消えない痕 Act18

「お前、何オレの場所取ってんだよ!起きろよ!」
「……ん……イテッ!……何、え、モクバ?」
「モクバじゃねーよ!そろそろ回診の時間だから邪魔なの!早く立って!」
「……あ……そか。ここ、病院……」
「完全に寝ぼけてるし。お前ってゲンキンな奴だよな。昨日あんなにビビった顔して廊下に立ってた癖にさ」
「う、うるせー!って、うわ。ヤバ……」
「兄サマなら完全に熟睡してるから大丈夫だよ。起きる気配すらないし」
「……そっか」
「お前が来て安心したんじゃないの。こんなに穏やかで大人しい兄サマ、初めて見たし」
「……え?」
「とにかく、もう先生来ちゃうから。朝御飯食べに行こうぜぃ。ここの病院の朝食、凄く美味しいんだ。お前もお腹すいただろ?」
「そういえば、昨日の夜から何も食ってなかったような……」
「じゃ、決まり。少し離れた所にある個室に先に行ってて。オレ、ちょっと磯野に指示出してくる」

 直ぐに行けよ!

 そう言ってポケットから携帯を取り出したモクバは、足早に、しかし足音を立てる事無く病室の外へと向かうべく扉の方へと歩き出した。城之内に背を向ける一瞬、幼いその視線は未だしっかりと繋がれていた指先へと注がれて、少し寂しさの混じった苦笑めいた笑みをその口元に滲ませた。

 それに気付いた城之内は少しだけ後ろめたい気分で長く掴んでいた海馬の指先を手放して、すっかり湿ってしまった指先を何とは無しに振りながら、「お前、今日学校は?」とその場を誤魔化す様に訪ねてみた。するとあちらも少々気不味い顔をして素っ気なく「今日は土曜日だぜ」と答えてさっさと扉の向こうへ消えてしまった。

「……土曜日」

 それに城之内は改めて近間にあったデジタル時計を意識した。12月20日、土曜日。いつの間にか世間ではこんなにも長い時間が経っていたのだ。
 

「……なんだ貴様、今日が何曜日かも分からないほど耄碌したのか」
 

 何の飾り気もないそれをなんとは無しに見詰めながら、城之内が小さく嘆息したその時だった。不意に至近距離からやや掠れた様な声が聞こえ、微かな布擦れの音がする。慌てて視線をそこに向けると、つい今しがたまで微動だにせずに眠っていた海馬が寝起きとは思えないほどはっきりとした眼差しでこちらを見上げていた。

 瞬きに合わせて見え隠れする青い瞳が怖い位に澄んで見える。それに何故か酷く安堵した。昨夜から何度も確認している筈なのに、明るい光の元で会話を交わすまではどこか夢の様に思えたからだ。

「……!海馬?お前、起きてたのか」
「いや、今目が覚めた」
「……悪ィ、オレが煩くしたからだよな」
「それは関係無い。大体この時間になると目が覚める。どちらにしても起こされるからな」
「……あぁ、うん。回診とか言ってたな。っと、そろそろ先生とか来ちまうんじゃねぇ?オレ、ここにいたら不味いよな。今どう考えても面会時間じゃないし……」
「別に構わん。今更何も気にする事は無い。大体ここの医師や看護師は大抵の事には慣れているし、ルール破りなどほぼ黙認状態だ。元々このフロアは要人が使用する場所だからな」

 一度離してしまった指先を再び握り締め、確かめるように力を込める。それを少しだけ気にするそぶりを見せながらも海馬は何も言わずに伸びた前髪を自由な手の方でかきあげた。さらさらと零れ落ちる細い髪。一瞬だけ露わになった、額に巻かれた白い包帯にどきりとする。それを誤魔化す様に忙しなく視線をあちこちにさ迷わせながら城之内はやや口早に言葉を紡いだ。

 その動揺に気づいてはいたものの特にフォローする気もなく、海馬は自らも城之内の顔からは視線を外し、繋がれた手の方に意識を向けた。指先に感じる、昨夜も気付いた生々しい怪我の痕跡。他の部位はともかく、手指のこれは自傷も多分に含まれているのだろう。海馬自身、彼が何度か苦し紛れに拳を叩きつけている所を目撃している。

 苦しい時、悔しい時、やりきれない思いを抱えた時、そうして己の気持ちを堪えて来たのだろう。怪我の程度では比較にもならないが、見えない傷の深さはずっと城之内の方が深い筈だ。そして、そうしてしまったのは紛れもない自分なのだ。

「……海馬?」
「回診ついでに貴様も診て貰ったらどうだ」
「え?」
「見た目よりも相当深手だろう、この傷。他にも幾つかあるだろう?何故放っておいた」
「……っ、なんでもねぇよ、こんなの!」
「痛かったか?」
「い、痛い訳ねぇだろ。お前、人の事言える立場かよ!」
「何故怒る」
「怒ってなんかねぇけど……お前が急にそんな事言うから……!」
「……この後に及んでまだオレが貴様の事を気にかけるのが迷惑だとでもいいたいのか」
「そうじゃねぇ!そうじゃねぇけど……ごめん……オレはまだ、混乱してて……」
「……そうか」

 徐々に語尾が小さくなって行く城之内の声を聞きながら、海馬は優しく触れていた傷だらけの指先を緩やかに手放した。過度の気遣いが相手を追い詰める事を、最悪の結果と共に目の当たりにしたのだ。同じ事を繰り返したくはない。

 それでもその傷は自分を無言のまま責め立てる。己の状態もまたそうなのだろう。互いに互いの顔を直視できない。否、物理的に出来てはいても精神的に向き合うまではまだ至らなかった。未だ強く感じる胸の痛みをそれぞれが忘れ去るまで一体どれ程の時間が必要なのか、見当もつかない。

 だが、ここまで漸く辿り着いたのだ。手を繋いで、歩き出せる所まで。それすら叶わなかった時間に比べたら、これからの長さなど苦になりはしないだろう。

 海馬は、深く大きな溜息を一つ吐く。そして気持ちを切り替える様に一度目を閉じ、再び顔を持ちあげると、未だ困惑気味にこちらを見下ろしていた城之内をしっかりと見つめ、今のやり取りなどなかったかの様に穏やかな表情で口を開いた。

「モクバに呼ばれているのだろう?早く行って来い。あいつは、約束を破られるのが一番嫌いだからな。早くしないと、ここに怒鳴りこんでくるぞ」
「え?」
「時間が掛るのは承知している。オレにも多分必要だ。……だから、焦るな。ゆっくりでいい。ただし、逃げるな」
「………………」
「貴様が逃げる事が、オレを一番苦しめる。これだけは覚えておけ」
「……海馬」
「この数ヶ月は、オレにとっては悪いものではなかった。結果としては余り良くなかったがな」

 そう言って少し意地悪気に笑ってやると、元から微かに歪んでいた城之内の顔がさらに酷いものになった。だが、それが記憶の中では無く現実の目の前にある事に、海馬はこの上もない幸福と安堵を抱いていた。苦しむなとは言わない。泣くなとは言わない。ただ一人でいるなと、そう言ってやりたかったが、今はまだ口をついて出ては来なかった。
 

「……ごめん」
 

 何度目かの謝罪は眩しい位の朝の光に掻き消される様に、空に解けて消えて行った。
「……うわ、すげぇな。これ、ちょっとしたレストランの朝食じゃん」
「だから言ったろ。ここの食事は美味しいんだって。遠慮なく食えよな」
「……ああ」

 海馬の病室を後にしてから数分後、城之内は待ちくたびれた風に廊下の中央で仁王立ちになっていたモクバと共に、個室にしては酷く広い部屋の中央、二人きりで使用するには大き過ぎるテーブルを挟んで静かに向かい合っていた。

 目の前に置かれた朝食は己の母親の病室で見た様な質素な器に盛られた味気ないものではなく、普段城之内が目にする事など出来ない様な高級さを全体から醸し出している。常の彼ならば満面の笑みを浮かべて手を伸ばすのだが、今は申し訳程度にスプーンを握り、スープを少し口にしただけで止まってしまった。とても喉を通る状態ではなかったからだ。

 そんな彼の様子を多少の非難を混ぜた眼差しで気付かれない様に一瞥すると、モクバは努めて明るく、手にしたオレンジジュースを飲み干して口を開いた。

「兄サマも最近やっと普通のご飯食べられるようになってさ。そしたら途端にアレが嫌だコレが嫌だって我儘言って困るんだ。少し前までは大人しく医者の言う事聞いてたのに、ちょっと元気になるとこれだもんなぁ」
「………………」
「何で黙ってるんだよ、辛気臭いなぁ」
「……なんて言うか。何を言ったらいいのか分かんねぇし……」

 軽快に投げつけられるモクバの声に元々俯き加減だった顔を更に俯かせて、城之内は止まった手をテーブルに戻してしまうと小さな溜息を一つ吐く。モクバもまた、彼にとっては海馬同様まともに顔を合わせる事が出来ない相手だった。幾ら謝罪を済ませ体面上許されたと言っても、そんなに簡単に割り切れるものではない。

 多分それはモクバも同じなのだろう。にこやかに見せているその顔の裏では、未だ激しい葛藤が続いているに違いない。

 居た堪れない。まるで針の筵の上にいるようだ。

 自身が勝手にそう感じているだけなのだが、誰も否定してくれる相手がいない以上、城之内はただその痛みに眉を顰める事しか出来なかった。

「………………」

 そんな彼の事をモクバもまた複雑な思いを抱いて見詰めていた。
 昨日は己の感情を投げつけるのに必死で相手の事など殆ど頓着出来なかったが、一晩置いて冷静になり改めて眼前の姿を眺めてみるとその憔悴ぶりに驚愕した。彼の唯一の長所と言えるべき笑みを失い、酷くやつれた感のある色の無い顔。光の無い瞳。傷だらけの手。そして何かに耐えている様な抑揚の無い声。

 ……こんな姿で彼は兄へと対面したのだろうか。この数時間、傍らに少しも離れずにいたのだろうか。それを兄はどんな思いで受け入れたのだろう。それを思うだけで心が沈んだ。やりきれない思いが胸底に沸き上がる。

「普通にしてろよ。お前がそんなだと逆に気が滅入るだろ。折角の美味しい朝食も台無しになるし」
「……うん、ごめん」

 半ば苛立ち紛れに口にした言葉も、重苦しい一言に押しのけられる。それに、僅かだった憤りが刺激され、モクバは大きく溜息を吐く。……駄目だ、これじゃ堂々巡りだ。お互いに何時まで経っても同じ場所を廻るだけだ。年下だから、兄と彼の間に何があったか分からないから未だ遠慮する気持ちが大きかったが、そんな臆病な態度では事態は何一つ進展しない。そう、先になど進める訳がないのだ。

 悔しいけれど、辛いけれど、自分が上手く立ち回ってやらなければならない。その貸しは後で二人から存分に返して貰えばいい。過去よりももっと幸せで、穏やかな日々を取り戻してから、存分に。

 そう思い、モクバは少し居ずまいを正すと、未だ頑なに顔を上げようとしない城之内へと身を乗り出して、まるで言い聞かせるように口を開いた。

「『ごめん』って言うなって、兄サマから言われなかった?」
「え?」
「一緒にしちゃアレかもしれないけどさ、兄サマは誰からでも謝られるのって嫌いなんだ。『謝罪をしている暇があったら結果を残せ』って口癖だからね。それは仕事でもプライベートでも同じだよ。オレも良く怒られたしね。その影響を受けたからかな、あんまりしつこく謝られるとムカついてくるんだ」
「ムカつくって……」
「お前は昨日散々謝ってくれたし、オレも不本意だけど本当にもういいと思ってるから、これ以上蒸し返さないでくれた方が嬉しいんだけど。それとも、そんなにオレに殴られたい訳?そこまでしないと吹っ切れないのかよ」

 まぁ、お望みなら殴ってやってもいいけど。ガキだと思って舐めてるととんでもないぜ?

 そう言ってわざとらしく右手で拳を作って息を吹きかけるモクバに、城之内の表情が僅かに緩む。そして強張り続けていた肩の力を少しだけ抜くと、彼は溜息交じりに呟いた。

「……海馬と同じ事言うんだな、お前」
「そりゃそうだよ。兄弟だもん。お前と静香ちゃんだって似てるだろ」
「オレと静香が?……それはないよ。あいつはオレみたいなろくでなしじゃないし。ずっと大人でしっかりしてる」
「ふーん、駄目兄貴だとそうなるのかもな。苦労するよなぁ」
「そうだな」
「なんだよ、反論しないのかよ」
「出来ねぇよ。その通りだし」
「あっそ。とにかくそういう態度はやめろよな。……少しはしょうがないけどさ。あんまりウジウジして兄サマを困らせたら、もう二度とオレ達の前に顔を出すなって言ってやるからな。兄サマがオレの保護者だって言う様に、オレだって兄サマの保護者なんだ。これ以上兄サマを傷つけたりしたら絶対に許さないからな」
「………………」
「返事は?」
「……分かった」
「分かったんなら、顔を上げて朝食位ちゃんと食べろよ。こういう時にものを言うのは体力なんだぜ?お前にだって色々手伝って貰わなきゃならないんだからな」
「……オレに?」
「あったり前だろ!お前以外に、誰が兄サマの看病するんだよ。オレはこう見えてもすっごく忙しいんだ。兄サマの入院が長引けばそれだけKCの仕事が増えるだろ。だから、人に任せられる所は任せたいんだ。大体の原因はお前なんだから、責任を持って兄サマを元通りにして貰わないと困るんだよ」
「モクバ」
「お前に一つだけ感謝したい事もあるけどね。この一ヶ月強の間……オレ、ずっと兄サマの側にいられた。今までこんな事はなかったから、凄く嬉しかったんだ。貴重な時間だったと思ってる。だから……こんな事言うのは不謹慎かもしれないけど……悪い事ばかりじゃなかったんだぜ?」
 

『この数ヶ月は、オレにとっては悪いものではなかった』
 

 ……ああ、やっぱりお前等は兄弟だ。こんなにも言う事が似通ってる。
 

 誰が聞いても酷いと思えるこんな事件を経験しても、笑顔さえ見せてそんな事を言えるのはこいつ等だけだ。その強さに、温かさに縋りたくて手を伸ばした自分は罪深かったけれど、間違ってはいなかったのだ。否、これを間違いだと否定してしまったら、誰の気持ちも浮かばれない。

「……そうか」
「そうだよ。だから早くそれ食べて。打ち合わせするんだからさ」
「あぁ」
「お前も来週からちゃんと学校行けよ。って言っても、すぐ冬休みだけどな。早いよなぁ、もうクリスマスだぜ?」

 その声を聞きながら城之内は一度手放してしまったスプーンを手に取り、再びスープを口にする。喉に流しこんだそれはすっかり冷めていたけれど、久しぶりに酷く美味しく感じられた。目の前の食器が全て空になるまで手が止まらないほど。
 

「オレもお前も、兄サマも……今日からがスタートだぜ」
 

 一足先に食事を終えたモクバが大きなスケジュール帳を取り出して小さく笑った。

 その真新しい紙の白に、城之内は漸く俯けた顔を上げて、少しだけ引き攣った笑いを見せた。