消えない痕 Act8

 ふと気がつくと、そこは見慣れない空間だった。薄暗い蛍光灯の明りが微かにゆらめき、香る慣れない薬品の匂いに眉を顰める。ゆるりと視界を廻らすと映る色彩は全て白。考えなくても直ぐにここは普通の部屋ではない事が分かった。

 一体何があったのか、思い出そうとして一瞬吐き気がした。……なんだ?無意識に右手を口元に持って行き、僅かに堪えるとズキリと身体の何処かに痛みが走った。それに更に疑問を一つ追加して、彼……海馬はもう一度改めて周囲に視線を巡らせた。すると、己の左側にある古びた椅子のようなものに、白以外の色を見つけた。

 それは、左半分が真紅に染まった自身の纏っていたコートだった。

「………………!」

「── 気がついたかね?」

 不意に、何処かから聞き慣れない声が聞こえた。はっとしてそちらへ顔を向けようと身じろぐ前に、声の主は自ら海馬の視界へとその姿を割り込ませてくる。それは白衣を着た、多分老齢の男の医師。彼は海馬の様子に目を細めるとちらりと腕時計に目をやった。そして「そろそろ薬が切れる頃だが、痛みはないか?」と聞いてきた。

「……ここは……オレは一体」
「ここは童実野町の外れにある病院だよ。君は昨日の深夜ここに担がれて来たんだ」
「覚えがない」
「あれだけ出血していればそうだろう。実際意識はなかったからね。左手の、丁度手首の所が深く傷ついていて……まぁ、切れたところが悪かったんだろう。今はちゃんと縫合して、破片も全部取り除いたから大丈夫だ。他にもニ、三あるがこれは心配ない。単なる打撲だ」
「………………」
「君をここに運んできたのは、城之内克也だよ。血相を変えて怒鳴り込んできてな。何事かと思ったぞ」
「城之内……?」
「彼の事は儂も良く知っている。ここの常連でもあるからな。だからこそ飛び込んできたんだろうが」
「で、城之内は何処に」
「先ほどちょっと出てくると言って出かけて行った。大方家にでも帰ったのだろ。直ぐに戻ってくる」
「………………」
「どこかで顔を見た事があると思ったら、君は良くテレビに出ているあの海馬コーポレーションの……克也の知り合いとしては今までにいなかったタイプだな。吃驚したよ。仕事も忙しいだろうに奴に付き合って大層迷惑を被っているだろう。こんな怪我までして、因果な話だ」

 老医師のその言葉に、海馬ははっとして横になっていた寝台から身を起こそうと上半身に力を込める。そうだ、こんな所で寝ている場合ではないのだ。今日は一体何日で、今は何時なのだろう。

 提携企業との共同開発の期限も迫っているし、海外の支社立ち上げの準備も進めなければならない。昨日の時点でスケジュールはぎっしりと埋まっていたのだ。直ぐに社に戻らなければ。

 ……そう思っても、身体がいう事をきかなかった。起き上がろうとしても、起き上がれない。

「無理だよ。まだ麻酔が切れていない。後2時間ほど必要だ。……携帯が必要かね?そう言えばひっきりなしに着信があったようだが」

 そう言いながら、医師は近くにあったサイドテーブルの上から海馬の携帯を取り上げて差し出した。それもやはり所々血がこびりついていて、一瞬触るのに躊躇した。それでも直ぐに右手で受けとって中を見る。

 ディスプレイにはメールや電話の着信が数十件記録されていた。慌てて中を確認し、返信できるものは返信しなければと、震える指先を堪えて操作する。怪我をしたのが左腕で良かった。内心そんな事を思いながら、海馬はディスプレイを見つめ続けた。
 

 ついでに見た日にちは11月10日。
 それは海馬が事故に合う、一日前の日付だった。
 

「とりあえず儂は部屋に戻る。何かあったらそこのボタンで呼び出せばいい。そのうち克也が来るだろうからそんな必要もないだろうがな」
 

 無言で携帯と向き合う海馬を見ながら、医師はそう呟くと静かに部屋を後にした。遠ざかる足音を意識の片隅で聞きながら、海馬はすべてのメールに返信をし終えると、大きな溜息を吐いて携帯を放り出す。

 また、ズキリと身体のどこかが痛んだ。その部位を確かめる気力は彼にはなかった。大きく息を吐いて、目を閉じる。先程医師が言っていた麻酔の所為か何かは知らないが、未だぼんやりとした意識の中、綺麗に抜け落ちてしまった昨晩の記憶を手繰り寄せようと、その前の行動から順に追って考える。

 暫くして、人よりも大分優秀なその脳は、抜け落ちた部分を補填し始めた。しかし途中からそれは大きな後悔に変わった。先程唐突に込み上げた吐き気の意味が、漸く今になって分かったからだ。思い出さなければ良かった。再び身体の奥底からせり上がってくる不快感に、海馬は思わず身を丸めて口元を覆った。
 

 ── 吐きたい。痛烈に、そう思った。
 

 
 

『っ!海馬、海馬!!しっかりしやがれ!!』
 

 薄れ行く意識の中で、最後に聞いた声は、そんな悲鳴にも似た叫び声だった。左腕は滑った血に塗れ、それまでに感じていた焼けつくような痛みは、その時はもう感じなかった。

 手をついた場所が悪かったのだ。

 ザリ、と不快な音がして、激痛と共にドクドクと流れ出した血を認めた瞬間、海馬は何故か冷静にそう思った。そこに割れた酒瓶があるなど予想できる筈もなかった。暗闇の中、突然背後から蹴り飛ばされて、思い切り壁に身体を打ち付けて、ずるずるとその場に座り込んだ。

 一瞬何が起きたか分からずに身を起こそうとしたら空瓶が飛んできた。派手な音を立てて割れたそれを意識する間もなく、とにかくこの場から逃げなければ、そう思った刹那再び衝撃が訪れた。

 敢え無く床に蹴り倒され、手をついて起き上がろうとしたその場所に……割れた酒瓶が転がっていたのだ。鋭い破片はあっさりと海馬の皮膚を突き破り、静脈を切り裂いた。

 悲鳴すら、あげる間もない出来事だった。
 

 その惨事があった場所は、城之内の自宅室内。
 そして海馬に危害を加えたその男は……
 

 ── 城之内の、父親だったのだ。
 それは何度目かの緊急を告げるサインだった。
 

 時刻は深夜1時。その日は日付が変わっても仕事に目処がつかず、海馬は一人社に残ってキーボードを叩き続けていた。前々日からの徹夜作業で大分疲労してしている身体は休息を欲して悲鳴を上げていたが、それに頓着している場合ではなかった。

 後数行打ち込めば、とりあえずは家に帰れる。夕方、殆ど家に帰らない自分を心配して学校帰りに顔を見せたモクバの「今日は帰ってきてね」の言葉が胸に過ぎる。大分無理をしている事は自覚している。けれどそれをやめようとは思わなかった。

 程なくして作業工程全てを終了し3日ぶりにPCの電源を落とした海馬は、散らかり放題に散らかった机上をおざなりに整理し一応見れる状態に戻した後、帰宅する為に席を立とうとしたその時だった。手元にあった携帯が大きく振え、静寂の部屋に奇妙な振動音が鳴り響く。直ぐに手に取り、ディスプレイを確認すると、そこに表示されたのは城之内の名前だった。
 

「どうした凡骨。何かあっ……」
『…………………』
 

 通話ボタンを押した瞬間、聞こえて来たのは城之内の声ではなかった。聞き慣れない男の怒号と、何かが割れる衝撃音。海馬は直ぐにそれが何かを察知し、即座に電話を切ると近間にかけてあったコートを掴み、部屋を飛び出した。

 時刻が時刻故に人気の無い社内に駆ける海馬の足音が大きく響く。幹部用の出入り口から外に出た彼は、誰かを呼ぶ真似はせずに直ぐ様地下に止めてあった車に乗り込んだ。そして記憶を頼りに城之内のアパートへと向かう。

 程なくして童実野町の中心街から少し離れたその場所に辿りついた海馬は、急いで車から飛び降りると彼が暮らすと言う三階の端の部屋へと走った。眼前にはだかる古びたドアに手をかけると、施錠はされていなかったのかあっさりと内側へ大きく開いた。

 入り込んだ室内には明かりらしきものは何もなく、物音の一つも聞こえなかった。先程の騒ぎが嘘のように不気味に静まり返った室内に、海馬は自分の直感が外れたのかと臍を噛む。しかし、もっと良く内部を確認してからでも遅くないと一歩足を踏み入れた瞬間響いたざり、という耳障りな音とついで響いた水音に、海馬は直ぐにその考えを翻した。
 

 彼が踏みつけた暗闇の中で鈍く光る物体。
 それは、酒に塗れた割れた分厚い硝子の破片だった。
 

「──── っ!」
 

 はっとして足を避けた瞬間漂ってくる香りに、海馬は思わず口元を手で覆う。酒と煙草の混じった匂い。つんと鼻をつくような酷く不快なその匂いは駄目だった。それと認識した刹那、胃に物が入っているいないに関わらず込み上げてくる吐き気。己の口を押さえる指先が軽く震える。額に冷や汗が滲んでその場に立ち竦んでしまう。
 

 それが、PTSD--心的外傷後ストレス障害と呼ばれる物だと言う事は知っていた。
 

 これまでも幾度か同じような経験をした事がある。遠い昔、海馬がまだその名を名乗る前の幼少期に、剛三郎ではない、実の父親から受けた暴力の名残だった。
 

 ── 酒乱の父親……それは何も、城之内に限っての事では無かったのだ。
 

 剛三郎と対面した時も同じ苦しみを味わった。

 あの男も酒と、匂いの強い煙草を好んだからだ。その香りに触れた瞬間身体が震え、立っている事さえも出来なかった。その姿に剛三郎は愉快そうに嘲笑った。そして、その香りに更なる嫌悪を植えつける真似をしたのだ。
 

 その事を……城之内は知らない。知る術はなかった。
 

「城之内!」
 

 吐き気を堪え、海馬は暗闇の中に向かってその名を呼ぶ。多分、奴はきっとこの中にいる筈だ。足元に転がっている見慣れたスニーカーがそれを如実に物語っている。しかし、幾度呼んでも返って来ない応えに海馬の焦りは募った。返事を返せない様な状況に陥ってるのか、それとも靴すら置いたまま何処かに消えてしまったのか。

「………………」

 海馬は一瞬靴を脱ぐかどうか躊躇して、破片の存在を思い出し土足のまま中に入る。強くなる酒の匂いに眩暈を起こしそうになりながら、暗闇に目を凝らす。すると、部屋の片隅……丁度窓の横のカーテンの陰に、うずくまる影を見つけた。

 慌てて駆け寄り、手を伸ばす。触れたそれに体温を感じた事から、その影が人間である事を知った。覚えのある布の感触。城之内だ、そう思った、その時だった。

「──── っ!」

 不意に、背後から強い衝撃が海馬を襲った。ドン、と鈍い音がして、屈んでいた身体は近間の壁に弾かれるように飛んで行き、激突した。余りに突然の事で受身すら取れず、まともに壁に当たった海馬は、そのままその場に崩れるように座り込んでしまう。その事に衝撃を受ける間もなく、直ぐ側で空瓶が割れる音が響いた。

 はっとしてその方向へ目を凝らすと、そこには一人の男が立っていた。

「克也!」

 その男から紡がれた名前に、海馬の目が大きく瞠った。

 男は、城之内の父親だった。手にした別の酒瓶が外の街灯の明りを反射してきらりと光り、その光を受けて見えるこちらを見据える濁った瞳が瞬いている。彼は海馬を城之内と見間違えているようだった。アルコールによる思考力・判断力の低下により今自分が何をどうしているのかさえ分からないのだろう。しかし、海馬が驚愕したのはその事ではなかった。
 

 凶暴な輝きを宿すその鋭い眼差しが、記憶の中のそれと合致してしまったから。
 

 腕を大きく振りかぶり硬い酒瓶を振り下ろした、今はおぼろげな輪郭でしか海馬の中には存在しない、かつての父親の姿と眼前のそれが重なって……身体が竦んだ。身動き一つ、取れなかった。
 

「!!……とう……」
 

 海馬の震える唇が、その言葉を紡ぐ前に、二度目の衝撃が彼を襲った。力任せに蹴り倒され、痛みを感じる間もなく頭から罵倒される。その怒号の意味を理解する前に、海馬は立ち上がる為に必死に手をついて、身を起こそうとした。そして……。

 ザクリ、という感触と共に左手から血が噴出したのだ。

 その刹那、物言わぬ影だった城之内が意識を取り戻したのか、身を起こす。そして、いきなり視界に入った海馬に悲鳴を上げた。
 

「っ!海馬!?……お前、何時ここに……!!」
 

 その視線が海馬の腕に流れた瞬間、ひっ、という短い呼吸音と共に、城之内の声が止まった。

 血溜まりの中に膝をつく城之内の、ぴちゃりと鳴った音だけがやけに大きく耳に響いた。