消えない痕 Act21

 城之内がモクバと向かい合いその全てを話し終える頃には、外は既に薄闇に包まれていた。

 いつの間にか空を深く覆っていた暗灰色の雲からは大粒の雪が次々と落ちて来て、冷たい硝子窓を白く覆っていく。それに気付いた城之内は漸く椅子から立ち上がり、エアコンと少しレトロな感がある電灯のスイッチを入れ、濃い藍色のカーテンを引いた。薄暗い部屋がぼんやりと明るくなる。

 最後に蛍光灯を換えたのは何時だったか。もう交換時期なのかもしれない。なかなか点かない内側を眺めながら、城之内は小さな溜息を一つ吐いた。モクバは先程から一言も話さない。

「……寒くなってきたな。何か飲むか?あったかいもんって言ったら貰い物のインスタント珈琲位しかねぇけど」
「うん。いいよ、なんでも」

 少し埃っぽいエアコンの風が部屋の空気を温め、漸く口から吐く息が白くなくなった頃、着ていた分厚い上着を脱ぎ捨てた城之内は、モクバにもコートを脱ぐように指示をし、空いた椅子の背にかけると台所へと歩いて行く。そしてコンロの上に置かれていた薬缶に水を入れ、近間の戸棚を探りながら振り返りもしないでそう聞いた。

 その仕草を目で追いながら、モクバも少し肩の力を抜いて背もたれに寄りかかる。どうやら互いに少し真剣になり過ぎたらしい。コンロが立てるカチカチと言う音に紛れて微かな吐息が空に溶ける。

「そう言えばこの家、電気とガス止まってなかったね」
「あぁ、公共料金は親父の口座から引き落としだから。まだギリギリ残ってたんだろ。あいつの金の流れ全然知らねぇからさ。家賃は……きっと払ってねぇだろうな。どうしよ、この一ヶ月全然バイトして無いから金ねぇや。あそこももうクビになっただろうなぁ……」
「また探せばいいだろ。どうせここには当分帰って来ないだろうし。お前の父親が退院するまでは家に来いよ。お金がないんなら貸してやるし」
「……それって完全にヒモみたいじゃん。やだよ。オレ、人から金だけは絶対に借りない様にしてるんだ。なんだかんだ言ってトラブルの元だしな」

 テーブルの中央に置かれたのはやけに大きなマグカップ。そこに蓋で適当に測った珈琲の粉とミルクだけが入れられる。それに「なんで勝手に入れるんだよ」とモクバが文句を言うと直ぐに「海馬に聞いたから」と返って来た。それに、少しだけ驚いた。

 何故ならモクバは一度も瀬人に自分の好みを教えた事など無かったからだ。家では飲み物の類は全てメイドが淹れる為、当然瀬人がモクバに珈琲を振る舞った事など無い。だが、彼は何故か珈琲にはミルクだけ入れるというモクバの好みを知っていた。その事がモクバには少し嬉しくて、哀しかった。自分は兄の事など何一つ分からなかったのに兄は自分の事を良く知っていた。それがとても不公平に思えたからだ。

 けれどそんな些細な不満に振り回されるのも今日でお終いだ。

 モクバは城之内の口から語られた事実を一つ一つ噛み締める様に思い出し、背もたれに預けたままだった背を元に戻す。ギシリと小さく鳴った椅子に城之内が振り向く前に湯が沸く音がする。

 直ぐに火を消し熱湯を薬缶から直接カップに注ぎ込むと、城之内はやけに丁寧な動作でそれをモクバの前へと差し出した。彼は直ぐに両手で受け取って、くゆる湯気越しに同じくカップに口を付ける城之内を見上げながら少しだけ低い声でこう言った。

「自分でどうにもならない事は人に頼ったっていいじゃん。お前も兄サマも、もう少し目線を外に向ければこんな事にはならなかった。そうだろ?」
「………………」
「なんだかんだ言ってもさ、高校生なんてまだ子供だよ。子供がさ、大人の事情をどうこうしようとしたって無理なんだよ」
「……うん」
「兄サマだって確かにあの年では凄く大人びてるけど決して大人なんかじゃないし、何か特別な力が有る訳でもない。けど社長なんてやってるとさ、自分は何でも出来るって勘違いしちゃうんだよ。本当は隠し事一つ満足に出来ない癖に」

 こくり、と音を立てて珈琲を嚥下し、モクバは心底腹立たしそうに舌打ちする。先程までは静かにこちらを見ているだけだった眼差しも明らかな怒りが籠った視線に変わって行く。それに最初は腰が引けていた城之内だったが、隠し事が全て無くなった今は特に動揺する事無く受け止めた。モクバが思ったより冷静に話を聞いてくれたお陰かも知れない。ただし冷静な態度とその身内に湧き上がる感情とは別物だという事位分かっている。

 自分がもしモクバの立場だったらこんな事を目の当りにしたらどうしようもなく腹も立つだろうし、悲しくも思うだろう。その怒りは当然のものだ。けれど、自分は城之内克也であり、海馬モクバではない。彼の目線に立つ事は出来ないし、してはいけないと思った。それは海馬兄弟とて同じ事だ。それぞれの視点で、個々の主張を繰り返すしか術はない。分かり合える様に努力するしかないのだ。

「……でもさ、今回の事がなければ……お前はオレ達の事、気付かなかったんだろ?」
「うん、多分ね」
「だったら……」
「だったら何?ずっと隠し通すつもりだった?出来るのかよ、そんな事。それにオレが気付かなかった事と、兄サマの隠し方が下手だって言うのはイコールにはならないぜ」
「………………」
「そもそも兄サマはお前との事は隠すつもりはなかったんだと思う。だからオレも気付かなかった。隠すつもりがない事に関しては上手いも下手もないと思うよ。まぁちょっと、いつもとは違うな、とは思ったけど」
「え?」
「だから……ええと、なんて言ったらいいのかな。兄サマが隠すつもりで行動するとボロが出ちゃうって事さ。結構素直なんだよね」
「そっか……」
「でもお前の話を聞いて、兄サマがどうしてオレに内緒でお前にここまで肩入れしたのか大体分かったよ。こんな事、『オレが』許す訳ないもんな」

 いつの間にか空になったカップをテーブルの隅へと押しやって、モクバは小さく嘆息する。その様を聊か茫然とした顔で眺めた城之内は、今しがた己に向かって放たれた言葉の意味を理解出来ずに眉を寄せて首を傾げた。

「どういう事だよ」
「分かんないの?」
「……海馬がお前に隠してた理由は分かる。でも、それ以外の事は良く分かんねぇ。……というか、今まで凄く不思議に思ってたんだ。なんで海馬はずっとオレなんかに付き合ってくれたんだろうって。女でもないし、ましてやオレの存在なんて奴には何のメリットもない。何処をどう考えたっておかしいだろ?気になって海馬に直接聞いてみたんだけど……なんか、適当にごまかされちまって」
「うん。『普通の人なら』おかしいと思うだろうね。面倒だし、出来れば関わり合いになりたくないと思うよ」
「だよな。お前もそう思うだろ?だったらなんで……」
「兄サマだからさ」
「は?」
「兄サマだからこそ、ずっと面倒みたんだろ。オレだったら即見捨てるよ、お前なんか」
「………………」
「オレも本人じゃないから正確な所は分からないけど……兄サマから何か聞いてない?例えば父親の事とか、さ」
「父親?」
「多分それが、兄サマの『理由』なんだと思う。父親に関しては、オレはよく……知らないから。本当の父様の事も、義父さんの事も」
 

『……オレは過去に『父親』を二人殺した。……だからもう、目の前で『父親』が死ぬのを見たくない。それが例え貴様の親であってもだ。── それが、理由だ』
 

 モクバの言葉に、あの冷たい雨が降り注ぐ寒空の下、怖い位に引き攣った声で放たれた海馬の言葉を思い出す。あの瞬間だけでなく、確かに彼はずっと父親に拘り続けていた。その理由まで知る事は出来なかったが、きっと何か……多分過去に拘り続けなくてはならない事が有ったのだろう。モクバさえも知らない。海馬だけが抱える、何かを。

「………………」

 既に冷たくなっている珈琲に口を付ける事もせず、同じ様にテーブルの隅に置いてしまった城之内は、モクバを見ていた為に俯き加減だった顔を上向けた。こんな時、何を言えばいいのか分からない。それは多分モクバも同じなのだろう。妙な沈黙が場に満ちる。

 けれど、その状態は余り長く続く事はなかった。
 いつの間にか椅子を引いたモクバが緩慢な動作で床に下り、「帰ろう」と言ったからだ。

「遅くなると兄サマが心配する。そろそろ夕食の時間だしね」
「あ、ああ。そうだな」
「エアコンはオレが止めてやるから、ガスの元栓締めとけよ。あ、それと今度はちゃんと鍵かけろよ。常識だぜぃ」
「分かってるよ」
「今蓮田呼ぶからさ。えーっと携帯携帯」
「コートの中だろ。お前取り出してなかったし。ほら」
「ありがと」

 そう言いながらエアコンの電源を落とすモクバの前に小さなコートを差し出してやる。それを無造作に受け取ってモクバはポケットから携帯を取り出してフリップを開けた。そして直ぐに運転手へ連絡を取ると再びそれを仕舞い込み、コートを羽織る。

「そう言えば、朝お前に言ったじゃん?兄サマにはごめんって言うなって」
「?……あぁ」
「兄サマが謝られるのが嫌いなのはさ、謝罪されたって無かった事には出来ないからなんだと思う」
「………………」
「そしてさ、それはきっと……兄サマも同じなんだ」
「え?」
「そう。きっと同じなんだよ。……だから」

 そこでモクバの声は途切れ、その姿さえも視界の端から消えてしまう。彼のスニーカーが立てる高い音は直ぐに遠ざかり、薄い玄関扉の開閉音が大きく響く。後に残ったのは電灯が消えた暗闇の部屋と、呆けた様に立ち尽くす城之内の姿だけだった。

 静寂の空間に、無機質な音の余韻だけが微かに残る。

「………………」

 その全てを振り切る様に城之内は椅子にかけた上着を掴むと、直ぐに部屋を飛び出して、モクバと彼の車が待つだろう大通りへと足を速めた。外は冷気に包まれて吐き出す息が白く濁る。

 モクバが最後に言った言葉の意味は、やはり良く分からなかった。もう一度訊ねようかと思ったが、次に顔を合わせた時には彼は既に笑顔だった。いつもと同じ、可愛い子供の顔に戻っていたのだ。

「モクバ」
「おっそいなー城之内ィ。待ちくたびれたぜぃ」
「悪い」
「早く帰ろう。兄サマが待ってるし」
「…………うん」

 二人を乗せた車はそれから直ぐに病院へと走り出した。

 少しだけ、凝った空気を纏ったままで。
「じゃあオレは兄サマに顔見せたら戻って来るからここで待機しててくれよ。病室から出る時にワンコールするからさ」
「畏まりました。その後はどちらへ?」
「うーん、KCかな。今日一日サボっちゃったからさ、明日に響かないようにしないと。磯野は?」
「河豚田と共に浜岡常務の付き添いで三興建設の会合へ出かけております」
「あ、そっか。あれって今日だっけ……。オレが行けば良かったかな。ま、浜岡に任せておけば大丈夫か」
「酒宴の席ですので、その方が宜しいかと」
「兄サマじゃないとなかなか相手にして貰えないんだよねーあそこのオッサン。でもしょうがないかー。そういやアイツこの間お見舞いに来ようとしたんだって?ここに兄サマがいるって事どうしてもバレちゃうんだよな。多分オレが付けられてるんだろうけどさ。逆に具合が悪くなるから来るなって言っておいてよ」
「面会に関しましてはどなた様もお通ししておりませんのでその辺はご安心下さい」
「うん。そこは徹底しろって磯野にも言ってある。もう、そっとしておいて欲しいよ!」
「モクバ様、城之内様がお待ちですよ」
「あ、そっか。ここで愚痴ってる場合じゃなかったね、ごめん。また後でな」
「はい」

 巨大な病院の地下駐車場に相応しい薄暗く寒々とした空間の片隅で、嫌に目立つ黒の高級車から目立たないようにそっと降り立った二人は、滑るように薄暗がりに消えて行く赤いテールランプを見送ると直ぐにエレベーターへ向かって歩き出した。正規の面会時間が過ぎた所為か外部から来た人間の姿は一人もなく、二人分の足音だけが幾重にも反響して響き渡る。

 そんな事をただ足を動かしながら考えていた城之内は、ふとたった今交わされたモクバと蓮田の会話を思い出す。城之内には余りにも馴染みのない単語の数々、目の前の少年の副社長としての顔。そして『海馬瀬人』という存在の大きさに改めて気付かされた気がする。

 海馬はただの高校生ではない、日本有数の大企業を背負って立つ社長なのだ。彼の背後には何万と言う社員が居て、その社員一人一人に家族がいる。それら全ての人間の生活を握っているのも同然なのだ。そう思うと何故か酷く息が詰まり、足が震える。己の身勝手が引き起こした事態に、今更ながらに恐ろしくなるのだ。

「城之内?」

 不意に急に背後の歩みが遅くなった事を心配したモクバが振り返りながら名前を呼ぶ。それに曖昧な返事をすると、城之内は慌てて二人の距離を詰める。けれど、応える声を発する事は出来なかった。口を開けばまた「ごめん」と言ってしまうに決まっている。

「どうかした?」
「……いや、別に。お前も忙しかったんだな、と思って。付き合わせて悪かったよ」
「何が?ああ、今の話?」
「………………」
「お前、蓮田の言葉ちゃんと聞いてた?今日は酒の席だからオレじゃ役に立たないって言われてただろ。ちゃんと代理立ててるから心配ないって。磯野や河豚田も一緒だしさ」
「そうじゃなくってさ……」
「じゃあその前の話?だったらそれこそ余計なお世話だよ。オレは自分でお前について行きたいって言ったんだし、兄サマもそうしろって言ったじゃん。なんでお前が謝ってんだよ」
「でもさ……」
「オレが忙しいのは兄サマが休んでる事とは関係無いから。オレにはオレの仕事があるんだぜぃ。言っとくけど、社長と副社長って言ってもしてる事は全然違う。大体副って言葉の意味分かってる?副社長は社長代理じゃないんだぜ。兄サマの仕事はちゃんとそれなりの『大人』が請け負ってる。お前が心配する事じゃない」
「……うん」
「お前ってホントに馬鹿だよな。言ったただろ、オレ達はまだ子供なんだって。子供が大人の事情に首突っ込んだって出来る事なんか限られてるんだぜ」
「っでもさ、海馬はその大人も従えて社長をやってるじゃねぇか。やっぱ違うんだよ」
「どこが」
「どこがって……」
「違ってたんならお前を救えただろ。話戻すなよ」

 面倒臭い奴だなぁもう。

 そう言ってモクバはそれ以上の会話を打ち切る様に近づいたと言っても数歩離れた場所にいた城之内へと手を伸ばし、その手を掴んで引き寄せた。そしてそのまま指に力を入れて拘束し、ぐいぐいと引く形で先に立って歩き出した。そこにタイミング良くエレベーターが到着し、扉が開くと同時に身を滑らせる。

 そこで初めてモクバは視線を真正面からやや下方へと落とし、城之内の手を握っていた己の左手首を凝視した。そしていきなり声をあげる。

「あー!!面会時間過ぎちゃったじゃないか!夕食抜きだぞ!」
「えぇ?」
「しょうがないからお前、コンビニ弁当な。一階にコンビニあるから寄って行こうぜ」
「そ、そんなん別にどうでもいいけど……」
「あーあ。オレがいないと兄サマ全然御飯食べないから、夕飯には遅れないようにって思ったのになぁ。お前の所為だからな!」
「ご、ごめん」
「まあいいや……えっと一階一階……お前もっと中に入れよ」

 乱暴な物言いと共に強く引かれる指先に従って、城之内は広いエレベーターの中央まで歩み寄ると大きく肩で息をした。全く、この小さな『海馬』には敵わない。

 扉が締まり、微かな機械音と共に妙な浮遊感が二人を包む。

 繋いだ指先は、互いに妙に湿って温かかった。
「遅くなってごめん!ただいま兄サマっ!」

 病室に入って早々城之内の手を振り切るように手放したモクバは、相変わらず少しだけ背を起こした状態で寝台に横たわっていた海馬の元へと一目散に駆け寄って、まるで飛びつく様にその体へと抱き着いた。

 それを鷹揚に受け止めて、海馬は今は何も刺さっていない腕で己の胸元辺りにすり寄せられた頭を軽く抱き、「おかえり」と短く応える。次いで「随分冷たいな」と言いながら自身のモクバよりは温かいだろう手で少しだけ赤く染まった冷えた頬を包み込んだ。

 その手を取って、モクバは小さくキスをする。

「城之内の家凄く汚くってさぁ、結構時間が掛ったんだ。その割にこいつぐずぐずするし、全くイライラするったらないよ。本当は兄サマと一緒に夕ご飯食べるつもりだったのにさ」
「そうか。ご苦労だったな、モクバ。……怪我はしなかったか?」
「全然。見違えるほど綺麗になったよ。な、城之内?」
「えっ……ああ、うん」
「何でお前そんな所に突っ立ってるんだよ。寒いから扉閉めて入れよ」
「や、なんかお邪魔っぽくって」
「お邪魔に決まってるだろ。ねぇ?兄サマ」
「そうだな」
「ひでぇ」

 はぁっ、と大きな溜息を吐いて、城之内はモクバに捨て置かれた形で立っていた入口の前から漸く一歩踏み出して、後ろ手に扉を閉めた。途端に生温かい空気と未だ慣れない薬の匂いが一気に全身を包みこむ。不意にその嗅ぎなれない匂いに混じって、妙に覚えのある香りが鼻に付いた。

 不思議に思い少しだけ視線を巡らせると、海馬が横たわるベッドの近くに今朝は無かったものがある事に気が付いた。可愛らしい色合いの見舞い花。しかも、「それ」は何の偶然か城之内が比較的好きだと思っているものだった。

「海馬、それ……」

 思わず足を止め、指をさして口にする。それにベッドにいた二人も同時に視線を巡らせて、片方は酷く驚いて、もう片方は「ああ」と事も無げに呟くと言った反応を見せた。室内全員の注目を集めたその花は、強すぎる暖房の風を受けてゆらゆらと揺れている。

「……こんなのここにあったっけ?」
「今朝は無かった筈だけど。それにピンクの花とか……今日誰かお見舞いにでも来たの兄サマ」
「ああ、お前達が居ない間にな。一人だけ見舞客が来た。その花は手土産だそうだ。それと、もう一つ」

 言いながら、海馬はモクバの手中にあった手をゆっくりと持ちあげると近場のソファーを指差した。そこには大分使いこんだ感のある大きなスポーツバッグと潰れた鞄、そして幾つかの紙袋が置かれていた。それを見た瞬間モクバは不思議そうに首を傾げたが、城之内は絶句した。

 何故ならそれらは全て城之内が静香の家へと持ち込んだ荷物だったからだ。

「……!!まさか……」
「見舞客は見知っている女だった。単独で乗り込んで来てな、勝手な事をまくしたてた挙句、大荷物を置いて行った。最後の言葉は『遊びに来るのなら許すけど、もう帰って来ないでね、お兄ちゃん』だ」
「え?それってもしかして……城之内の……」
「川井静香だ」

 事も無げに海馬がその名を口にする。その事に城之内は頭を殴られたかの様な衝撃を受けた。まさか静香が一人でこの病室を訪ねるなどとは思いもしなかったからだ。静香は海馬に何を言ったのだろう、そして海馬は何と答えたのだろう。大まかに想像がつく事ではあるが、それが現実になったかと思うと心底肝が冷える気がする。城之内は背を冷や汗で濡らしながら呻く様に口を開いた。

「……静香が……ここに?一人でここに来たのかよ?」
「ああ」
「お前、あいつと話したのか?何を話したんだ?なんで勝手に一人で来たんだよ?!」
「ちょ……城之内、落ちつけよ」
「オレに怒鳴られても困る」
「だって!!」
「オレが貴様の妹と何を話そうが関係無い。貴様とモクバが何を話したかオレには関係無いのと同じでな」
「…………っ」
「結論としては、互いにマイナス感情は起こらなかったし、初めから誤解もなかった。そして正式に許可を得た、と言う事位か」
「許可って……」
「貴様と違って人間が出来ているからな、彼女は」
 

 その証拠が、そこに置いてある大荷物だ。

 そう言って、海馬は静かに口を閉ざした。これ以上言う事は何もないと言う様に。
 

「……これ、あいつ一人で持って来たのかよ……」
「タクシーを使ったと言ってたが。全て持ち運ぶまで時間が掛っていた」
「……馬鹿じゃねぇの」
「馬鹿アニキに馬鹿って言われる事程ムカつく事はないぜぃ。じゃ、兄サマ、この荷物はオレが預かっていいって事かな?」
「……そういう事になったのか?」
「そうだよ」
「ならばそうするしかないだろうな」
「うん」
「おい。ちょっと待てよ!!」

 自分の分からない所で勝手に話が進んで行く事についに堪忍袋の緒が切れた城之内は思わず大きな声を上げた。勝手だ。皆勝手過ぎる。海馬もモクバも静香でさえ、当事者である自分を輪の外に追いやって勝手な事を捲し立てる。こんな事があっていい筈がない。オレは、オレの意思はどこにあるのか。

「お前等皆で好き勝手な事言いやがって!!オレの気持ちはどうなるんだよ!?なんでそんな……ふざけんなよ!!」

 ダンッ!と強く床を蹴り上げて、ここが病室だと言う事も忘れてそう云い募る城之内の顔を、海馬もモクバもただ黙って見詰めていた。その二つの表情に突然爆発した城之内に対する焦りも怒りもない。ただ静かにその様子を見詰めている。

「何とか言えよ!!」

 応えの無い二人に城之内が更に大きな声で詰め寄ろうとしたその時だった。至極呆れた様な溜息が一つ緊張感漂う室内に木霊して、ついで静かな言葉が投げつけられる。

「一番最初に身勝手な事を言ったのは貴様だろう。そんな男に今更何か言う権利などない」
「そうだぜぃ。何勘違いしてんだよ。兄サマがこうなった責任はちゃんと取って貰うからな。その為には、オレは手段なんか選ばないからな」
「貴様の妹とて被害者だ。偉そうに貴様から説教される謂れなどないわ」
「馬鹿城之内!!ほんっと馬鹿だなお前は」
「ちょ…………っ」
「悔しかったら皆を幸せにしてみろよ。お前に残された道はそれしかないんだぜぃ」

 償いたいと言うのなら文句を言わずに誠意を見せろ。そう言ってモクバはそれ以上何も言わずにあっさりと海馬に別れを告げると、「明日また来るから」の言葉を残して早々に病室を立ち去った。

 ソファーに積んだ荷物は抜け目なく海馬邸への配送の手配が取られ、僅かな後にやって来た蓮田の手によってほぼ持ち去られた。広い病室に残されたのは、その主である海馬と呆けたように様子を見守っていた城之内の二人だけだ。

「………………」
「何をぼんやりとそこに突っ立っている。座るか出て行くかしたらどうだ。目障りだぞ」
「……海馬、オレさぁ……」
「なんだ」
「……ちょっと前までは、死にたくて仕方がなかったけど、今は生きてて良かったなぁって思う……」
「そうか」
「モクバにさ、今までの事全部話したんだ。話さないとここから動かないって言われてさ、お前に相談しないで悪かったと思うけど、あの場ではどうしようもなくて」
「………………」
「全部話したらさ、殴られるかも、とか、もう一生口利いて貰えないかも、って思いながら一生懸命話したんだ。アイツは昨日、今までの事は全部許すって言ってくれたけど、それはこれまでの事情を知らないから言えた事でさ、本当の事を知っちまったら絶対そんな風には思えないだろうし……でも、アイツはオレの話を全部冷静に聞いてくれて、受け止めてくれた。殴りもしなかったし、罵りもしなかった。そして……手も握ってくれたんだ」
「………………」
「幸せだなーと思ってさ。死んでたら分からなかった、こんな事」

 そう。もし、あの時絶望して死んでいたら。許されるどころか、更に深い罪を背負う事になったかもしれない。苦しみの上に悲しみさえも植え付けて、関わった人間全てに例えようもない重石を預ける事になるだろう。生きてて良かった。こうして話し合う事が出来て良かった。
 

 ── 間違ってはいなかった。オレと、お前は。
 

 そう呟いて、俯いてしまった城之内を海馬はただじっと見つめていた。そして、自分も静香と交わした会話の一部でも聞かせてやろうかと口を開いたが、それは直ぐに閉ざされた。何故なら当の城之内が海馬のその行動を遮る真似をしたからだ。

「な、お願いがあるんだけど」
「……お願い?」
「キスさせて」
「……なっ」
「オレ達の最後のキスってさ、凄く冷たかったじゃん。しかもアレ、さよならってヤツだろ。あの記憶がずっと残ってて、なんか凄く胸が苦しかったんだ。今も、それは変わらない」

 冷たい雨が降りしきる中で交わした別れのキス。あの苦い口づけを最後に、互いに絶望の中を彷徨い続けた。悩んで、苦しんで、眠れぬ夜を幾夜も過ごした。そんな日々から漸く日の当たる場所へ辿りついた。希望の光を見つけたのだ。
 

 だから。
 

「………………」

 その言葉に海馬は暫く眉を寄せて黙り込んでいた。その様を眺めながら城之内は少しだけ不安を感じた。許されたと言ってもまだそこまでではないのだろうか。好きだと言ってくれたけれど、キスをしたいとまでは思わないのか。そこまで到達するには後どれ位時間が必要なのだろう。そんな事をぐるぐると思い悩みながら、返って来ない返事にしびれをきらし、無理ならいいよ、と言おうとしたその時だった。

 いつの間にか自らの唇に指で触れていた海馬が、少し戸惑った様な顔で城之内を見あげる。そして、やはり眉を寄せたまま、小さな声でこう言った。

「それは別に構わないが……」
「構わないが、何?あ、口の中切ってるとか、そう言う事すると痛いとか、そういうんだったら別に無理して……」
「唇が、荒れている」
「……はぁ?」
「……っ、だから!唇が荒れているから、多分痛いだろうと……っ!」

 白い包帯に覆われた顔を僅かに紅く染めながらそんな事を言う海馬の顔を、城之内はもう離れて見る事などせずに、一気に距離を詰めて薄い唇にキスをした。強く感じる薬品の匂い、仄かに漂う花の香り。そしてそれに混ざり溶けるかの様な海馬の匂い。どれもがじわりと彼の感覚に沁み入って、その心地よさに泣きそうになる。

 触れた唇は確かに少し荒れていて捲れた皮膚の一部が少しだけ痛かったけれど。
 

 その痛みすらも今は酷く愛おしかった。