消えない痕 Act22

「城之内の事なんだけど、ちゃんと部屋を用意した方がいい?それとも、兄サマの部屋に住まわせる?」
「それは好きにすればいい。当人に選ばせろ。……家の者に説明は?」
「んー、昨日メイドの連中にはざっと説明しておいた。あいつらも適当だし、そんなに気にしないんじゃないかな」
「そうか」
「後はオレがフォローに廻るから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 翌朝。結局前夜は前の晩と同じ様に海馬の元で過ごした城之内は、寝起きでぼんやりとした頭をスッキリさせようと洗面ルームへと籠っていた。冷たい水で顔を洗い、歯磨きまで済ませた後病室へと戻って行くと、そこには何時の間にか来ていたモクバが笑顔で先程まで城之内が陣取っていたスツールへと腰かけていた。

 彼は城之内が帰って来た事に気付くと笑顔で「おはよう」と口にして、「今日は家に帰るからな」と命令口調で言って来る。

「家に帰るって?昨日帰っただろ」
「そうじゃなくて。『お前』が『海馬邸』に帰るんだよ。お前の父さんが戻ってくるまではお前を預かる事にしたんだ。昨日言ったじゃん」
「ええ?!」
「でさ、今兄サマと話してたんだけど、お前、自分の部屋欲しい?もし欲しいんなら用意してやるし、別にどうでもいいなら広さは十分あるから兄サマの部屋で一緒にって思ってんだけど……」
「ちょ、ちょっと待てよ。急にそんな事言われても……!」
「学校はちょっと遠くなるけど、送迎がいいって言うならそうしてやるし、またバイトしたいって言うんならバイトを始めてもいいぜぃ」
「あ、あのな。そうじゃなくて……」
「簡単に言えば生活の拠点をウチにして、ちゃんと兄サマの面倒を見る事。それさえ守ってくれれば後は何をしてても文句は言わないぜ」
「おい、モクバ!話聞けって!」
「お前の話なんて聞かないって言っただろ。本当に反省してんの?」

 最初の一言すら理解出来ない内に次々と矢継ぎ早に城之内にとっては未だ納得のいかない事を並べたてるモクバに、城之内は割と本気でその言葉を遮ろうと声を荒げる。だが、モクバは昨日と同様、城之内の言い分などまるで聞く気もないと言った素振りで、詰め寄る城之内を腕で払いのける仕草をすると「ね、いいよね、兄サマ」と海馬の方へと向き直った。勿論モクバの意見に海馬が異議を唱える訳もなく、彼の言葉はそのまま決定事項として通ってしまった。

 確かに、昨夜静香が置いて行った自分の荷物を預かっていくと彼は言っていた。しかし、それだけだったはずだ。まさかそのまま自分までもが海馬邸の居候のような真似をさせられるなんて聞いてない。尤も、想像すらしていなかったと言えば、嘘になるが。

「昨日は荷物を預かるだけだって……」
「馬鹿だなー荷物だけ預かってどうすんのさ。お前だってこうなる事が分かったからこそ怒ったんだろ?」
「そうだけど……でも……」
「言っとくけど、これはお前を助ける為なんかじゃないぜ?お前が逃げない様に監視する事と、兄サマに対して責任を取って貰う為に手元に置いておくって事なんだからな。勘違いすんなよ?」
「……監視?」
「そうさ。お前、自分が何やったか分かってんだろ?」

 何時の間にか立ち尽くす城之内を真っ直ぐに見上げ、モクバは幾分強い口調でそう声をあげる。流石にこの剣幕には驚いたのだろう。今まで静かに二人の遣り取りを見ていた海馬が、尚も言い募ろうとする弟の言葉を遮る様に軽く手を伸ばし、宥める様に声をかけた。

「モクバ、その位にしておけ。そろそろ定期連絡の時間だろう」
「あ、もうそんな時間?じゃあちょっと行って来るぜぃ。ついでに朝食がどうなってるかも聞いて来るね」
「ああ。済まないが、宜しく頼む」

 それまで発していた刺々しさが嘘の様に、にこりと笑ってさえ見せたモクバは弾むようにスツールを降りると、走らない程度の速足で部屋を出て行ってしまう。それを呆然と見送った城之内は、戸惑いがちに海馬を見て、のろのろとした動きでつい今しがたまでモクバが陣取っていた場所へと腰を下ろした。途端に重い溜息が零れ落ちる。

「……モクバはさ、やっぱりオレの事許せねぇのかな」
「何を今更。当たり前だろうが」
「……お前も?」
「何が」
「お前も、オレの事が許せない?」

 この世の不幸を一身に背負ったかの様な沈んだ顔でそんな事を口にする城之内の事を海馬は心底呆れた眼差しで見遣っていた。先刻、キスしてもいいかなどと図々しくのたまった口でまた下らない戯言を吐き出している。全く、これだからこいつには演技など必要ないと思ったのだ。馬鹿正直ならぬ馬鹿素直なこの男は、己に浴びせられる言葉を額面通りにしか受け取らない。言葉の駆け引きや、感情の裏を読む事など到底出来やしないのだ。

 モクバが城之内にあれだけきつい言葉で詰め寄ったのは、一重に城之内の心情を思いやっての事だ。ただでさえ精神的に参っている所に、金銭問題も圧し掛かっている今、一人であの家に帰す事は誰がどう考えても得策ではなかった。今まで妹の所に身を寄せていて良かったと思う。あの状態の城之内が辛うじてここまで辿り着く事が出来たのも、彼女のお陰だったのだ。一人であったならばどうなっていたか分からない。

 もし彼女の母親が息災であったならば、そのまま彼女の元に置いておく事も考えたが、学校やこの病室に通う事を考えると地理的に無理がある。そうなると残された道はただ一つ、元通りに自立出来るまで海馬邸に住まわせる事しかなかった。もう一つの方法として金銭的援助を行うという事も考えたが、城之内の性格上選択肢に入れる事すら出来なかった。

 そんなこちらの配慮すら城之内には欠片ほども伝わらない。しかし、こんな事は想定の範囲内だった。本当はモクバに影で色々と指示をしようと思っていたのだが、敏い弟は自らの判断でこの事態を押し切った。もしかしたら、昨日彼等が二人だけで過ごした時間の中で何かあったのかもしれないが、城之内の言う様にモクバが彼を恨んでいるという事だけはないだろう。

 もし恨んでいるとすれば、自分も含めたこの事件そのものだ。これに関しては後にきちんとした償いをしなければならないと思っている。モクバとも話し合う事は沢山あるのだ。

「………………」

 海馬は「許せない」という言葉を発したきり俯いてしまった城之内に手を伸ばし、辛うじて届く所にあった彼の腕を敢えて爪を立てて掴んでやった。突然齎された痛みに驚いたのだろう。びくりと一瞬肩を揺らし、顔を跳ね上げた城之内は、やや怯えた体で海馬を見返す。

「モクバが許せずにいるのはあの事件そのものだ。貴様に対してでもオレに対してでもない。それに、貴様は昨夜モクバと過ごした時の事を話していただろうが。許された、とも言っていたな。なのに何故、そんな考えに行きつくのだ?オレには分からん」
「でっ、でも……お前もモクバの態度を見ただろ?あれはどう考えても……」
「下らんな。では仮に、アレが本当に貴様を許さないとしたらどうするのだ?尻尾を巻いて逃げだすのか?」
「っ、そんな事出来る訳ねぇだろ!それでなくてもオレは!」
「ならば許す、許さないなど関係のない事だろう。それとも自分に敵意を向ける人間の傍にはいたくないのか?貴様はそれほどまでに意気地のない男だったのか」
「……違う!オレは、そんな事当然だと思ってる。モクバにもお前にも一生許されなくたっていい。どんなに恨まれたって、殺されたって文句は言えねぇんだ。そんな事分かってる!」
「分かっているのなら全てを受け入れろ。今の貴様にはそれしかないと言っただろうが」
「そうだけど!でも、お前等は納得できるのかよ!今までだって散々面倒をかけて来たんだ。これ以上……!」
「だから償いをしろと言っている。貴様が本当に悪いと思っているのなら、大人しく言う事を聞け。そうやってごねる事こそが迷惑だと言う事が分からんのか」

 ずるずると、元より然程力も無かった指先が落ちていく。同時に海馬の表情にも僅かな疲労が見て取れた。しまった、朝から無駄な体力を使わせた。そう思い、城之内は慌ててシーツの上に落ちてしまった白い手を握り締め、上かけの中に戻してやる。全く、自分の言動は裏目に出てばかりだ。悔しさにまた涙が溢れそうになる。そんな彼の事を海馬はそれ以上追いつめる事も慰める事もせずに、ただ見つめていた。

「城之内。過去に固執するのは愚か者のする事だ。過ぎてしまった事はどうしようもない」
「………………」
「己を幸せに出来ない者は他人を幸せにする事など出来ないのだぞ。現に昨日の貴様はいい顔をしていた。今は見る影もないな。そんな表情を見せられる方が迷惑だ」

『悔しかったら皆を幸せにしてみろよ。お前に残された道はそれしかないんだぜぃ』

 耳に届く低い声と昨夜真正面から投げつけられた高い声が一つになって城之内の心に響いていた。ああ、やっぱりこの兄弟には叶わない。幾ら反論しようとも到底勝てる訳がなかったのだ。分かっていた筈なのに未だ足掻いてしまう自分が情けなかった。

 情けないけれど、仕方がないのだ。これが城之内克也という人間なのだから。

「……分かったよ。言う事を聞けばいいんだろ」

 長い長い沈黙の後、溜息と共に吐き出されたその言葉に、海馬は至極満足げな笑みと共に普段通りの憎まれ口を叩いてやった。

「始めからそうしていればいいのだ。駄犬が」
 その昔、この屋敷の使用人用の出入り口を「玄関」と言って海馬に鼻で笑われた事を思い出した。当時は笑う事はないじゃないかと思ったものだが、今なら海馬の気持ちが良く分かる。車内からでも良く分かる、正門とその遥か後方に見える立派な玄関扉。その前に立つ数人の使用人の姿に図らずも身を固くしてしまう。

 オレは本当にこんな場所で暮らさなければならないのか。城之内は今にも逃げ出したい衝動に駆られてドアに縋り付いたが、当然の事ながら意味はなかった。そんな城之内の心情を知ってか知らずか、横で何気なく様子を伺っていたモクバが呆れた様に肩を竦めた。

「何落ち着かない犬みたいな事してんだよ。じっとしてろよ」
「だってよ……な、なぁ。何も玄関から入らなくてもいいんじゃねぇ?」
「はぁ?なんで」
「……や、その……後ろめたいっていうか、なんていうか……出迎えられる立場じゃねぇし。そもそもオレなんて言ってこの屋敷に居させて貰えばいいんだよ。家の人は皆事情分かってんだろ?」
「何言ってんだよ、お前なんか関係ないだろ。オレが出迎えられる立場なの!大体なんでオレがお前に合わせてこそこそ裏口から入らなきゃならないんだよ馬鹿馬鹿しい。それになんだって?家の人?兄サマの事はただの交通事故だと思ってるから心配ないよ」
「や、それもだけど、そうじゃなくって、オレの立場だよ!このままじゃオレ完全に怪しい奴じゃねぇか!」
「一々煩いなぁ。大丈夫だって。一応説明はしておいたからさ」
「説明って、どんな……」
「どんなも何も事実をそのまま言っただけだぜぃ。困る事なんかないだろ、別に」

 事実をそのままという事は海馬と自分が恋人関係であるという事を公表したという事なのだろうか。確かに事実ではあったが本人の口からではなく齎された情報に使用人達はどう思っただろう。突然恋人を……しかもどこの馬の骨とも知れない男を恋人として迎え入れて邸内で海馬の立場が微妙になりはしないだろうか。

 元々乗り気ではないところに更に心が重くなるような憶測を呼ぶ言葉を投げつけられて、城之内は心持ち項垂れて深い溜息を一つ吐く。しかし容赦なく彼を乗せた車は海馬邸へと入り込み、恐れ戦きながら遠目で見遣った玄関前で静かに止まった。人が近づいてくる気配がする。

「着いたよ。降りるぜ」
「……オレ、どう振る舞ったらいいんだよ」
「普通にしてれば。っていうか、オドオドすんなよ」
「え、あ、おいっ!」

 そう言うと外側から開けられたドアからさっさと先に降りてしまったモクバに城之内は中途半端に上げた腕もそのままに固まってしまう。ヤバい、どうしよう。このまま外に出たくない。そうは思っても現実は勿論待ってなどくれない。ごく自然に開かれるこちら側のドアに城之内はぐっと唇を噛みしめて一歩足を踏み出した。

「ようこそおいでくださいました、城之内様。モクバ様からお話は伺っております。不自由の無いよう精一杯務めさせて頂きますので、宜しくお願い致します」

 城之内が意を決して車から降りた瞬間、ドアを開けた人間とは別の初老の男がそつのない動きで歩み寄り深々と頭を下げた後、こんな口上を口にした。余りの事に城之内が呆けていると、何時の間にか反対側から駆けてきたモクバが城之内の前に立ち、わざと子供っぽい動作で後ろ手に彼を叩く。そして頭を下げている男に「こいつにそんな丁寧な挨拶いらないって言ってるだろ」と窘めた。

「昨日も言ったけど、城之内はもう客じゃないから。兄サマからも特別扱いするなって言われてるんだ。だからヘンに丁寧な扱いすんなよ」
「ですがモクバ様」
「オレはもう慣れてるけど、普通の人はそういう扱い嫌がるんだぜぃ。城之内は一般庶民の代表みたいなもんなんだから逆に気後れしちゃうんだよ。今だってほら、すげービビってるじゃん。可哀想だろ?な、城之内。お前もこんな風に頭下げられるより、普通に話して貰った方がいいだろ?」

 な?と振り返るモクバに城之内は慌てて首を縦に振る。態度は至極ぞんざいだったが、モクバは城之内の立場を思いやってきちんと助け船を出してくれているのだ。

「あー……はい。普通でいいです。っていうか、オレほんとにそんな大したモンじゃないし……」
「お前、兄サマの犬だもんな!」
「犬言うな」
「とにかく、そういう事だから皆にもちゃんと言っておいて。もう一度言うけど、こいつをここに連れてきたのは兄サマの看病を手伝って貰う為なんだ。オレも会社の事で忙しいし、かかりきりにはなれないしね。怪我が怪我だし、兄サマも直ぐに復帰とは行かないだろうから滞在は長くなると思う。だからこそ、極力本人のいう事は聞いてやって欲しいんだ。窮屈な思いはさせたくないしね。……って、ほら、お前からもなんか言えよ」
「な、なんかってなんだよ……えと、そういう訳だからよろしくお願いします」

 大の大人相手に堂々とそう口にするモクバの陰に隠れる形で城之内はごく控えめにそう言って頭を下げた。自分から意見出来る立場でもないのでこれ以上言う台詞が見つからなかったともいう。そんな彼に一瞬不満気な表情を見せたモクバだったが、一連の遣り取りを黙って聞いていた男が相好を少しだけ崩して「分かりました」と穏やかに答えてくれたお蔭で不機嫌にならずに済んだ。城之内は内心ほっと胸を撫で下ろす。

「申し遅れましたが、私の名前は海潮(うしお)と申します。この邸の使用人代表を務めている者です。以後お見知りおきを」
「海潮は海馬邸の執事なんだ。あんまり表には出てこないけどな。磯野と結構仲がいいんだぜ」
「そうなんだ。オレはてっきり磯野さんがそういう事もしてると思ってた」
「あいつも似たような立場だけどあくまで仕事の話。磯野はKCの社員であって、海馬邸の使用人じゃないから。まぁ役職が秘書兼ボディーガードだから便宜上ここに住んでるんだけどね。この屋敷の事に関しては海潮の方が専門だから何か困った事があったら相談すればいいよ」
「うん」
「モクバ様、外で立ち話もなんですからどうぞ邸内へお入りになってください。城之内様の荷物はご指示通り取り敢えず客間の方へ運ばせております」
「ありがと。こいつの部屋を何処にするかは後で決めるから。えーと、まずは部屋の案内からかな」

 お前馬鹿だから絶対一回で覚えられないだろうなぁ、などと失礼な事を言いながら徐に手首を掴んで歩き出すモクバに引きずられるように城之内は海潮の他にもちらほらと立っている使用人達に軽く頭を下げながら邸内へと足を踏み入れた。巨大な玄関扉を潜り抜け、最初に目にした吹き抜けのホールに度肝を抜いていると、モクバがぶっきらぼうに視線と顎で奥へ続く廊下を示し「使用人達の部屋はそっち」と言った。

 先程の海潮の部屋は廊下の一番奥にある執事室だとも教えてくれた。その廊下には見覚えがあったので以前自分が海馬に保護された時に使わせて貰った部屋はこの階のどこかにあるのだろうという事は分かった。その部屋から使用人専用の出入り口までの道のりは覚えているがその知識が特に生かせる機会もないだろう。

「オレ達の部屋は三階にあるんだ。二階には厨房、食堂、リビングと応接室、後は客間。他には書斎とか遊戯室なんかもあるよ。その辺は自由に見て回っても構わないぜぃ」

 階段を上がりながらモクバは忙しなくそう説明する。その声を聞きながら城之内は目に入る豪奢な照明や装飾品、そして階下に見える少し古風な様相をしたメイド達を眺めていた。何もかも現実離れしていてなんだか違う世界に来たような錯覚に陥る。以前この屋敷を訪れた時は極秘でもあったし、呑気に周囲を観察できるほどの精神的余裕も皆無だった所為でほとんど記憶に留めていなかった。尤も城之内が滞在したのは先程見た一階のしかも廊下とこの邸内では比較的質素だと思える部屋だったので(まだ他の部屋を見ていない為比較出来ないが)例え覚えていたとしても余り意味のない情報ではあったのだが。

「……なんかすげぇな。お前等ってほんとにとんでもない金持ちなんだな……」

 ぐるりと周囲を眺めやり城之内は思わず感嘆に近い声でそう呟くと、モクバはふと足を止めて同じように周囲を見渡し小さな溜息を一つ吐いた。その仕草の意味を測り兼ねて城之内がモクバの顔を覗きこむと、彼は今までとは少し違う感じの不機嫌さを滲ませて吐き捨てるようにこう言った。

「まぁ、オレがって言うより兄サマがだし、本来は義父さん……剛三郎のものだったんけどね」
「ああ、そうか」
「最初はこの家が大嫌いだった。無駄に広いし、古めかしくて全然かっこよくないし、兄サマとはほとんど一緒にいられなかったし。……でも、兄サマが血を吐くような思いで手に入れてくれたものだから……今では大好きだし、オレの自慢でもあるよ。大事にしなきゃって思ってる」
「うん」
「勿論一番大切なのは兄サマだけどね」
「…………………」

 その一番大切な兄サマをお前は傷つけた。そう言われている気がして、城之内は硬い表情のままその場に留まるモクバの横顔を眺めていた。何故モクバは今こんな話をしたのだろう。その心が城之内には分からない。彼本人ももういいと口にしているし、海馬からも城之内が危惧するほどモクバは彼の事を恨んではいないと教えられた筈だった。……けれど。

 掴まれている手首は相変わらずで、少し力が入って痛かった。それを振り解く事も出来ずに城之内はただ、黙ってその場に立ち尽くすしかなかった。
「うわ……」

 その部屋に足を踏み入れた瞬間、城之内の口から出たのは驚愕と感嘆が入り混じった呟きだった。その様を眺めながら先に立って部屋の中央まで進んでいたモクバが振り返って肩を竦める。

「なんだよその声」
「いやだって、まるっきり図書館じゃねーか。これが私室?!」
「正確に言えばここは書斎だけどね。隣が普通の家で言う兄サマ個人の部屋で、その奥が寝室。ここと兄サマの部屋は廊下と繋がってるけど、寝室には兄サマの部屋からしか行けないようになってるんだ」
「そういえばこの先にドアって一つしかなかったもんな。でもなんでだよ。直接寝に行けないなんて不便じゃね?」
「そんな事知るかよ。オレが作ったわけでもあるまいし」
「お前の部屋は?」
「オレの部屋は反対側の一番奥だよ。で、どうする城之内。お前、どこの部屋にする?」

 自由に見ていいと言われ恐る恐る歩き出した城之内は、窓際にある古めかしいが綺麗に手入れされている黒檀の机と壁一面に作りつけられた分厚い書物ばかりが並ぶ本棚を見回しながら息が詰まる思いでモクバの後を追う。恐ろしいほど生活感の無い部屋。誘われるまま開かれた扉をすり抜け、隣の私室に入ってもその印象は変わらなかった。

 少し暗めで古めかしい印象がある書斎とは違い、全体的にモダンで明るい色の家具で統一された海馬の部屋はさながらテレビのトレンディドラマでお目にかかるようなスタイリッシュな空間だった。尤も極端に物が少なく、塵一つ落ちていない所為でこちらも人が住んでいる気配が微塵も感じられなかったが。

 唯一海馬の存在が感じられるものとして大きなガラステーブルの片隅に彼が良く学校へ持ってきていた薄型のノートパソコンがあった。その横には彼専用として学校側が用意したプリント類などを入れておく名入りの安いプラスチック製ファイル。それを良く小脇に抱えてつまらなそうな顔で職員室に出向いていくその横顔を思い描き、城之内は初めてこの邸に来て肩の力を少し抜いた。同時に長い間忘れていた自分自身の高校生活の事も思い出し頭が痛くなってくる。

 それにしても、これが本当に同い年の男が暮らす部屋なのだろうか。漫画やゲームなど自分が思う娯楽の一つも見当たらない事に城之内は今更ながらに驚いて、海馬瀬人という男の特異性を思い知らされる。

「なにぼんやりしてんだよ」
「や。つーか、この部屋、なんもねーのな。海馬ってここで何やって過ごしてんの?」
「はぁ?」
「だって、ゲームとか雑誌とか、DVDとかもないじゃんか」
「ああ、そういう事?ゲームとか映画を見るのなら専用の部屋があるし、兄サマがいたら普通に雑誌や小説なんかも置いてあるよ。まぁ、兄サマはごちゃごちゃしてるのが嫌いだから普段はこんな感じだけどね。お前の部屋とは正反対だね」
「オレ、こんな綺麗なところに住みたくねぇよ。広すぎるし、居場所がない。なぁ、もっと狭い部屋ねぇの?」
「うーん。て言ってもどこもこんな感じだけどな」

 大体客間が質素とかあり得ないし、と眉を寄せるモクバに、城之内は先程思い出した以前一晩だけ泊めて貰った例の部屋の事を口にした。あの部屋なら城之内が許容出来る大きさと簡素さだったから丁度いい。だが、それは即座に却下されてしまう。

「一階の部屋?使用人用の部屋って事?ダメに決まってるだろ」
「あれくらいの部屋の方が落ち着くんだよ」
「あれはあいつらのプライベート空間だぜ。他人に入り込まれたら迷惑なの。大体、お前はこれから兄サマの看病をするんだぜ?一階と三階でどうしろっていうんだよ」
「大丈夫だって。ちゃんと出来るし。それに……オレがここに来た名目から言っても使用人さん達と同じ場所の方が……」
「城之内」

 何かと都合がいい、城之内がそう軽く口にしようとした瞬間、モクバの声のトーンが一段下がった。少し離れた場所で彼がこちらを見上げている体勢にも関わらず、その眼差しに上から見下されてるような感覚に陥った。知らず背に緊張が走る。

「お前は、兄サマの恋人として覚悟を決めたんだろ?だったら自分が使用人と同じなんて言い方すんじゃねぇよ。給料払う訳でもあるまいし、勘違いするにも程があるだろ」
「…………っ!」
「オレは家の奴らにお前を特別扱いするなって命令したけど、特別扱いの意味わかってんのかよ?お前は『お客様』じゃない、ただそれだけの事じゃないか」
「………………」
「分かったら、下らない事言ってないでさっさと決めちゃえよ。この階の部屋ならどこでもいいから。いっくら汚したって、掃除はメイドがちゃんとやってくれるから大丈夫だしさ」

 未だ声のトーンを変えないまま聊か投げやりにそういうモクバの顔を見ながら、城之内は最早反論する気も起きず、ただ神妙な顔で同じ階にある空き部屋を指定した。とてもじゃないが、一人でこの広くて何もない部屋にいる事は出来なかったし、開かれたもう一つの扉……書斎とは反対側にある寝室に通じるそれの向こう側に見える天蓋付の巨大なベッドにだけは眠れる気がしなかった。基本的に落ち着かないという事もあったが、精神的にも広い部屋に置き去りにされるのは辛かったからだ。

 それを素直にモクバに告げると、彼は強張った表情を少しだけ緩め、仕方ないという言葉付きで城之内の願いを受け入れた。

「でも、兄サマが帰って来たらそうはいかないからな」
「……わかったよ。けど、海馬の退院なんてずっと先の話だろ」
「あ、お前は知らなかったっけ。兄サマ、順調なら近いうちに退院する予定なんだ。本人がぐずるから先生も考慮してくれてこの間は早ければクリスマスって言われたんだけど、今日聞いたらリハビリの事もあるしもう少し様子を見た方がいいって。まぁ、お前がここに馴染まないうちにバタバタするのもアレだし、丁度良かったと思ってるけど」
「そっか」
「今部屋に荷物運ばせるからちゃんと片付けて、それからお前は学校に行く準備をしろよ。そろそろ冬休みに入っちゃうだろ?ま、ずっとサボってたお前に冬休みなんかないだろうけど。進級出来るかも怪しいよな」
「学校か……もう一ヶ月以上行ってねぇや。退学になってっかもしんねぇな。テストも受けてねぇし」
「その辺は先生と相談だろ。こういう時、兄サマ位優秀なら楽なのに、お前バカだからなー」

 どうせずっと兄サマと一緒にいるんなら勉強でも見て貰えば?そう言って漸く如何にも子供らしい悪戯っ気の吹くんだ笑みを見せると、モクバは近間にあった電話を手に取り、城之内の荷物を彼が選んだ部屋に運ぶよう指示をした。その姿を眺めながら城之内は、自分も遊戯と静香に連絡を取らなければならない事を思い出し、ポケットに収めたままの携帯に軽く触れた。随分と長い間電源を入れさえしてなかったそれは相変わらず沈黙を守っている。

 これから始まる新生活に対する不安に押しつぶされそうになりながら、城之内は触れた携帯を思いきり強く握りしめた。


-- To be continued... --