消えない痕 Act17

 路肩に置き去りにされていた車に乗り込み、海馬は震える手で濡れたポケットからキーを取り出す。激しい冬の雨が降り続く寒空の下に長い間居た所為で手指の感覚が一切無かった。急がなければならないのに、焦れば焦るほど上手くいかない。車内にも関わらず吐く息はぞっとするほど白かった。

 結局耳障りな音を立てて足下に落ちてしまったそれを、横で見ていた城之内が無言のまま拾い上げ、イグニッションに差し込んだ。静かに始動するエンジン音。ハンドルを握り締める海馬の手を見届けた後、城之内はフロントガラス越しに外を見た。

 未だ正常な思考は戻ってこない。焦りと動揺に今にも叫び出してしまいそうだ。けれど、そうした所で何か変わる訳でもない。今しなければならないのは立ち止まって嗚咽を漏らす事ではなく、ひたすら走り続ける事だった。

「何処から行く?」
「……とりあえず、この辺を流して見つからなかったら、大通りの方に行ってくれ。行きつけの店があるのはそっちの方だ」
「分かった。……こんな天気だ。余程の事がない限り人などそう歩いてはいないだろう。直ぐに見つかる」
「その辺にぶっ倒れてなけりゃな。踏まないでくれよ」
「貴様が良く見ておけばいい」

 交わされる言葉は普段の軽口そのものだったが、合間に漏れる呼吸が酷く荒い。緊張と不安にどうにかなりそうだった。いつの間にか堅く握りしめていた指先が軋んだ音を立てる。眩しいヘッドライトの明かりの元、石ころ一つでも見逃さない様に城之内は真剣に視線を巡らせた。雨音が、耳に響く。

「くそっ……人っ子一人見当たらねぇな」
「路地裏だからな。貴様の父親はよくこの道を使うのか?」
「……知らねぇ。あいつの事なんて知りたくねぇし。暴れて呼ばれた時に店に行った事がある位で」
「そうか」
「……最低だ、あんな奴。── 死んじまえばいいのに!」
「ならば見捨てればいいだろう」
「え?」
「死んで欲しいのなら貴様が見捨てればいい。このまま捨て置け」
「…………っ、それは」
「それが出来ないのなら世迷い言を口にするな。必死に探せ」

 淡々とした、それでも凄みのある声が静かな車内に重く響く。城之内は思わず息を飲み、ほんの一瞬だけ視線を硝子の向こうから隣の海馬へ移した。闇の中でもやけに白く映る見慣れた横顔は、恐ろしい程に無表情だった。けれど、瞳に強い怒りを孕んでいる。

 また、あの顔だ。城之内が父親に対する思いを吐露した時に決まって見せるあの表情。彼には何一つ関係がない事なのに、ともすればこちら以上に怒りを見せるその瞳の訳を城之内は未だ知る事が出来ずにいた。
 

 ── なんで、お前が?
 

 今まで幾度も口にしようとして出来なかった疑問が改めて浮かび上がる。何故海馬はこの事にこれほどまでに心をかけようとするのだろう。まるで自分の事の様に怒りすら見せるのだろう。殆ど一方的に気持ちを押し付け、身体を繋ぎ、好きだとも言われないまま無理矢理傍にいるだけの他人に対して、どうしてそこまで必死になれるのだろう、と。

「なぁ、海馬」

 微かに呼びかけたその声に、ちらりと目線だけが向けられる。余計な事を言う暇があったら外を見ろ。あからさまにそう伝えて来る眼差しを鷹揚に受け止めて、城之内は酷く静かな声で囁く様に口を開いた。

「なんで?」
「……何が?」
「なんで、お前はオレに、こんな事までしてくれんの?お前には全然関係ない事じゃねぇか。オレのオヤジの事なんて」
「………………」
「関係、ないのに。なんでここまで必死になれるんだよ!」
「城之内」
「すげぇ勝手な事言ってるのは分かってるよ!でも、オレ、納得出来ねぇんだ!お前からちゃんとした理由を聞かないと……!」

 刹那、キッ!と鋭い音がして水の中をタイヤが滑る音がした。一瞬前にのめった身体に慌ててダッシュボードに手を付いて、前を見る。信号機など何もない。住宅街の細い小道。数メートル先には車や人影は見えないが、少しだけ明るい光がきらめく大通りが見える。

 一体何が。そう思う前に海馬の指先がハンドルから離れた。そして一言「いたぞ」と低い声が響く。

「えっ」
「貴様の父親かどうか確信はないが、今それらしき人影が大通りの方へと抜けて行った。大柄で、足取りが危ういようだったから、多分」
「!!……オヤジだ、絶対!」
「急ぐぞ城之内。車道にでも出たら事だからな」
「くっそ!何やってんだよあの野郎ッ!」

 二人はほぼ同時に左右のドアを叩き開け、先程よりもまだ酷い雨の中へと飛び出した。少し落ちくぼんだコンクリートの中に溜まった雨水が、既に感覚の無い足に染みてただ気持ち悪さだけを伝えて来る。頬を叩きつける雨粒に目を開ける事すらままならず、思わず直ぐ傍に近づいた海馬へと手を伸ばした。そして偶然触れた左手を強く握り締めようとして留まった。

 全身を濡らす水とは違うぬるりとした嫌な感触。はっとして目をやると自身の手が赤く染まった。血だ。そう言えば彼は左手首を負傷していたのだ。乱雑な動きを続けた所為で縫合した傷が裂けてしまったのだろう。場所が場所故にこのままでは不味い。なんとかしなければ。

 しかし、そう思うより早く血濡れたその手が逆に城之内の指を握り締めた。骨さえも軋む様なその力は、そのまま城之内の身体を強く引く。その動きにまた暖かな感触が手を伝う。

「お前、その左手ッ!血が!」
「何でもない、行くぞ!」
「何でもなくねぇって!そのままじゃ!」
「煩い、急げ!」
「海馬!!」

 構わず駆け出そうとするその身体を、咄嗟に肩を掴んで引き留める。ばしゃりと散った泥混じりの水が頬にまで飛んで顎を伝った。けれどそんな事はどうでも良かった。こうしている間にも相手の左手を押さえ付けた指先には赤い血が伝っていて。ただでさえ冷たい身体が更に冷えて行く気がした。二つの身体が相反する力によってその場に留まる。震える呼吸が白く空を滲ませ、互いの顔を霞ませた。

「……何故、と言ったな。何故、オレがこうまで貴様に関わるのかと」
「──── っ!」

 不意に闇の中でもやけにはっきりと見える青い瞳が息を強張る城之内の顔を捉えた。そして、強張る唇が微かに動く。急なその出来事に驚いた城之内は、突然齎されたその答えに更に大きく目を瞠る事になるのだ。
 

「……オレは過去に『父親』を二人殺した。……だからもう、目の前で『父親』が死ぬのを見たくない。それが例え貴様の親であってもだ。── それが、理由だ」
 

 まるで喘ぐ様な激しい呼吸の合間に、掠れた声で紡がれたその言葉は余りにも衝撃的で、城之内の耳をただ素通りして行くだけだった。
 

「殺したって……」
 

 ── 誰が、誰を?
 

 考える前に、目の前の身体が反転した。冷たい指先が強い力で腕を引く。それ以上何も言わず足を踏み出した海馬の動きに引きずられる形で城之内も駆け出した。

 二つの濁った足音が、闇夜の中に大きく響く。
 

 握り締めた指先はやはり酷く冷たかった。
 パラパラと硬い髪が額に落ちる音がする。同時に頭部をゆったりと行き来する温かで優しい掌の感触。頭を誰かに撫でられている。繰り返し繰り返し、まるで慈しむ様に……何度も。

 こんな事をされるのは何年ぶりだろう。まだ自分で年も満足に言えない頃は当たり前の様に与えられていた筈のこの感触。あれから随分と色々な事があった。家族から笑顔が消え、温もりが消え、最後には母親と妹まで自分の元を去ってしまった。

 残されたのは、すっかり人が変わってしまった気狂い一歩手前の暴力的な父親だけだった。

 久しぶりに訪れた穏やかで優しい眠りの淵に揺蕩っていた城之内は、未だ続いている仄かな感触と共にそんな事をなんとは無しに考えていた。いつもは鋭い胸の痛みと共に思い出す現実の辛さを、こんなに静かな気持ちで受け止められる時が来るなんて、少し前までは思う事すら出来なかった。

 あの事故があった日からずっと過去の事を思い出しては後悔し、誰かれ構わず恨んでは泣き喚き、最後は己自身の存在を憎んで朝を迎えた。眠っていたかどうかなど分らない。眠っていても起きていてもその状態は変わらなかったからだ。安らぎも休息もあの日々の中では一瞬たりとも得られなかった。

 それが今はこんなに穏やかな微睡みに身を浸す事が出来ている。心から安らげる。幸せだった。本当に幸せだった。幸せ過ぎて、怖い位だ。

 そう思った瞬間、ふっとその穏やかさを取り上げられるように意識が浮上した。同時に己の不自然な体勢を自覚し身体に走った痛みに思わず呻くと、右手にきつく握り締めていたものがピクリと動いた。慌てて目を開けて身を起こすと、そこは見慣れない部屋だった。

 上質な遮光カーテンをもすり抜けて差し込む日の光に照らされて、ぼんやりと映し出される白い部屋。己の皮膚に当たる清潔な布の感触。そして、目の前には昨夜決死の覚悟で再会を果たし、存在を確かめ合った相手が静かに寝息を立てて眠っていた。右手に伝わる熱さは、勿論片時も離さないと決めて掴んでいた彼の……海馬の左手だった。

 その痛々しい程細い手首を覆う包帯の白にはっと息を飲み、手指の力を僅かに緩める。そして、まるで壊れものに触る様にその個所に指を這わせた。そうだ、この傷も自分の父親の所為でついたものだ。これだけではない。この惨状の、何もかも。

 少し前までは考えるだけでも息が止まりそうな程苦しんだこの事実にも、今は比較的冷静に向き合う事が出来ていた。酷い事をしたと思う。許されない事をしたとも思う。けれど、してしまった事はもうどうにもならないのだ。過去に戻りやり直す事など出来はしない。
 

『好きだから、出来る事は何でもしてやりたいと思った。手を出した。逃げる事など考えられなかった。……それでは理由にならないのか』
 

 ── 好きだから。
 

 海馬はそれまで沈黙を守っていた事が嘘の様にその言葉を繰り返した。今までの事を詫びる様に、何度も。

 未だ静かに眠り続けるその顔を凝視する。触れている手首と同じ様に包帯に覆われたそれも良く見れば大分痩せていた。元々血色も肉付きも良くない男だったからその姿はいっそ壮絶な位だ。この顔が見せた様々な表情を思い出す内に、不意に笑顔だけが欠けている事に気付く。そう言えば、海馬が笑った所は殆ど見た事がなかった。その一点を考えるだけでもいかに自分達の関係が奇異なものか分かる。否、奇異だった事が分かったのだ。
 

 やり直せるだろうか。
 

 不意にそんな言葉が胸に過ぎった。これまでの誰から見ても理解し難い関係ではなく、普通の恋人同士として、常に笑って傍にいられるような……そんな間柄になれないだろうか。随分と虫がいい話で、自身がそれを望めるべくもない事は分かっている。分かっているけれど、叶うならばそんな未来を夢見たかった。見てもいいのだと、海馬から言われた気がした。

「……勝手だよなぁ」

 そう、自分は何時まで経っても自分勝手なのだ。自分勝手で、我儘で、どうしようもない駄目男だ。何度そう思ったか分からない。けれど、それでもいいと言ってくれた。好きだと言ってくれた。そうはっきりと告げられてしまった以上、何を言い訳にしても逃げる事など出来ない。この手を離して背を向ける事など、出来ないのだ。

 静寂が部屋に満ちている。海馬はまだ起きる気配がない。

 そう言えば夢現に誰かに頭を撫でられていた事を思い出す。温かで、優しい大きな手。最初は既に記憶の奥底に沈めて忘れてしまった父親のものかと思っていたが、今となってはそうは思えなかった。右手に感じる熱い位の体温。細いけれどそれなりに大きな掌。そう、確かに、この掌だったのだ。それが今の事なのか、過去の事なのかはもう分からない。けれど間違いはない筈だった。

 酷く胸が苦しくなり、再びその手を握り締める。下手に力を入れないように、けれど決して離れない強さで。

 ふと同じ様に眠る彼の頭でも撫でてやろうと手を伸ばしたが、額を覆う白にそれは中空で止まってしまった。傷は勿論の事、下手に触れて起こしてしまうのも気が引けたからだ。

 大きな溜息を一つ吐く。

 城之内は今暫くこの時が止まったような静かな時間に身を浸そうと、再び上体を軽く倒して肌触りのいい布の上に頬を乗せた。
 

 右手の温もりを、より一層強く感じながら。