消えない痕 Act19

 繋いだ指先は、冷たさと余りにも強く握り締められた力の所為で既にほぼ感覚が無くなっていた。

 頬を打ちつける大粒の雨と吐き出す白い息がより一層身体を凍えさせる。けれど、寒さなど感じなかった。ただひたすらに足を動かす城之内を支配するのは、例えようもない恐怖と緊張と焦りだけだ。けれどもう、この場から逃げ出したいとは思わなかった。

 震える指先を、もう一度強く握り返す。

 ほぼ二人同時に高く塀で覆われた曲がり角を飛び出し、海馬が見たと言う人影を探す。雨水が目に入るのを袖で拭って避けながら注意深く周囲を見回すと、少し離れた街灯の下に蹲る影があった。あれだ、と激しい呼吸の最中囁く様な声で呟いた海馬の言葉が終わる前に、城之内は繋いだ手を振り解いて駆け出した。少し古くなった煉瓦造りの道に足を取られて、躓きそうになりながらも必死で走る。

「親父!!」

 殆ど倒れ込む様な無様な様相でその場所まで辿り着き、濡れそぼったその肩に触れる。頭を下げて、深く項垂れているその身体は見間違えようも無い、姿を消した父親のものだった。城之内の声に僅かにも反応せず、力無く投げ出された手足に息を飲む。

「城之内!」
「親父だ。間違いねぇ。……でもっ!」

 背後で水が跳ねる音がして、頭上から海馬の声が降って来た。遅れてその場に辿り着いた彼は城之内と同じ様に水の中に膝を着き、窺うように父親の顔を覗き込む。そして直ぐ様顔をあげると「大丈夫だ」と口にした。

「息はある。意識が無くなっているだけの様だな。だが、どちらにしても病院に連れて行った方がいいだろう」
「っじゃあ、あの病院に!」
「貴様が昨日オレを運び込んだ所か?」
「ああ。あそこ以外は……」
「何処でもいい。とにかく、急げ。車を……」

 そう言って海馬が直ぐに立ち上がろうとしたその刹那。一瞬くらりと視界がぶれ、足元がふら付いた。辛うじて倒れる事は無かったが、身を起こす事が出来ない。何故、と彼が思う前に左手が熱く疼いた。そうだ、自分は血を多く流し過ぎたのだ。そう思うより早く城之内の顔が驚愕に引き攣れる。

「海馬、お前……」
「何でもない、大丈夫だ」
「大丈夫じゃねぇだろ?!このままじゃ、お前も……っ!」
「煩い!そんな事を言っている場合じゃないだろう!」
「……っ、オレが車持って来る。お前はここで親父を見ててくれ」
「城……!」
「頼んだぞ!」

 その方が早い。そう言って、勢いよく駆け出して行く城之内の足音を聞きながら、海馬は既に小さく震えだした己の身体を忌々しげに見下ろして、きつく唇を噛み締めた。こんな所で足手纏いになっている場合ではない、事態は一刻を争うのだ。例えこの後倒れても構わない。今だけは、意識を失う訳にはいかなかった。

 肩で大きく息をして、僅かに感じる吐き気を抑え込む。ゆるりと顔を上げ目の前の父親の様子を伺うと、彼はやはり未だ死んだように動かなかった。

 しかし僅かに上下する肩に幾許かの安堵を覚える。ただ疲れ果てて寝ているだけならいい。そう思いつつ城之内が来た時に即座に車へと押し込めるよう、腕を伸ばして身体の体勢を整えようとしたその時だった。

「…………?!」

 今までぴくりとも動かなかったその身体がゆらりと揺らめき、項垂れた頭が僅かに持ち上がる。いつの間にか掴んでいた右肩にも力が入り、海馬が驚く間もなく濁った瞳が向けられた。覚醒した、そう思うより早く、彼は立ち上がろうと投げ出した足を引き寄せる。

「待て、動くな!……っ!」

 慌てて肩に触れる指先に力を込めるも、己の身体を支えるのもやっとの海馬にはその動きを押し留める事が出来ない。それどころか、力任せに振られた右腕に思い切り身体を弾き飛ばされた。

 ばしゃりと水が跳ねる音が間近に響き、冷たい煉瓦に頬と額が擦りつけられる。瞬間鋭い痛みが走ったが気にせず口の中に入った雨水を吐き出して、海馬が身を起こした頃には眼前の姿が消えていた。はっとして身を起こすと彼はふらふらと覚束ない足取りで歩道ではなく車道の方へと歩いていた。

 嵐の様な雨が降り注ぐ深夜ので車の往来がほぼ無いとは言え皆無ではない。現に遠くで一台の大型トラックが唸りを上げて走り抜けている。とにかく早く連れ戻さなくては。そう思い、海馬は言う事をきかない身体を叱咤して立ち上がり、気力を振り絞って後を追った。

 相手の歩みが遅い所為でそう距離は離れていない筈なのに海馬の身体が追いつかない。それでも道の半ばで濡れそぼった上着の端を掴み、その身を捕える事に成功した。対向車のヘッドライトが足元を照らして消えていく。

「…………っ!」

 指先に絡めた上着をきつく握り締め、大柄なその身体を再度抑える。多分それは通常時でも至難の技だっただろう。城之内ですら太刀打ちできない男の力を、今の海馬がどうにか出来る訳はなかった。闇雲に暴れる相手をその場に留めておく事すらままならない。

 既に息は上がり、喉の奥から鉄錆の匂いがする。それでも海馬は掴んだそれを離す事はしなかった。

 否、離す事が、出来なかったのだ。
 

 遠い昔……父親を突き放し、車道へと身を躍らせた自分を思い出す。あの時、海馬は血相を変えた父親が伸ばした腕から身を引いた。数センチ先にあったその指先を拒絶した瞬間、彼は目の前から消えたのだ。最後に自分の名を呼びながら、彼方へと消え失せた。赤い、僅かな血飛沫だけをその場に残して。

 幼い海馬は絶望に気が遠くなり、直ぐには口が利けなかった。あの光景と、当時覚えた酷い自責の念はこの先一生忘れないだろう。あんな思いはもう二度としたくはなかったし、誰にもさせたくはなかった。
 

 ── だから。
 

「動けるのなら向こうへ戻れ!ここは車道だ!」
「離せ!オレに触るな!」
「離して欲しくば言う事を聞け!貴様は父親だろう!下らない真似をするな!」
「…………るせぇ!ガキが偉そうな口を叩くんじゃねぇ!」
 

 男の余りの勢いに、掴んでいた右腕がミシリと嫌な音を立てる。駄目だ、自分一人の力では抑えられない。震える指先はもう限界だった。感覚のなくなったそれから絡んだ布が外れようしたその時、間近でタイヤが地面と擦れる音がした。次いで運転席から転がり落ちる様に飛び出て来た城之内の姿が目に映る。
 

「海馬ぁ!!」
「城之内!!」
 

 早くこいつをなんとかしろと、血を吐く様な思いでその名を呼んだ。その声に、城之内の顔がこちらを振り向き、地を蹴る音がした。これで大丈夫だ。後は二人がかりでこの男を車に押し込めればなんとかなる。そう思い、海馬が一瞬力を抜いたその刹那の事だった。
 

 指先に絡んでいた布が、擦れた音を立てて離れて行く。そしてまるで海馬の手を振り切る様な動きを見せた『それ』は、やはり危うげな足取りで再びふらふらと歩み出したのだ。
 

 遠くで、エンジンの唸る音が聞こえる。

 眩しいヘッドライトの光が道路の真中に佇む、その姿を淡く映し出していた。
 視界がその姿を捉えたと思った瞬間、物凄い勢いで大きな物が己の身体にぶつかって来るのを感じた。殆ど真正面からそれを受けとめる形となった城之内は、その物体を抱えたままバランスを崩してその場に倒れこんでしまう。強かに打ちつけた腰を背中の痛みに気にする事無く上に覆いかぶさって来たものを見ると、それは紛れもない己の父親の巨体だった。

 多分、海馬が突き飛ばして寄越したのだろう。慌てて父親の身体を脇に押し退け身を起こすと、少し離れた場所で辛そうに肩で息をしながら這い蹲っている海馬の姿が目に入った。暗さで良くは見えないが強張った手足は僅かに震えている様にも見える。この寒さと左手首からの出血の所為で彼ももう限界だった。「海馬!」と呼ぶ声に顔をあげる事すらままならない。

 急いで立ち上がり、側に駆け寄る。肩を抱き、大丈夫か、と声をかけると僅かに首が上下した。否、嘘だ。大丈夫なんかじゃない。本当に何でも無いのなら顔をあげる事位出来る筈だ。そう思いとにかくこの場から連れ出そうと肩に置いた両手をぐるりと回して抱きかかえようとしたその時だった。

 それまでの様子が嘘の様に海馬の顔が持ち上がり鋭い眼差しが城之内を射抜く。それに驚く間もなく、彼は至極はっきりとした口調で吐き出す様にこう言った。

「……海馬、ごめん、オレ……っ!」
「無駄口を叩くな!貴様は父親を連れていけ!」
「でも!!お前が……!」
「オレの事は構うな!!いいから、早くしろ!」
「そんな事、出来る訳無いだろ!!頼むから立ってく……っ!」

 殆ど泣きながらそう捲し立てる城之内の唇が、一瞬だけ塞がれた。雨に濡れそぼり体温など全く感じない氷の様な冷たさだったが、確かにそれは海馬からの口づけだった。

 この瞬間に。かつてない危急の事態に。こんな余りにも考えられない真似をして見せる相手の顔を良く見つめる間もなく、城之内の身体は突き飛ばされた。
 

 いつの間にか迫っていたエンジン音。目を開けていられない程の眩しさ。
 車だ、そう思う頃には、もう遅かった。
 

 激しい衝撃音が、深夜の街に木霊する。
 

「──海馬?!、海馬ッ!!」
 

 悲鳴の様な叫びが、城之内の喉奥から迸った。全身が強張り頭の中が真っ白になる。
 喉が震えて、呼吸すら出来なかった。
 

 ひくりと音を立てるそこを片手で押えた。
 

 どうしようもない絶望が、激しい嵐と共に項垂れて嗚咽を漏らす城之内へと降り注いだ。
「……じゃあ、オレ。一度家に戻る事にする。あれ以来帰ってねぇからさ、めちゃくちゃでひでぇ事になってるし。片付けねぇと」
「そうか」
「あ、じゃあオレも行くよ!」
「……え?なんでお前もついて来るんだよ」
「監視監視。お前弱虫だから、逃げ出さない様に見張るんだぜぃ!……ねぇ兄サマ、いいでしょ?」
「オレは別に構わん。気を付けて行って来い。どうせだから片付けを手伝ってやれ」
「うん!!じゃあオレ、出かける準備してくるっ!」
「お、おい……っ」

 モクバとの比較的穏やかな朝食の後、当面の簡単なスケジュールの打ち合わせを済ませた二人は揃って海馬の元へと戻って来ていた。そしてとにかく日常を取り戻す事を決めたと海馬に話し、手始めにやろうと思ったのが、あの日以降一度も足を踏み入れていない自宅の片付けだった。

 それを素直に口にした途端に飛び出した思わぬ提案に面食らう間もなく、上着上着とまるで遊びに出かける時の様な子供らしくはしゃいだ様子で病室を出て行ったモクバの足音を聞きながら、城之内は思わぬ事態に困惑気味に眼下の海馬を見下ろした。

 それをこちらも面白そうな顔つきで眺めながら、海馬は喉奥で少しだけ笑う。

「いいのかよ?……っつーかオレ、出来ればモクバにあの惨状を見せたくねぇんだけど……多分まだお前の血とか残ってるぜ。それに……硝子とか散ってて危ねぇし」
「モクバはその位で動揺する様な脆弱な神経は持ち合わせていない。大丈夫だ」
「そういう問題じゃねぇよ……」
「どの道モクバには全てを話さなければならない。下手に隠し事をするよりも現実を見せてやった方がいい」
「それにしたって……」
「『この』姿以上に衝撃を受ける事など早々無い。今さらだ」
「………………」
「それに、モクバが貴様と共に行きたいと言っているのだ。オレに止める権利は無い」

 多分あれにも色々と思う所があるのだろう、そうきっぱりと言い放ち。海馬は静かに口を噤む。

「……モクバには本当に悪い事しちまったと思ってるよ」
「そう思うのなら、意に従ってやればいい。あれはオレなどよりもしつこくて厳しいからな。覚悟しておけよ」
「こ、怖い事言うなよな」
「オレも覚悟をしているのだ。貴様とて同罪だ」
「お前の事をあいつが怒る訳ねぇだろ」
「逆だな。貴様は知らないだろうが、オレは既に散々責められたのだぞ」
「……マジで?!」
「嘘を吐いてどうする」
「なんか想像つかねぇけど……すげぇな……」
「だが、それだけ悲しませたのは事実だ。甘んじて受け入れるしかあるまい」
「……うん。分かってる」
「では、早く行け」

 そう言って、未だ所在無げに立ち尽くすその身体を海馬は点滴針の刺さっていない自由な右手で追い払う様に少し押す。その手を無意識のうちに握り締めながら城之内は自分でも呆れるほど真剣な声で、たった一言口にした。

「オレ、ちゃんとモクバと一緒に帰って来るから、待っててくれな」
「…………!」
「じゃ、行ってくる」

 くるりと背を向けて少し小走りに部屋を出て行くその後ろ姿を眺めながら、海馬は少しだけ顔を歪めて「当たり前だろう」と呟いた。
 

 一瞬きつく握り締められた掌は、未だ確かな温かさが残っていた。

 それが何故か……例えようもなく優しく感じた。ほんの少しだけ、目元が熱くなる位に。
「今日は凄く天気がいいね、冬じゃないみたい。だから皆出かけてるのかな」
「……ここの所雪の日が多かったからな。クリスマスも近ぇし」

 モクバと共に病院を出てから半時後、二人は車で城之内の家へと向かっていた。今日はクリスマス前の休日という事もあり町のどこにも人が溢れていて、皆幸せそうな笑みを浮かべながら大通りを闊歩している。その様子を窓越しに眺めながら、やはり少しはしゃいだ様子でモクバがそう声をあげるのを城之内は戸惑いながら受け入れていた。

 本来ならばこの月は一年で一番忙しく、楽しい時期になる筈だったのだ。それなのにこんな事になってしまった。そう考えれば考える程、後悔の念は尽きない。知らず俯く視線が赤信号で滑らかに止まった車の動きに合わせて軽く揺れた。

 刹那、隣のモクバが身を伸ばし、運転手へと声をかける。

「あ、ごめん。ここで降りる。城之内の家の前までこの車じゃ入れないだろ?」
「あ、そっか。そうだな」
「終わったら連絡するから、ここに迎えに来てくれよ」
「かしこまりました。お気を付けて」
「うん、ありがと。気を付ける」

 じゃあな。そう言ってまるで飛び出す様に運転手がドアを開ける間もなく外に飛び出したモクバを追う形で、城之内も反対側のドアに手をかける。しかし彼は不意に思い出したようにその動作を止めて、背後を伺う様にこちらを見ている運転手へと目を向けた。そして、小さな声で口を開く。

「……あんた、前にオレを迎えに来てくれた人だよな?海馬に言われて、あいつと一緒に。蓮田さんって言ったっけ?」
「はい」
「あん時も世話になったけど……今回も……ごめんな、海馬をあんな風にして。謝って済む問題じゃねぇけど……オレ、あんた達に恨まれても仕方のない事をしたと思ってるんだ。なのに、またこうしてのこのこ顔出しちまってよ、今度はモクバまで引っ張り回そうとしてる。本当に……どうしようもねぇ」

 ドアの縁に手をかけてたまま必死の様相にでそう声を絞り出す城之内の事を、蓮田は特に表情を変える事なく見つめていた。その生真面目な眼差しに責める色は無い。尤も、どんな感情があろうとも主人と懇意である人間に対して負の感情をぶつける事は出来ないのだろう。それを思うと余計に居た堪れない気分になる。

「………………」

 長い沈黙に自然と零れ落ちそうになる溜息を飲み込んで、城之内はこれ以上ここに居ても仕方がないと判断し、軽く頭を下げて漸くドアを開いて身をのり出した。薄汚れたスニーカーでアスファルトの上に降り立ち、じゃあ、と最後に声をかけたその時、それまでずっと口を閉ざしていた蓮田が静かな声でこう言った。

「私は瀬人様を信じておりましたから。貴方様の事も特に思う事はこざいません。お二人とも御無事で良かった。ただそれだけです」
「……え?」
「お気を付けていってらっしゃいませ」

 穏やかな笑みと共に告げられたその言葉は、一瞬身を固めてしまった城之内の心に酷く温かく、そして重く響いた。何故、と幾度も吐き出したその二文字が再び口を吐いて出る。

 違う、そうじゃねぇだろ。オレはあんた達にそんな風に言って貰える人間じゃねぇんだ。どうして誰もオレを責めないんだ。そう言おうと再び口を開いても静かに閉ざされてしまったドアが邪魔をして思うようにならなかった。

 冷たい冬の風が茫然と立ち尽くす城之内の頬を撫でて、その皮膚を強張らせる。

「城之内」

 不意に無意識に握り締めていた左手に温かい手が触れた。同時に呼ばれた自分の名に、緩やかに視線を巡らすと、そこには複雑な表情をしたモクバがいた。既に外に飛び出していた彼に今の会話を聞かれる筈もないが、少し悲し気に見えるその顔を見れば大体の事情は察しているのだろう。触れて来た小さな手の平は軽く城之内の拳を包み込むと、急かす様に強く引く。そこに言葉はなかった。

「モクバ」
「……なにやってんだよ。早く行くぜぃ」
「うん、ごめん」
「ちゃんと家の鍵、持って来たのかよ」
「持ってるよ。まぁ、鍵なんてかけた記憶ねぇからあんま意味ないけど」
「不用心だなぁ。とにかく、早く行こうぜ。遅くなると兄サマが心配するし」
「……そうだな」

 繋いだ手はそのままにゆっくりと目的の場所へ向かって歩き出す。こうして手を繋いだのは随分と久しぶりだ。尤も、最後に覚えているのはこんな優しい感触ではなく、指先がちぎれるかと思う程の力の強さと、氷の様な冷たさだったけれど。

 城之内は視線を繋いだ手に落とし、少しだけ遠くを見る。久しぶりに見た見慣れた風景はやけに寂しく感じられた。指先が暖かい分、余計に切なさが湧きあがる。
 

 出来るなら、あの日に時を戻したかった。

 無理な事だと分かってはいても、そう思わずにはいられなかった。