消えない痕 Act9

 カーテン越しの日差しが目に眩しい。

 閉じている瞼越しにも感じるやや強いその光に海馬はゆるりと目を覚ました。何時の間にか眠ってしまったのか、先程薄暗かった室内は酷く明るく、閉ざされた扉の向こう側も行き交う人の気配がはっきりと感じられた。

 今、何時なのだろう。そう思い枕元に投げていた筈の携帯を取ろうと右手を伸ばす。あの老医師が言っていた麻酔がすっかり抜けてしまったのか、先程よりも幾分体が軽く、それ以上にはっきりと痛みを感じる様になっていた。心音に合わせてズキズキと脈打つような痛みを発する左腕に、海馬は軽く眉を潜めた。その時だった。
 

「あ、目ぇ覚めた?」
 

 不意にあらぬ方向から声がして、視界に城之内の姿が映った。口の端が僅かに赤黒く変色していたものの、他に目立った外傷はないようだった。その事に何処かでほっとしつつも、常とはまるで違う沈み切ったその表情にどきりとする。

「……城之内」
「本当に吃驚したんだぜ。気がついたらお前、オレの横で血塗れになって倒れてんだもん。もう駄目かと思った」
「勝手に人を殺すな」
「……本当に……駄目かと、思った」

 城之内の声が酷く震えて、掠れて消える。何時の間にか触れられていた右手は痛い位に握り締められていた。その指先も、震えていた。目を凝らしてその顔をよく確認しなくても、彼が泣いているのがすぐ分かった。本当に涙腺の弱い男だと海馬が少し呆れたその時、それきり黙りこんでいた唇から予想通り謝罪の言葉が零れ落ちる。

「ごめん。……謝っても、もうどうしようもねぇけど……巻き込んじまって、悪かった」
「………………」
「オレ、お前に連絡した記憶全然なくって……でも履歴見たらお前の名前があってすげぇビビッた。あの電話が悪かったんだよな。本当にごめ……」
「別に」
「……え?」
「連絡をしろとオレが言った。だから、貴様が気にする必要はない。……それに、貴様の家に行ったのはオレの判断だ」
「でもよ!」
「煩い。その話はもうしない」

 そう言い放ち、海馬はきつく眉根を寄せて黙り込んだ。

 そう、全ては自分の判断だったのだ。何かあったらすぐに呼べと言ったのは自分自身だ。相手には非などない。怪我をしてしまったのは失策だったが、それさえも渦中に飛び込んでいった己の責任なのだ。

「手を煩わせて悪かったな。オレは家に帰る」
「!帰るって、その怪我なんて説明すんだよ」
「この位置なら上着を着れば見えはしないだろう?問題ない。痛みは顔に出さないよう我慢できる」
「……問題あるって!」
「それに、昨夜は誰にも何も告げずに出てきてしまったしな。この場合むしろ姿が見えない方が騒がれる」
「………………!」

 言いながら寝台から起き上がった海馬の前に、城之内は引き止める様に立ちはだかった。しかし、最後に海馬から紡がれた台詞にその体はびくりと揺れて、固まってしまう。ゆっくりと、海馬は己の手を掴む城之内の指先から逃れると、立ち上がろうと寝台端まで身体を寄せた。が、直ぐにその動きは縫い止められた様にその場に留まり、惑ったような視線が空をさ迷う。

「……ああ、そうか。凡骨、貴様のそのコートを貸せ。後で返す」
「コート?」
「オレのコートは流石に使い物にならないのでな。下は、黒だから目立たないが」

 言いながら、彼が指を差したそこには血染めのコートが放られるようにかけられていた。それに一瞬息を飲み、再び顔を歪めた城之内に気付かない不利をして、海馬は低い声で「早くしろ」と吐き捨てた。

 それに慌てたように城之内は自ら羽織っていたコートから腕を抜き、海馬へと差し出してしまう。直ぐに彼のコートと同じ血濡れのシャツが、手渡された薄茶の布の下へと隠された。……その仕草の合間に、海馬が一瞬だけ顔を顰めたのを、城之内は見逃さなかった。

「オレの車は?」
「あ……オレがここまで乗って来た。お前を運んだから」
「そうか。あれはたしかシートが黒だったな。……大丈夫か」
「一応、目立ちそうなとこは拭っておいた。黒っつってもよくみりゃ染みになってんの分かるぜ」
「その内なんとかする。凡骨にしては気が利いているな」
「そういう問題じゃねぇよ……お前、本当に帰るのか?」
「ああ、帰る。後は上手くやっておけ。金も後で……」
「その傷はどうすんだよ。放っておけないだろ」
「こんなもの慣れている。どうという事はない」

 そう言いながら眼前に立ちはだかる城之内を退けるように、海馬はその身体に手をかけて強く押す。しかし城之内はびくとも動かず、ただ黙って眼下の海馬を見下ろしていた。

「退け、凡骨」
「……なぁ、海馬」
「何だ」

 思わず見上げたその顔は、泣いた名残はあったもののもう泣き濡れてはいなかった。僅かに赤くなった目元を複雑な思いで眺めながら、海馬は途中で途切れたらしい相手の言葉を待っていた。

 暫しの沈黙が訪れる。
 

「ごめん、やっぱり、オレ……お前とは付き合えない。付き合う資格なんかない」
「……貴様何を言って……」
「元々付き合ってなんかなかったけどさ。オレが一方的にお前に……でも、もう、これ以上迷惑はかけねぇから。電話もしない。悪かったな」
 

 ほんの僅かな間の後、海馬を見つめる城之内の口から、震える声でそんな言葉が紡がれた。一瞬言われた言葉の意味が分からず、聞き返そうと海馬が彼の名を呼ぼうとしたが、即座に畳みかけられる台詞に敢え無く掻き消されてしまう。
 

「ごめん……無理」
「城之内!」
「本当に勝手ばっかりやって、ごめん、な?」
 

 最後に、途切れ途切れにそう言って、城之内は眼下の海馬に一瞬触れるだけのキスをすると、弾かれるようにその身体から身を離し、そのまま背を向けて走り去ってしまう。
 

 一人残された海馬は、ただ呆然と去り行くその気配を感じながら、空を見つめるだけだった。

 やけに大きく響いていた城之内の足音は直ぐに遠ざかり、他の雑音に紛れて……すぐに消えた。
 ── ごめん。
 

 不意に、どこからかそんな声が聞こえた気がして、瀬人はふと目を覚ました。あの大掛かりな機材の機械音が響かなくなった広い病室内は、優しい雨音で満たされていた。

 ……雨が降っているのか。

 今は薄いカーテンが引かれて見る事が叶わない窓の外に、顔ごと視線を送りながら彼はそう呟く。

 怪我の回復は驚く程順調だった。
 元より丈夫で回復力に優れている身体は日を追うごとに着実に完治に近づいている。二月はベッドから起き上がることすら出来ないだろうと宣告されたが、半月が経つ今、介助が必要だったが半身を起こせるようになっていた。もう半月もすればベッドから離れる事も可能になる。リハビリなどの面倒な工程が残されてはいるが、それこそ苦にもならないだろう。

 大抵の苦痛や困難には慣れきってしまった。今更何が起ころうとどうとも思わない。

 瀬人はそんな事を心の中で呟きながら誰もいない事をいい事に、勝手に可動式ベッドのパネルを操作し半身を起こした。拍子に固定されたままの背中の一部が痛んだが、余り気にはしなかった。鉛のように重い自分の身体に舌打ちをしつつ、なんとか自力で「座っている」状態に身体を落ち着ける。

 ……なんだ、出来るのではないか。

 今朝の時点ではまだ無理だと頑なにそれを否定した医師の顔を思い出し、そう毒づく。そして、一息つく為に大きな深呼吸をした。久しぶりに見た、僅かに高い視点から眺める病室内は、どこか別の場所のように感じた。塵一つない清潔な室内。常に漂う薬の匂いにはもう慣れた。

 相変わらず顔の半面は大きなガーゼで覆われていて、視界が閉ざされていた。同じ様に額にも柔らかな拘束感を感じる。

 自分がどこをどんな風に怪我をしたのか、具体的には知らない瀬人は、そのガーゼの下に何が隠されているか分からなかった。事故にあってから今日まで、鏡を見る事すらしていない。同じ様に他の部位もその実どうなっているか分からなかった。別に何処がどうなろうと気になるものでもなかったが、流石に生活に支障がでるようならば問題だ。

「………………」

 そう思った瀬人は、ゆるりと視線を廻らせて周囲を探った。

 どこかに、鏡は。

 そう唇だけで呟きながら首を左右に振る。途端に襲う眩暈に思わず額を手で押えた。ズキリという痛みと共に、指先の下にあるだろう傷が疼く。忌々しいと、再びの舌打ちと共にゆっくりとその手を離そうとした刹那、その目は視界に飛び込んできたものを目敏く捕らえた。

 左手首に巻かれた白い包帯。

 白過ぎて目に痛みすら覚えるそれに、瀬人は一瞬息を飲んだ。

 そして徐にその手を己の前に翳し、着慣れた夜着の袖を捲りあげる。そしてすぐ包帯を止めている銀製の止め具を外し、些か乱暴な仕草でそれを外した。伸縮性のある柔らかな布が擦れ合う音が静かに響く。

 それを冷ややかな目で見つめながら、彼は取れた包帯の後にすぐ現れた薬液の染みこんだ白いガーゼも容赦なしに剥ぎ取った。
 

 現れたのは、未だ引き攣れた肉の感触も生々しい、赤い傷痕。
 

 これはあの事故で出来た傷ではないのは瀬人自身が一番良く分かっていた。事故の前日、城之内の無意識の呼び出しに応じて、彼の元へ飛び込んで行った結果、出来てしまった傷だった。

 ザクリと肌を切り裂くガラス片の感触。次から次へと溢れ行く生暖かな血の温度。徐々に冷えていく指先、城之内の悲鳴、抱きしめられた腕の強さ。そして……
 

 ── 身が震えるほどの恐怖と、絶望。
 

 その傷一つで次から次へとフラッシュバックするその光景に、感覚に、瀬人は思わずそれを隠すように右手で握った。指先がまた震える。背に汗が滲んで、耐え難い吐き気が襲う。

 思い出すなと自分に言い聞かせても、思い出さずにはいられなかった。
 

 床に付した己を遥か上から射殺さんばかりに睨みつけてきた、あの顔。右手に持つ凶器となった酒瓶は容赦なく壁に、床に、そして暖かな体温を持った人にまで振り下ろされる。
 

 ……あれは城之内の父親だ。顔すら思い出せないオレの父親じゃない。
 

 そうは思っても、実父の顔が思い出せない分、余計に印象が重なった。幼い頃心の根幹に植えつけられた恐怖に身が竦んだ。長い間忘れていた筈なのに、あの瞬間により鮮やかに甦ってしまったのだ。それは背に残る醜い傷痕よりもまだ強く瀬人の心を苛んだ。
 

 目には見えない、深く、大きな……決して消えない傷痕。
 

「──── っ!!」
 

 瞬間、手首に不自然な痛みが走った。次いでジワリと滲み出す液体の感触にはっとして何時の間にか閉じていた目を開ける。急に開けた視界に飛び込んできたのは、鮮やかな赤。

 自分自身で引き寄せた苦しみの記憶に身を強張らせて耐えていた瀬人は、左手首を握り締めていた己の右手が、治りかけた傷口すら裂いてしまう程の力を込めていたのを気付かなかったのだ。

 ぽたぽたと、白いカバーの上に血の染みが広がっていく。その様を半ば呆然と受け止めた彼は、すぐに我に返ることも出来ず、ただ溢れ行く血の赤を眺めていた。眺めている事しか、出来なかった。このままではいけない、そう思っても未だ衝撃から立ち直る事の出来ない身体は動かない。声すらも出せなかった。

 しかし、幸いな事に、その出来事は大事には至らなかった。
 運は、彼を見放してはいなかったからだ。
 

「兄サマ、ただい……!!兄サマ?!」
 

 数分後、定時に学校から帰ってきたモクバの悲鳴が静寂の病室に響き渡る。

 その声を聞きながら、瀬人は同じ様に自分の名を叫んだ城之内の事を考えていた。