその実まるで見ていなかった瀬人の瞳は、その声に驚いたように僅かにずれていた焦点を合わそうとする。ぼんやりとぼやけていたモクバの顔が、急に明確に目に映った。穏やかな瞳がこちらを見ている。

「城之内に会って、どうしたいの?」
「………………」

 どうしたい?そんな事は決まっている。その顔を見た瞬間、少しも変わらないその身勝手さを詰って、言葉だけでは伝わらない怒りを殴る事によって思い知らせて、そして……もう一度強く抱き締めてやりたかった。一度も言えなかった言葉と共に。

 そんな高まる感情とは裏腹に、瀬人は沈黙してしまう。この気持ちを、想いを、一番に伝えたい相手は城之内だ。モクバにではない。 だから、瀬人は口を閉ざす。何を言われても、その時が来るまでは決して語りはしないと、一人密やかに決意しながら。

「兄サマ」

 幾ら待ってもモクバの声に、瀬人が答える事はなかった。沈黙を貫き、決して口を開かないという意思表示をする為に瞳をも閉じてしまった瀬人をただ見つめながら、モクバは苦し気に顔を歪めて俯いた。

 やはり、自分だけではどうする事も出来ないのだ。兄弟の絆という武器を持ってしても、頑なに閉ざされた瀬人の心を抉じ開けて見る事は叶わない。瀬人が自らの意思でそこを開いてくれない限り、推し量る事すら出来ないのだ。

 今のモクバに出来る事は、決して開かない瀬人の心を抉じ開けようと躍起になる事ではなく、彼の言う通り……否、望み通りにあの男を目の前に連れてくる事だけだ。悔しいけれど、悲しいけれど、そうするしか術がない。
 

「わかったよ、兄サマ」
 

 ── 本当は、何も分からない。分かりたくなんかない。けれど。
 

「城之内を、連れてくればいいんだね。ここに」
 

 その言葉に、瀬人からの返事はなかった。あるのはただ、重苦しい沈黙のみ。

「じゃあオレがここに連れてきてやるよ。何があっても。どんな手段を使っても。だから兄サマ、その時は全部話して。最初から最後まで、全部」
「……全部?」
「そう、全部。散々迷惑かけたんだから当然でしょ、その位。本当は兄サマも城之内もぶん殴ってやりたいよ」
「……そうだな」
「そうだよ。怪我が治ったら覚悟しておいてね」

 そう言って拳を作り、振り下ろす真似をしながら少しだけ笑って見せたモクバの顔は、決して笑ってはいなかった。瀬人は緩やかに目を開けてその顔を凝視すると、本当に小さな声でこう言った。
 

「すまなかった、モクバ」
「でも、目が覚めて本当に良かった。一時はどうなるかと思ったよ」
「大げさだな」
「大げさじゃないよ。海馬くんは知らないだろうけど、凄い騒ぎだったんだよ。今もだけどさ。モクバくん、一人で頑張ってたんだから。後でちゃんと謝って、お礼も言わなきゃ駄目だからね」
「分かっている。貴様に言われるまでもないわ」
「そう。ならいいけど。後でちゃんとモクバくんに確認するからね」
「しつこい」

 白いカーテン越しに差し込む朝の光が酷く眩しく目に映る。その日は前の晩から引き続いた快晴で、冷えた切った空気が肌を差すようなこの冬一番の寒さを記録した日。突然訪れた真冬の寒さに前日の昼に少しだけ降った雪が凍り付き、交通機関が著しく麻痺した、そんな日だった。

 その騒ぎに乗じて堂々と学校を休んだ遊戯は、学校へ行って来ると言いつつ海馬の元へとやって来た。病院の規定では面会は昼からと決められていたが、最上階の最奥に位置する海馬の個室にはそれが当てはまる事もなく、意外にすんなりと入り込む事が出来た。

 モクバから連絡を貰って三日後。海馬の体からは以前に見た様ないかにも生命の危機を思わせる装置は大分外され、顔半分を覆っていた包帯も大きなガーゼへと変化した所為か、以前よりも確実に安心できる様相になっていた。それでも、痛々しさは変わらない。

「モクバとは、よく連絡を取っていたのか?」
「ああ、うん。一日一回位かな。メールが殆どで、電話は余りしなかったけど」
「……そうか。世話をかけたな」
「そんな事ないけど」

 そこで、会話は一旦途切れた。申し訳程度に付けられている、病室に置くには少々不釣合いな小型スクリーンから絶えず流れている経済ニュースの音だけが、静けさに満たされた部屋に淡々と響いている。

 二人は暫く居心地悪そうに画面越しに激しく焚かれるフラッシュの光に目を細めながら、興味もない映像を眺めていたが、やがて沈黙に耐えられなくなった遊戯が、ゆるりと視線を海馬に戻し、徐に口を開いた。

「……あの……城之内くんの、事だけど」
「貴様がモクバに教えたそうだな」
「う、うん。ごめんね、勝手な事をして。怒ってるでしょ」
「いや、別に。いずれは分かる事だ。いつ知れようが同じだろう。それより、貴様はどこからその事を知ったのだ」
「僕は……城之内くんから教えて貰ったんだ」
「城之内から?」
「うん。大分前だけどね。君に告白して……そういう事に、なったって」
「………………」
「でも、その時の話では「昨日」って言ってたから。夏の終わり位かな。その後君達がどうなったのかは分からなかったんだ。城之内くんはそれから一言も僕にその話をしていないから」
「……そう、か」
「城之内くん、見つからないんだ。君が事故にあった日からあちこち心当たりを探してはいるんだけど……携帯にも繋がらないし」
「………………」
「でも心配しないで。まだ本当に駄目って決まったわけじゃないから。敢えて連絡を取ってない所もあるしね。最終手段でとってあるんだ。だから君は何も考えないで、怪我を治す事だけに専念してね」

 ね、と念を押す様にそう言いながら、遊戯は一歩海馬のベッドに近づいた。顔だけをこちらに向けてじっと遊戯を見るその眼差しは酷く静かで。遊戯は、海馬はもしかしたらこうなる事を予め知っていたのではないか、と直感した。

 その証拠に海馬はモクバからこれまでの事を全て聞いていると言ったにも関わらず、遊戯に自分から聞く素振りを一切みせなかった。もし海馬が城之内が消えた事や、遊戯が彼を探す任を負っていると知れば、遊戯がこの病室に顔を見せた瞬間に訊ねるだろう。しかし、そんな事は一切なかった。ただ黙って入室し近づいて来た遊戯の顔を見つめただけだ。

「……冷静なんだね」
「何がだ」
「だって海馬くん、僕の言葉に全然驚かないじゃない」
「驚く事など何もないからだ」
「……全部、知っていたから?」
「何?」
「僕が君達の事を知ってるって事も、モクバくんにバレてしまった事も、城之内くんがいなくなってしまった事も。全部、本当は知ってたんじゃないの?」
「………………」
「どう?当たってる?僕の考え」

 一歩、もう一歩と近づいて、とうとう海馬の顔を覗き込む形となった遊戯は、何時の間にか至近距離にあった瞳をじっと睨んだ。ベッドの住人らしい、この数週間の間に少し痩せてしまっているだろうその頬はやけに白くて、その白よりもさらに白いガーゼが目に痛い。

 海馬は暫く、遊戯の言葉にどう答えようか迷っているようだった。合わせている筈の視線が軽く空をさ迷い、逡巡した後伏せられる。遊戯は大分長い間、何も言わず海馬の口が再び開かれるのを待っていた。幸い時間はたっぷりある。モクバと同じく大きな不安を抱えて過ごしたこの数週間を思えば、海馬の言葉を待つ数分など、何の苦にもならなかった。

 それからどの位時が経ったのだろう。たった数秒かもしれない、それとももう数分経ってしまったのかもしれない。けれど時計を見つめていたわけではない遊戯には正確な時間など分かりようもなく、また分かる必要もなかった。……このままずっとだんまりを続けるつもりだろうか。そうならば話題を変えなければ。そう遊戯が思い始めたその時だった。
 

「……最初の二つは、全く知らなかった」
「え?」
「最後の一つだけ、そうではないかと思っていた」
「どうして?」
「そう、本人が口にしたからだ」
「城之内くんが?」
「ああ」
「……海馬くんは、それに対してどう答えたの?」
「何も」
「何も?」
「そんな場合ではなかった」
「……そっか。……それで事故があって……城之内くんは、いなくなってしまったんだね」
「姿が見えないのであればそうなんだろう」

 語尾に溜息を交え、重々しくそう吐き出した海馬は僅かに眉を寄せて空を睨んだ。僅かに苦渋の滲んだその顔に、遊戯は「何故」と聞こうとして聞けなかった。一体、彼等の間に何があったのだろう。「恋愛」をしていたはずの彼等のその表情の裏には一体何が隠されているのだろう。

「……海馬くん」
「遊戯」
「何?」
「もし万が一貴様が奴の行方をつきとめ、話をする事が出来たなら、こう伝えてくれ」
「……うん」
「逃げる事など許さない」
「────── !」
「絶対に、許さないと。貴様がそう出るのであれば、オレにも考えがある。……とな」
「考えって……何をするつもりなの?」
「奴には何もしない。オレが……ここから飛び降りてやる。オレを殺したくなかったら戻って来い、と。そう、言ってくれ」

 海馬が酷く静かな声で、余りにも突飛な事を言うものだから、遊戯は思わず妙な叫び声を上げて、眼下の身体に縋りつく。衝撃で傷のどこかが痛んだのが、海馬が僅かに呻いたものの、そんな事は気になどしていられなかった。

 冗談でもそんな事は口にして欲しくなかった。折角助かった命なのに。
 それなのに簡単に死を仄めかすような事は、言ってなど欲しくない。

「!!ちょっと待ってよ!何言ってるの?!」
「……そう言え。その位言わないと、あの馬鹿が戻ってくる事はないだろうからな」
「なんでだよ!」
「オレに聞くな。奴に聞け」
「そんな事言ったって!」
「頼む遊戯」
「えっ」
「……頼む、から」

 身体的苦痛とはまるで違う痛みを海馬は感じているのだろう。再び向けられた眼差しは、怖い位に真剣で目が離せない。カーテン越しの光を受けて綺麗に澄んで見える青の瞳は少しも潤んでなどいないのに、何故か遊戯には海馬が泣いている様に見えた。
 

 ── 涙も無く、声も無く……泣いているように。