消えない痕 Act20

 一歩踏み出す度にギシギシと軋んだ音を立てる階段を踏みしめて、城之内は約一月半ぶりに訪れた我が家の扉の前へと立った。その横で物珍し気に周囲に視線を巡らすモクバをそのままに、真鍮のドアノブに手をかけるとそれは予想通りあっさりと廻ってしまった。

 握り締めていた鍵を再びポケットへと収め、小さな溜息を一つ吐く。

「……ほんとに閉めて無かったのかよ」
「そうみてぇだな。っかしーな。一旦戻ってかけた筈なんだけど」
「……誰かに入られたりしたんじゃないの?」
「なんの為に?この家に金目の物なんて一つもないぜ。そもそも足の踏み場もないってのに。あ、中に入ったら危ないから良く下を見て歩けよ。そして靴は脱ぐな。分かったか?」
「え?なんで?」
「ま、入ってみりゃ分かるって。行くぞ」

 ギィ、とやけに大きな音を立てながら開いたドアの中に入って行く城之内の後を追う形で一歩その場に足を踏み入れたモクバは、その瞬間響いたザリッと言う硝子を踏みしめる音と同時に目に飛び込んで来た光景に一瞬息を飲んで留まった。それは、想像以上に凄惨な状態だったからだ。

 随所に散らばっている割れたガラスの欠片や生活用品。未だ中身が入っている様々な色や形をした瓶、灰皿ごと投げ捨てられた煙草の吸殻、有り得ない所に押しやられている傷だらけのテーブル、倒れた椅子。そして、壁や薄汚れた畳の上に広がった赤黒い染み。それは、安っぽいサスペンスドラマで良く見る殺人現場の様だった。思わず「うわ……」と声を上げてしまう。

 それを直ぐに察した城之内は僅かに肩を竦めると、だから言ったろ、と苦笑を滲ませながら部屋の奥へと入って行く。そして大きな戸棚の前へとしゃがみ込むと少し歪んだ引き出しを探って何やら道具を取り出した。慣れた手つきでそれらを装着及び使いやすい様に整えると、呆然と戸口に立ち尽くすモクバに向かってテーブルを指し示しながらやけに淡々とした声でこう口にする。

「お前は危ないからそのテーブルにでも座ってろよ。直ぐ片付けちまうから」
「……こんなめちゃくちゃな部屋、一人で直ぐ片付くわけないだろ。オレも手伝うよ」
「硝子とか危ねーから駄目だって。お前に怪我なんかさせてみろ、海馬に何言われるか分かんねぇし。大体お前、掃除なんか出来んのかよ。お坊ちゃまの癖に」
「馬鹿にすんなよ。オレだって学校でちゃーんと掃除してるんだぜぃ!硝子に触らなきゃいいんだろ?大丈夫だって。それに、兄サマだってオレにお前を手伝ってやれって言ってたじゃん、問題ないね。箒は?」
「……でもよ……」
「あーお前、逆らうの?逆らえるの?このオレに」
「そ、そう言う言い方するなよ……ずりぃなぁ、もう」
「分かったらとっとと寄越す。早くしろよ」

 お前なんかよりオレの方がずっと掃除が上手いんだぜぃ。

 そう言って誇らし気に胸を張るモクバに、城之内はしぶしぶ台所の隅に立てかけてあった掃除用具を手渡すと、大きな袋を抱えて手始めに目立つ瓶やゴミを次々と回収していく。その後ろでは取りきれない小さな破片や、長い期間放置されてうっすらと積もった埃を手際よくモクバが掃き集めた。

 その間、二人は全くの無言だった。少しでも口を開けば舞い上がる埃を吸いこんでしまうから、と言うのもあったが、それ以上にこんな時にする話題が見つからなかったからだ。小さく響く物音以外は静かな室内で互いに俯いて黙々と仕事をこなす様はどことなく異様だった。けれどそのお陰で大分早く部屋は片付き、仕上げに古い掃除機で家全体を吸って廻り、残すは汚れを布で拭うだけとなるのに一時間と掛らなかった。

 テーブルと椅子を定位置に戻し、一息つく為に二人でそこに座って辺りを眺めると、以前よりも余程綺麗になった室内に城之内は驚いた。「すげぇな」と呟く声に「ざっとこんなもんだぜぃ」と得意げな声が帰ってくる。

 しかし、綺麗になった分残った赤黒い染みがやけに目立った。窓の下、まるでそこに未だ血を流した男が倒れているかの様な生々しさでそこに残り続ける痕跡。城之内は思わず席を立ち、布を片手にそこへと座った。力任せに拭ってみても乾いて浸透した血液は布へ僅かに移りもしなかった。

「その畳とか壁は、多分もう無理じゃないかなぁ。特殊なクリーナーか何かないと……」
「無理だな。……血は落ちにくいし」
「え、それ、ホントに血なの?」
「ああ」
「……お前の?それとも……えっと、お前の父さんの?」
「いや」
「じゃあ、一体誰の……」
「海馬のだよ」
「え?」
「あれは海馬の血だ。あいつ、ここに来てオレと親父の喧嘩……まぁ喧嘩っつっても酔っぱらい親父の酒乱なんだけど。……それに巻き込まれちまって。オレもあん時ぶん殴られてあんま意識はっきりしてなかったからどうなったのかは分かんねぇんだけど、気が付いたら海馬が手首から血ィ流してそこに倒れてた。多分近場に転がってた酒瓶で切ったんだろうな。場所が場所だけにヤバかったんだぜ」
「……手首?」
「うん。確か……左手だったかな」
 

『先生が言ってた。あれは一度縫ったのが裂けてしまって、もう一度縫合し直したものだって。その痕があったって。だからあれは事故の傷なんかじゃないんだ。事故よりももっと前に何処かで!』
 

 この辺り、と自身の左手を持ち上げて場所を指し示した城之内に、モクバはふとある事を思い出した。左手を抑えてベッドの上で呆然としていた兄の姿。滴っていた赤い血液、事故の怪我ではないと言い切った医者の言葉。それに続いて自殺の危険性があると仄めかされた。そんな事は無いとあの時は即座に否定したけれど、その実少しだけ不安だった。不安になるほど、当時の兄の様子はおかしかった。けれど、それは。
 

「……そっか。そうだったんだ」
「何がだよ」
「兄サマの手首の傷の事。お前が言う様に場所が場所だっただろ?だから変な憶測が飛んで大変だったんだぜ?」
「変な憶測?」
「……兄サマが、自分で手首を切ったんじゃないかって……さ。オレ、医者からはっきり言われちゃったよ。君のお兄さんは精神が不安定だから気をつけた方がいい、良く見ててあげなさいってね」
「なっ……そんな事、ある訳無いだろ!何言ってんだそいつ!」
「オレだって速攻否定したよ。でも医者から言われたらオレだって不安になるじゃん。実際兄サマはあの傷を一回自分で裂いちゃった事があった。オレが学校から帰って来たらさ、ベッドの上が血だらけで、手首押えた兄サマが呆然としてたんだぜ。そん時の絶望ったらなかったよ。兄サマはオレにも言えない様な事で苦しんでて、もしかしたら死にたいほど悩んでる事があったのかなって。勿論そんな事は無いって後で本人からちゃんと聞いたけど。あんな事があった後じゃ信じられないだろ、そう簡単には」
「………………」
「……知らなかったから。オレは、何も知らなかったから。本当に怖くて、悔しくて……」
「モクバ」
「……たった一言で良かったんだ。こういう事があったからって教えてくれれば、オレだって……!」

 ガタン、と折角戻した椅子を倒し立ち上がったモクバは、いつの間にか酷く強張った顔のまま足早に城之内が座る場所まで歩いて来る。そして、件の染みの前で立ち止まり、その場に膝をついて座り込んだ。細い指先が薄汚れた畳の上を静かに這う。その横顔は先程まで見せていた屈託のない笑顔を見せていた子供とは別人の様だった。昨夜城之内を怒りのままに睨めつけた、あの眼差しが蘇る。

 やはり彼は少なからず色々な事を我慢していたのだ。否、我慢させられていたのだ。悲惨な状態の兄に、そしてどうしようもなく情けない相手の男に。……そうすることしか出来なかったのだ。

「……モクバ……」

 兄の血に触れながらそれきり黙りこんでしまったモクバにかける言葉が見つからず、城之内はただ息を詰めてその名を呼ぶ。次に来るのは堰を切った様な罵りの言葉か泣き声か、そのどちらも耐えがたかったが、海馬の言う通り、甘んじて受け入れる他ないのだ。尤も、己に受け入れる資格があるかどうかは分からなかったが。

 そう思い自然と身を強張らせた城之内だったが、次に彼から投げつけられたのは余りにも意外過ぎる一言だった。

「……お前、兄サマと寝たんだろ?」
「えっ」
「隠さなくてもいいよ。兄サマがそう言ってたんだから。お前とキスもセックスもしたって、ちゃんと教えてくれた。……勿論そんな事聞きたくなかったし、今でも凄く複雑だけど」
「…………ごめん」
「なんで謝るんだよ。オレに謝られたって困るし。いいよそれは」
「……え、いいって……いや、良くないだろ……」
「んじゃ、オレが怒れば何か変わるわけ?もう事実としてあるものが覆されるわけ?そんな事は有り得ないだろ。……あーもういいよ。問題はそこじゃないんだ」
「……じゃあ、何」
「お前が兄サマと寝たのなら、知ってるだろ、兄サマの背中。背中って限定しちゃうのもアレな位凄いけど」
「……傷痕?」
「そう。兄サマはオレが知らないと思ってるみたいだけど、オレは知ってる。全部、分かってたんだ。昔から」
「…………!!」
「分かってて、言えなかった。兄サマはオレには必死に隠そうとしていたし、実際兄サマから剛三郎の事を聞いた事も一度もない。触れちゃいけない事だって分かってた。だからオレは知らない振りをしてた。これからも兄サマの口から教えて貰えない事は全部知らない振りをしなくちゃいけないとも思ってた。でもそれは間違いだったんだ。お前との事を目の当たりにしてそれが良く分かったよ。……だから」

 モクバの顔がゆっくりと持ち上がり、視線が真っ直ぐに城之内の目を射抜く。畳の上を這っていた指先はいつの間にか掌ごと限界まで広ろがって染みの上へと置かれていた。まるでその痕を掴むように。

 瞬間、ギリ、と爪先が畳みに食い込む音がした。
 

「全部、教えて。お前と兄サマにあった事。あの日まで、何があったのか。兄サマはオレに約束してくれた。お前を捕まえる事が出来たら、その時は全部話してくれるって。でも、オレは兄サマから話を聞くよりも先にお前の口から全てを知りたい。お前が何を思ってるか、これからどうしたいのか、全部」
 

 じゃないとオレはここから一歩も動かない。

 最後に一言そう言って硬く口を噤んでしまったモクバの顔を、城之内はただ息を飲んで見つめる事しか出来なかった。躊躇するように一旦身を引きかけるも、視線に縫い止められてままならない。それほど彼は真剣だった。何者をも縫いとめてしまうその眼差しは、兄である瀬人に良く似ている。似ているからこそ逃げられなかった。
 

 もう、この瞳からは逃げられない。
 

「……分かった。分かったから、そんな風に睨むなよ。その顔、海馬と同じで怖いんだよ」
 

 数秒後、観念したようにそう言って姿勢を正した城之内に、モクバは少しだけ笑って表情を綻ばせると至極嬉しそうにこう言った。
 

「当たり前だろ、兄弟なんだから」
 ふわりと甘い花の香りが薬の匂いしかしない部屋を鮮やかに彩った。

 小さなノックが数回響き、素っ気なく発した返事に少し躊躇したらしい相手は数秒の逡巡の後、微かな……本当に微かな音を立てて遠慮がちに室内へと足を踏み入れた。その人物が握り締めていた黄色やピンクの明るく可愛らしい花に邪魔をされて肝心の顔が見えなかったが、さらりと揺れた長い髪やコートの下から見えているスカートの裾から女性だという事は見てとれた。

 海馬は一瞬訝しげな顔をしてその覚えのない突然の来訪者を迎え入れたが、『彼女』が手にした花束を僅かにずらして笑顔と言うには余りにも悲しい微笑みを見せた瞬間、直ぐにこの人物が誰でどうしてこの場所を訪ねてくる事が出来たのかを知る。お陰で直ぐに疑問は払拭されたが、変わりに大きな衝撃が海馬を襲った。まさか彼女が一人でここを訪ねてくるとは思わなかったからだ。

「……こんにちは、海馬さん。覚えてますか?私、川井静香です。城之内克也の……」
「妹だろう。勿論覚えている」
「あ、良かった。お前は誰だとか言われたら悲しいなぁ、と思ったから。本当はここに来るのもドキドキしてたんです。不審者に思われたらどうしようって」
「……そんなに厳重な警備などしていないだろう。そもそもここにオレがいる事を知っている人間の方が少ないからな」
「そうみたいですね。案外あっさり通れちゃって、逆にびっくりしました」
「訪ねて貰って申し訳ないが、城之内はここにはいないぞ。入れ違いに自宅へと帰っている。少し長居するようだからそちらに行った方が早い」
「そうですか、ありがとうございます。でも、今はお兄ちゃんの事は関係無いんです。私は海馬さんのお見舞いに来たんですから」
「……何?」
「お兄ちゃんから何も聞いてないですか?本当は私も昨日一緒にここに来るつもりだったんですけど、お母さんの具合が良くなくって、少し遅れちゃいました」
「………………」
「あ、お花、花瓶に入れないとしおれちゃいますね。ちょっとこれお借りします。海馬さん、お花の匂いが駄目とかありますか?」
「……いや、特には」
「良かった。本当は海馬さんの好きなお花を選びたかったんだけど、良く分からなかったから私とお兄ちゃんが好きな花を持って来たんです。……でも、落ち付いたこの部屋にはちょっと似合わなかったみたい。ごめんなさい」

 言いながら静香は手際良く空いていたシンプルな花瓶を取り上げて水を満たし、持って来た花をそっと差し入れて近くの棚へと乗せ上げた。特別室らしい豪奢な部屋ではあるが、必要最低限の物しか置かれていなかった殺風景な病室にふわりと咲いた鮮やかな花々。思わず手を伸ばしたくなるような温かな色彩に海馬は一瞬目を細め、そして居場所に迷って近くに立ち止まってしまった静香を見た。

 彼女もまた、ベッドに横たわる海馬を物言わず見つめている。
 酷く奇妙な空気だった。

「立っていないでそこに座れ」
「……いいんですか?」
「お前が嫌でないのなら構わん。コートはその辺のソファーにかけておけ」
「……はい、ありがとうございます」

 膠着したやり取りに先に痺れを切らしたのは海馬だった。彼は大きな溜息を一つ吐き、未だ平静は装っていてもどこか緊張している彼女を宥める様に極力静かに言葉を紡ぐ。

 そんな海馬の声に従って静香はそっと羽織って来たベージュのコートを脱ぎ、指示通りソファーにかけると躊躇はないが遠慮がちに示されたスチール椅子へと腰を下ろした。体重のある兄とは違い、それは耳障りな音一つたてずにその小柄な体を受け止める。

「……お前はどこまで知っている?」
「え?」
「知らなければここに来る事は出来ないからだ。まさか自分の判断でこんな場所まで来た訳ではないだろう?どこかで情報を掴み、尚且つ足を向けさせるだけの『何か』がないと、オレと大した接点もない人間がわざわざ訪ねてなどくるものか」

 一呼吸置く事もなく、海馬は真っ直ぐに彼女を見あげると単刀直入にそう切り出した。何をどう遠回りした所で結局は事実に辿り着いてしまうからだ。当たり障りのない誤魔化しなど意味もないし、必要もない。それに、もうどんなに取り繕った所でどうにもならないのだ。

 過去は取り消す事は出来ないし、未来もまた過去を踏まえなければ見据える事は出来ない。

 それに彼女の表情が嫌悪を滲ませていない事も海馬の気持ちを後押しした。城之内との事実を知っているにしろ、知らないにしろ、拒絶されなければ正直にありのままを口にしてもいいと思った。例え今沈黙を守っていてもいずれは知れてしまう事なのだし、隠し通す事など不可能に近い。モクバと同じ過ちを犯したくはなかった。沈黙は罪にも成り得るという事を身をもって経験している。だから……。

 海馬が内心そんな事を考えていると、暫く口を噤んで俯いていた静香が緩やかに顔を上げた。それから少し戸惑う様に膝の上で組んだ指先を握り締め、眉を寄せる。こんな所は少しだけ兄に似ていると、海馬は思った。しかし表情は彼女の方が大人びて見える気がした。

「……最初はニュースで見て、純粋にお見舞いに行かなくちゃ、と思っていました。海馬さんにはバトルシティの時に色々お世話になったし、私にとっては他の皆さんと同じ様に大切な人だったから。だから、お兄ちゃんにもそう言ったんです。お見舞いに行かなくていいのって。お兄ちゃんは海馬さんが事故にあった直後からずっと私の所にいたから。……でもお兄ちゃんは、海馬さんの話をすると苦しそうな顔になって、聞きたくないって顔を背けてしまって。どうして?って聞いても何も言ってくれなかったんです。それだけじゃない、私の家に来た理由も学校にも全然行かなくなった理由も何一つ言わないで、ずっと何かに怯えてた」
「…………………」
「でも一昨日ちゃんと話してくれました。話してくれて、海馬さんの所に行くって言ってくれて……そして昨日お兄ちゃんはここに来た。そうですよね?」
「……ああ」
「まだ全部きちんと話して貰ってはいないから細かい事は全然分からないんですけど、私、海馬さんに謝罪とお礼が言いたくて……だから今日ここに来たんです」
「謝罪と礼?」
「はい」
「そんなもの、お前から貰う義理はない。……必要もない」
「でも海馬さんはお兄ちゃんを助けてくれたんでしょう?そして、お父さんも助けてくれたって!」
「それはただの結果に過ぎない。そんなつもりはなかった」
「でも、事故にあって、こんな大怪我をしてしまったじゃないですか!」
「それも城之内の所為では無い」
「じゃあお兄ちゃんが海馬さんにした事は?それは事実なんですよね?」
「オレに……」
「無理矢理……暴力まがいの事をしたって。意味は……分かってます」
「………………!」
「お兄ちゃん、泣きながら言ってたから。酷い事したって、オレなら殺してやりたいほど憎むって……!だから、言わせて下さい。ごめんなさいと、ありがとうって。私なんかが何回口にしたって何にもならない事は知ってます。だけど、言いたいんです……!」

 ごめんなさい、ありがとう。

 まるで呪文の様に幾度も幾度も口にして肩を震わせながら深く頭を下げる目の前の彼女に、海馬は抗う気持ちを無くしてしまう。受け取らなければ『それ』は罪の意識として相手の心に残るのだと言う事をつい先ほど彼女の兄で学習したばかりだからだ。

 ……全くどうしようもない。

 心の中で深い溜息を一つ吐き、海馬は何時まで経っても動こうとしない頭頂部にやや呆れた視線を向けると、彼にしては至極優しい声で「わかった、もういい」と応えてやった。そして僅かに手を伸ばし、力が入り過ぎて白くなった指先にそっと触れる。怯えたように震えるそれを出来るだけ優しく握り締めた。

 さらりと、長い髪が微かに揺れる。

「……海馬さん?」
「そんな事はもうどうでもいいが、お前は何か根本的な事を見落としていないか?」
「え?」
「オレと、城之内の関係の事だ。オレはてっきりその事について言及されると思っていたのだが?」
「……あ」
「あれの妹として何か思う事があればこの場ではっきり言って欲しい。その上でならその謝罪も礼とやらも受け取ろう。……尤も、お前の意に沿う様な答えが出来る保証はないがな」
「………………」
「……嫌ではないのか?自分の兄が男と付き合っているのだぞ?男女と同じ様にキスもセックスもする。それをお前は容認出来るのか?」

 驚いて跳ねあがった大きな瞳を真っ直ぐに見据えながら、海馬はわざと露骨な物言いではっきりと告げてやる。それは紛れもない真実であり、事実でもあった。自分の手に触れている男は兄とそういう関係にあるのだと、殊更力を込めて断言する。
 

 嫌だと言われてもどうする事も出来ないが、確認する事は必要なのだ。

 誰に対しても。どんな相手に対しても。
 

「………………」
 

 随分と長い間部屋には沈黙が流れていた。相手の呼吸音が聞こえるほどの静けさの中で、互いに様々な思いを込めて二人はじっと見つめ合っていた。その表情に一切変化はなかった。尤も、例え思う事があったとしても露骨に表に出す様な彼らでは無かったが。
 

「……一つ、聞いてもいいですか?」
 

 更に長い静寂の後、ぽつりと小さな声が部屋に響いた。それに海馬が頷く事で答えを返すと、彼女は表情は変えないまま、けれど少しだけ目を細めてこう言った。
 

「お兄ちゃんの事、好きですか?」
「……ああ、好きだ」
「良かった。私も好きです、海馬さんの事。お兄ちゃんが好きな人は私も好き」
 

 ── だから、遠慮なんてしないで下さいね。大丈夫ですから。
 

 そう言って、彼女はその口元に笑みを浮かべた。

 その隣で華やかに咲く、温かな花の様に。
 

「ごめんなさい。そして、ありがとう」