消えない痕 Act16

「……今まで何処に潜んでいたのだ」
「……静香のとこ。丁度母親が入院してよ。次いでだから面倒見てた。まぁ、面倒見られてたのは主にオレの方なんだけど。本当は今日あいつも一緒に来るって言ってたんだけど、病院から呼び出し食らっちまって」
「……そちらの方は大丈夫なのか」
「ああ、大した事ねぇ。元々体が弱い人だからしょっ中なんだ。静香の目の事もあっちの遺伝だったっぽいし。オレは全然似なかったけどな、丈夫なだけが取り柄だし……最近は全然会いに行ってなかったけど、久々に親孝行出来た気がする」
「……そうか、良かったな」
「良くないだろ。お前の心配するところはそこなのかよ」
「他に、何を心配しろというのだ」
「何って。自分の体の事とか……会社の事、とか。お前がこんな状態じゃ色々大変なんだろ」
「貴様に心配されるまでも無い。オレが数ヶ月留守にした所でガタつくようなやわな企業ではないわ」
「だけど!ニュースとかで、色々……!」
「あんなものは今始まった事ではないだろうが。面白半分に騒いでいるだけだ。気にするだけ馬鹿を見るぞ」
「……でもよ!」
「貴様に気にかけて貰ったところで何の足しにもならない。考えるだけ無駄な事だ」

 最後は殆ど城之内の言葉を封じる様に声を重ねてそう強く言い切った海馬は、小さな溜息を一つ吐くとそれきり口を噤んで黙り込んだ。会話が途切れれば、静寂が訪れる。

 城之内がこの部屋に来て暫く後、心身共に大分落ち着いた二人はそれぞれの場所に身を落ちつけて、ぽつりぽつりと短い会話を交わしていた。言いたい事も聞きたい事も沢山あり過ぎて何から話したらいいのか分からない。仕方なく互いに思いついた事から口にする事にした所為で、余り脈絡のない言葉のやりとりになってしまう。

 けれど、それでも良かった。離れて言葉に出せないよりはずっと良かったのだ。

 落ちてしまった沈黙を誤魔化すように、城之内はふと先程からずっと握り締めたままだった海馬の手に目を向けた。あれから少し長い間、泣いた所為もあったが何となく離れ難くて城之内は目の前の身体をずっと抱き続けた。それが海馬に取って酷く無理な体勢だと気づいたのは、彼が耐えきれずに僅かに呻いたその声を聞いてからだ。

 慌てて手を離し元の通りベッドに横たわらせ、多分モクバが使っていたのだろう椅子を直ぐ傍まで引き寄せてそこに座り、どちらからともなく話し始めた時もこの指先だけはずっと離さずにいた。否、きっと離せずにいたのだ。

 この一月強の長い間、互いを酷く苦しめた切欠はこの指先を離してしまった事だから。自戒の意味も込めて城之内は両手でしっかりと包み込んだ。冷たい指先も熱を持って温かく感じられる程に。

 そんな城之内の事を海馬はただ黙って見つめていた。片目だけの不自由な視界の中で、それでも十分に力のある蒼の瞳は酷く情けない表情をしている顔をしっかりと映し出している。それは力の入らない手足の代わりに城之内を捕らえているようで、身動き一つ満足には出来ない気がした。自然と詰まる息を逃す度に大きく肩が上下する。けれど、少しも苦しいとは思わなかった。

「なぁ、その顔の包帯……怪我、酷いのか?痕が残る?」
「さぁ。自分で見た事はないからな。どうなっているか分からない」
「…………ごめん」
「女ではないのだし、今更顔に傷がつこうがどうとも思わない。身体の傷も同じ事だ。元より綺麗なものではない。だから大して気になどしない」
「でも、お前の所為じゃねぇのに……っ!」
「貴様の所為でもない」
「どうしてだよ!さっきからずっとオレの言う事はぐらかして!なんでちゃんと謝らせてくれねぇんだよ!オレはお前に謝りたくてここに来たのに!」
「貴様に謝って貰う事など一つもないからだ」
「なんで?!全部オレの所為じゃねぇか!オレがお前に手を出さなければこんな事にはならなかった、そうだろ?!」
「違う」
「違わねぇよ!……オレ、この一ヶ月間毎日考えてたんだ。その一ヶ月だけじゃねぇ。お前と付き合う様になってから、ずっと考えてた。どうしてお前はオレなんかの相手をしてくれたんだろうって。お前にとってはオレと一緒にいる事でいい事なんか一つもなかっただろ?傷ついて苦しんで、迷惑ばかりかけられて、最悪だったじゃねぇか。なのになんでお前は恨み事一つ言わないんだ。逃げようとしなかったんだ。なんで……っ」

 酷く勝手な言い草だけれど、優しくなんかされない方が良かった。迷惑だと、最低だと罵って、二度と顔を見せるなと吐き捨てられた方がマシだった。そうされていたならばこんな事にはならなかった。どうにもならなくなる前に踏みとどまれていた筈なのだ。事故があってからでさえも、その考えは変わらなかった。憎んでくれればいいとさえ思った。

 結局は他人の所為かよ、最低だ。こんな考えを頭の中で繰り返す度に、もう一人の自分が呆れ果てた声でそう呟いた。そうだ、自分は最悪な男なんだ、生きててもしょうがない。だったら死んでしまえばいい。一番楽なのはそうしてこの世界から逃げ出す事だと知っていたから、なんとかそれを正当化する理由を探していた。けれど、海馬はそれをさせてはくれなかった。

 この後に及んで、違うと、そうじゃないと城之内の言葉全てを否定する。逃げ道をなくしてしまう。

「……貴様は先程のオレの言葉を聞いていなかったのか?」
「……っ言葉?」
「貴様といてオレに取って何一ついい事が無かったなどと、何故勝手に決めて掛かる。それはオレをお人よしの馬鹿だと言っているのと同じ事だ。貴様はオレを愚弄したいのか?」
「違っ……なんでそうなるんだよ!オレは!」
「オレは、どんな事であっても自分のとるべき道は自分で決める。その結果も当然受け入れる。貴様の言う通り、今回の事はオレがどこかで手を引けばこんな事にはならなかったかもしれない。それは分かっている」
「だったら、なんで…!」
「オレがそうしたかったからだ。全てはオレの意志だ。貴様は関係ない」
「…………っ!」
「だから、貴様の所為にしようがないのだ。謝って貰う謂れもない。自分で決めて行動した事に対して謝罪されても迷惑なだけだ」
「めちゃくちゃな事言うなよ!おかしいだろ?!なんでそうなるんだよ!」
「……だから先程も言っただろう。好きだからだ」
「海馬!」
「好きだから、出来る事は何でもしてやりたいと思った。手を出した。逃げる事など考えられなかった。……それでは理由にならないのか」
「……そ、んなこと、一言も言わなかった癖に…!」
「だから今言っただろう。伝えなかったのは、悪かった」
「馬鹿野郎」
「馬鹿に馬鹿と言われたくない」
「……オレ、どうしたらいいんだよ。そんな風に言われたら、どうしたらいいか、分かんねぇよ」
「それ位自分で考えろ。死ぬ気だったんだろう?その気概さえあれば何でもできるだろうが」
「……お前なんか、好きにならなければ良かった。最悪だ」
「それが貴様の運の尽きだな。恨むなら自分を恨め」
「…………ちくしょう」
「また泣くのか。鬱陶しいぞ」
「うるせぇ」

 折角収まった筈の涙が、また再び溢れだした。なんだか最近泣いてばかりだ。悔しくて、悲しくて、苦しくて、ずっと泣いてばかりいた。もう一生分の涙を出し尽くして枯れてしまったと思っていたのに、涙腺が壊れてしまったに違いない。情けなくて、格好悪いけれど、海馬の前では今更だった。
 

 否、彼の前では初めからそうだったのだ。一番、初めから。
 

「……お前、趣味が悪ィんだよ」
「お互い様だろうが」
「……好きだよ。やっぱり、お前が好きだ」
「知っている。聞き飽きた」
「……お前はオレの事……どう思ってる?」
 

 過去に同じ事を聞いて、ついぞ返って来なかったその応え。
 たった今はっきりと言葉で伝えられた筈なのに、もう一度だけ、聞きたかった。

 城之内がその問いを投げかけた数秒後。

 目の前の顔は心底呆れ果てた溜息を吐いて、殊更優しく彼が最も欲しかった答えを口にした。
 

「好きだ、城之内」
 ふと気がつくと微かな雨音が聞こえていた。この真冬に珍しい事だと久しぶりに耳にするその優しい響きに耳を傾け、瀬人は突然訪れてしまった真夜中の空白に嘆息する。

 けれど、部屋には一人ではなかった。横たわった体の右側に微かな重みがあり、右手にも熱い位の温もりがある。誰が、などと視線を送るまでもない。こちらが怪我人だという事も失念して、痛い位に指先を握り締める男などただ一人しかいないからだ。

 言いたい事を言って勝手に泣いて糸が切れた様に大人しくなってしまった城之内は、瀬人が帰宅を促しても頑として首を振り続け、ならばとモクバが良く使っていた隣室の小部屋にある仮眠用ベッドの使用を指示したが、それすらも嫌だと言って結局ここで眠りについてしまった。

 上半身を折り曲げる形でベッドに顔を伏せて寝るその姿勢は長時間眠るには不向きであり翌朝恐らく節々の痛みに呻く事になるのだろうが、本人が至って満足そうだった為、それ以上ここは駄目だと言う事も憚られて結局は好きにさせてしまった。そればかりでなく、本当は海馬自身ずっと繋がれたままの彼の掌と離れ難い気持ちもあったのだが。

 熟睡しているのにも関わらず、びくとも動かない強い指先。荒れてかさついた感触は最後に触れた時よりも少しだけ酷くなっている気がする。夏はいいけど、冬になると辛いんだ。そんなぼやきとも取れない言葉を聞いたのは何時だったか。

 その指の力とは裏腹に寝顔は酷く安らかだった。この一月強、ずっと悩み苦しんで来たのだろう。伸びて少しだけ根元が黒くなった金髪が覆い隠す顔を良く見てやろうと、空いていた左手でそっと邪魔なそれをかきあげる。その瞬間、海馬は暗がりの中で僅かに瞠目した。髪で上手く隠されていた部分に、未だ生々しい傷痕があったからだ。

 そこだけではない。良く見れば、頬にも口元にも、指にさえその痕跡は残されていて、中には治りかけていたものを無理矢理傷つけた様な痕さえある。そのどれにも治療痕はない。全てが適切な処置もされず放置され、自力で傷口を塞いだのだろう。

 手の甲にある大分目立たなくなった瘡蓋の一つに指を伸ばし、確かめる様に幾度も撫で擦る。何故、そんなものが未だ色濃く残っているのか。その理由が瀬人には何となく分かる気がした。そして、馬鹿な奴だと心で呟く。
 

『……海馬、ごめん、オレ……っ』
『無駄口を叩くな!貴様は父親を連れていけ!』
『でも!!お前が……!』
『早くしろ!』
『できな……っ!!、──海馬?!、海馬ッ!!』
 

 自身の記憶に残されている最後の光景。降りしきる雨の中、車道の真ん中で互いに傷だらけになりながらそんな言葉を交わした事を覚えている。重たい身体を力の限り突き飛ばし、少し離れた場所でそれを受け止めた城之内の顔を見た瞬間、まばゆい程の光と強い衝撃が訪れた。多分あの時点で車に弾き飛ばされたのだろうが、その時の痛みや恐怖はまるで覚えてはいないのに、その直前の城之内の顔だけは覚えている。

 この世の絶望を全て目の前に叩きつけられた様な引き攣った顔、ともすれば彼こそがこの場で死んでしまうのかと思った程苦しみに塗れたその顔は、海馬に苦い後悔を植え付けた。その顔は確かに城之内のものであったが、瀬人には何故か自身の顔にも見えた。ここで死んでしまったら、奴にも同じ辛さを味あわせる事になる。そう思った刹那、死にたくないと思った。こんな事で死にたくない。死ねない。死んではいけない。そう、思ったのだ。
 

『オレの、所為で』
 

 城之内から幾度も幾度も聞いたその言葉は、その実瀬人が繰り返していた言葉でもあった。

 遠い昔、未だ物事の善悪すら曖昧な頃、本当の父親が事故で死んだ。その日も酷い土砂降りだった。瀬人自身余り良く覚えてはいないが、その後親戚に酷く責められた事だけは覚えている。何故ならその事故の要因は瀬人に有ったからだ。それを知った父の姉である血縁者の中で一番口の悪い叔母には「本当はお前が殺したのではないのか」と罵られた。けれど、瀬人はその言葉に傷つきはしなかった。その実、そうではないと否定する事が出来なかったからだ。

 『彼』は母親が亡くなる前までは酷く優しい父親だった。しかし、母親がこの世から去ってからというもの彼は酒に溺れる様になり、その内精神まで病むようになっていた。常に泥酔し、共にいるのが小さな子供だという事も分からなくなり、好き放題に暴れていた。

 床に転がり、訳の分からない事を喚き散らして眠る男の事を瀬人はもう父親とは思えなかった。こんな奴、死んでしまえばいい、密かにそう思い耐え忍んでいた日々。そんな瀬人の思いが通じた様にあの事故は起こったのだ。

 あの日、瀬人は車道の真ん中で意味もなく立ちつくし、何事かを叫ぶ父親を見ていた。彼はその日ばかりは何故か昔の父親面をして、そんな所にいては車に轢かれてしまう、と顔を色を変えて瀬人の名を呼んでいた。そんな事を言うのなら、父様がここに来て僕を連れて行けばいい。色々な事が重なり、少しだけ自棄になっていた瀬人が最後に父親に投げつけたのは、そんな冷たい一言だった。

 そして、彼はそこに来たのだ。本当に、瀬人を連れ戻すために危険を顧みずに身を乗り出して、死んでしまった。余りにも馬鹿馬鹿しく、呆気ない最後だった。
 

 その後瀬人は二人目の『父親』と出会う。

 自らの意志で選択した『親』だったが、彼も瀬人の理想の親ではなかった。教育を名目に虐待を繰り返し、モクバを枷に瀬人を力で支配した。繰り返される辛く苦しい日々の中で、それでも自分の選んだ道だと歯を食い縛り、逃げる事が出来ないなら与えられるもの全てを己のものにしようとした。そして最後には、彼の持ち得るもの全てを奪い取った。その、命さえも。

 彼の最期。己の目の前で硝子窓を突き破り、投身自殺を図ったその姿を瀬人はただ何も言わずに見つめていた。その高さ故に音が届く事もなく遠い地面の上に倒れ伏したもの言わない身体を間近で見た時、彼の胸に渦巻いたのは何もかもを得る事が出来た達成感ではなく空恐ろしい後悔の念だけだった。

 こんな筈じゃなかった。命まで奪うつもりじゃなかった。流れない涙の代わりに溢れ出たのは言い訳めいた言葉ばかり。けれど、そんなものを幾ら重ねても失った命は戻らない。

 戻せる筈など、ないのだ。
 

 二人の父親をこの手で殺した。
 それは深い罪の意識となって瀬人の奥底へと刻み込まれた。心にも身体にも消えない痕となって一生残り続けるのだろう。手術をすれば綺麗に消える筈の忌まわしい傷の数々を残したのもその名残だった。

 義父が死んだ日、瀬人は一人決意をしたのだ。自分に幸せになる権利などない。この傷を背負い、ずっと一人で生きて行く事を、密やかに。
 

 でも、その決意は酷く簡単に崩されてしまった。城之内と出会ったのは余りにも予想外の出来事だったのだ。
 

 その姿を一目見た時、同じ匂いを感じた。いがみ合っていた時から何となく分かっていたそれは、近づけば近づくほど確信になって行った。

 遊戯達と楽しそうに戯れている時、一人ぼんやりと空を眺めている時、どちらも表面上はとても穏やかな顔をしていたが、一瞬瞳に過らせる暗く鈍い光は同じ境遇のものしか分からない痛みを孕んでいて。だからこそ、逃げる事をしなかった。手を伸ばしてしまった。こんな事をしても己の何かが変わる訳もないと分かっていたが、それでも、救ってやりたいと思ったのだ。

 本当は、彼に救われたのは自分の方で、だからこそ離したくはなかった。優しいのではない、強いのでもない。彼に与えたものの全ては自身の贖罪のつもりだったのだ。
 

 だから、謝ってなど欲しくない。悪いのは彼ではない。全部……。
 

 その横顔を見ていると、胸のどこかがチクリと痛んだ。目の奥が熱くなり、唇から嗚咽が漏れそうになる。けれど、そのどれをも強い意志で抑え込むと、瀬人は一人震える溜息を吐いて緩やかに目を閉じた。
 

 そして指先に触れるその掌をもう一度強く握り締めた。